2023年8月27日 主日礼拝「天の御国はからし種に似ています」

礼拝式順序

讃  美
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇23篇1〜6節
讃  美  讃美歌4「よろずのくにびと」
信仰告白  使徒信条 讃美歌566
主の祈り  讃美歌564
祈  祷
讃  美  讃美歌90「ここもかみの」
聖書朗読  マタイの福音書13章31〜43節
説  教  「天の御国はからし種に似ています」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌234A「むかし主イエスの」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書13章31b〜32節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後奏(黙祷)

本日の聖書箇所

マタイの福音書13章31〜43節

説教題

「天の御国はからし種に似ています」

今週の聖句

「天の御国はからし種に似ています。どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。」

マタイの福音書13章31b〜32節

説教「天の御国はからし種に似ています」

先ほどはご一緒に讃美歌90番「ここも神の御国なれば」を賛美しました。神の国、マタイの福音書はこれを「天の御国」と言います。いずれにしましても「御国」と訳されているギリシヤ語は「βασιλεία」王国と言っています。誰が王様かと言いますと、やはりそれは天の父なる神です。王である神、そしてその神は全能であり、しかも父なるお方、子を思う父の心をお持ちのお方。そのお方が王として支配される所。支配と言ってもこの世での支配とは違います。親心をもってすべてを支配される、すべてを完全に支え配慮し、すべてを生き生きと生かしてくださる所。そこが神の国、天の御国なのです。

そして以前にも申しましたが、「教会」とは本来ギリシア語で「召し出された人々の集まり」という意味の語です。また旧約聖書では「教会」という語は登場しません。一番近い語が「集まる」という動詞から出来た語です。しかもその語の中には「声」を意味する響きが含まれているのです。天から呼ばわる声によって集められた人々。主の招きの声を聞いて、今朝もこうして王なる主の御前に集められた私たち。それが「わたしの民」と主が呼ばれる共同体なのです。その共同体に、一人、また一人と主の愛によって招かれた人々が加えられて行く。しかもその天から呼ばわる声、主の愛の招きの声は、大抵が人を通して聞かされるものです。そのようにして神の国は成長し、完成に向かって行くのです。神の国はもちろんここ長野聖書教会だけではありません。世界中に存在し、私たちがはっきりと知らなくとも、それぞれの所で確実に主の愛によって守られ、育まれ、成長しています。種が蒔かれ地に落ち、そこに生命が芽ばえ、しっかりと根を張り、多くの実を結んでいく。その繰り返しによって神の国、天の御国はますます拡大し、完成へと向かって行くのでしょう。

マタイの福音書を読み進めておりますが、13章に入っていくつかの天の御国のたとえ話に聞いてまいりました。その文脈の中で、続く今朝の13章31節から、イエス様はまた別のたとえをもって語られます。

13章31節    イエスはまた、別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国はからし種に似ています。人はそれを取って畑に蒔きます。

他の福音書では「神の国はどのようにたとえたら良いでしょうか。何に似ているでしょうか。どんなたとえで説明できるでしょうか」と言われています(マコ430-31,ルカ1318-19)。イエス様は天の御国、神の国を説明されようとしているのです。そして「それはからし種に似ています」とイエス様は言われました。この「似ている」というギリシヤ語は、姿形が似ているというのではなく、性質が同じという意味です。

イエス様は、天の御国はからし種と同質であると言われます。当時のユダヤ人の間では、非常に小さいものを指して「からし種のようだ」と表現するのが一般的でした。イエス様は良く知られ、使われている表現方法を用いて、天の御国の真理あるいは真実を教えるために、からし種のたとえを群衆に示されるのです。この「示す」というのは、目の前にポンと置いて、相手に考えさせるというものです。

そのたとえは「人はそれを取って畑に蒔くでしょう」と言われて始まります。「畑に蒔く」ということも、当時の種蒔きで考えなければなりません。前回も申しました通り、当時の種蒔きは一粒一粒丁寧に蒔くものではなく、バーッと撒き散らすものでした。イエス様は「人はその種を取る」と言われます。この「取る」と言う語は、自ら掴み取るというのではなく、「受け取る」というものです。種が両手に注がれ、いただくというイメージです。そして前回、種は神のことばであることを教えられました。神のことばは神からいただく恵みなのです。ありがとうございますと言って、頭を垂れていただく恵みなのです。しかしそれを大切なものだからと言って、後生大事に蔵の中にしまっておいては何の役にも立ちません。農夫は当然のようにそれを畑に蒔く、撒き散らすように蒔くのです。たくさんの収穫を期待して。同じように神が人に賜ったみことばの種は、たくさんの収穫を期待して蒔かれなければならない。それが神の御心です。

