2023年5月28日 主日礼拝〈ペンテコステ〉「私たち教会の、宣教の力」

※機器トラブルのため、音声が出ません。下記の説教原稿をご覧ください。

礼拝式順序

賛  美  新聖歌133「約束の賜物をば」
      新聖歌416「聖霊来たれり」
前奏(黙祷)
招  詞  ヨエル書2章28〜29節
讃  美  讃美歌66「せいなるせいなる」
信仰告白  使徒信条 讃美歌566
主の祈り  讃美歌564
祈  祷  
讃  美  讃美歌499「みたまよくだりて」
聖書朗読  ルカの福音書24章45〜49節
説  教  「私たち教会の、宣教の力」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌217「あまつましみず」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 ルカの福音書24章49節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

ルカの福音書24章45〜49節

説教題

「私たち教会の、宣教の力」

今週の聖句

見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。

ルカの福音書24章49節

説教「私たち教会の、宣教の力」

ルカの福音書24章45〜49節

イエス・キリストの父、イエス・キリストを通して私たちの天の父であられる主なる神さま。主の御名を讃美しつつ、ペンテコステ礼拝をおささげする恵みを 感謝いたします。今朝、私たち一人ひとりの名を呼び、御前に集めてくださり感謝いたします。復活の主イエス様が昇天される直前、約束して下さった聖霊降臨日を迎えました。最初のペンテコステの日から、聖霊なる神さまによって世界中に御言葉の種がふんだんに蒔かれ、信仰が与えられ、教会の群れが集められていることを感謝いたします。聖霊なる神の働きを待ち、聖霊を信じる信仰によって、御言葉を宣べ伝える教会が福音を宣べ伝えることが出来ますように、また私たち一人ひとりがそれぞれの場所へとあなたによって遣わされていることを信じ、それぞれの場所で主にある働きがますますなされて行きますようにお守り下さい。今朝もあなたのみことばを祝福してお与えください。心の波をしずめていただき、私たちのすべてをあなたに向け、御前にひれ伏し、へりくだってみことばに聞くことができますように。聖霊に満たされ、聖霊を通して注がれる主の愛の内にとどまり、主の御声に聞き従い、私たちのうちに信仰の実、悔い改めの実、献身の実を豊かに結ばせてくださいますようにお願いをいたします。語るこの者の上にも臨んでくださり、この奉仕を聖め用いてくださいますようにお願いをいたします。一切を委ね、主に期待しつつ、感謝して主キリスト・イエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。

本朝はペンテコステ礼拝ですが、今朝もこのようにして主の御声に招かれ、ご一緒に主の御前に集い、みことばに聞ける幸いを覚え、心から主に感謝いたします。

本朝与えられましたみことばは、ルカの福音書24章44節から49節です。ルカの福音書がいよいよあと数節を残して閉じられようとしている、そのようなところに位置する箇所です。ルカの福音書はこの後、同じルカによって記された使徒の働きへと続いて行きます。使徒の働きは「聖霊行伝」とも言われますが、聖霊により使徒たちの働きを通して教会がどのように打ち立てられていったかが示される書、それが使徒の働きです。その使徒の働きへと橋渡しをする大切な箇所が今朝の箇所です。ペンテコステを覚えつつ、今朝のみことばに聞いてまいりましょう。

今朝の箇所に先立ち、少し進んで24章50節からをご覧ください。ここにはイエス様が手を上げて祝福しながら使徒と呼ばれる人たちから離れて行かれた。使徒の働きの冒頭ではイエスは天に上げられた、つまり昇天として記されていますが、それを目の当たりにした使徒たちは「イエスを礼拝した後、大きな喜びとともにエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた」と記されています。ここに私たちは、現在の教会の姿を重ねて見ることができるのではないでしょうか。いつも宮にいた。いつも様々な人たちが集まって宮にいた。これは宮に閉じこもっていたという意味ではありません。礼拝が終われば教会を出ていつもの生活へと戻って行く。けれどもまたいつでも教会に集まって来る。何か喜ばしいことや悲しいことが起こると、「聞いてよ、こんなことがあって」と兄弟姉妹がいつでも集まって膝をつき合わせての証し会が始まり、互いに慰め励まし合う。それぞれの労をねぎらい、共にみことばを味わい、神のみこころを確認し、神がなさったみわざ、これからなさろうとするみわざ、栄光を喜び、また求めて、そして祈り合う。「アーメン。」と、同じ信仰の上にそれぞれ自分自身をしっかりと立たせる。そのような様子を「いつも宮にいて神をほめたたえていた」、原語のギリシヤ語を直訳すると「彼らはいつも、ひっきりなし(絶え間がないほど)に宮にいた。そして彼らは神に膝を折っていた(それは祈りの姿であったり、礼拝の姿)」と記しているのでしょう。私たちの教会もそのような共同体でありたいと願わされます。

