2023年7月30日 主日礼拝「しるしはいらない」

礼拝式順序

讃  美
前奏(黙祷)
招  詞  マタイの福音書11章28〜30節
讃  美  讃美歌4「よろずのくにびと」
信仰告白  使徒信条 讃美歌566
主の祈り  讃美歌564
祈  祷
讃  美  讃美歌87A「めぐみのひかりは」
聖書朗読  マタイの福音書12章38〜50節
説  教  「しるしはいらない」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌239「さまよう人々」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書11章49節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後奏(黙祷)

本日の聖書箇所

マタイの福音書12章38〜50節

説教題

「しるしはいらない」

今週の聖句

それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」

マタイの福音書12章49節

説教「しるしはいらない」

マタイの福音書12章38〜50節

「家族」とは何でしょうか。少し前に「家族になろうよ」という歌がヒットしましたが、どうしたら家族になれるのでしょうか。そもそも家族に「なる」なんてことは可能なのでしょうか。結婚するとか、子どもが生まれるとか、養子縁組をするとか、そういったことによって普通に家族になれるのでしょうか。「家族」という言葉を辞書で調べてみました。このように記されていました。「夫婦や親子という関係を中心とする近親者(きわめて親しい者たち)によって構成され、相互の感情的絆に基づいて日常生活を共同に営む小集団のこと」。ここにある「感情的絆」が重要かと思います。夫婦になったからといって、二人の間に生まれたからといって、養子縁組をしたからといって、ただ法的に家族であっても感情的絆が破綻してもはや家族とは呼べないなどということも、人間の罪によって色々なものが壊れ歪んでしまっているこの世には残念ながらあると思います。「感情的絆」。「絆」という語もまた調べて見るとおもしろく、本来は家畜を通りがかりの立木につないでおくための綱のことで、それが転じて、断とうにも断ち切れない人の結びつきという意味になっているそうです。人と人とを家族として結びつける絆。それも無理矢理に縛り付けるようなものではない絆。それはやはり「愛」でしょう。それも「真実の愛」でしょう。自由で温かな愛でしょう。相手がどうであれ、決して変わることなく愛し続ける。そして真実の愛には必ず愛する側に犠牲が伴うのです。

「愛」とは何でしょうか。これまで何度かお話ししましたが、日本に最初に来たキリスト教の宣教師が聖書の中の「神の愛」、それこそ真実の愛、恐らく人間が理想とする愛を「デウスの御大切」と訳したように、相手を本当に大切にすることです。聖書は最初から最後まで人を「わが子よ」と呼び、何度も父の愛を裏切る子のような者に、それでも真実の愛を注がれる父なる神の姿が記されています。そして神の愛が人の姿となってこの世に降られたイエス・キリストは招かれます。「わたしのもとに来なさい。わたしにとどまっていなさい」と。主との「感情的絆」。私たちを主との関係につなぎとめてくださる恵み、主の愛を覚えつつ、今朝もみことばに聞いてまいりたいと思います。

前回のところで、イエス様は「神の御霊(神の霊、神の心、愛、親心)」によって悪霊どもを追い出すことによって、神の国(神の支配される世、神が愛によって支え配慮される世)がすでに到来していることを示されました。12章28節でも「もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」とはっきりと言い切っています。これはユダヤ人によっては重大な問題でした。彼らは旧約以来、長い間、辛くて苦しくて悲しいこの世の支配(この時はローマという強国の支配による圧政)から救ってくれるメシア救い主による神の国の実現を待ち望んでいました。それゆえに、神の国がもう来ているとするならば、そう宣言するイエスはメシアなのかという問題が当然のように起こってくるのです。律法学者やパリサイ人の内のある者は、このイエス様のことばを聞いて、その証拠を見せて欲しいとイエス様に迫りました。