13章32節    どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなって木となり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るようになります。」

からし種は、地に蒔かれるときは地上のどんな種よりも小さいのですが、蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張って、その枝の陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。実際にからし種は生長すると3〜4メートルほどにまで大きくなり、それはもう野菜ではなく木のように育つのだそうです。そしてそこに空の鳥が来て巣を作るようになると。

「空の鳥」と聞いて、私たちは何を思い起こすでしょうか。以前、イエス様は6章26節のところで言われました。「空の鳥を見なさい」と。「空の鳥は天の父が養っていてくださるのだ」と。そして「あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか」(マタ626)とイエス様は教えてくださいました。空の鳥は小さなからし種が木のようにまで生長した枝の陰に空の鳥が来て巣を作る。もちろんこれは生長した天の御国をたとえたものです。そして「巣を作る」というギリシア語は、「そこに住む、天幕を張り住む、陣取る、戦いなどの準備をする」という広い意味を持つ語です。天の父なる神は、空の鳥よりも価値があるとされる私たちを、神が支え配慮される天の御国に住まわせたいと願われるお方です。鳥が巣を作るという表現は、旧約聖書では「そこに憩いがある、神の守り、神の養いがある」ことを表す表現となっていました。この世での様々な戦いに苦しむすべての人をご自身のもとに招き、憩い、休息、慰めを与え、守ろう、養おうと願われるお方。そこに住まうならば、鳥がさえずるように、その人の口にはいつも喜びの歌、主への賛美が口ずさまれるようになる。それを神は望んでおられ、人々をそこに招いておられることを仰っているのでしょう。

またこのたとえも預言的色彩が濃いものです。神の預言は必ず実現します。主の目はすでに実現を見ているのです。みことばの種は蒔かれ、神の国は生長しあなたがたの身近にある。望みさえすればそこに住まうことができる。そしてさらに神の国は力強い生命力をもって生長し完成へと向かっている。それらのことを今の私たちにも示しているのです。種、神のことばなる御子イエス様がこの世界に降られた時から、大胆に言うならば、イエス様がこの地上に落とされた時から、神の国、神の支配、神の愛による完全な支えと配慮の世界は、この地上で始まり広がり始めたのです。この神の国の王はひっそりとベツレヘムで産み落とされました。ナザレという村で育ち、やがて地方のガリラヤの小さな町カペナウムで働きを始められました。この世的に見るならば、この神の王国はとても小さく、慎ましい始まりでした。イエス様に従っていた弟子たちも少数でした。迫害もありました。神の国の影響力は、まるでからし種のように小さく見えたことでしょう。また見えることでしょう。しかし、世の中で一番小さなからし種が大きな木になるように、神の国はどの時代も神に守られながら、時代を経て大きく生長し、さらに全世界へと広まり、さらに成長し広がり、完成へと向かっているのです。

13章33節    イエスはまた、別のたとえを彼らに話された。「天の御国はパン種に似ています。女の人がそれを取って三サトンの小麦粉の中に混ぜると、全体がふくらみます。」

イエス様の2つ目のたとえによると、天の御国は、小麦粉の生地に混ぜると全体を膨らませる「パン種」と同質です。ところで、パン種は、聖書では多くの場合、悪影響の代名詞のように使われているのですが、ここではイエス様は、パン種の肯定的な面を取り上げて、天の御国の拡大の様子を語られます。

パン種はユダヤ人家庭ではごく日常的に台所にあるものでした。また空気中にも存在しているものです。ユダヤ人が大切にしている過越の祭りのためには、家の中にあるパン種をすべて焼き捨てて準備しなければならないのですが、パン種は家の中の空気にも存在するものですから、どうするかと言いますと、水で練った小麦粉を置いておくのだそうです。すると空気中のパン種がその小麦粉に集まって来て、最後にその小麦粉を焼いてしまうのだとか。このように、日常的に台所にあるパン種、見えないけれども空気中に存在するパン種。これはつまり、天の御国は日常的に身近に存在しているのであり、また見えないけれどもこの世のそこかしこに存在しているということでしょう。

