2023年6月4日 主日礼拝「主に遣わされる者たちの心得」

礼拝式順序

賛  美  新聖歌242「われに聞かしめよ」
      教会福音讃美歌40「父の神の真実」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇23篇1〜6節
讃  美  讃美歌539「あめつちこぞりて」
主の祈り  讃美歌564
祈  祷  
讃  美  讃美歌6「われら主をたたえまし」
聖書朗読  マタイの福音書10章5〜15節
説  教  「主に遣わされる者たちの心得」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌225「すべてのひとにのべつたえよ」
聖餐式   信仰告白(使徒信条・讃美歌566)
      讃美歌205「わが主よ、今ここにて」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書10章7節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書10章5〜15節

説教題

「主に遣わされる者たちの心得」

今週の聖句

行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。

マタイの福音書10章7節

説教「主に遣わされる者たちの心得」

マタイの福音書10章5〜15節

「言霊」という言葉を聞いたことがあると思います。悪い言葉も良い言葉も、それを口から発すれば、その言葉の通りの未来につながるという、日本古来の考え方なのですが、私はそれはどこか迷信的だと思っていました。しかし今は真理だと思っています。イザヤ書55章11節にはこのようにあります。「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる」。口から出ることばというのはどこから出て来るのか。それは、その人が望むこと、心の思い、夢やビジョンがことばとなって口から出るのです。イエス様も「人の口は、心に満ちていることを話すからです」(ルカ645)と、そのように教えてくださいました。「それ(ことば)は、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを必ず成功させる」。まさに神の言霊ではないでしょうか。その力は私たちの言葉にも秘められているように思います。例えば、つい口から出てしまった言葉で相手を傷つけてしまうこともあれば、相手を癒やす言葉もある。そしてその言葉は、私たちの心の中にある思い、夢やビションなのです。ですから私たちはいつも自分の心を見張っていなければならないし、御霊に満たされて、御霊の実(愛と、愛によって結ぶ具体的な実)で満たされていなければならないと思わされます。長年週報に掲載されている御霊の実を結ぶ祈りを、毎日真剣に祈っていただきたいと思います。

さて、本朝のみことば、マタイの福音書10章5〜15節ですが、ここではイエス様が12人の弟子たちを遣わす際に与えられた指示事項が記されています。これは説教の形で11章1節まで続くのですが、命じられているのは、使徒として遣わされる者たちの心得です。その第一としてこのように教えておられます。

10章5節      イエスはこの十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。
10章6節      むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。

心得第1番目として、異邦人やサマリヤ人のところに行かず、イスラエルの家の失われた羊に働きを限定するように指示されます。不思議ではないでしょうか。私たちは今、イエス様の宣教命令は全世界に向けられていることを知っています。イエス様は「むしろ(それよりも)、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい」と言われたこの時から、すでに未来に対する大きくて高いビジョンをお持ちだったのです。いや、神は世界の創造のはじめ、アダムとエバの時からずっと、壮大な人類救済のための、愛に満ちたビジョンを描いておられました。先週はルカの福音書24章を見ましたが、そこには何と書いてあったでしょうか。「旧約聖書全体を通して、次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、悔い改めと罪の赦しが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人。見よ。わたしは、わたしの父が約束されたもの(聖霊)をあなたがたに送ります」(ルカ2444-49)。金太郎飴のどこを切っても金太郎が出て来るように、旧約聖書のどこを切ってもこの神のビジョンが神のことばとして書かれているのです。この神のビジョンにあって、イエス様はこの時「イスラエルの家の失われた羊」つまり、まず同胞のイスラエルの苦しんでいる人のところへ行くようにと指示されたのです。これは、神が選びの民が迷い苦しんでいることに対する神の真実な愛とあわれみであり、選びの民に約束を必ず果たそうとされる神の義です。また宣教におけるイスラエルの優先性は、神の戦略上の順番と言えるでしょう。そしてそれは永久的な原則ではないのです。やがて福音は異邦人へともたらされるからです。以前ローマ書でも見たように、神の不思議で壮大なビジョンがあったのです。

では、私たちにとってイスラエルの家の失われた羊、苦しんでいる神の民、神の選びの民とは誰を指すのでしょうか。

それは、この私自身のことかもしれません。人知れず神に失望し、心が神から離れてしまっている人たちのことかもしれません。今、教会から、礼拝から離れてしまっている人たちのことかもしれません。神はまず第一に、迷い出てしまっているご自身の選びの民を気にかけ、愛し、あわれみ、そして癒やされ、整えられ、力が与えられ、そこから信仰によって自分自身をしっかりと立たせることを願っておられるのではないでしょうか。そしてそこからそれぞれが、それぞれのすぐ側にある世界に証人として遣わされることをビジョンとして描いておられるのではないでしょうか。主はまず私たちを私自身に、また私たちのすぐそばにいる同胞の人たちのところに遣わされるのです。その人たちは恐らく悔い改め、救いに一番近い人たちです。すでに福音を聞き、一度は主を信じ受け入れているからです。

