2023年9月17日 主日礼拝「主が私たちに求めておられること」

礼拝式順序

讃  美  前奏(黙祷)
招  詞  詩篇24篇7〜10節
讃  美  讃美歌354「牧主わが主よ」
信仰告白  使徒信条 讃美歌566
主の祈り  讃美歌564
祈  祷
讃  美  讃美歌214「北のはてなる」
聖書朗読  マタイの福音書14章13〜21節
説  教  「主が私たちに求めておられること」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌391「ナルドの壷」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書14章16節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後奏(黙祷)

本日の聖書箇所

マタイの福音書14章13〜21節

説教題

「主が私たちに求めておられること」

今週の聖句

しかし、イエスは言われた。「彼らが行く必要はありません。あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」

マタイの福音書14章16節

説教「主が私たちに求めておられること」

マタイの福音書14章13〜21節

「弟子とするのだよ」。先日、私はこのような主の御声を聞きました。どのような時に聞こえたかというと、救いを願って教会に人を誘ってもなかなか来られない。そこで自分の言い訳が聞こえて来るのです。自分は声をかけたのだから、あとは神に任せれば良いのだ。自分の責任はきちんと果たした。やるべきことはやった。けれども主は言われるのです。「あなたが弟子とするのだよ」「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」。ハッとしました。誰の弟子なのだろうか。もちろんイエス様の弟子でしょう。しかしイエス様は「わたしの直弟子(じきでし)としなさい」とは言われずに、「わたしの弟子とされた、あなたの弟子とするのだ」と、そう言われたような気がしたのです。私にとっては衝撃的な気付きでした。直弟子の「直」というのは、「じかに、直接、間に何も挟まない」というものです。イエス様はいずれすべての人がご自身の直弟子となることを望んでおられると思います。そして主を礼拝し、主の御顔を直接拝し、主のみことばに日々、一人ひとりが主との1対1の関係の中で教えられる私たちは今、直弟子とされていると言ってよいでしょう。しかし直弟子とされるその前に、師であるイエス様と私とを橋渡しするような存在が必要でした。分かりやすく、実際に身近で、膝と膝をつき合わせるようにして教えてくれる先生が必要でした。それは牧師であったり、クリスチャンの先輩であったりしたでしょう。

ところで、直弟子に似た言葉に「愛弟子(まなでし)」というものがあります。師匠が特に期待を寄せ、可愛がっている弟子のことを「愛弟子」と言います。私たちは皆、主の愛弟子とされているのです。聖霊が注がれ、聖霊を通して主の愛が注がれているからです。愛弟子とされているのですから、イエス様は私たちに期待を寄せ、また特別に可愛がってくださっています。それが、「まず、わたしの愛弟子であるあなたがたは行って、あらゆる国の人々をあなたの直弟子としなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいますよ」と言われていることなのではないでしょうか。

そして弟子というのは、以前お話ししましたが、師匠から直接教えを乞うだけではなく、師匠と寝食を共にし、師匠の生き様とか、すべてを通して盗むようにして学ぼうとする人のことです。私たちは、自分には人に教えられるような十分な知識はない、誇れる生き様などないと思われるかもしれません。このような私に何ができるだろうか。まるで自信がない。出来ない。出来る誰かに任せておけば良い。もしどこかでそう思われるのでしたら、今日の箇所を通して、主は私たちに多くのことを語りかけてくださると思います。

14章13節    それを聞くと、イエスは舟でそこを去り、自分だけで寂しいところに行かれた。群衆はそれを聞き、町々から歩いてイエスの後を追った。

「それを聞くと」の「それ」とは、14章1節の人々のイエス様に対するうわさであり、また14章2節のヘロデの言葉です。それを聞くとイエス様は舟でそこを去りました。マルコの福音書によると、弟子たちが宣教に遣わされた村々から帰って来て、出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかった弟子たちを休ませるために、弟子たちとともに舟でそこを立ち去られました(マコ630-32)。ヨハネの福音書によると、イエス様は舟に乗ってガリラヤ湖の向こう岸に行かれたということです。向こう岸へ渡る。それは聖書では新しいステージ(段階)に進んで行くことを意味します。そしてイエス様はまず、弟子たちをどこかに降ろしたのでしょうか、ご自分だけ舟に乗りひとり寂しいところへ行かれました。それはヘロデ・アンティパスの目を避けるためではなく、父なる神に祈るためでした。ヨハネの死が暗示するご自分の受難に備えて、勇気をもって、覚悟をもって最期まで歩まれるため。また群衆が奇跡を期待して集まって来る中で、そして奇跡をなさるたびに高まるご自身への賞賛の声の中で、ご自分の究極的な使命、父なる神の御心を見失うことのないように、父なる神への信頼を失うことのないように、一心に神だけを見つめ祈るために、ひとり寂しいところへ行く必要があったのです。イエス様でさえ。

