2023年8月6日 主日礼拝「イエスの弟子であることの祝福」
礼拝式順序
賛 美
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇1篇1〜3節
讃 美 讃美歌546「せいなるかな」
主の祈り 讃美歌564
祈 祷
讃 美 讃美歌187「主よいのちのことばを」
聖書朗読 マタイの福音書13章1〜17節
説 教 「イエスの弟子であることの祝福」佐藤隆司牧師
讃 美 讃美歌501「いのちのみことば」
聖餐式 信仰告白(使徒信条・讃美歌566)
讃美歌207「悔いたるものに」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 マタイの福音書13章16節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
マタイの福音書13章1〜17節
説教題
「イエスの弟子であることの祝福」
今週の聖句
しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。
マタイの福音書13章16節
説教「イエスの弟子であることの祝福」
マタイの福音書13章1〜17節
「弟子」というギリシヤ語を調べてみて面白いなぁと思いました。ギリシヤ語の弟子の意味は「教えを受ける者、学ぶ者」という意味の他に、「瞳孔(ひとみ)」という意味があります。ユダヤではラビ(先生)たちが弟子を持ち、師弟関係によって教育が行われました。また、古代では弟子になると師匠と生活を共にすることが普通だったそうです。そのことから、弟子というと「ともに住みながら学ぶ者、模範に従う者」をも意味していました。弟子は師匠と生活を共にし、個人的なつながりを持って仕えながら、例えば門外不出、他言無用、秘伝の奥義である学問や技などの教えを受けます。その教えられ方というのは、机を挟んで教えを請う、手取り足取り教えてもらうというものの他に、弟子は師匠のしていることを常に自分の瞳孔(ひとみ)で見て、積極的な学ぼうとする心をもって、四六時中師匠のしていることを良く見て、秘伝を盗むようにして学ぶのです。そのために師匠と生活を共にしなければならないのです。イエス様は言われました。「あなたがたもわたしのくびきを負って、その上でわたしから学びなさい」(1229)と。くびきというのは、牛や馬が荷車を引いたり、畑を耕したり、石臼をひいたりする時に首にかける道具です。またイエス様の時代のユダヤでは、くびきをつけて働いたことのない若い牛や馬は、先輩の牛や馬と対になって、並んでくびきをつけ、先輩を見習って仕事の仕方を覚えました。おそらくイエス様はこのような習慣を心に思い浮かべながらこのことばを語ったのでしょう。隣りを見れば同じくびきを負われるイエス様がおられる。ともにくびきを負って、ご自身を通して教え導いてくださる。あなたがたはいつもわたしを見て、わたしから学びなさい。そのような師匠と弟子の関係へと、イエス様は私たちを招いてくださいました。ご自分のあとをつけ回すだけの関係は求めておられないのです。また弟子というのは、師匠を父兄にみたてていう語です。父・兄に対して弟・子です。そして個人的な繋がりをもって生活を共にする。これは家族も同然です。師匠が父、弟子が子の関係。家族。前回私たちは、イエス様から「家族になろうよ」との招きをいただいたのではなかったでしょうか。相互の感情的絆に基づいて日常生活を共同に営む小集団になろうよ。そしてイエス様にとって家族の関係はまことに良いものであり、霊的家族こそ最もすぐれたもの、またすべての関係に優先すべきものでした。その関係へと私たちは招かれ、そしてイエス・キリストを通してただ恵みによって、弟子、家族の関係としていただいている、本当に幸いな私たちなのです。
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11章、12章では、イエス様に対してどのような態度をとるかをめぐって、人々の間にますます分裂が広がったことが語られました。また12章の最後、46〜50節では、イエス様との関係において真の弟子とその他のすべての者たち(群衆)との著しい違いが示されています。今日の箇所である13章1節には「その日」とありますが、これは12章の出来事がその日にあったということでしょう。ですからイエス様との関係、特に家族に関する教えは、この後イエス様が語られるたとえと深い関係があると言えます。
13章1節 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。
