2023年6月11日 主日礼拝「伝道者に臨む苦難の予告と心構え」
礼拝式順序
賛 美 新聖歌423「村の小さき教会」
新聖歌382「心から願うのは」
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇100篇1〜5節
讃 美 讃美歌546「聖なるかな」
信仰告白 使徒信条 讃美歌566
主の祈り 讃美歌564
祈 祷
讃 美 讃美歌58「かみよみまえに」
聖書朗読 マタイの福音書10章16〜33節
説 教 「伝道者に臨む苦難の予告と心構え」佐藤隆司牧師
讃 美 讃美歌296「こころみのあらし」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 マタイの福音書10章16節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
マタイの福音書10章16〜33節
説教題
「伝道者に臨む苦難の予告と心構え」
今週の聖句
いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。
マタイの福音書10章16節
説教「伝道者に臨む苦難の予告と心構え」
マタイの福音書10章16〜33節
講壇の上から牧師が家族の話をするのは、家族にとってはとても嫌なことらしいですが、今朝はいないので良いかなと。息子の話なのですが、最近息子は一人で電車やバスを乗り継いで遠征することが多いのですが、そのたびに朝、大騒ぎをするのです。出掛けた後も乗り継ぎが分からなくなったり、反対方向の電車に乗ってしまったりして、どうしたらいい、こうしたらいいとひっきりなしに連絡が来ます。もっと念入りに準備をしておけと言うのですが・・・。
イエス様は「心配してはならない」と言われます。しかしこれは何の準備もなく出て行くことを止められているのであり、準備することや心構えをしっかりすることを禁じているのではありません。心配してずっとその場に留まっていてはならないということを言われているのです。準備、心構えをすることはとても大切なのです。
今朝の箇所は、前回からの続きとなり、16節からは使徒あるいはその使命に生きる者(イエスの弟子)が直面するはずである、迫害による苦難について教えておられます。まず冒頭の16節で、実際にそのような状況になった場合、どのように判断し行動すべきか、その心構えを説いておられます。
10章16節 いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。
イエス様はまず「いいですか」と言って始められます。弟子たち一人ひとりの目をしっかりと見つめて語られているようです。私たちも思わず姿勢を正されるような思いがします。
この時のイエス様の心は、弟子たちに対する愛でいっぱいだったのではないかと思うのです。イエス様は弟子たちを「狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わす」のだと言われます。弟子たちの働きの舞台となる世には、悪が満ちているのです。それが分かっていながら送り出す。大きな責任を感じたことでしょうし、もの凄い決断、覚悟が必要だったはずです。
「狼」という語は、聖書ではイスラエルを荒らす外敵、指導者たち、偽預言者たち、偽教師たちに使われています。狼は羊の力では防ぎきれない大敵です。様々な方法で羊を追いまわし、群れを混乱させ、バラバラにし、弱い1匹に狙いを定めて群れからはぐれさせ仕留める。羊のような弟子たち、羊の群れのような共同体が頼れるのは、羊飼いのようなイエス様だけです。羊とはどのような性格であるかは今年のペンテコステにお話ししましたが、イエス様はむちと杖で群れをまとめ、むちと杖で一匹一匹を狼から守り、むちと杖ですべての羊たちを憩いのみぎわへと導かれるのです。
その羊のような弟子たちを世に遣わす際にイエス様は、世では「蛇のように賢く」なる必要があると言われます。「賢い」は、アダムとエバを誘惑した蛇にも用いられた語ですが、実はそこに「悪」というニュアンスはありません。善悪の木の実を食べてはいけないことを知って、それを巧みに利用したことを「賢い」と言われているのです。つまり、物事をきちんと見極める、洞察するという意味です。この世を洞察し、巧みに利用する。ここではすべての機会を用いて宣教に向かうという心構えのことを言っているのでしょう。そしてその宣教に向かう動機と意志に関しては、「鳩のように素直で」なければならないと言われます。「素直」は、不純物が混ざっていない状態を意味します。ですから弟子たちもイエス様のように、素直な動機と意志で働かなければなりません。イエス様のように自分を捨て、ただ神と人とを愛するという、他に混ざり物が一切ない動機と意志で働かなければなりません。「鳩」はイエス様がメシアとして油注がれた時に臨んだ聖霊を描くのにも使われたモチーフですが、弟子たちも聖霊にふさわしい動機と意志(御霊の実)によって働くのが良いのです。この世の悪にも混ざらずに、私たちの心に何の混ぜ物もせずに。私たちは真剣に祈らされるのではないでしょうか。私たちが持っていない、不足していると思うならば、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる愛の神に信頼し祈り求めましょう。そうすれば必ず与えられます(ヤコ15)。