12章38節    そのとき、律法学者、パリサイ人のうちの何人かがイエスに「先生、あなたからしるしを見せていただきたい」と言った。

何気に前回の本文のパリサイ人たちに、律法学者たちが合流しています。両者との間には「感情的絆」があったのでしょうか。イエス様に反対する、イエス様をしつこくつけ回して揚げ足を取ってやろう、非難してやろう、陥れてやろうという絆です。「先生」と呼び、一見信仰的に見えますがそうではありません。「言う」という語の中には「命令する」という意味が含まれており、また「いただきたい」というギリシア語の中にも「欲望、企て、良くないことをたくらむ」というニュアンスが含まれています。パウロも指摘していますが、「ユダヤ人はしるしを要求する」(Ⅰコリ122)のです。皆さんの聖書には「しるし」のところに*印がついているでしょうか。欄外には何て説明されていますか。「証拠としての奇跡」と説明されているでしょう。彼らは奇跡、いわゆる異常なものの中に神を見ようとするのです。それは根本的に間違った考え方であると明らかに聖書は警告しています。私たちは神を知るために、信じるために何かを要求していますか。「これをしてくれたら信じます。信じてあげます」などという思いは全くないでしょうか。それでは偶像礼拝です。神は私たちに何も強制したり要求したりなさらないのに、そのような神に対して、私たちの内に何か企て、良くないたくらみのようなものはないでしょうか。

12章39節    しかし、イエスは答えられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。

イエス様は彼らのことを「悪い、姦淫の時代」と呼ばれました。「悪い」というのは、神のさばきを招く罪を指しています。前回は決して赦されることのない、神が必ずさばかれる罪のことが言われましたが覚えておられるでしょうか。それは「御霊(神の心、神の愛、父なる神の子とされている私たちに対する親心)を冒瀆する罪」でした。神の御霊を馬鹿にすること、神の愛を軽く見ること。そのことを神はさばかれるのです。

旧約では神とイスラエルとの関係は結婚にたとえられました。神はイスラエルの夫であり、イスラエルは神の妻。新約でもキリストは花婿、教会は花嫁とされています。姦淫。私たちを愛して止まない神と神の心、愛に背き、浮気している。感情的、心では神以外の何かを愛し、大切にし、神以外の偶像を慕い求めている。もっと欲しい、もっと欲しいと欲しがる、貪り。たとえ神に対する要求であっても、「貪欲は偶像礼拝です(2017版)。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのだ(第三版)。姦淫なのだ」(コロ35)と神は言われます。

イスラエルを代表する宗教的指導者たちは、神の愛を本当には信じていないのです。「しるし」を求めて神の愛を確かめようとしているのです。しるしを信仰の必要前提として要求しているのです。しかし、そのような神の愛を信じない、信じられないゆえの要求が、真の信仰に至ることはないことをイエス様はご存知です。こうすれば信じよう、こうなればあなたの私に対する愛を信じよう。人の要求は尽きないのです。彼らは「貪り、偶像礼拝、姦淫の時代」と主にあだ名のようにそう呼ばれる人たちだからです。そしてそれは信仰に至ることはない。そのような時代に、そのような彼らに、そのような私たちにしるしは与えられないとイエス様は言われます。「ただし、預言者ヨナのしるしは別です」と。

イエス様は唯一のしるしは預言者ヨナであると言われます。ヨナは、ユダヤ人の間ではおなじみのある預言者です。CSの子どもたちにもおなじみでしょうか。

12章40節    ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。

「預言者ヨナのしるし」とは、ヨナが三日三晩大きな魚の腹の中にいて、きっと魚に消化され吸収されそうになり、身も心も滅びてしまうような、いわば死んだも同然のところから、全く新しく変わった人としてニネベに行き、悔い改めの宣教をしたことです(ヨナ117-310)。このヨナのようにイエス様も、死んで「三日三晩、地の中に」葬られましたが、3日目によみがえられました。ヨナのしるしはその預言でした。おとぎ話ではなく預言として旧約聖書に記されているのです。ちなみにイエス様がご自分の死と復活について、ここで初めて言及されています。