パンを焼いたことのある方はご存知でしょうが、パン種はわずかな量でパンを大きく膨らませます。しかし、パン生地にパン種が入っていることは、小麦粉の中に「混ぜる」と言われている通り、この「混ぜる」というのが「中に隠す」という意味の語で、パン種を入れた人以外には誰にも分からないというものです。また、パン種はその存在すら分からないのですが、やがて小麦粉全体に浸透して、それを柔らかくし、膨らませる力を持つ。そのようなパン種と同じように、天の御国は最初は人の目にはつかないようなもの、あるいは隠されている。けれどもその力は全世界に力強く広がって行くのです。少量のパン種が3サトン(約40リットル・成人120人分のパンを作れる)の生地全体をふくらませるように、人知れず到来した天の御国は、世の至る所に徐々に浸透して行き、確実に拡大していく。目立たないけれども、その影響力は驚くほど大きいのです。

2つのたとえを見て来ましたが、その共通点は何でしょうか。それは、人の目にも留まらないほどの小さいもの、力ないもののようであるけれども、驚くべき生命力を宿しているという点ではないでしょうか。またどちらも、命が芽ばえ、一旦生長し始めると、もの凄い力をもって生長するということではないでしょうか。

34節からは、イエス様がたとえで話された理由が記されています。

13章34節    イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話された。たとえを使わずには何も話されなかった。

マルコの福音書4章33-34節ではこのように言われています。「イエスは、このような多くのたとえをもって、彼らの聞く力に応じてみことばを話された。たとえを使わずに話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちには、彼らだけがいるときに、すべてのことを解き明かされた」(マコ433-34)。この時、群衆にはまだ聞く力がなかったのです。聞いて耐える力がなかったのです。どういうことでしょうか。イエス様がかつて山上で語られた説教を覚えておられるでしょうか。この山上の説教も、そこに群衆もいましたが、イエス様は弟子たちをみもとに招いて、弟子たちに語られたのです。そこでこのようなことを語られました。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。……」(マタ510-12)。そして主はあえてご自分の弟子たちには、彼らだけがいるときに、すべてのことを説き明かされたのです。そしてマタイは、それが預言の成就でもあるのだと言います。

13章35節    それは、預言者を通して語られたことが、成就するためであった。「私は口を開いて、たとえ話を、世界の基が据えられたときから隠されていることを語ろう。」

預言者を通して語られたこと、世界の基が据えられた時から隠されていることとは何でしょうか。イエス様は言われました。律法と預言者、つまり旧約聖書のどこを切っても、実はイエス・キリストの十字架と復活による人類の救い、福音が語られているのだと。

「世界の基が据えられたときから隠されていること」。救い主イエス・キリストがこの世に来られることは、創造の時から、アダムとエバがサタンに誘惑され、罪を犯した前から計画されていたことでした。神は人に自由を与えられました。強制ではなく、自由に神を愛することを望んでおられるからです。そしてそれが本当に愛し愛されるという関係となるからです。しかし人は罪を犯し、神との関係を自ら絶ち、神に背を向けて自分勝手な道に進んでいってしまうだろうこともご存知でした。それでも神はそのような罪人を愛し、愛し抜き、罪人が悔い改めて、自由に神を選び取り、神のもとに帰って来ることを待っておられる。

神が罪人の帰りを待つ姿は、イエス様があの放蕩息子のたとえをもって教えてくださっています。父なる神が、父の愛をもって、両手を思いっ切り広げ、赦しと恵みをわが子に施そうと待っておられる。そしてイエス・キリストは十字架の上で父なる神の姿を見せられました。十字架にかけられ、両腕を思いっ切り広げ、赦しと恵みを施そうと待っておられる。痛めつけられ、苦しまれた十字架上のイエス・キリストを示し、「お前の罪はすでに罰せられ、解決が済んでいる。だから悔い改めてわたしのもとに安心して帰って来なさい」と、両腕を力いっぱい広げて待っておられる。それが「世界の基が据えられたときから隠されていること」神のことば、福音です。