13章2節 すると大勢の群衆がみもとに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆はみな岸辺に立っていた。
家とは、どうやら取税人マタイの家のことのようです。イエス様のあとを追い、マタイの家まで行き、しかし中には入らず家の外から遠巻きに見ていた人たち(群衆)は、その家を出て行かれるイエス様のあとをついて行きました。そしてイエス様は湖のほとりに座られました。座ることは、当時の教師たちが教えを与える際の典型的な姿勢だったため、その姿を見た群衆は、イエス様がこれから何か重要なことを語られることを察知してイエス様に近づきました。
イエス様は湖のほとりに座ることで、群衆をみもとに招かれたのでしょう。近くに来なさい、そしてわたしが語ることばを聞きなさいと。大勢の群衆がみもとに集まって来ました。その数が多かったので、イエス様は彼ら皆に話すことができるように舟に乗って腰を下ろし、そして群衆はみな岸辺に立ったままイエス様のみことばを聞きました。腰を据えて語ろうとされるイエス様と、立ったまま聞く群衆の姿はどこか対照的です。それでも群衆の中には、何か飢え渇きをもって求める姿勢の人もいたでしょう。そのような人と、例えばただ興味本位で遠巻きにイエス様の話しを聞こうと考えている人との間には、これから語られるイエス様の多くのたとえ話の捉え方、理解、そこに込められているメッセージの受け取り方はまるで違ったのではないでしょうか。
13章3a節 イエスは彼らに、多くのことをたとえで語られた。
イエス様はここから、彼ら(群衆)に多くのことをたとえで語られます。「多くのこと」というのは、「御国(神の国・天の御国)の福音」です。神の国、天の御国はイエス様以外この世では誰も見たことがなく、この世では完全には経験できないことです。ですから実際の様子をそのまま語るよりも、たとえで説明することの方が効果的なのです。
たとえで語られる利点は、まずは人の興味をとらえることができることでしょう。聞く者に興味を抱かせ、自ら積極的に考えさせ多くの実を結ばせること。また、理解しがたい、隠された本当のこと、それを私たちは「真理」と言いますが、真理を身近な事例に置き換えて説明することで、具体的にそうだったのかと悟ることができる。すでに良く知られた方を通して、全く知られていない方(奥義)を分からせる。さらにまたたとえで語られるもう一つの利点として、聞く態度を持つ者にしかその真理を悟ることができないというものがあります。つまり、厳しいようですが「弟子」と「群衆」を区分するため。
神の国の奥義は「奥義(秘められた、隠されたもの)」なので、弟子たちには教えられるけれども、弟子でない外部の者に対しては門外不出、他言無用の秘密なのです。それは師匠から特別に教えてもらうか、積極的な向学心を起こして、師匠のしていることを四六時中、寝食を共にし、いつも師匠と行動を共にし、自分の瞳孔(ひとみ)で良く見て、秘伝を「盗む」以外には方法がないのです。知りたい、自分のものにしたい、そのような向学心を持った積極的な態度が必要だということです。そのようにイエス様から学ぼうとする者こそ、イエス様の弟子と呼ばれる人たちで、「心の貧しい者たち(飢え渇き、求める者たち)は幸いです。神の国はあなたがたのものだからです」(ルカ620)と言われるのです。そして積極的に学ぼうとする人は、やる気のない人よりもはるかに早く習得するのです。
弟子とは対照的な弟子以外の人たち、「群衆」と呼ばれる人たち。彼らはただイエス様を追いまわし、興味本位にイエス様の話に耳を傾ける人たちです。イエス様はここから、このような人たちにたとえをもって多くのこと、奥義である「御国の福音」を語って行かれます。それはイエス様の招きです。「たとえ話を通して御国の福音に興味を抱き、自ら積極的に考えるようになれ。わたしの弟子となり、寝食を共にし、わたしの家族となり、常にわたしのことばに耳を傾け、常にわたしを見て、わたしから学びなさい。そして幸いな多くの実を結ぶように」。その前段階として、群衆に種をまく人のたとえを語られます。
この3節後半から9節のたとえの意味は、この後の18〜23節でイエス様ご自身が弟子たちにだけ説き明かされます。ここではおもに群衆に向かって語られました。そして最後に「耳のある者は聞きなさい」と言われます。