背信・不信、神に背き、神を信じないそのような時代、そのような人に与えられるしるしは、ヨナのしるしによって予表されるイエス様の死と復活のしるしだけなのです。神の御霊、神の心、それでも人に注がれる父なる神の真実の愛、親心。信じられない、アメージングな、驚くばかりの私たちに対する神の愛、どうしても救いたいと願う神の愛。それを証明するしるし、証拠としての奇跡は、イエス・キリストの十字架の死と復活、これ以外に与えられないとイエス様は言っておられるのです。それ以下も、それ以上のしるしもない。それが唯一の証拠として人間に与えられていると。そして、それだけを信じるならば、その出来事を通して証明される神の愛をただ信じるならば、その人は救われると神は約束してくださいました。神に愛され、神を愛する関係、感情的絆、切っても切れない関係、神の真の家族、真の子とされるのだと。神の家族となる条件は「愛」なのです。そしてその愛が目に見える形となって世に降られたイエス・キリスト、そしてイエス・キリストの十字架と復活を信じること。それが神の定めてくださった唯一の条件、恵みの条件です。しかし神は無理矢理に押しつけたりはなさいません。神は招き、そして自由に人に選択を任されるのです。人が自由な愛をもってご自身のもとに来ることをずっと待ち望んでおられるのです。神は愛だからです。

12章41節    ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。

ここにも例の重要な語があるのがお分かりになるでしょうか。「ある」です。「エゴー・エイミー、I am」「わたしはある」。神ご自身がご自身を指してそう呼ばれる。「エゴー・エイミー、I am」「わたしはある」「わたしはそれである」「わたしはいる」。

ヨナは魚の腹の中から生還して、神に命じられてニネベの町の人たちに悔い改めの説教をしました。そしてニネベの町の人々は何とヨナの説教を聞いて悔い改めたのです。「しかし見なさい。ここにヨナにまさるもの、ヨナよりも優れたも、より価値の高いものがあります。わたしはそれである」と。

12章42節    南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。

南の女王、あの有名なシェバ(シバ)の女王のことですが、彼女はソロモンとソロモンの知恵について知りたくて、遠くからわざわざやって来ました。当時の長旅ですから、どれほどの時間とお金がかかったことでしょう。危険もあったでしょう。アドベンチャーです。それでもソロモンとソロモンの知恵について知りたくてやって来ました。私たちにはそのような飢え渇き、求める心があるでしょうか。「しかし見なさい。ここにソロモンにまさるもの、優れたもの、より価値が高いものがあります」。「エゴー・エイミー、I am」「わたしはある」。神ご自身がご自身を指してそう呼ばれる。「エゴー・エイミー、I am」「わたしはある」「わたしはそれである」。

神ご自身であられ、神の愛が人となられたイエス・キリスト。そして神の知恵であるイエス・キリスト。このイエス・キリストが、すでに多くの奇跡、御霊、神の愛による奇跡、神の愛のしるしとして、多くの病とわずらいを癒し、悪霊を追い出し、(心の)貧しい者たちに福音を語られた。このお方が彼らの真っ只中にいるのに、また私たちの真っ只中、目の前に、傍らに、いつも共にいてくださるのに、律法学者やパリサイ人たちのような者は、ニネベの人々や遠く地の果てから旅して来たシェバの女王とは対照的に、不信の態度をとり続けるのです。そしてイエス様は、このような者たちはそれまで以上のしるしが行われても決して信じないことを知っておられました。

このような不信仰は、律法学者やパリサイ人たちだけでなく、当時の人々の一般的な傾向でもあったようです。そこでイエス様は43節から、彼らが代表する悪い姦淫の時代について、汚れた霊のたとえで説明されます。

12章43節    汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、
12章44節    『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は空いていて、掃除されてきちんと片付いています。
12章45節    そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。この悪い時代にも、そのようなことが起こります。」

この悪霊が一旦出て行って、また帰る物語は、この「悪い(悪いという語は、神のさばきを招く罪、決して赦されない罪、それは御霊・神の愛の冒瀆のこと)、姦淫(神の愛に対する不真実)の時代」の比喩として語られています。

イエス様は悪霊に支配されていた人から悪霊を追い出され、その人は救われました。しかし悪霊が追い出され、その後に「神による新しい支配」、神がその人の王座に座し、王となり、神の支配のもとにいること。神の愛による支えと配慮に心から満足し、その中に生きる喜びに生きること。そのことがなされないなら、それは空き家同然であると。空しい家、空っぽの家。しかもそこに新しい住人を迎える準備が十分にできている。もう迎えるだけになっている。実はこの状態は、恐るべき中立状態、真空状態なのです。真空状態。真に空しい心の状態。中が真空状態の入れ物の口を開けたらどうなるでしょうか。もの凄い勢いで風、暴風のように流れ込んでくる何かがあるのです。風というヘブル語またギリシヤ語の持つもう一つの意味は何だったでしょうか。霊です。

