2023年10月1日 主日礼拝「信仰を呼び覚ます奇跡」

礼拝式順序

賛  美  「わすれないで」
      「神の御子にますイエス」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇50篇15節
讃  美  讃美歌545「父の御神に」
主の祈り  讃美歌564
祈  祷  
讃  美  讃美歌270「信仰こそ旅路を」
聖書朗読  マタイの福音書14章22〜36節
説  教  「信仰を呼び覚ます奇跡」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌296「こころみのあらし」
聖餐式   信仰告白(使徒信条・讃美歌566)
      讃美歌207「主イエスよこころ」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書14章33節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書14章22〜36節

説教題

「信仰を呼び覚ます奇跡」

今週の聖句

舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。

マタイの福音書14章33節

説教「信仰を呼び覚ます奇跡」

マタイの福音書14章22〜36節

先週、本当ならば私は中野キリスト教会での説教奉仕が予定されていたのですが、急遽変更になり、休暇をいただき、私たち家族は軽井沢キリスト教会の礼拝に出席してまいりました。その日は講壇交換の日で、講壇交換で来られていた佐久市の野沢福音教会の小寺先生の力強い説教と、大きな悩みや苦しみの中から信仰に入られた時のお証しを聞かせていただけるという恵みに与ることができました。私も私自身の信仰を持った時のことや、礼拝に来始めた頃のことを色々と思い出しました。大きな悩みや苦しみの中で、神さまを探し求めていた私が、実は神さまに探されていたこと。助けて欲しいと願っていた私が、助けたいと願われていたこと。ひとりぼっちだと思っていた私でしたが、ひとりじゃないとずっと語りかけられていたことなど、色々と思い起こされて、信仰の原点に戻らされたと申しますか、あの時の驚きや感動を再び思い出させていただくという恵みに与りました。これは今の私に必要な、神の時だったのでしょう。また、小寺先生が「新台入替」の文字が大きく書かれたパチンコ屋さんの広告の裏に手書きでびっしりと書かれた説教原稿と、それを真っ直ぐに語られる姿を拝見し、説教者としての姿勢を正されたような気がしまして、これもまた今の私に必要な神の時だったのだと思います。

さて、前回は5千人を養うという奇跡がなされたところを見ました。実はこの奇跡、4つの福音書が共通して記録している唯一の奇跡なのです。これがいかに強烈なインパクトを与え、かつ重要な意味を持つ出来事であったかが分かります。この奇跡と、今回のイエス様が湖の上を歩かれ弟子たちに近づいてこられたという奇跡によって、ついに弟子たちは「確かにあなたは神の子です」という告白へと導かれることになります。そしてイエス様の弟子とされ、弟子として歩んで来た私たちにも、今朝、この聖書の記録を通して「まことに、あなたは神の子です」という、主の前にひれ伏し、へりくだって、そしてやがて真の信仰の告白へと導かれることが期待されているのだと思います。

14章22節    それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。

「それからすぐに」とあります。これは「直ちに、時間を少しも置かずに」という緊急性のある語です。そして「弟子たちを舟に乗り込ませて」とありますが、これも「強制的に、無理に舟に乗り込ませて」という、普通ではない語気の強いことばです。明らかに緊急を要する事情があったのです。

ヨハネの福音書6章14-15節にはこのように記されています。5千人を養い満腹させた奇跡を目の当たりにし、実際に経験した群衆は言いました。「人々はイエスがなさったしるしを見て、『まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ』といった。イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り…」(ヨハ614-15)。人々のイエス様に対する期待は、バプテスマのヨハネの死でさらに高まり、イエス様を「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ!」と声を上げて喜び、そして政治的なメシア、指導者に祭り上げようとしました。また自分たちの肉的な必要を満たしてくれるメシアを期待しました。誰一人として、父なる神の御心である苦しみの根本原因の罪からの救いを、心から期待する者はいなかったのかもしれません。もし弟子たちもこの間違った誤解を抱いてしまい、誤解を抱いたまま弟子としてこれから歩んで行ってしまう危険があるのならば、イエス様はすぐにでも弟子たちを出発させて、世の人々の熱狂に影響されないようにする必要がありました。イエス様は5千人の給食の奇跡の後、時間を少しも置かずに弟子たちを舟に乗り込ませ、ご自分よりも先に向こう岸へと向かわせ、その間に群衆を解散させられました。