ひとり静かに、父なる神との大切な時間を過ごしていた中、イエス様を追って「大勢の群衆」が町々から徒歩で、ガヤガヤと岸辺に集まり近づいてきました。

14章14節    イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒やされた。

イエス様は舟から上がり、大勢の群衆を見て「深くあわれ」まれました。

イエス様がガリラヤ地方の各地を歩いてご覧になったのは、弱り果てて倒れている群衆でした。世の中の弱り果てて倒れている人々の姿をご覧になって深くあわれんでおられました。そしてそこに弟子たちを遣わされ、弟子たちにもそれを見せられたのです。ローマの圧政によって貧しい庶民たちがずっと苦しめられて、厳しい環境に置かれていた。そのような苦しみの中で、彼らは助けを求めて、救いを求めて自分たちを導く指導者、羊飼いを求めてついて行ったその人が、真の指導者、羊飼いではなかったという悲惨があった。民を導くはずの王、祭司、預言者たちが、養うべき民衆を養わず、民衆が苦しみの中にいることを分かっていながらも、自己の利益を求めて羊をかえりみることもせずに、自分たちは贅沢をして良い暮らしをしていた。民衆は肉体的にも、そして霊的にもさまよっていたのです。そのような人たちがイエス様のことを聞いて、多くの町々から、多くの人々がイエス様について来たのです。誰からイエス様のことを聞いたのか。それはやはりイエス様に遣わされて町々に出て行った弟子たちからでしょう。何を聞いたのか。真の羊飼いであるイエス様とイエス様が導いて行かれようとする神の国の素晴らしさでしょう。加えて、かつては自分たちも民衆と同じ中にいたけれども、真の羊飼いであるイエス様に出会えたという、救われたという弟子たちの生きた証しでしょう。イエス様から教えられた神の国の素晴らしさを、弟子たちは民衆に教えたのでしょう。そして輝いて見える弟子たちの姿を民衆は見たのではないでしょうか。その人々が大きな群衆となり、弟子たちの師であるイエス様を求めて後を追ってきたのです。

そのような彼らを見て、イエス様は深くあわれまれ、彼らの中の病人たちを癒やされました。ルカの福音書によると、「イエスは彼らを喜んで迎え、神の国のことを話し、また、癒しを必要とする人たちを治された」(ルカ911)とあります。

イエス様はご自分がどうであれ、喜んで迎えてくださるのです。そして神の国の素晴らしさを話され、慰められるのです。慰めとは、励ます、一息つかせる、労をねぎらう、励ますこと。また様々な癒やし、肉体的な癒やし、霊的な癒しを必要とする人たちを治される。これらすべて、全面的に「あわれみ」によったのです。同情です。気の毒に思うことです。しかしあわれみとはただ心の中で同情すること、気の毒に思うことではありません。それは慰めであったり、癒やしであったり、実際に行動において表されるものなのです。「主よ、あわれんでください」と祈る祈りは、ただ「私をかわいそうに思ってください」という祈りではないでしょう。「私に同情し、実際にここから救ってください」という、心と行動を求める切実な祈りなのではないでしょうか。イエス様は痛めつけられ、傷つけられ、さまよっている人々をご自分よりも優先され、まさに「あわれんで」くださるお方なのです。

そのようなあわれみの主を前に、弟子たちはイエス様のところに来て言いました。

14章15節    夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは人里離れたところですし、時刻ももう遅くなっています。村に行って自分たちで食べ物を買うことができるように、群衆を解散させてください。」

ルカの福音書では弟子たちはこのように言っています。「群衆を解散させてください。そうすれば、彼らは周りの村や里に行き、宿をとり、何か食べることができるでしょう。私たちは、このような寂しいところにいるのですから」(ルカ912)。ここに出て来る【解散させる・ἀπόλυσον】というギリシア語は、退ける、却下する(大まかなイメージは「人を遠くにやる」)というものです。喜んで迎え入れられる、あわれみに満ちたイエス様と対照的な弟子たちではないでしょうか。彼らもイエス様と同じ民衆の苦しむ姿を見てきたはずでした。イエス様は彼らに見せられたのです。そして彼らにもあわれみをもって喜んで人々を迎え、あわれむこと(心で同情するだけでなく、実際に行動において表されること)を期待しておられたのではないでしょうか。以前、イエス様も群衆を解散させられましたが、そこでは別のギリシヤ語が用いられており、それは「出発を許可する、私は出て行くことを許す、私は堪(こら)える、苦しむ」という語でした。そのベースとなっているのは、やはり「あわれみ」です。イエス様は本当にあわれみのお方であることが分かります。人々をあわれまれるイエス様は言われました。