10章7節      行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。

心得第2番目として、使徒たち、神によって「イスラエルの家の失われた羊」のところに遣わされる人は、その人の所へ出向き「天の御国が近づいた」とその人に宣べ伝えるのです。「悔い改めなさい。神に方向転換をしなさい。天の御国が近づいたから」と宣べ伝える、これが使徒たちに与えられている使命です。

使徒たちは自分のメッセージを伝えるのではありません。例えば「そのままのあなたで良い」と自分のメッセージを伝えるのではないのです。主は「そのままのあなたで進み出て良い」、しかしそこから変えられることを求めておられるお方だからです。主のメッセージを伝えるのです。「天の御国が近づきました」と伝えるのです。

天の御国。原語のギリシヤ語では「天の王国」です。天の王国、御国の王さまイエス・キリストはすでにあなたに近づいた、臨んでいる、到来したと伝えるのです。天の御国は、神が支配する世界です。神の支配は、罪によって曲げられた、強者が弱者を縛り付けるといった支配ではありません。神の愛とあわれみによる完全な支えと配慮の中に置かれるということです。神の支えと配慮があるところ。そこが天の御国、神の国です。「神の国は『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなた方のただ中にあるのです」(ルカ1720-21)と、御国の王であるイエス様は言われました。イエス・キリストによって神が支え配慮される世界、神の国があなたに臨んでいる。到来した。それは恵みです。神の慈しみにより一方的に注がれる恵みは、決して強制的に押しつけられるものではなく、優しくてあたたかなものなので、受ける側が心を開いて受けたいと願わなければならないものです。「天の御国が近づいた」との主のメッセージを聞く者たちがしなければならないことは、心を神の支配に明け渡すことです。頑なな自分を悔い改めて、神に心を開き、幼子のようになって「恵みを注いでください」と素直になって必死に求めることです。神が自分を支え配慮してくださることを自分から求めることです。自分を変えることを拒み、自分が王となり、神の支配を拒む人に対して「悔い改めなさい。神に向き直りなさい。天の御国が近づいたから」と、私たちが主に遣わされて宣べ伝える神のメッセージはこれなのです。

次に心得の第3番目として、このように言われます。

10章8節      病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。

ところで、「病人を癒し、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出す」。これは聖書では、神の国の到来、メシヤの時代、救いの時代に入ったことのしるし(証拠)とされています。私たちは病やわずらいを癒やされました。霊的に死んだような者であったのに、生き生きと生きる者とされました。霊的に無関心な者であったのに、その目を開いていただき、霊的に目覚めさせられた者です。神が見えなかったのに、今は神を見上げる者とされている。ツァラアトに冒された人のように、神や社会から疎外されて近づくことのできないような者であったのに、救われて、罪きよめられ、神に近づき、社会へと遣わされる者とされている。悪い霊、悪い心が追い出され、聖霊が注がれ、聖霊に満たされている。聖霊を通して神の愛が注がれている。このように私たちは神の国の到来、メシヤの時代に入ったことのしるしをすでに経験済みです。それらすべてただで受けました。私たちはただで受けましたが、私たちの罪を赦し救い、神の子とまでしてくださった父なる神には大きな犠牲がありました。御子イエス・キリストのいのちという高すぎる代価が支払われているのです。そのように恵みによってただで受けたのだから、ただで与えなさいと命じられています。それはつまり、天の御国の到来を告げる福音宣教の働きを、自分たちの利益追求の手段にしてはならないということです。どこまでも神を愛し、隣人を愛し、肉の思いではなく、御霊の思い、御霊の実による福音宣教が命じられているのです。神によって遣わされる者には、自分自身が経験済みの奇跡、しるしを行う特別な力、誰かを救いへと導く力が代価なしに与えられています。私たちが気づいていなくても。その一つに言霊があるのかもしれません。ですから神に遣わされる者は、その力をいさぎよく、すがすがしく、惜しみなく用いなければなりません。これもまた主の宣教ビジョンです。主によって遣わされる者に主が求めておられる、全時代を通しての態度です。