このたとえは、ガリラヤ湖のほとりにある畑が題材になっており、弟子や群衆にとっては本当に分かりやすい話で、考えやすい題材でした。イエス様の時代のイスラエルでは、種を畑に大まかに蒔いてから畑を耕しました。そのために道ばたに落ちる種もあれば、土の薄い岩地に落ちる種もあり、いばらの中に落ちる種もありました。本当に良い地に落ちた種だけが、豊かな実を結んだのです。
イエス様は「耳のある者は聞きなさい」と言って、このたとえを結んでいます。「聞きなさい」というギリシヤ語は、「聞くことによって理解しなさい」というものです。イエス様がその口で語られたこのみことば、このたとえが何を意味しているかは、自分の耳でしっかり聞いて、自分で考えて「悟りなさい」というものです。群衆のうちの何人が、果たして真剣にこのイエス様のみことば、たとえから何かを悟ろうと努力した人がいたのでしょうか。飢え渇きをもって、イエス様に求める心をもってこのたとえのみことばを思い巡らせた人が何人いたのでしょうか。しかし全く同じたとえを聞いて、そこから何かを悟った人も実際いたのではないでしょうか。それはどのような人だったと思われますか。
ちなみに、「悟る」という語は、マルコの福音書では「受け入れる」というものになっています。種が蒔かれた良い地が、種を受け入れるのです。柔らかい土壌が種を受け入れ、種を育て、やがて多くの実を結ぶのです。それができるのは「聞く耳のある者」だけ、イエス様に求め、イエス様から学ぼうとする者だけだということです。
また、当時のイスラエルの常識では、蒔いた種の5〜10倍ほどの収穫があれば豊作と見なされていました。ですから100倍とか60倍とか、30倍でも、これは夢のような豊作でした。そしてこのことはイスラエルの人々にとって、創世記のイサクの祝福を連想させるものでした。「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主は彼を祝福された」(創2612)。イスラエルの種を蒔く人たちは、この神のみことばを心に留めながら、心でつぶやきながら、祈りながら種を蒔いたことでしょう。もしかしたら日本の田植え歌のように、節が付いていたのかもしれません。彼らにとって豊作は主からの祝福なのです。神の恵みなのです。そして霊的な豊作をもたらす心の土壌もまた、主からの祝福、神の恵みなのです。主は人の心を開かれるお方だからです。この主の御心を様々な理由で拒む心が、受け入れようとしない心が、不作をもたらすのです。パウロも言っています。「ある人が植え、ある人が水を注いだ。しかし成長させたのは神である。あなたがたは神の畑である」(Ⅰコリ36,9)。私たちは主に招かれ、寝食を共にし、いつも主のみことばを聞いて、主のお姿を見て、主の愛とあわれみを経験しながら心が開かれて行く。ますますみことばの種を心に受け入れ、ますます多くの実信仰の実、悔い改めの実、献身の実を結んで行く。それは主が私たちに多くの実を結んでほしいと願われておられるから。本当に神からの一方的な祝福であり、恵みではないでしょうか。
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この後、群衆は解散しました。悟ることができないまま帰ってしまいました。イエス様のもとには弟子だけが残りました。知りたいと願う者だけが残りました。群衆の中からも、主に求める心、何としても知りたいと思い、その場に残った人たちがいたのかもしれません。その人たちはもう群衆の中の一人ではなく、イエス様の弟子、家族とされているのです。
13章10節 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに「なぜ、彼らにたとえでお話しになるのですか」と言った。
たとえで語られる理由の一つに、弟子たちと群衆を区分するためというものがありました。そしてそれは、群衆を分けて排除するというものではなく、「あなたがたは群衆の一人ではなく、弟子であれ」と言うイエス様の愛による招きです。
弟子たちがイエス様に、「なぜ、彼らにたとえでお話しになるのですか」と尋ねると、イエス様は答えられました。
13章11節 イエスは答えられた。「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。
イエス様が語られたたとえを、弟子たちも十分に理解していたわけではありませんでした。群衆のことを気にして質問したように見えますが、自分たちもたとえを理解できなかったことを遠回しに言っているようにも見えます。弟子たちも、知恵と知識においては群衆とあまり変わりがなかったのでしょう。しかし彼らは、イエス様に近づいてその説明を聞くことを求め、そのみことばに従おうとしたのです。それで、そのたとえの解釈も聞けたのです。