14章16節    しかし、イエスは言われた。「彼らが行く必要はありません。あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい。」

弟子たちの先ほどの提案は、人里離れたところに群衆を食べさせられる食べ物があるはずもなく、そんなお金もないので、弟子たちにしてみればごく当然の提案だったのかもしれません。しかしイエス様は、「あなたがたがあの人たちに食べる物をあげなさい」と言われます。

ここでイエス様は「あなたがた(ὑμεῖς)」をわざわざ言っています。イエス様は「あなたがた」という前置詞をわざわざ言われ、もしかしたらここだけ重ねて強調して言われたのかなとも思いますが、群衆に食べ物をあげることがあなたがた弟子たちの責任だと強調して言われるのです。それはなぜかというと、これから弟子たちにさせることを通して、神の羊である“彼ら”、今弟子たちの目の前にいる人々をあわれむこと、心を注ぎ、実際に世話をすることが弟子たちの働きであることを教えるためであったのです。

14章17節    弟子たちは言った。「ここには五つのパンと二匹の魚しかありません。」

弟子たちはイエス様のことばに戸惑ってしまい、そして言います。「ここには五つのパンと二匹の魚“しか”ありません」とか、ヨハネの福音書では「一人ひとりが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません」(ヨハ67)とか、ルカの福音書では「私たちが出かけて行って、この民全員のために食べ物を買うのでしょうか」(ルカ913)などと、どこかあきらめ顔でイエス様に訴えるのです。確かに弟子たちはあきらめていたのでしょう。そんなことは無理だと最初からあきらめていたのです。4つの福音書全部には、弟子たちの「私たちがするのですか」といったようなつぶやきいや疑い、とまどい、文句のようなものが色々と記されているのです。もし私たちが今、イエス様に「あなたがたがの目の前にいる彼らを、あなたがたが面倒をみるのです」と言われたら、私たちの口からはどのような言葉が突いて出て来るでしょうか。「この私がするのですか」かもしれません。しかしイエス様は言われます。「そうです。今、わたしの目の前にいるあなたがするのです」と。イエス様は私たちの思いのすべても、また何をどれくらい持っているか、髪の毛の数さえご存知のお方です。すべてご存知の上でそう言われるのです。「そうです。今、わたしの目の前にいるあなたがするのです」。

14章18節    するとイエスは「それを、ここに持って来なさい」と言われた。

弟子たちはあきらめていましたが、イエス様は弟子たちが今持っているものを確認するように命じられました。「あなたが今、持っていると言っているもの、それを、ここに持って来なさい」と言われます。イエス様が言われたことを直訳するならばこうなります。「あなたがたは持って来なさい。わたしのところに、ここに、それらを」。

「あなたがたは持って来なさい」。これは文法的に拒否できない従順を要求する語で言われています。絶対に、どうしても、素直に従うべきことを言われているのです。「あなたがたは持って来なさい」。「わたしのところに」これはもちろんイエス様のところにです。そして「ここに」とは、場所を示す前置詞で、この場所にという意味です。人里から離れ、他に頼れるものは何もない荒野のようなところにおられる唯一の供給者、与えてくださるお方、わたし、イエス様のところに、あなたがた、弟子たちが今持っているものを素直に、イエス様を信じて、みことばに従って、必ず、どうしても持って行くべきことを言われます。今自分の持っているものを確認し、それからイエス様のお言葉に素直に従わずに、イエス様のところに持って行かなければ、自分の持っている物を見てあきらめて終わりでしょう。やっぱり無理と。しかしイエス様はあなたが今持っているものをわたしのところに、ここに持って来なさい、信じて持って来てみなさい、今ここにはわたし以外に頼れるものは何もないのだからと命じられるのです。

14章19節    そして、群衆に草の上に座るように命じられた。それからイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂いて弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。