ある人がアメージングな、驚くばかりの恵みの経験をした。しるしを見た。救われた。喜んだ。しかしその喜びは実を結ばなかった。神が望まれる悔い改めと信仰の実を結ばなかった。このある人はいつしか救われた喜びと感謝を忘れてしまうことでしょう。そこに注がれたもの凄い神の愛、赦し、神の心を冒瀆し、見下し、軽く扱い、神の愛と恵みが当たり前のようになってしまう。自分はまだ大丈夫、自分の力でやっていける。神なしでやっていける。その結果、必ずどこかでつまずき倒れ、前と同じように苦しみ、同じように空しさを味わう。このある人はまるで神が悪者であるかのように神に訴えるのです。神が愛であるなら私を救わなければならない。奇跡をもって救わなければならない。そうしたら信じてやろう。もっと愛を、もっと奇跡を、もっと、もっと。貪欲は偶像礼拝。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝。神に背かせ、神を見失わせる汚れた霊、サタンのしわざ。この真空状態の口からもの凄い勢いで入って来るのはこの汚れた霊、サタン。するとどうなるでしょうか。イエス様は「その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです」、「この悪い時代にも、そのようなことが起こります」そう言われます。ですから私たちは、驚くばかりの恵み、奇跡、神の愛のしるし、イエス・キリストの十字架を体験したならば、心からそれまでの神の愛への背きを悔い改め、そして神の愛を心から喜び、味わい、満足し、そして信じなければなりません。イエス様を信じ、聖霊が注がれ、御霊によって、神の愛によって、もう汚れた霊、悪い霊、サタンが入り込む隙間もないほどに心を満たしていただかなければなりません。前回、イエス様は言われました。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです」(1230)。中立の立場はない、ないない、あり得ないということです。「ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません」(1231-32)。御霊に対する冒瀆こそ、サタンがもの凄い勢いで流れ込んでくる入り口となるのです。

イエス様がこれらのことを群衆に話しておられるときに、ある人たちがイエス様に話しをしようとして、外に立っていました。

12章46節    イエスがまだ群衆に話しておられるとき、見よ、イエスの母と兄弟たちがイエスに話をしようとして、外に立っていた。
12章47節    ある人がイエスに「ご覧ください。母上と兄弟方が、お話ししようと外に立っておられます」と言った。

母上とはもちろんマリアです。マルコの福音書6章3節によりますと、兄弟方とは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダのこと。また他に妹たちもいたようです。しかし、父親のヨセフはこの時いませんでした。すでに亡くなっていたようです。

この「母上と兄弟方が、お話ししよう」としていたことについても、マルコの福音書がその状況を詳しく記しています。「イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出掛けた。人々が『イエスはおかしくなった(気が狂ったのだ)』と言っていたからである」(マコ322)。

12章48節    イエスはそう言っている人に答えて、「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」と言われた。

ここに見られるイエス様の肉の家族に対する態度は、冷淡というのではありません。「御霊を冒瀆してはならない。父なる神の愛、わが子よと呼びかけられる人に対する神の親心を冒瀆してはならない」と言われたイエス様が、母マリアの愛、子を愛する親心を冒瀆しているのではないのです。イエス様は十字架の上で、弟子ヨハネに母を託すほどの孝行者でした。ご自身に注がれた母マリヤの愛、親心に対する感謝を最後まで、十字架の死の苦しみの中にあっても決して忘れておられなかったほどです。この時はすでに亡くなっていた父ヨセフの愛、子を残して死ななければならないその親心も知っており、その愛を決して忘れてはいなかったでしょう。イエス様はこの時、この機会をとらえられ、そして言われたのです。神の国の真理、父なる神の愛をみことばと動作で見せてくださったのです。