14章23節    群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。

弟子たちを熱狂する群衆から遠ざける必要があった理由と同じ理由で、イエス様ご自身も熱狂する群衆から遠ざかる必要があったようです。「石がパンになるように命じてみろ。そうすれば簡単に皆あなたを信じ受け入れるだろう。神を試みてみろ。王になりたくはないか。人々に認められたくはないか」。イエス様は荒野でサタンの誘惑にあわれました。そして勝利されました。勝利されたイエス様でさえ、父なる神に祈り、心から頼って、力をいただかなくてはその誘惑に負けそうになってしまうのです。父なる神の御心を見失ってしまいそうになるのです。そうであるならば、弟子たちの危険はどれほどのものでしょう。イエス様の弟子とされ、イエス様の力あるわざに与り、そしてイエス様の力あるわざに携わり委ねられ、神のわざの伝達者とされ、弟子たちはどのような心境だったのでしょうか。

14章24節    舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。

マルコの福音書によると、弟子たちを乗せた舟は湖の真ん中あたりにあったようです(マコ647)。そしてヨハネの福音書では、その時「強風が吹いて湖が荒れ始めた」と記されています(ヨハ1618)。マタイはその強風が「向かい風」であったと記しています。向かい風とは、進んで行く方向から逆に吹いて来る風、いわゆる「逆風」です。反対の語は「順風」です。逆風はまさに試練であり試みでしょう。また聖書は神からの試練と悪魔からの試みは同じ語が用いられており、私たちの目には区別がなかなかつけられないものです。この時の逆風も、神からのものなのか、悪魔からのものなのか、はっきりとは分かりません。いずれにしても弟子たちはこの逆風と波に「悩まされ」ていました。この「悩ます」という語も、「拷問する、激しい苦痛を与える」という悪魔の試みを思わせる意味と、「検査する、点検する」という神さまの試練を思わせる意味と、両方の意味があります。愛の主であるはずのお方が、どうして愛弟子が拷問されるのを許されるのでしょうか。どうして苦痛を与えるようにして点検されるのでしょうか。

しかし愛の主であるイエス様は祈っておられたのです。イエス様がおられた山からは、何時間もの間、暗い湖の真ん中で立ち往生し、死の恐怖の中で、まさに死に物狂いで櫓を漕ぎ続けている弟子たちの様子が見てとれたということです。イエス様は逆風に悩まされる弟子たちの様子をずっとご覧になり、ずっと祈っておられました。「ひとりで祈った」と記録されているのは、実はこの箇所と、苦しみ悶え、血の汗を流され祈られたゲツセマネだけなのです。イエス様は逆風に悩まされる弟子たちのために、苦しみ悶え、断腸の思いで祈られていたのです。父なる神にとりなし祈っておられたのです。弟子たちのいのちが守られること、父なる神の御心がなるようにと祈っておられたのです。

14章25節    夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。

「夜明けが近づいたころ」、それは夜中の3時頃。主の時となり、いよいよイエス様が湖の上を歩いて弟子たちの舟に近づいて来られました。夜中の3時と言えば、まだ真っ暗です。近づいて来るイエス様の姿も、弟子たちにははっきり見えませんでした。

14章26節    イエスが湖の上を歩いておられるのを見た弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、恐ろしさのあまり叫んだ。