イエス様は弟子たちが差し出した五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえました。この「神を」は補足(後から付け足したもの)らしいです。「天を見上げて神をほめたたえ」、これは少し意訳ではないかと思います。イエス様が天を見上げるとき、必ず「父よ」と父なる神に向かって祈っておられます。それで「神を」と補足されたのかもしれませんが、「神を」としてしまうとどうしても「ほめたたえ」となってしまうのだろうと思います。「ほめたたえる」という語は、他に「祝福する、恩恵を祈る、聖別して神にささげる」と訳せる語です。私はこの場合、「五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げてこれらを聖別して神にささげ」とするのが一番分かりやすいのではないかと思ってしまいます。

イエス様は弟子たちが持っていたわずかな物、五つのパンと二匹の魚をご自分に差し出させました。ヨハネの福音書によると、この五つのパンと二匹の魚は一人の少年が持っていたものだったようです。もともと弟子たちの持ち物ではなかった。たまたま一人の名もない少年が持っていたものが弟子たちに与えられたもの。主はたとえ弟子が何も持っていなくとも、必要があれば備えてくださるのです。私は何も持っていないではないか。しかしふと自分の手を見ると、主がすでに備えてくださったもの、すでに与えられている恵みがあるのです。弟子たちはイエス様に「それを、ここに持って来なさい」と言われ、ハッとして持っていたわずかな物を主に差し出したのでしょう。イエス様はそれをご自分の手に取られて、天を見上げ、それらを聖別して神に献げられました。そしてパンを裂かれて弟子たちにお与えになりました。弟子たちは群衆に配りました。弟子たちをこの働きに加わらせました。すると奇跡が起こったのです。どうして主はまわりくどいようなやり方で、ご自分ですべてをパパッとなさらずに、弟子たち備え、弟子たちに与え、弟子たちに差し出させ、弟子たちに配らせ、そのようにして弟子たちをこの働きに加わらせたのでしょうか。

14章20節    人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二のかごがいっぱいになった。

5つのパンと2匹の魚でどのように大勢の群衆が満腹になるようにたべさせられたのかについて、科学的に説明しようと多くの試みがなされてきたようですが、しかし神のみわざはまことに不思議で、科学的に証明できるものではありません。だからこそ奇跡と呼ばれるのです。

群衆は、イエス様が聖別して神に献げられた食べ物を与えられて、食べて満腹しました。この「食べて満腹」というギリシア語を調べてみると、マタイの福音書で4回出て来ており、5千人と4千人の群衆を食べさせられた奇跡(1420、1533,37)のほかにもう一箇所だけ、5章6節の「満ち足りる」に使われてることが分かります。マタイの福音書5章6節「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです」。飢え渇きは肉体で感じるものだけでなく、霊的にも感じるものなのです。そして主は、肉体の飢え渇きも、霊的な飢え渇きも満ち足らせてくださるお方なのです。さらにそれは、主が弟子たちにその働きに加わらせ、弟子たちを通して世の人々を満たそうとされるのです。弟子たちを町々に遣わし、迷い、弱り果てて倒れている羊のような世の人々の現状を見せ、彼らに対する真実のあわれみの心を弟子たちに教え、あわれみの心をもって彼らに仕えるようにと主は言われるのです。

ところで、人々がみな、食べて満腹して、余ったパン切れを集めてみると、12のかごがいっぱいになったとありますが、どうして12かごなのでしょうか。聖書においていくつかの数字がたびたび登場しますが、その数字に意味を持たせすぎることは危険です。色々な解説の本などがありますが、興味本位に書かれたものもあるので注意が必要です。今日の「12」という数字も聖書では多用されています。12部族、12弟子(使徒)とか。12弟子に関しては、イスカリオテ・ユダが脱落して12使徒が11人になった時は、わざわざ新しい弟子を加えて12人に戻しています。12という数字がいかに重要視されているかを物語っているようです。一番興味深いのは、最終的な天の御国、神の国である新天新地の描写でも、12が使われまくっていることです。12の御使い、12部族、東西南北の門の数の合計が12、12の土台、いのちの木には12種類の実がなるなど。つまり、最終的に神さまと暮らすことになる神の国、神がおられ、神が愛と義をもってすべてをご支配なさる、支え配慮なさる国、世界では、すべてが12なのです。そしてイエス様が神の国をたとえで語る文脈の流れの中でこの奇跡が記されています。12かごと言及されています。ですからこの奇跡も、12かごもまた、神の国をたとえたものでしょう。神の国はこのようにして拡大し、完成されるのだということです。神のあわれみにより、イエス様を通して、弟子とされた者が用いられ、すべて神の守りと供給(必要なものは与えられる)の中で導かれ神の国は拡大して行き完成するというものでしょう。