12章49節    それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。

私の大好きなギリシア語「伸ばす」という語がここにあります。この伸ばすと訳されているギリシア語の意味は、鳥が思いっ切り羽を広げるように、両腕を力いっぱい広げている姿を表しています。この姿はもちろん父なる神の姿。そして父なる神の姿を地上でそのまま表されるイエス様の姿です。両腕を思いっ切り広げたイエス様の姿。それは後に人間の罪を背負って十字架にかけられた救い主のお姿でしょう。そこに愛する側の大きな犠牲があるのです。自分のいのちをかけて赦すという大きな犠牲があるのです。

聖書ではこの姿は、あの放蕩息子が父のもとに帰って来るという有名な場面にある通り、父が子に、お前を赦そう、恵みを施そうと、力いっぱい両腕を広げて我が子を迎え入れよう、抱きしめようと待っておられる父なる神の親心を表しています。イエス様のその手は、群衆の前で弟子たちに伸ばされました。その両腕は、群衆の前で弟子たちに向けて広げられました。イエス様に対して、ベルゼブルの仲間だとか非難した者たちがいたり、イエス様をただの先生だとか、預言者だとか、イエス様の同じみわざ・しるしを見てもメシアとは認めない人も多かった。しかし、そのような悪い時代にあっても、イエス様の招きに応じて、天の父なる神のみこころを行う者たちがいるのです。イエス様を信じ、イエス様に従う弟子たちです。神のみこころとは、神を愛し、隣人を愛することでしょう。彼らこそ、私たちこそ、信仰によって天の父にあって結ばれた親子、兄弟など肉親、家族なのです。

その弟子たちに伸ばされた手、思いっ切り広げられた両腕は、群衆にも見せられました。まさにイエス様の招きです。「家族になろうよ」という強烈な招き、驚くばかりの恵み、信じられない、アメージングな招きなのです。

この霊的な家族関係、絆を結ぶためのルール。それは「真実の愛」です。その真実の愛による、最も親しく、最も深い愛が期待できる関係、家族関係へとイエス様は今、招いておられるのです。釘跡の残る両手両腕を力いっぱい広げ、招いておられます。私たちをご自分の家族、神を父とする家族、最も親しく、もっとも深い愛が期待できる関係、家族として招き、赦しと恵みを施そうと両腕を思いっ切り広げ待っておられる父なる神のもとへと私たちを導き、深い交わりの中へと導いてくださろうとしています。

どうしたら神の家族になれるのでしょうか。父なる神の愛、真実の愛、犠牲を伴う大きな愛、親心、それまで神に背いてきた一切の罪を御子イエス・キリストに負わせ罰し、それで良しとしてくださる、赦してくださる犠牲の伴う愛をただ信じて、感謝して、イエス・キリストを通して思いっ切り広げられた父なる神の両腕の中に飛び込むことでしょう。愛を信じてすべてを委ねることでしょう。

イエス様の恵みによる招き。神の愛による招き。この招きを前にして、私たちは神の愛を冒瀆し、神の愛にしるしを求めてはならないのではないでしょうか。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している(イザ434)。あなたは大切、わたしの御大切である」。恵みによってそう仰ってくださる神を疑ってはならないのではないでしょうか。ご自身のいのちをかけて愛される私たちが、もっと愛を、もっと、もっと、どうして愛してくれないのかと訴えているとしたら、どれほど神は悲しんでおられるでしょうか。

今日、私たちは私たちに注がれる神の愛を信じる信仰を新たにしたいと思います。そして御霊に満たされて、これまでの悔い改めるべきところは悔い改め、信仰と悔い改めの実、御霊の実、それは「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」の実をたわわに結ばせていただきたいと思います。主は私たちとともにおられます。神の愛は私たちとともに日々歩まれます。私たちが信じて、心を開くならば、いつもその愛が見られ、その愛によって満たされ、悪い霊、悪い心が入り込む隙もないほどに満たされ、そして様々な危険やわざわいから守られて行きます。私たちの様々な苦しみ、試みの時も、イエス様は私たちを見離さず、私たちの味方でいてくださいます。それが家族というものです。その道は確実に神の国、天の御国へと続きます。

「相互の感情的絆に基づいて日常生活を共同に営む小集団になろうよ」。つまり「本当の家族になろうよ。神の家族になろうよ」。主の恵みの招きの声に、招かれるにふさわしくないような者にかけられる招きの声を信じて、喜んで応えたいと思います。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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