聖書に「幽霊」という語が出て来ることに少し驚いてしまいますが、ギリシア語では「見えて来るもの」となっています。幻覚によって見えて来る神や人の姿。あるいは心の中にその人が描き出す姿。それが「幽霊」です。気持ちの張り詰めた夕方と、疲れ切って眠れない夜を過ごした後という状況の中では、弟子たちがこの幽霊を見たというのも無理はないでしょう。弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえ、舟の中は大騒ぎになりました。中には恐ろしさのあまり叫び声を上げる者もいました。屈強な男たちなのに、いざという時、からきし意気地がないのです。そのように人間というものは、何もない時は力強いように見えても、ひとたび思いがけない異変が起こると、力を失い、ただ慌てふためいて混乱するばかり。どちらが本当の自分なのでしょうか。

弟子たちはこの時、まさにパニック状態に陥っていました。イエス様は弟子たちを愛し、心配して駆けつけられたのですが、弟子たちにとってその様子は恐怖でしかありませんでした。「幽霊だ」と慌てふためいても、冷静になって良く見れば、毎日共に生活している愛する主イエス様の姿形くらいは見分けることができたのではないでしょうか。もしかしたら、今まで弟子たちが抱いていたイエス様のイメージの方が「幽霊、幻影、自分が心の中に描き出した姿」だったのかもしれません。どんな困難や試練に遭っても、「真の主の姿」を知り、その主に信頼する者は慌てることがないのです。

14章27節    イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。

マルコの福音書によると、イエス様は湖の上を歩いてパニックに陥っている弟子たちのところへ行かれたのですが、ただそばを通り過ぎるおつもりでした。イエス様の姿を見て、信仰によって平安を取り戻すことを期待しておられたのでしょうか。弟子たちの信仰、イエス様に対する信頼度を点検されたのでしょうか。

しかしイエス様を見てなおおびえる弟子たちに、イエス様はすぐに、直ちに、時間を少しも置かずに話しかけられます。「しっかりしなさい。勇気をだしなさい。わたしだ。恐れることはない」。イエス様は恐怖に襲われ、叫び声を上げる弟子たちをあわれに思われ、「しっかりしなさい。勇気を出しなさい。わたしだ。恐れることはない」と、声を掛けて励まされました。これは弟子たちにとって、確かに聞き覚えのある主イエス様の声でした。暗闇の中から聞こえて来るイエス様の声。イエス様は、私たちが慌てたり恐れている時にも、信仰や信頼を失いかけている時でさえ、怒るのではなく、責めるのではなく、私たちをあわれんでくださり、この時と同じように声をかけて励ましてくださるお方です。ここに私たちに対するイエス様の深い愛と配慮があるのです。

また「わたしだ」というのは、弟子たちユダヤ人にとって、さらに私たち真の神を信じる信仰者にとっても特別な語です。「わたしだ。エゴー・エイミー」。これは神がご自身を指して呼ばれる名です。モーセが荒野で神に名前を尋ねました。すると神は「わたしは『わたしはある』という者である」と答えられました。イエス様は「わたしだ。エゴー・エイミー。『わたしはある』という者だ」と言われました。「わたしがあなたの神、主であり、あなたの右の手を固く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言う者だからである」(イザ4113)。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」(イザ432)。」イエス様は恐れと暗闇の中で「わたしだ。エゴー・エイミー。『わたしはある』という者だ」と言われるのです。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハ141)と言われているとおり、イエス様を信じるならばたとえ嵐の中、暗闇の中であってもすべての不安は消え去るのです。

そして弟子たちは、そのお方がイエス様だと分かると、勇気がわいてきました。

14章28節    するとペテロが答えて、「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください」と言った。

マタイはペテロを弟子たちの代表、代弁者として、あるいは典型的な弟子として登場させています。このペテロの中に、私たちは自分自身を見ることができるのではないでしょうか。イエス様の命令さえあれば、水の上でも歩けるはず。不可能を可能と信じたい、信じるのだという、ペテロと、また私たちの信仰が見てとれるのではないでしょうか。それと同時に、一刻も早くイエス様のもとに行きたいという、弟子としての愛も示されているのではないでしょうか。恐怖と暗闇の中で主を見出して、少しでも主に近づきたいと願う心。しかし実は、主の方が私たちに近づいてくださるのです。主の方が私たちのために祈ってくださっているのです。主を探し求めていた私が、実は主に探されていた。助けて欲しいと願っていた私が、助けたいと願われていた。暗闇と恐怖の中でひとりぼっちだと思っていた私だったのに、ひとりじゃないとずっと語りかけられていた。主のもとに行かせてくださいと私の方が願っていたと思っていたけれども、主に「わたしのところに来なさい」と招かれていた。

