2023年10月29日 主日礼拝「給食の奇跡、再び」
礼拝式順序
賛 美 「見よ、わたしは新しいことを」
「神の国に生きる」
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇8篇3〜9節
讃 美 讃美歌10「わがたまたたえよ」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌187「主よ、いのちのことばを」
聖書朗読 マタイの福音書15章29〜39節
説 教 「給食の奇跡、再び」佐藤隆司牧師
讃 美 讃美歌224「勝利の主」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 マタイの福音書15章32節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
マタイの福音書15章29〜39節
説教題
「給食の奇跡、再び」
今週の聖句
イエスは弟子たちを呼んで言われた。「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから。」
マタイの福音書15章32節
説教「給食の奇跡、再び」
マタイの福音書15章29〜39節
先週は朝は寒く、しかし日中は汗ばむような気候が続きましたが、季節は巡り、世の中はどうやら正直に秋を迎えているようです。秋と言えば美味しい秋の味覚であったり紅葉狩りがおなじみですが、自然というものは本当に豊かで美しいものだと思わされます。この時期はその美味しい秋の味覚や美しい紅葉を求めて、多くの観光客がこの長野にも来られているようです。ホテルや宿はどこも、平日でも満員御礼状態が続いているようです。人というのは、自然の豊かさ、美しさを求めるものです。また、現代では紅葉というと非常に華やかな雰囲気ですが、昔の人々は紅葉の赤に無情(人生のはかなさ)を感じ、やがて訪れる冬の寂しさや紅葉した後に散る葉にわが身を重ねていたとも言われています。人は魂の慰めを豊かで美しい自然に求めるものなのでしょう。その求めている自然と言いますか、世界を破壊するのもまた人間です。今年は特にいつまでも夏のような暑さが続いたかと思うと急に寒くなったりと、何か変だな、いつの間にか秋なんだなと思ってしまうような秋を迎えています。また毎日ニュースでは戦争の話題が絶えません。神はこの世界を豊かで美しく、整えられて何の不足もない所として造られましたが、人間が罪(創造主無視、自己中心)によってそれを破壊してしまった。そのことを思わされます。この世の貧しさや色々な苦しみというのは、明らかに人間の罪によって生じたものです。創造主なる神はこの世と世のすべての人々をどのように見ておられるのでしょうか。詩篇の記者は歌います。「あなたの指のわざであるあなたの天、あなたが整えられた月や星を見るに、人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」(詩83-4)。神は真実なお方で、人間がどうであれ、神は永遠の昔から変わらずに人を心に留めてくださるお方、顧みてくださる、気に掛け心を配られるお方。実に愛とあわれみに満ちたお方。それが聖書が示す創造主、神の御姿です。それが人となられこの世に降られ、人の間に住まわれたのがイエス・キリストです。神の御姿であるイエス様は福音を伝えながら、貧しいすべての人、苦しむすべての人をあわれみ、ご自分に救いを求めるすべての人にみわざをなされた。そのことが今日のところで語られています。
15章29節 それから、イエスはそこを去ってガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして山に登り、そこに座っておられた。
マルコの福音書7章31節によると、イエス様は再びツロの地方を出て、シドンを通り、デカポリス地方を通り抜けてガリラヤ湖に戻って来たということです。
前回イエス様は、「隠れていることができずに」ツロとシドンの地方へ行かれました。「隠れていることはできなかった」というギリシア語には、「自分に嘘をつくことはできない、目をつぶることはできない」という意味もあることから、「ご自分の中にある思い、欲求を抑えつけて我慢していることはできなかった」、そしてそれは異邦人に対するあわれみ、宣教の欲求であったのだろうと申し上げました。そしてその地方に住む異邦人であるカナン人の女の真の信仰をご覧になり、引き出し、願いに答え、彼女の娘を癒やされました。その後、イエス様一行はツロの地方を出てシドンを通り、デカポリス地方を通り抜けてガリラヤ湖に戻って来ました。あとで聖書地図で確認していただければと思いますが、デカポリス地方というのは、ローマの支配下で独立を保っていた10の都市からなる地方です。つまりイエス様一行はユダヤ人の領域ではなく、異邦人の地域を通って、ユダヤ人の領域を避けてぐるっと回り込むようにしてガリラヤ湖に戻って来ました。そのガリラヤ湖のほとりもまたデカポリス地域にあるほとりでした。ですからこの時、恐らくその地域の多くの人々、つまり異邦人(ユダヤ人以外の人々=真の神を知らず、それゆえに信じられず、愛せない人々)がイエス様に付き従ってきたことでしょう。その様子を思い浮かべてみるに、迷える羊たちを導き、憩いのみぎわに伴われる羊飼いなるイエス様の姿が見えてくるようです。そしてイエス様はガリラヤ湖のほとりに行かれました。ガリラヤ湖のほとりは、イエス様が好んで説教の場として用いられたところです。それから山に登り、そこに座っておられました。「山に登って」は、正確には「丘に登って」ということです。丘もまた、イエス様が好んで説教の場として用いられたところでした。今日の湖のほとりも丘も、異邦人の地ではありましたが、イエス様は5章1節からのユダヤ人に説教された山上の垂訓の時と同じように、丘に登り、そこに座っておられました。さぁ、これからあなたがたに天の御国の福音を語ろうと、後ろからついてきた異邦人を改めてみもとに招き、待っておられたのでしょう。