さて17節から、使徒あるいはその使命に生きる者が受ける迫害の内容について教えておられます。これらは、あなた自身が滅びてしまうことのないように心構えをしておくようにという愛によるご配慮でしょう。
17節をご覧ください。まず「人々に用心しなさい」と言われます。「用心する」と訳された語は、心血を注いで注意を払う、関心を向ける、警戒するという意味を持つ語です。この中で心が留まるのは、「関心を向ける」というところです。愛の反対は無関心であると言われますが、自分たちを迫害する可能性のある人々に用心しながらも、人々に関心を向けなさい、愛しなさいと教えられているように思うのです。
世の人々は、弟子たちが宣べ伝えていることに対して反対し、弟子たちを地方法院(サンヘドリン、ユダヤ人議会の複数形)に引き渡し、そこでさばかせ、むち打ちにさせようとする。世の宗教指導者には異端者扱いされ、国家権力には政治犯とされる。使徒の働きでは、イエス様の弟子たちは「世界中を騒がせて来た者たち」と呼ばれています(使176)。しかしそれはすごい影響力を持っていたということではないでしょうか。そのような影響力が今の時代の教会にあるでしょうか。ないとすれば、私たちが宣べ伝えていることが、何か混ぜ物がされているものになっていないか、薄められてしまっていないか、省みる必要があるかもしれません。愛と義のバランスはとても難しく、ここでも天から「賢さ、素直さ」を与えてくださいと祈らされます。
10章18節 また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。
弟子たちの苦難は宣教の機会となります。そこで福音を証し、証言するのです。証言とは本来、命をかけて本当の事を話すことです。福音に猛烈に反対する人を前にして、福音を真っ直ぐに語る。とても怖いことです。
しかし「その時、何をどう話そうかと心配しなくてもよい。話すことは、そのとき与えられる」と19節で言われています。直訳すると「それは与えられるであろう」です。ですからマルコの福音書では「前もって心配するのはやめなさい」と言われます。出エジプト記で神は「わたしがあなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教えるから、今(直ちに)、行け」と言われています。
10章20節 話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。
父の御霊。それは聖霊です。神の約束どおり、私たちはイエス・キリストを通して聖霊が注がれ、聖霊を通して神の愛が注がれています。父、子、聖霊なる神が、その愛が私たちに語らせます。私たちを奮い立たせます。イエス・キリストをマリアの胎に宿らせ、イエス様の上に臨まれた聖霊と同じ聖霊が、人が不可能と思われることを行われる力あるお方が、その時、私たちに満ち満ちて、私たちが恐怖で思わず固まってしまうような状況に立つ時に福音を証しできる力と、実際に語るべき言葉を与えてくださいます。「わたしにそれができると信じるのか」「はい、主よ」。私たちは信仰をもって自分自身をかたく立たせ、ここから人々の間に出て行きましょう。
恐怖で思わず固まってしまう状況は、大きな権力を前にしてだけではありません。親しい人たち、一番親しい家族の前でも、前でこそ、そうなってしまうのではないでしょうか。
10章21節 兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。
10章22節 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
「わたしの名のために」とは、「わたしに忠実であるという理由で」という意味です。イエス様の弟子たちは、イエス様のために、イエス様の天の御国の福音を伝えたという理由で、それだけで憎まれ、迫害されるのです。たとえ家族の一員であっても逆らって立つのです。福音のゆえに人々に憎まれ、家族との間にもつれや争いを経験することは耐えがたい苦痛ではないでしょうか。その苦痛こそが色々な意味で信仰者を死に至らせるのです。
それにしても、福音を宣べ伝えているという理由だけで憎まれ、関係にもつれや争いを生み、殺されるかもしれない。神と人を愛し、その人が救われるために福音を伝えることがどうしてそれほど悪いこととされるのか不思議です。事実このようなことが、戦時中の日本や、共産主義下の中国において実際に起こったのです。「狼」のわざなのでしょう。群れを追いまわし、混乱させ、バラバラにし、迷い出た弱い1匹を仕留める。狡猾な狼の存在を覚えさせられます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
この「最後まで耐え忍ぶ」とは、「死に至るまで忠実である」と同じことです。ただ神と人のために福音を伝えていて迫害にあう者に最も必要なものは、何よりも忍耐、主にとどまり続ける信仰でしょう。この世の様々な惑わすものには目もくれず、ひたすら主を見上げ、ひたすら主にとどまり続ける主に対する忠実さでしょう。しかし私たちは弱い者です。大丈夫と言える人は一人もいません。迫害とは、いのちを奪われるほどの迫害の他に、信仰ゆえのこの世での生きづらさという面もあります。信仰さえなければもっと楽に生きられるのにというような試みの中で、それでも信仰を守り、迫害を恐れずに生きるその生き様こそ、生きた証しではないでしょうか。そのような目に遭っているその人にしか分からない苦しみ辛さ、しかしイエス様はすべての労苦を見て知っていてくださいます。