みことばを理解し、受け入れることは、自然なことではなく、神に許されるものなのです。それも弟子たちに限られているのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのだ。それはあなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため。また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるため」(ヨハ1516)。ガリラヤ湖のほとりでイエス様はある漁師を招かれました。その人は弟子となり、イエス様と寝食を共にするようになりました。多くのしるしを目の当たりにし、多くの恵みを経験し、ますます弟子として成長し、やがてみことばを宣べ伝える使徒にまでなりました。イエス様は死んでよみがえられました。まさにインマヌエル(神が四六時中、常に私たちとともに、私たちの内におられる)お方となるために。神の霊が彼に注がれ、彼の内に住まわれ寝食を共にされる。みことばは彼の内に住まわれ、常に語り教え導いてくださる。主とともになされる宣教や伝道を通して自分自身が日々、ますます柔らかな心、従順な信仰となり、イエス様に似た者とされて行き、そして実を結ぶ。さらに実を残す。救われる魂が起こされていく。これらすべて、自分の知恵や知識や力によるものではなく、ただ神に許されたものなのです。祝福なのです。一方的な恵みなのです。それを私たちの方で拒んでしまうならば、不作となり、実を結ばなくなってしまう、実を残すことができなくなってしまうのです。
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13章12節 持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は持っているものまで取り上げられるのです。
ルカの福音書では「ですから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人はさらに与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです」(ルカ818)とイエス様が言われています。
主なる神は、昔から今に至るまで、私たち人間に悟る心と見る目と聞く耳を与えられるお方です。そのような恵みをいただきながら、私たち人間は、昔から今に至るまで「多くを見ながら心を留めない。耳が開いているのに聞こうとしない」頑なな者たちです。神は言われます。「愚かで思慮のない民よ。考えようとしない、受け入れようとしない反逆の子よ」。群衆と呼ばれる種類の者たちに対する神の深い嘆きでしょう。「あぁ」という憐れみと悲しみでしょう。
13章13節 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。
だから、わたしは多くのことをたとえで話すのだ。聞く者がわたしのことばに興味を抱くようにするために。聞く者が聞く態度をもって、自らわたしのことばに聞き、そして常にわたしを見て、わたしのことばに聞いて、思い巡らせて、深く考えるようになってくれるために。だからわたしはたとえで話すのであると。あなたがたがわたしの真の弟子となるために。主の私たちに対する期待です。そして聞き分けのない、知恵や知識や思慮に乏しい幼子のような私たちに対する主の親心、愛です。それでもなお、ご自身に逆らう者にはさばきが下されるのです。
13章14節 こうしてイザヤの告げた預言が、彼らにおいて実現したのです。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。
13章15節 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。』
群衆はイエス様を師匠とせず、本当には従いませんでした。弟子とはなりませんでした。しかし彼らがそのような状態になったのは、「イザヤの告げた預言が、彼らにおいて実現した」からでした。
引用箇所であるイザヤ書6章9〜10節では、神が多くの預言者たちを通して何度も神に立ち返るよう告げられたのに、それに聞き従おうとしなかったイスラエルの民と指導者たちにさばきが下ることが預言されています。15節は彼らの不従順に対するさばきによって、鈍くなった彼らの目と耳を、神が無理矢理に開こうとされるのではなく、そのまま放っておくことにされたという意味です。これこそが神のさばきなのです。人のなすがままに任される。それが神のさばきなのです。人の悩みとか悲しみ、苦しみは神が与えるものではありません。人の罪によって、神に背を向けて出て行く者を、その出て行くままに任される。それが神のさばきです。神から離れたその先々で様々な試みがあり、試練を経験する。