しかしその「世界の基が据えられたときから隠されていること」神のことば、福音は、預言者が預言した通り、たとえで語られるのです。それは「黙示文学」と言われますが、実はこの黙示文学、キリスト教大迫害の時代において発展したものです。神は神のことば、福音、イエス・キリストの十字架と復活による完全な罪の赦し、それゆえの神との完全な関係の回復が宣べ伝えられるところに、大迫害が起こる事をご存知でした。神のことば、福音の種が蒔かれる所には、必ず強力に邪魔をする存在があることをご存知でした。そのことを預言者を通して預言されたのです。興味本位でイエス様を追いまわすだけの群衆には聞く力がなかった。理解し、それに耐える力がなかった。しかしイエス様は弟子たちだけにすべてを説き明かされたのです。

13章36節    それから、イエスは群衆を解散させて家に入られた。すると弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。

イエス様は群衆を解散させて家に入られたと記されています。しかしこの「解散させた」という語は、イエス様が群衆を追い返したという意味を表してはいません。このギリシア語の意味は、「出発を許可する、わたしは許す」という意味の他に、「堪える、苦しむ」という意味が含まれる語なのです。実に深い意味があります。群衆はイエス様のたとえを悟れずに、悟れないまま自分たちの生活へと帰って行ってしまいました。イエス様はそれを堪えながら、苦しみながら許されたのです。この時のイエス様の表情はどんなだっただろうかと思います。

弟子たちが、家でイエス様のみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言いました。群衆はそのたとえを悟れないまま帰って行きましたが、弟子たちはイエス様のところに行って尋ねました。弟子たちには聞く力があったのです。その弟子たちに向かってイエス様は語りはじめます。弟子たちへの信頼、そして弟子たちに対する期待があったのではないでしょうか。それらをもって語り始めます。その信頼、また期待とは、弟子たちにはっきりと天の御国の真理を理解させて悟らせ、受け入れさせ、すばらしい天の御国の福音を伝える働きに積極的に加わるようにという期待でしょう。イエス様はこの時、ご自身が世界に遣わそうとされている弟子たちに向かって、毒麦のたとえの説明をされます。

13章37節    イエスは答えられた。「良い種を蒔く人は人の子です。
13章38節    畑は世界で、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らです。

これまで「種」は「神のことば」とされて語られてきました。しかしここ38節で「種」がみことばではなく「御国の子ら」とされているのは驚くべきことであり、真に意図された意味のあることです。良い種、神のみことばを蒔く人、世界にばら撒く、撒き散らす、つまり世界の隅々にまで、あるいは生活の中の様々なシーンに「御国の子ら」、神のことばに聞き、神のことばによって生まれ、養われ、育まれ、守られて、やがて必ず実を結ぶ弟子たちを遣わすのは人の子、イエス様だということです。そして毒麦は悪い者の子らであると。毒麦には「厄介者」という意味があることは前回申しました。実を結ばせまいと邪魔をする厄介な存在もまた、世界の隅々に存在しているのです。

13章39節    毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫は世の終わり、刈る者は御使いたちです。
13章40節    ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそのようになります。
13章41節    人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、
13章42節    火の燃える炉の中に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

毒麦を蒔いた、厄介者を良い種が蒔かれた土の上からばら撒いた敵は悪魔。主に遣わされ、良い種を蒔く、みことば福音を宣べ伝える者の前には、その先々で必ず厄介な敵がいるというのです。しかし、麦というのはいくら毒麦に邪魔されようとも、必ず実を結ぶのです。私たちが蒔いて芽を出し生長を始めた麦はもちろん、私たちもまたみことばの種が芽を出し生長している麦ですから、私たちもまた、いくらぬかりない悪魔に邪魔されようとも、苦しめられようとも、最後まで神に守られ、必ず実を結ぶことが約束されているのです。

ところで皆さんの聖書に、39節の「終わり」のところに*印が付いているでしょうか。欄外を見ると何と書かれているでしょうか。「総仕上げ」と書かれていると思います。世の終わりが総仕上げであると言うのです。世の終わりによって世が完成される。天の御国、神の国、神の王国、神がその愛をもって完全に支配される、支え配慮される世がその時完成するのです。イエス・キリストがこの世に来られた時からすでに地上には神の国が到来しましたが、未完成です。今現在のここも神が支配される神の国ですが、今は未完成です。世の終わりに完成、総仕上げされるのです。その時が約束されているのです。ここに慰めがあります。慰めとは何でしょう。かわいそうだねと頭を撫でられるだけではありません。その人の労をねぎらう、労が報われる、大きく息を吸わせ、落ち着かせ、励まし、そして戦いの備えをさせる。これを慰めと言うのです。私たちの救い主は、天から御使いを遣わして、御国の子らを、私たちを慰めてくださるお方です。