14章29節    イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。

ペテロは信仰によって大胆に水の上に一歩足を踏み出しました。不思議なことに沈まないのです。2歩、3歩と歩いてみて、ペテロはますます確信を強くしたことでしょう。

14章30節    ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。

ところが、突然ペテロは沈みかけました。激しい風を見て、心の中に一瞬恐れが生じたからです。イエス様に心と目が一心に向けられている時には、恐れは全くなかった。けれども、イエス様から目を離して、周囲の波風に、世の逆風に目を向けた時、恐れが生じてしまったのです。私たちは弱い者です。信仰によって歩んでいても、状況を見て心が揺らいで、恐れや不安を持ってしまうことがあるのです。

この出来事はペテロの心の弱さを明らかにしました。ペテロはその心によって、後にイエス様が捕らえられた時に、3度もイエス様を「知らない」と言うことになってしまいます。これほど主とともに歩み、主の愛とあわれみに与ってきたペテロであったのに。しかしそれは他人事ではありません。信仰によって主の御声、みことばに従っても、ふと疑ったり恐れたりすることで信仰が揺らいでしまい、この世へ戻ってしまうということが実際に多々あるのです。

ペテロは波の中に沈みかけるとすぐに、「主よ。助けてください」と叫びました。私たちも叫ぶのです。主を信じる私たちには、このようにいつでも主に助けを求める特権が与えられていて、それができるからです。聖書が教えているとおり、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないで」(ヘブ122)いるならば、です。

14章31節    イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」

溺れかけている者に本当に必要なのは、説教ではなく、力強い腕です。イエス様はそのことをご存知です。真に愛とあわれみに満ちておられるお方です。イエス様は溺れかけているペテロに対し、まずはすぐに手を伸ばし、直ちに、時間を少しも置かずにペテロをつかんで助けられました。

手を伸ばし。これはひょいっと軽く手を伸ばす程度のものではありません。全能なる主が、力いっぱい、全身全霊をもって差し伸ばされるのです。何度か申しておりますが、「手を伸ばす」というのは、鳥が翼を大きく広げるように、力いっぱい広げるというものです。それは放蕩息子のたとえの中にもある通り、赦しと恵みを施そうと両腕を力いっぱい広げておられる父なる神の愛とあわれみを表現する語です。

イエス様はすぐに手を伸ばし、ペテロをつかんで助け、そして言われました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。その声は厳しさに満ちた声だったのでしょうか。私は、試練、誘惑の激しさをご存知の主、そして私たちの弱さを十分に知っておられる主の、実にあわれみに満ちた声だったように思います。不信仰を厳しくとがめるのではなく、愛をもってたしなめられるのではないでしょうか。いつもは信じていると言いながら、いざという時になるとその信仰が働かない。疑ってしまう。そのような人の弱さを、惨めさを、イエス様ご自身も味わわれご存知なのでしょう。だからたびたび祈られていたのでしょう。ゲツセマネであのように祈られたではありませんか。ペテロと私たちの不信仰をたしなめられる主。愛をもって反省を促し、正しい真の信仰へと導いてくださる主。助けを求めれば、私たちの不信仰をとがめたりせず、私たちの信仰を助けてくださる主。イエス様の深い愛のご配慮があるのですから、私たちは恐れることなく主に助けを求めて良いのです。助けたいと願ってくださっている主がおられるのですから。「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(ヘブ416)。