14章21節    食べた者は、女と子どもを除いて男五千人ほどであった。

福音書でマタイだけが「女と子どもを除いて」と行っていますが、女と子どもも含めると、少なく見積もっても1万人は越えていたと思われます。当時のガリラヤ周辺の村々の人口をはるかに凌ぐ人数です。それほど、メシアがもたらす天の御国、神の国は豊かで満ちあふれている、人々を満ち足らせてあまりあるほどに完全で豊かだということです。また、メシアがもたらす天の御国、神の国は、周辺の人たちのみならず、全世界から求めて来る人たちがいるということです。そして主は全世界から求めて来る人たちを喜んで迎え入れられる、そのような天の御国、神の国であることを思わされます。私たちの身近な人たちの中にはもちろんのこと、もっと広く全世界の人たちの中にも天の御国、神の国、神が愛と義とあわれみをもって支え配慮される恵みの世界を求めている人たちは多くいるのだと、そのことも示しているのでしょう。その場所場所へと、イエス・キリストを信じ、信頼し、弟子とされた者、しかも愛弟子とされた者たちは遣わされるのです。それぞれの召された所に。「愛弟子」とは、冒頭でも申しました通り、特に期待を寄せられ、可愛がられている弟子のことです。

愛弟子である弟子たちに主は言われました。「あなたがたがしなさい」。この主の期待と、主が命じられたことは、今の私たちにも向けられています。「イエスは主である」と告白することができている私たちは皆、聖霊が注がれ、聖霊を通して主の愛が注がれ、愛弟子とされているのですから、イエス様は私たちに期待を寄せ、また特別に可愛がってくださっているのです。不足があれば与えてくださって、愛弟子に信頼して委ね、それをもってご自身の働きをするようにと言われるのです。私たちはまことに特別な恵まれた存在です。

イエス様が言われているご自身の働きとは何でしょうか。イエス様が弟子たちに食べ物を与え、弟子たちが飢え渇いている人々に食べ物を配ることが、イエス様の働き、天の御国の福音を伝える働きです。そして人々をあなたの直弟子とするようにと言われるのです。天の御国に確実に入れられるように、あなたが師となり教え導くのだと言われます。でも安心してください。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と、主は愛弟子である私たちに言われるのですから。私たちが教え導く。しかし人を救われるのは主です。イエス様のもとに行くなら、だれでも、いつでもイエス様に会うことができます。イエス様のもとに行くならです。そこにイエス様の直弟子であり愛弟子とされている私たちのための働きがあるのです。しかしそれは、ただ人々にイエス様のお名前を紹介するだけではありません。私たちの直弟子のようにして、私たちが師となり面倒を見て、私たちの生き様などすべてを通してイエス様を紹介する、イエス様の前に一緒に進み出る、お連れするのです。

「あなたがしてあげなさい」。私たちの手にあるものの大きさは問われていません。ただイエス様のように深いあわれみをもって。あわれみとはただ心の中で同情すること、気の毒に思うことではありません。それは実際に行動において表されるものです。虚栄心ではなく、ただ隣人をあわれむ心をもって、愛をもって、今持っている物、備えられた恵みをイエス様のところに持って行くならば、主はそれを聖めて幾倍にも増して用いてくださいます。私たちが持っているたとえわずかなものであっても、「それをわたしのところに必ず持って来なさい」と強く言われる主のみことばに従いましょう。すると奇跡が起こります。弱い私たちの手にある小さなもの、それが何であろうと神に明け渡されるならば、もの凄い主のみわざの素となるのです。それは隣人の肉体のいのちのために必要なものを満たし、さらに何よりも必要なもの、究極的には永遠のいのちを得させる、つまり、イエス・キリストを救い主として信じる信仰へと導くものとなります。イエス・キリストの直弟子であり愛弟子である私たちは、今日からも主を信頼し、主の心、深いあわれみを私たちの働きの根本的な動機として、私たちに与えられている主からの恵みをすべて主に献げ、お返しし、主と隣人とに仕えてまいりましょう。私たちのすべてを通して、飢え渇きを覚える世の人々に喜んで福音を宣べ伝えてまいりたいと思います。虚栄心(うわべだけを飾ろうとする心。自分を実質以上に良く見せようとする心)ではなく、真実なあわれみをもって、神の国の拡大と完成を目指して、イエス様の愛弟子である私たちは歩んでまいりましょう。

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