その「教会」ですが、新約聖書の中ではギリシア語で「エクレシア」と記されています。それは「召し出された人々の集まり」という意味で、それを「教会」と訳しています。先週はマタイの福音書のみことばに聞きましたが、教会は本当に様々な状況や性格、賜物を持つ人たちが集められています。それは主が私たち一人ひとりを、ご自身の血の価をもって罪の奴隷から解放し、神の子どもとして買い戻してくださった、またご自身に仕える幸いな者として買い戻してくださった、それほどに私たち一人ひとりを愛し、愛を注ぎ続け、必要としてくださり、選び、召してくださっているのです。愛というのは、たとえどんな醜い者、弱い者、足りない者に対しても、なお望みを抱くものなのです。わが家の息子ではないですが、たとえきかん坊であっても、反抗的であっても、それも将来必ず主のお役に立てるのだと希望を抱く。それは子に対する親の愛ゆえではないでしょうか。それほどに主は私たち一人ひとりを愛し、愛ゆえに望みを抱き、必要としてくださり、選び、召してくださっているのです。こんな私が愛されている、望みを抱いてくださっている。なんと嬉しいことではないでしょうか。私たちはそれぞれ主に召し出され、こうして集まり礼拝を献げていますが、集まるということの前にはまず主のそのような愛と招きがあるということです。「あなたが礼拝に行こうと思う前に、主があなたを礼拝に招いておられたのですよ」と、これは私が教会に来始めた頃に説教の中で聞いて心から感動した主の招きの声でした。主が言われた、「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのだ。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためである」(ヨハ1516)とのイエス様の御声は、私たちをこれまで、そしてこれからも慰め励まし、そして生き方などすべてにおいて私たちを導くものではないでしょうか。

また、旧約聖書の中で教会、エクレシアに一番近い語が「カハル」というヘブル語です。「集まる」という動詞から出来た語なのですが、その語の中に「声」を意味する「コル」が入っています。上から呼ばわる声「コル」によって集められた人々。主の御声を聞いて集まった人たち。それがカハル、主が「わたしの民」と呼ばれる共同体です。

このように教会は、ただ主の恵みによって声をかけられ、招かれ、集うものなのです。パウロはその教会を「イエス・キリストをかしらとする一つのからだ」と言います。そして聖書は所々で主を羊飼い、主の民を羊としてその関係を表しています。礼拝への招きのことば(招詞)でもたびたび読まれる詩篇23篇は最も良く知られているところではないでしょうか。羊が群れでいられるために、また羊飼いに養われ、守られ、導かれるためには何が必要でしょうか。主の声です。主のみことばです。聖書のみことばから聖霊を通してはっきりと聞く主の御声です。私たちはその御声をどうぞ聞かせてください。しもべは聞いておりますと、信仰をもって祈り求めるのです。

聖書(ヨハ101-4)によると、羊は主人の声を覚えてついて行くそうです。羊には名前がついていて、呼べば答えたそうです。可愛らしい羊が想像できます。しかし、以前北村師も言われていましたが、羊はいつもおどおどして弱い。それなのに強情な面があって、気に入らないと突進してきて頭突きしてくるのだそうです。また私も実際に羊飼いをされていた方に伺ったことがあるのですが、羊は実は不従順なところもあり、そのくせ自分の力では小屋に帰ることはできない。目の前の草に夢中になって周りが見えなくなり、気付けば群れから離れてしまうなんてこともあるそうです。聖書に描かれる羊の姿そのものです。まるで私たち自身を見ているようです。羊飼いである主は、そのような羊たちを愛し、大切にされ、いつも共にいてくださり、声をかけ、危険から守り、面倒を良くみてくださっているのです。確かに当時の羊飼い、特に旧約時代の羊飼いというのは、肉を取るために飼うのではなく(いけにえや特別な場合に限って肉を取っていましたが)、毛や乳を取るために飼っていて、病気や産まれたばかりの羊がいれば、一緒に寝るほどの関係性でした。そしてイエス様はご自分をよい羊飼いであるとお語りになりました。また羊(迷える罪人)のためにいのちを捨てること、また他の羊(ご自分の囲い、教会の外の羊、迷える罪人)をも導いて、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼いとなることをあらかじめ教えておられます。

非常に前置きが長くなりましたが、本日の聖書箇所、ルカの福音書14章45節からです。

14章45節    それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
14章46節    こう言われた。

主イエスは聖書に書かれているみことば、主の御声であるみことばを悟らせるために心を開かれるのです。心を開かれる必要があるのです。それは私たちが「見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしない」からです。旧約聖書などは特に、過去の歴史上の出来事を通して主は私たちに何かを教えようとしておられます。またイエス様は時にたとえを用いて話されます。聞く者は、語る相手が真に伝えたいことは、語る相手から教えて頂かなければ悟ることはできません。私たちは私たちに語られる主によって心が開かれ、心の目、霊の眼が開かれて、霊の耳を主によって開いていただかなければ、決して主の御声であるみことばの意図を真に悟ることができないのです。