14章32節    そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。

イエス様のあわれみのゆえに、ペテロは無事に舟に戻ることができました。そしてイエス様が舟に乗り込まれると、今までの激しい風と波は嘘のように静まりました。

14章33節    舟の中にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝した。

ここでの「礼拝」は、「敬意を払うこと、拝む」を意味しています。拝むというのは、超自然的なもの凄い力、奇跡が示されたときに、本能的な反応として行ってしまう行為です。私たちも良く知る「ありがたや、ありがたや」の反応でしょう。弟子たちはかつてイエス様の奇跡を目の当たりにした時から、「いったいこの方はどういう方なのだろうか」(827)という疑問を持ち続けてきたようです。そしてこの時、イエス様が普通の人間以上の方であることを悟って、その思いを言い表そうと適当なことばを探していたときに、このことばに思い当たったのです。ですから弟子たちは、この場面では完全にイエス様が「わたしだ。エゴー・エイミー。わたしが神である」ことを理解できていなかったのでしょう。けれども、これからもイエス様と寝食を共にし、何度となく失敗しながらもそれでも従って行き、やがてイエス様が十字架に架けられ、死んで復活し、昇天され、聖霊が注がれた後にこの出来事を振り返ったときに、ようやく本当に「まことに、あなたは神の子です」と悟ったのではないでしょうか。私たちもその時は分からなくても、後になって落ち着いて振り返った時に、聖霊に示され悟ることがあるのです。

14章34節    それから彼らは湖を渡り、ゲネサレの地に着いた。

弟子たちを宣教に遣わし、戻って来た弟子たちを休ませるために湖を渡らせ、その地で弟子たちは5千人の給食の奇跡を目の当たりにし、それだけでなく、その奇跡に携わる者とされました。歓喜する人々。イエス様はすぐに弟子たちを強制的に舟に乗せて湖を渡らせました。その湖の上で弟子たちは試練、試みに遭いました。そして弟子たちは、今日見てきたとおりのことを体験しました。そして弟子たちは困難から脱して、またもとの地へと戻って行った。これらすべて一日に起きたことです。この同じ日に、弟子たちはそこからやって来て、弟子たちはまたそこに到着したのです。

14章35節    その地の人々はイエスだと気がついて、周辺の地域にくまなく知らせた。そこで人々は病人をみなイエスのもとに連れて来て、
14章36節    せめて、衣の房にでもさわらせてやってください、とイエスに懇願した。そして、さわった人たちはみな癒やされた。

向こう岸へ渡った弟子たち。それは新しいステージ、段階へと進んだということ。そしてまたもとの地へと戻って行った。しかしそれは逆戻りしたということではなく、これもまた向こう岸へ渡ったことであり、新しいステージ、段階へと進んだということです。弟子たちの目には、以前と変わらない人々をあわれみ、癒やす主イエス様の姿が映っていました。しかし今日の箇所の経験を踏んだ弟子たちの心には、以前と違ったイエス様の姿が映って見えてきたのではないでしょうか。この地でイエス様は、人々から歓迎され、特に癒やす者として歓迎されたのですが、しかしますます以前にも増して敵意を露わにする人々もそこに存在していました。イエス様はご自分の身の危険を感じながらも、人々を助けるという使命を決してなおざりにしませんでした。イエス様はご自分が癒やした者たちに、神の国を宣べ伝えたのです。このイエス様に付き従う弟子たちの中にもきっと変化があったことでしょう。しかし完全に悟り変えられたわけではありませんでした。重要なのは、それでもイエス様とともにいることです。救い主であるイエス様の真の姿をしっかりと見続けていこうとすることです。私たちは、また私たち教会は、どんなことがあってもその信仰を失ってはいけません。「しっかりしなさい。わたした。恐れることはない」との主の御声に従って、イエス様から決して目を離さずに、この世に飲み込まれてしまうことのないように、いつも主のみわざに目が開かれ、私たち自身が励まされ、そして正しい信仰を回復し、主の本当の御心である天の御国の福音のために用いられてまいりましょう。

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