心得第4番目として、9-10節では沢山の金銀や持ち物を持たずに行くこと、また働く者は当然必要なものが与えられるといった原則を教えられます。

イエス様は弟子たちに、金銭や着がえの下着や靴、杖、そして旅行に必要な袋も持っていくなと命じておられます。これは現代人にとって非常に無謀なことのように聞こえます。私たちは旅行に出る時には、あらゆる事態に対処できるように色々な装備を整えていきます。しかしイエス様はそのようなものは必要ないと言われます。準備に時間をかけている場合ではないという緊急性を言われているのです。また、弟子たちは今のありのままの状態ですでに行くことができると見ておられるのでしょう。事前に資金を募る必要もないし、特別な備品を手に入れる必要もない。下着はチュニックのようなもので、夜を野外で過ごすとき、重ね着をして暖かくするためのものだったようです。それも必要ないというのは、寒い夜に野外で過ごすようにはされないという、主の完全な守りと備え、配慮があるということでしょう。マルコの福音書では、杖は弟子たちがすでに持っている杖のみを持って行くことを許しておられ、マタイでは旅行のために新しい杖を手に入れることを禁じています。使い慣れた杖で十分であると。このようにイエス様は、宣教は緊急を要するのだということ、また弟子たちは「ありのまま」ですぐに行くことができるということを言われるのです。宣教の必要は宣教を通して与えられる。「働く者が食べ物を得るのは当然だから」と、神さまが定められた法則のようなもの。余計なものは邪魔になるので、身も心も軽くして、ただ神を信頼して行きなさいということでしょう。第一にすべきものを第一にしなさい。8節後半から10節までを見ると、以前に語られた6章25〜34節を思い起こします。「信仰の薄い人たちよ。…まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」。イエス様はここを宣教に適用しているのかもしれません。

使徒の使命、宣教の準備についての心得を与えたイエス様は、続く11節からは、いよいよその実践方法を順序立てて教えられます。

10章11節    どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。

まず、使徒たちがとどまるのにふさわしい人の家を調べ出すことが教えられます。実はギリシヤ語では、ここで使われている動詞はすべて二人称複数「あなたがた」です。マルコの福音書やルカの福音書では、イエス様はいつも弟子たちを2人ずつ遣わしておられます。複数人で組んで協力し、心一つにして働き、ともに同じ家に留まるということは、とても重要だと思います。

イエス様は弟子たちに、どの家にでも入るのではなく、「その町や村でだれがふさわしい人がをよく調べ」てとどまるようにと命じられます。では、ふさわしい人とはどのような人なのでしょうか。それは、弟子たちの天の御国の福音を、信仰をもって受け入れる人たちのことです。その町や村を立ち去るまでその家にとどまる。するとどうなるのでしょうか。信じる者たちの交わりが生まれ、さらに周囲から信じる者たちが起こされ、その人たちがこの家に集ってくる。そこに主の教会が生まれるのではないでしょうか。

一度その家に入ったらそこを立ち去るまで心を移さず、その家を心身ともに休ませる場としたり、霊的栄養補給をして鋭気を養うなど、活動を支えるための場所・根拠地とすること。これもまた大切なことではないでしょうか。心移りして、あっちの家の方がご馳走を出してくれるからとか、待遇が良いからと移動してしまう。それではそこに土台のしっかりした真の主の教会は立てられるでしょうか。そこで主にある人間関係をしっかりと築いていく。信仰によって、愛によってしっかりと結び合わされ、建て上げられて行く。イエス様は宣教においてこれらのことをもビジョンとして、それが重要であるとしておられるように思います。

10章12節    その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。
10章13節    その家がそれにふさわしければ、あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなたがたのところに返って来るようにしなさい。

イエス様は伝道の戦略で、訪れた地で適当な人を探し、そこに拠点を定めるように、また「平安を祈るあいさつ」をもってその家に入るように命じられました。「平安があるように。シャローム」というあいさつはとても美しいユダヤのあいさつです。しかしここで使徒たちのするあいさつは、単なるあいさつではなく祈りです。心にある望み、祈りが言葉になったあいさつです。いのちあるあいさつであるべきです。使徒として神から遣わされた者は、その人のために何を望み、何を祈るのでしょうか。主とその人との間の平安でしょう。失われた羊にとっては、福音を信じて神の民として回復されて、天の御国に入ること。つまり救いです。救われることを祈り、ことばにするのです。主はこのように命じておられます。「わが同胞に、こう言いなさい。『あなたに平安がありますように。あなたの家に平安がありますように。また、あなたのすべてのものに平安がありますように』」。使徒たちには、このように祈りあいさつすることが命じられるのです。