主は使徒たちに何を悟らせるために、彼らの心を開かれたのでしょうか。

14章46節    こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
14章47節    その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、

「次のように書いてあります」。どこに書いてあるのでしょうか。それは44節「モーセの律法と預言者と詩篇とに書いて」ある、つまり旧約聖書全体にこのように書いてあるのです。金太郎飴のどこを切っても金太郎が出てくるように、旧約聖書全体のどこを切っても、実はこのことを言っているのだとイエスは教えてくださいました。3つあります。

  1. キリストは苦しみを受けること
  2. 3日目に死人の中からよみがえること
  3. その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが(新改訳欄外注には「悔い改めと罪の赦しが」との訳も紹介されていますが)エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられること

使徒たちは旧約聖書を見てはいましたが、イエス様が説き明かされた聖書全体を貫く神のみことば、御心を悟ってはいませんでした。またイエス様は地上での公生涯の間もたびたびこのことを弟子たちに語り聞かせていましたが、彼らは悟っていなかったのです。

主はなぜこれらのことを使徒たちに悟らせる必要があったのでしょうか。それは

24章48節    あなたがたは、これらのことの証人となります。

原文では「あなたがたは、これらのことの証人」。言い切っています。それが理由です。

証人とは文字通り証しする人ですが、私たちは「証し」という言葉を「○○さん、証ししてください」と簡単に用いてしまう時がありますが、本来証しとは、嘘をついたら殺されてしまうほどの、本当に重要なものなのです。証言するために命をかけなければならない。「あなたがたは、これらのことの証人」と言われて、もし少しばかりの疑いがあったらどうでしょう。恐ろしくて証人として立つことなどできないのではないでしょうか。

使徒の働きを見ると明らかなように、この後、使徒たちは力に溢れてイエス・キリストの十字架の死と復活、そしてこの名を信じる者には真の悔い改め、それ故の罪の赦し、永遠のいのちが与えられるという福音の前進のために生きました。その変貌ぶりには目を見張るものがあります。そして十字架のイエスを救い主と信じるキリスト教は、主イエス様の死後、急速に世界に広がりました。福音の証言に命をかける証人によってです。その力の源は何だったのでしょうか。

それは一つに、「主の復活の事実性」です。主の復活は実際の出来事であったということ。そのイエス・キリストの十字架の死と復活、また「その名によって」、つまり復活のイエス・キリストの名によって、復活のイエス・キリストを信じる者には本当の悔い改めと罪の赦しが与えられるということが、永遠の昔からの主の預言・確実で真実な約束であり、またその成就であること。それが福音の証言に命をかける証人の力の源です。

主イエスが本当に復活しなかったのなら、またそこに少しの疑いがあったのなら、使徒たちは迫害や殉教の危険を冒しつつこの福音を宣べ伝えることはしなかったでしょう。そのために主は、使徒たちの心を開かれるのです。使徒たちは主によって心開かれました。聖書全体が言っていることに「そうだったのか」と判った、悟った、合点が行ったのです。そしてそれが命をかけて福音の証人として生きる力となりました。

また、復活の主イエス・キリストご自身が伝道を命じられたこと。それが旧約聖書全体に書かれている預言の成就であるのだということ。そのことに心開かれたことも力となりました。主の復活がたとえ事実であったとしても、復活の主の命令がなければ、弟子たちは命をかけてまで伝道することはなかったのではないでしょうか。それはそうでしょう。迫害や殉教の危険が実際にあるのですから。この私の罪のために死なれ、今復活して共に生きてくださる主イエスが、はっきりと伝道を命令されたからこそ、使徒たちはすべてを献げて伝道したのです。

さらにまた、使徒たちの心、心の目、霊の目が開かれなければならないことがありました。それは彼らの「誤った救い主像(イメージ)」です。復活の主を目の前にして使徒たちは言いました。「主よ、イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか」(使16)。使徒たちの救い主像は、未だ軍事的、革命的なものでした。主は使徒たちがそのままの状態で伝道へと出て行くことを止められました。まず心を開き、そうではないこと、真の救い主像を旧約聖書全体から悟らせ、さらに待つように言われました。