途中で挫折して諦めてしまうことがないように、おののいてしまうことがないように、イエス様は「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われる」という真実な慰めと約束を、私たち一人ひとりに与えられるのです。「強くあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。わたしは世の終わりまで、あなたがたとともにいる」と約束しておられるのです。私たちは迫害の中できっと弱り、おののき、変わってしまうでしょう。しかし私たちがどうあろうとも決して変わることのない真実な約束があります。イエス様の何があろうと変更されることも、無効にされることのない真実な約束があります。その約束は、イエス様が遣わす者に対する、つまり私たち、私たち教会に対する愛です。この約束は、決して私たちを盲目にし、奴隷のように束縛して支配しようとするためのものではなく、私たちの目を開き、主を見上げさせ、一生涯を神の愛による支えと配慮のもとに置くためのものです。
心に留めておくべきことは、決して私たちに殉教を奨めているわけではないということです。「彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町に逃れなさい」と、イエス様はそう弟子たちに教えておられるからです。
10章23節は、文脈から見るならば「移る時が来たと思って他の町に移って働きを続けなさい」という意味でしょう。イエス様は弟子たちに、いたずらに殉教することは勧めませんでした。殉教こそが英雄的な、イエス様に従順なキリスト者の生き方であるかのように考えている人がおられるようです。また日本人はとかく、逃げることは卑怯であり、潔く死ぬことこそ素晴らしいという考えがすり込まれているのではないでしょうか。これは必ずしもイエス様の教えとは一致しないのです。イエス様は「いいですか。良く聞きなさい。彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい」と教えているのです。殉教は最後の手段であって、それまでは何とかして生きながらえて福音を伝えるように努力しなさいというのが、イエス様の教えなのです。イエス様は「人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してない」と考えておられたからです。
日本には「逃げるが勝ち」ということわざがあります。「逃げるは恥だが役に立つ」というのは、少し前の人気ドラマのタイトルですが、実はハンガリーのことわざらしいです。その意味するところは「いま自分がいる場所、置かれている状況にしがみつく必要はない。恥ずかしい逃げ方だったとしても、生き抜くことの方が大切。自分の得意なことが活かせる場所へ行こう、逃げることも選択肢に入れよう」という意味だとか。
「逃げるが勝ち」「逃げるは恥だが役に立つ」。迫害を避けて逃げながらでも伝道するところに、私たちキリスト教のしぶとさというか、力強さがあります。賢さ、素直さがあります。使徒の働きを見ても、初代教会のキリスト者はこのキリストの教えを守ったことが分かります。天の御国の福音はイスラエルの失われた羊のところにもたらされました。そして彼らは神によって頑なにされ、福音を拒み、エルサレムで迫害が起こると、使徒だけを残して他のキリスト者は逃れていって、他の地方で伝道したのです。そうして天の御国の福音は全世界へと広がって行きました。世界中のすべての人のいのちを愛する神の執念にも似た熱心によるみこころ、高くて深い不思議なご計画。それはいまだ進行中です。
「人の子が来るときまで」というのは諸説あるようですが、私はやはりキリストの再臨の時ととるのが一番良いと思います。イエス様は、ご自身が再臨する時までは決して宣教のわざは完了しないのだから、迫害されたら逃げ回りながらでも伝道するようにと教えられたのです。世界中のすべての人のいのちを愛する執念です。私たちはその主の執念、熱心によって救われました。本当に感謝なことです。その感謝をどのようにお返しできるのでしょうか。救われたこのいのちを大切にし、イエス様の愛とみこころに賢く、そして素直に応答することではないでしょうか。そしてイエス様の再臨の時は誰も知らないゆえに、緊急を要するのです。神と人とを愛するならば、私たちの宣教は切迫感をもっての宣教となるのではないでしょうか。
24節からでイエス様は、そのような迫害にあっても、決して恐れることはないと言って、弟子たちを励ましておられます。
10章24節 弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。
10章25節 弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。
24節は当時のことわざで、それを用いて励ましておられます。言われていることは、弟子は師以上のものではない。だから弟子たちは師であるイエス様以上の苦しみにあうことは決してないということ。あなたがたの受けた苦しみは、すべてわたしの知るところであって、それがどのようなものであるのか良く知っているわたしがいつも共にいて、とりなしをし、必要を満たし、守り導こうというものです。イエス・キリストが苦しまれたのは、このことのためでもあったのでしょう。
10章25節 家の主人がベルゼブルと呼ばれるくらいなら、ましてその家の者たちは、どれほどひどい呼び方をされるでしょうか。