世の終わり、総仕上げ。この語にはもう一つの意味があります。それは「初夜を迎えたことによる結婚の完成」という意味です。この世での戦い、御国の子らを惑わし、つまずかせるもの、障害物を置いて巧みに偶像礼拝・偶像との浮気へと誘う悪魔との戦い。その戦いに勝利した先には、神との結婚の完成が待っています。今は婚約期間ということでしょうか。しかしユダヤの慣わしでは婚約期間がすでに結婚とみなされていましたから、神と私たちの婚約期間はすでに結婚とみなされているのです。イエス様は何と言われたでしょうか。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタ2820)と仰ってくださっています。私たちをご自身の尊い血の価をもって贖ってくださった主イエス・キリスト。新約では教会はキリストの花嫁だとも言われています。ご自身が、私たちとの結婚の完成を望んでくださり、そしてその時まで守り導いてくださる。私たちの目には麦と毒麦の区別がつかないかもしれません。しかし主の目には、麦と毒麦ははっきりと区別されており、主は最後まで麦を毒麦から守ってくださいます。御国の子らを惑わし邪魔をする厄介な毒麦は、世の終わりまで存在しています。なぜか神はそれを最後まで残しておられます。それは前回も申しました通り、神のご計画なのです。理由があるのです。御国の子ら、私たちが滅んでしまわないためです。世にある限り、主は最後まで守ってくださいます。しかし世の終わりにはその悪が一掃されることが約束されています。主は御使いたちを遣わし、世界を総仕上げされるのです。主のメッセージを伝える御使いは私たちに神のどのようなことばを伝えるでしょう。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」ではないでしょうか。おめでとう、喜びなさい。私たちはこの神のことばによって慰められ、そしてこれからも世に遣わされたそれぞれの所で歩んで行けるのです。

13章43節    そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。

私たちの働きはからし種のように小さく、今は誰にも認めてもらえず、その労苦は多く、しかもその労苦が誰にも理解されない、報われないと思っていても、主は認めてくださっています。隣人に神のことばを語る。隣人を愛し、敵さえ赦し、やさしい慰めのことば、招きのことばを語る。それが何になるのか。時には馬鹿にされることもあるでしょう。神の天からの招きを語る者には必ず迫害があるからです。自分ばかりが損するような思い。しかし神はその労苦をすべてご存知で、御国の完成の時、神との結婚の完成の時、私たちは天の御国で太陽のように輝くと神は約束してくださっています。しかも「彼らの父の御国で」です。父の御国、天の御国は正しい人たちのもの、神の御心を行う者たちのものなのです。神の御心とは何でしょう。神が私たちに求めておられることは何でしょう。それでも神を愛し、隣人を愛することです。それでも宣教を続けて行くことです。このことを覚えつつ、改めて山上で弟子たちに語られたイエス様の説教に聞いてみてください。違った響きをもって私たちを慰めてくださることでしょう。

主はすべての人を神の国へと招いておられ、その天からの招きの声を宣べ伝えるために、弟子たちを世の隅々にまで遣わされます。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」。ここも神の国。ここにも御国の王、主がおられ、主が治め、主がすべてを支え配慮してくださっている神の国。私たちを憩わせ、慰める神の国。からし種のように小さく思えても、パン種のように隠されているようであっても、神の国は確実にここにある。もの凄い生命力をもって生長している。目の前のことに惑わされず、私たちの目を高く上げ、主を見上げつつ、いつもみことばと賛美を口ずさみながら(♪)、いつでもどこでも神の約束を信じ、神を愛すること、隣人を愛すること、そして宣教を続けて行く、神の愛の招きの声を届けるという神の御心を行い、すでに天に名が書きしるされ、将来が約束されている真に幸いな者であることをしっかりと覚えて、私たちはここからまた主にあって力強く、いのちに溢れて歩んでまいりましょう。

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