その家がその祈りに「ふさわしければ」、弟子たちが祈った平安がその家に望みます。「ふさわしい」とは、弟子たちの天の御国の福音を、信仰をもって受け入れることです。その家が「ふさわしければ」、弟子たちの天の御国の福音を信仰をもって受け入れるならば、その家は救われます。しかしその反対であるならば、平安は使徒たちに戻されます。この意味は何なのでしょう。マタイの福音書7章6節の「豚に真珠」のたとえです。「聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります」。平安のあいさつ、祈りは相手に届かず、使徒たちのもとにこのような形で戻って来るということなのでしょう。そのような家からは出て行くことを神は許されるのです。遣わされた者の大切ないのちを守るために。神は使徒たちをただ用いられるのではありません。ご自身のいのちをもって贖われたそのひとりの大切ないのちを、どこまでも慈しまれ、愛され、大切にされ、どこまでも守ろうとしてくださるのです。だからこそこう言われるのです。「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ(奮い立て)。雄々しくあれ(動じるな)。おののいてはならない(恐れて投げ出すな)。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があたなとともにおられるのだから」(ヨシ19)。主が私たちを危険から遠ざけ、その家や町から出て行くことを許されるのですから、私たちは何も恥じることなく、そこからまた主とともに隣人の救いを求めて雄々しく出て行けるのです。

10章14節    だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。

受け入れない家や町を後にする時は「足のちりを払い落とし」て立ち去るよう命じられます。それは私たちは神の代理者として立てられているということです。「拒んだ責任はあなたがた自身が負わなければならない」と厳粛に宣言することです。

10章15節    まことに、あなたがたに言います。さばきの日には、ソドムとゴモラの地のほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです。

不信仰によって福音を伝える弟子たちを拒むことは、罪によって滅びたソドムとゴモラの地よりも重い罪を犯すことであると警告しておられます。必ず滅ぼされるということです。たとえ「拒んだ責任はあなたがた自身が負わなければならない」と厳粛に宣言しなければならないとしても、かつては神を拒み、無視して生きてきた私が神に赦され、病やわずらいが癒やされ、霊的に死んでいた者が永遠に生きるものとされ、神と隣人との関係も回復され、和解し、あるいは和解へと導かれており、悪い霊が追い出され、聖霊が、聖霊を通して神の愛が注がれている、そのような私たちが心に描く夢、ビジョンは何でしょうか。そこから出て来ることば、祈りはどのようなものでしょう。あなたも、あなたの家族も救われて欲しいというものではないでしょうか。たとえ私たちの語る神のメッセージに反対し、かみ裂こうとする人であっても、耳を傾けようとしない人であっても、「復讐はわたしのもの」(ロマ1219)と主が言っておられます。復讐はあなたのするべきものではない。わたしにすべて任せよ。あなたは神の国とその義とを、まず第一にせよ。イスラエルの家の失われた羊のために、人知れず心が神から離れてしまっている人たちのために、神に失望してしまっている人たちのために、教会から、礼拝から離れてしまっている人たちのために、出てしまっている神の選びの民を気にかけ、愛し、あわれみ、とりなしをせよと、主はそのように期待し、命じておられるのではないでしょうか。「拒んだ責任はあなたがた自身が負わなければならない」という厳粛に宣言は、御霊に満ちたものでなければならないのです。口から出る言葉は、必ずそのことを成し遂げるからです。

12人の弟子たちは、イスラエルの家の失われた羊のところに遣わされました。私たちも遣わされています。ただ遣わされているのではありません。主はご自身の選びに対する責任をもって、選び任命した者のためにとりなし、労苦をしっかりご覧になっており、その労をねぎらい、必要を備え、与え、満たしてくださいます。遣わされる先々でも完全に守ってくださいます。何も持っていないようでも、私たちが信仰によって進んで行く中で神が与えてくださいます。私たちはふさわしい者へと変えられて行くでしょう。盲目的になれとか無謀であるべきだということは言われません。神が世を統べ治めておられることに信頼してみこころに従い、聖霊に導かれ、聖霊の力によって進むのです。さらにイエス様は、私たちを一人では遣わされず、協力してそれをなすようにされました。福音伝道は一人の力でなすものではないからです。兄弟姉妹が互いに協力してなすのであり、それによっていよいよ教会が一致していくようにされます。御霊によって、御霊の実、愛とそこから具体的に結ぶ御霊の実によって結び合わされた教会こそが、神のことば、メッセージを世に伝えることができるのです。時に教会の争いや分裂についてのニュースを聞くことがありますが、実に悲しむべきことです。それは当然、福音宣教に悪い影響を及ぼすことになります。そのようなことが起こるのは、主の愛を受けてそれを実践することよりも、他の人よりも認められたいとか、権威を手に入れたいという人間的な欲望のためです。

私たちは兄弟姉妹とともに宣教の使命を担うようにされたイエス様を覚え、イエス・キリストを通して注がれている御霊に満たされて、互いを尊重し、励まし合い、慰め合って、主にある同じ夢、ビジョンをともに描き、心を見張り、口から出ることばを祝福のことばとし、一致して主の働きにますます励もうではありませんか。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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