ここで思わされることは、イエス様と弟子たち(私たち)との関係が、一家の主人と家族という親密な関係としてくださっているのだというところです。「家の主人」はもちろんイエス様を指し、「ベルゼブルと呼ばれる」は、パリサイ人がイエス様が悪霊を追い出したことを、ベルゼブルの力を借りたと批判したことを指します。イエス様はパリサイ人に批判され、ひどい言われ方をしました。そうしたら私たちはどのようなひどい言われ方をされるのでしょうか。そこで羊のような私たちは、賢さや素直さを見失わないようにしたいと思います。
26節の「おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはない」も当時のことわざです。真理は必ず明らかにされるという真理の勝利を表しています。「正義は勝つ」のです。弟子たちがイエス様の働きをする中で苦難を受けることは、決して悪の勝利を意味するのではありません。それは善(主と主につく私たち)の大勝利です。天の御国の福音が迫害によってますます拡大して行くことになるからです。逆に、もし苦難が全くないとしたら、それは大きな敗北です。ついには福音が勝利をおさめる時が来る。その時になって初めて福音に賛成の立場を表明しても遅いのです。その時は喜びではなく、黙っていたことに対する恥の思いや敗北感、後悔となるのではないでしょうか。ですから、その時、私たちが心から勝利の喜びに与るために、イエス様が言われたとおり、このようにするのです。
10章27節 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい。
弟子たちは、イエス様が「暗闇で…言」い、イエス様から「耳元で聞いたこと」、つまり、世のほとんどの人々に聞かれなかった、聞くことができなかったイエス様のことばを、人々に広く告げ知らせなければならないのです。
その時、弟子たちが本当に恐れるべきは、28節「からだを殺しても、たましいを殺せない」この世の悪者たちではなく、「たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる」神です。
10章29節 二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。
10章30節 あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。
10章31節 ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。
これこそ天の御国の福音、私たちを真に慰め励ます福音ではないでしょうか。父なる神の愛は、髪の毛一本に対しても配慮していてくださるほどのものです。神の国、神が完全に支え、配慮される世界に生かされる者に約束される幸いであり、生かされる、生かされている者が体験する真の幸いです。そして私たちは今、天の御国の福音に生かされ、完全に天の御国、神の支配の中に生かされている者たちです。その私たちを神はこの世に遣わしておられる。どれほどの覚悟でしょうか。どれほどの断腸の思い、辛く苦しい決断、どれほどの愛が注がれているでしょうか。これほどまでに神に愛されている。これはまさに福音を信じて神の子とされた者の特権であり、恵みではないでしょうか。このような父なる神の深い愛と配慮があるのですから、心配せずに堂々と自分がイエス様の弟子であることを人前で認め、何の恥もなく信仰を告白すべきでしょう。
10章32節 ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。
10章33節 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。
このような時代、このような世。当時から今日まで続く「姦淫と罪の時代」、偶像礼拝、サタンの支配、惑わしの時代にあって、「それでも耐え忍びキリストに留まっているならば、キリストとともに王となる。しかしキリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる」。これはⅡテモテ212のみことばですが、あなたは最後の最後までわたしの誉れ、喜びとなれと、主は望んでおられるのです。
私たちはキリストにとどまり、福音を伝え続けるために、イエス様の臨在の中にとどまりましょう。イエス様は福音伝道の使命を与えるとき、弟子たちといつもともにいると約束してくださいました。どんなに耐えがたい迫害でも、イエス様とのいのちに満ちた交わりの中にいるなら、それに十分に打ち勝つ力を受けていくことができます。イエス様は主の祈りを与えてくださいました。「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」。最も激しい試みにあうのは、見て来た通り主の働きをする時でしょう。「試みにあわせず」とは、試みの時にも私を一人にしないで、悪からお救いくださいということでした。その祈りは必ず聞かれる祈りであると、イエスは教えておられます。私たちはいつも主の祈りを祈り、主の臨在の中にとどまり、主のわざをなしていく者たちでありたいと思います。やがて、私たちを神の誉れ、神の喜びとしてくださいます。そのようにしてくださるために、羊飼いなる主は今日もともにいて、私たちを慰め、励まし、守り、導いてくださっています。そのことを信じて、私たちはしっかりと心構えをし、宣教の使命を今日も担ってまいりましょう。