15章30節 すると大勢の群衆が、足の不自由な人たち、目の見えない人たち、手足の曲がった人たち、口のきけない人たち、そのほか多くの人をみもとに連れて来て、イエスの足もとに置いたので、イエスは彼らを癒やされた。
「すると」。イエス様がお話しを始められるよりも先にということでしょうか。大勢の群衆が訳ありの多くの人を連れて来てイエス様の足もとに置きました。「置いた」とあります。これは「投げる、下から上へ投げる、横たえる」という意味の語です。ここからどのような光景を思い浮かべるでしょうか。恐る恐るでしょうか。癒やしてくださるだろうか。一人の人が一人の人をイエス様の足もとに投げるようにして置くと、次から次へと多くの人が多くの人をイエス様の足もとに置いて去るのです。そして離れた所から様子をうかがっている。そこには恐れと同時に一切をイエス様に委ねるという信仰が見られるのではないでしょうか。
イエス様は癒しを求める人々をあわれみ、彼らをみな癒やされました。癒やし、また助けを求めている者に本当に必要なのは、説教ではなく力強い腕です。イエス様はそのことをご存知です。それはたとえ相手が異邦人であっても同じなのです。イエス様は真にすべての人々に対して愛とあわれみに満ちておられるお方なのです。そしてここもマルコの福音書を見ると、イエス様は癒やし、また助けを求める異邦人に対し、まず一人一人に手を伸ばし癒やされたことが分かります。
15章31節 群衆は、口のきけない人たちがものを言い、手足の曲がった人たちが治り、足の不自由な人たちが歩き、目の見えない人たちが見えるようになるのを見て驚いた。そしてイスラエルの神をあがめた。
異邦人たちは驚きました。「驚く」という語は、「不思議に思う、マーベラス(奇跡的で素晴らしい)」というもの。同じ意味を持つ語としてはワンダフル(素晴らしい)、アメージング(驚くべき)、ファンタスティック(素晴らしい)などがあります。どれも日常会話の中で、何かが非常に素晴らしいと感じた時に用いられる語です。
そして、彼らは「イスラエルの神をあがめた」。ここでわざわざ「イスラエルの神」と言われていることからも、彼らが異邦人であったことは明らかでしょう。異邦人たちも、イエス様の奇跡を見て神をあがめたのです。
前回のカナン人の娘の癒しといい、今日のこの記事といい、イエス様は「イスラエルの失われた羊に遣わされた」と言われながらも、その恵みは次第に異邦人にも分け与えられていったことが明らかにされています。神は異邦人(ユダヤ人以外)をも愛しておられたのです。
また、少し難しい話しをしますと、これはイザヤの預言が反映されているところです。「そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う」(イザヤ355-6)。そのときというのは、イスラエルが求め、待ち望んでいた救い主メシアが来られる時。イザヤはその時に実現するイスラエルの祝福を預言しましたが、マタイはこの時の癒やされた異邦人、つまり「パン屑にあずかる」という飢え渇きをもって必死にイエス様に救いを求める異邦人、信仰を持つ異邦人は、救い主メシア、イエス・キリストが来られたその時、イスラエルの祝福に与る特権が与えられたということを預言の成就の事実として、それが神のみこころであったということを記しているのです。
しかし次の32節は、異邦人がイスラエルの祝福に与る特権が与えられたことに対する、ユダヤ人である弟子たちの心が垣間見えるところだと思います。
15章32節 イエスは弟子たちを呼んで言われた。「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから。」
ここからの出来事は、前の章の14章15節からの出来事とよく似ています。あの時も弟子たちの目の前には空腹の群衆がいました。その群衆はユダヤ人でした。弟子たちはその群衆を心配してイエス様に願い出ました。しかし今回はイエス様の方からの提案です。群衆はすでに3日間イエス様とともにいて、恐らく多少は持って来ていた食料もすでになくなってしまった頃。群衆が空腹であることは弟子たちも十分知っていたことでしょう。しかし相手が異邦人であるので、気がついていても言い出さなかったのでしょうか。当時のユダヤ人が異邦人に対して強い偏見を持っていたことを考えるなら、それも当然だったかもしれません。群衆が異邦人であったのであまり心配もしなかったし、イエス様に奇跡的な力を異邦人に用いていただくことも期待しなかったのかもしれません。