しかし、神のさばきの根底には「愛」、子を心から愛する「親心」があるのです。放蕩息子のたとえのように、人が神に背を向けて出て行った。その先でたくさんの苦難を経験した。ふと気づいて振り向くと、父なる神が両腕を力いっぱい広げ、背きを許そう、恵みを施そうと待っておられる父なる神の姿が見られる。イエス様は十字架の上で、この父なる神の御姿をそのまま私たちすべての神に背く者に見せられたのです。
イエス様の働きを見ても、イエス様の奇跡、神の愛のしるし、神が世を愛される証拠を見ても不信仰だった「この悪い、姦淫の時代」は、イザヤの時代に神に不従順だったイスラエルの民と似ています。イエス様の数え切れない教えと力あるわざを見聞きしても、パリサイ人と律法学者たちを代表とする「悪い、姦淫の時代」と呼ばれてしまう人々は、イエス様を信じずにしるしを求め、群衆は弟子たちのように献身することはなく、ただ群れをなしてイエス様について回っただけ。
イエス様は、たとえで話すことによって弟子たちだけに悟りを与え、人々が自分の鈍さによってたとえを悟れないようにしておかれました。なすがままに任されました。しかし、やはり何かをきっかけにして立ち返り、神を信じ、従順し献身することを期待されてのことです。寝食を共にし、真の弟子となり師に仕え、師に学ぶ者となる。しかしそれは家族のように互いに愛し合い、大切にし合い、仕え合うようになる。子が親を心から信頼し、親から多くを学ぼうとする。それこそが本当に幸いなことであるからです。
13章16節 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。
ここに「幸いです」が2回も言われています。これは「何と幸いなことよ」であり、また「おめでとう」というものです。主は弟子とされた者に対して「おめでとう」と言われるのです。祝福されるのです。弟子たちがイエス様のたとえを聞いて悟ること、受け入れることができるのは、神のみわざ、神の一方的な恵みです。そして主は「おめでとう。良かったね」と言われるのです。祝福なのです。目と耳の鈍さが克服され、目で見ることも耳で聞くこともできるようになったからです。主は「おめでとう」と祝福してくださいます。弟子たち、私たちの心は喜び躍るのではないでしょうか。本当に幸せなことです。
13章17節 まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。
多くの預言者や義人たちは、神が選ばれた神の民が完全に苦しみから解放されるその日に、その働きを成し遂げるために来られるメシアと、メシアを通して完全に神の支配を見ること、神の国、真に幸いな神の王国をみることを願っていましたが、それはかないませんでした。それを弟子たちは今、目の前で見て聞いているのです。彼らが待ち望んでいたメシアであるイエス様を通して天の御国、神の国、神が王として支配する世、神が愛をもって完全に支え配慮される世が到来した。メシアであるイエス様を通してあらゆる病、わずらいは癒やされ、世と人を支配する悪霊は追い出され、貧しい者たちに神の国の福音(門外不出、他言無用、秘伝の奥義であったもの)が語られている。イエス様に献身して従う弟子たちは、神の祝福によって、イエス様こそがメシア救い主であり、神ご自身であり、インマヌエル(神が私たちとともにおられる)のお方であり、このイエス様がおられるところこそ天の御国の中心であることを悟ることができる。受け入れることができる。それは神の祝福であり、恵みであり、神が「おめでとう」と言われることなのだということを覚えたいと思います。また私たちは主の真の弟子となり、主と寝食を共にし、愛をもって、感謝をもって主に仕え、常に主を見上げ、主に聞き、主に従ってまいりましょう。心から信頼していない相手のことばを受け入れ、従って行くことはできません。私たちはますます主の恵みを知り、経験しながら、さらに深い献身へと進み、ますます豊かな実を結び、主に「おめでとう」と仰っていただける人生を歩ませていただきたいと思います。
私たちは今、群衆の中の一人でしょうか。それとも幸いな弟子の一人でしょうか。もちろん、幸いな弟子の一人とされています。それも家族にもまさる霊的な家族の関係とされています。本当に一方的な恵みであり、おめでとう、祝福、感謝なことです。