24章49節    見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」

「見よ」と、これからご自分が実際にそのことをなすと確かな約束をされるのです。

また続くところを、新共同訳ではこのように訳しています。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていないさい」。口語訳ではこうです。「見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る(ギフト)。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていないさい」。どれも良い訳だと思います。しかしどの訳も「父が約束されたもの」が何であるのかは明らかにされていません。それは続編である使徒の働きで明らかにされるのですが(使14、233,39)、その約束のものは「聖霊」です。その聖霊が「力」であると。何の力か。真に神を信じる力、イエス・キリストとその十字架と復活を真に信じることのできる力、聖書を悟ることのできる力、神の本当の御心を知ることのできる力、福音の証人となるための力、殉教者となるための力です。私たちが福音の証人、殉教者となるためには、この力である聖霊が必要なのです。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(ヨハ1426)。主は聖霊が送られるまで、聖霊の力を着せられるまでは都に「とどまっていなさい」と言われました。都を離れず、宮を離れずに、ひっきりなしに宮にいて膝を折っていなさいと。ひざまずいて、ひれふして、真剣に祈り求めなさいと。

私がギデオン会員であった頃に、ある先輩会員からこのようなお話しを伺ったことがあります。ある教会に、教会員ではないけれどもいつも教会に入り浸り、牧師を絶えず非難している人がいました。牧師が牧会を離れその町を去る日、駅のホームで電車の窓越しに最後まで牧師を非難するその人がいました。その人は言いました。「聖霊によるのでなければ、イエスは主ですと言うことはできない? イエスは主です、イエスは主です。どうだ?」。牧師は言いました。「分かりました。ではあなたは振り返って、ホームにいる皆さんにむかって同じことを仰ってください」。その人は一言も言えませんでした。

私たち教会は、いつも神のみことばである聖書に基づく確信と、聖霊に満たされていなければ力を得ることはできません。教会が教会でいることができません。教会っぽい建物があればそれが教会でしょうか。いいえ、そこに神がおられるか、神がおられ、その神に真実な礼拝が献げられているか。心開かれ、神のみことばが説き明かされ、復活の主イエスと実際に出会い、確信という揺るぎない力が与えられ、聖霊に満たされてまた福音の証人として世界に遣わされているか。

世界とはどこでしょうか。私の皮膚のすぐ外側から世界は始まっているのです。「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」。今私がいるここから始まるのです。私のすぐそばにいる隣人から始まるのです。主はいきなり海外へ行きなさいなどと無理なことは言われないのです。

「あなたがたは、これらのことの証人」。私たちは救いの証人として、自分の口と自分の足で福音を宣べ伝えて行くのです。自分にしか入って行けない場所へ出て行き、自分にしか伝えられない人に福音を、また証しを伝えるのです。聖書の預言であり、神のご計画、約束であり、主のご命令だからです。それはある証人となった人によって私たちの所に福音が届いたように、証人となった私たちによって主が再び来られる時までずっと続くのです。

そして私たちを通してなされるこの福音の広がりは、聖書に定められている神のご計画であるが故に、確実に起こるのだということも覚え、そして聖霊によって確信させていただきたいところです。教会は前進し、成長するようにと、神がご計画しておられるのです。そのための力も主が聖霊を通して与えてくださいます。ですから私たちは心強いのです。祈祷会ではヨシュア記に入りました。「強くあれ(奮い立て)。雄々しくあれ(動じるな)。おののいてはならない(恐れて投げ出すな)。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があたなとともにおられるのだから」(ヨシ19)と、そう言われています。復活の主イエス様ご自身も私たちを励まし、約束しておられます。「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国も人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世のおわりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタ2820)。

証人としての歩みは容易いものではありません。私たちは本当に主の助けを必要としています。しかし主は、今日も私たちとともにおられます。私たちに聖霊を送られ、今も私たちを助け慰め励ましておられます。その私たちはいつも聖霊に満たされていなければ、聖霊を通して注がれる力、神を愛し、隣人を愛することのできる力と愛に満たされていなければ、復活の主を目の前にしながらも、使徒たちが間違った救い主像をぬぐい去ることができなかったように、私たちも肉の思い、肉の行いによって世界に出て行ってしまうのです。主はそれを止められます。とどまっていなさいと。とどまっているとは冒頭でも申しました通り、教会から一歩も外に出ないということではありません。礼拝を終えて教会を出ていつもの生活へと戻って行き、そこで主にあるわざを行い、けれども何かあったらいつでも主の招きの声に導かれ、教会に集まってくる。そのように私たちは、ひっきりなしに宮にとどまり、いつでもみことばを通して与えられる神の約束、愛によって整えられ、肉の思いではなく聖霊に満たされて、聖霊を通して注がれる力を着せられて、神の愛に満たされ、その愛の実である「喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」をもって私たちのすぐ隣りに広がる世界に遣わされて行きたいと願います。主は私たちを招き、整え、力で満たし、聖霊で満たし、そして遣わされます。教会のかしらなる主、羊飼いなる主を信じてどこまでも信頼し、安心して主のご命令に従ってまいりましょう。それは神を愛すること、隣人を愛すること、そして宣教です。

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