冷たいです。けれどもイエス様は弟子たちを呼んで言われました。「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから」と。イエス様は異邦人に対しても深いあたたかな配慮を持っていたのです。「かわいそうに」と言って、異邦人の群衆に対して同情心を示しています。この「かわいそう」という語には、「内なる部分に感動すること、思いやりを感じること」という定義があります。そしてその具体的な用法として「同情する、憐れむ」という意味を持つ語です。「わたしは彼らに同情し、あわれみの気持ちで、わたしの心を動かす」、日本語で良く言われる語にするならば「不憫に思う」という感情が込められているのです。救い主であるイエス様はたとえ異邦人であろうとも不憫に思われる、彼らに同情し、憐れみ、心を動かされる主、神なのです。
15章33節 弟子たちは言った。「この人里離れたところで、こんなに大勢の人に十分食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れることができるでしょう。」
驚くべきことばが記されています。弟子たちはしばらく前に起こった5000人の給食の奇跡を目の前で目撃したのではなかったでしょうか。その奇跡の働きを担わされたのではなかったでしょうか。それなのに、このような愚かな、ピント外れの質問をしているのです。イエス様は同じように人里離れたところで5000人を食べさせ、弟子たちはそのわざを見て深く体験しているのですから、この場面でそれを思い出さないはずはありません。このような愚問を発した。相手が異邦人だからでしょうか。それはもう不信仰と言わざるを得ないでしょう。この時、ほぼ同じ状況を前にした弟子たちは、イエス様に再び奇跡を行って食べさせてくださいと、信仰によって自ら願い求めるべきではなかったでしょうか。
15章34節 すると、イエスは彼らに言われた。「パンはいくつありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」
15章35節 そこで、イエスは群衆に地面に座るように命じられた。
15章36節 そして七つのパンと魚を取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。
15章37節 人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、七つのかごがいっぱいになった。
15章38節 食べた者は、女と子どもを除いて男四千人であった。
イエス様は前回と同様に、弟子たちの手もとにあるパンと魚を出させて、それを受け取り、感謝をしてから裂き、群衆に分け与えました。そして群衆は食べ、満腹し、今回も余りが7つのかごがいっぱいになりました。前回の12のかごから7つのかごに減っています。今回の方が前回よりも恵み、力が劣ったということなのでしょうか。マタイがここで言いたいことはそんなことではありません。ギリシア語では前回の12の「かご」と、今回の7つの「かご」では別のギリシア語が用いられています。前回の12のかごというのは、ユダヤ人が旅行の時に食料を入れて持って行くもので、12のかごというのは12弟子がめいめい持っていたそのかごのことを言っています。そして今回の7つのかごというのは、より大きくて大人一人が入れるくらいのかごのことを言い、それは異邦人になじみのある物でした。このことからも、今回の奇跡が異邦人に対する奇跡であったことが分かるのです。
今回の7つのパンと少しの魚で4000人を食べさせたわざは、前回の5つのパンと2匹の魚で5000人をたべさせたわざとどのような点で比較できるでしょうか。最も際立った違いは数にあるでしょう。イエス様が用いられたパンと魚の数、食べさせた人数、残ったパンを入れたかごの数。しかし最も注意すべき違い、マタイが読者に示そうとする違いは、すでに申し上げてきたとおり、また皆さんもすでにお気づきのとおり、5つのパンと2匹の魚のわざはユダヤ人に、15章の7つのパンと少しの魚のわざは異邦人に対して行われたというところです。
もう一つ、何気なく調べて見た「地面」というギリシア語。この文脈において思い巡らす時、まことに重要な意味を持つ語であることが分かります。実はこの「地面」というギリシア語は、「土の上に」という語です。それがどうしたと思われるかもしれません。第一のパンの奇跡では、人々は「草の上に」座らせられています。マルコの福音書では「青草の上に」と記されています。イスラエルにも四季があります。あの出来事は早春の頃であったのです。しかし今回は「土の上に」座らされている。真夏の日に草は枯れてしまい、夏の終わり、秋の始まりには土が露わになってしまっていた。つまり、ここに季節が巡っているのです。前回の奇跡から今回の奇跡の間には、約6ヶ月もの期間があったということです。イエス様はその6ヶ月もの間、フェニキア地方を旅をして、弟子たちを訓練されたのです。ガリラヤと隣接する境界の地域で、ユダヤ人が汚れていると考えていた異邦人の地でどのような訓練がされていたのでしょうか。
弟子というのは、師匠と寝食を共にし、机上の学びだけではなく、四六時中師匠の姿や生き様を通して何かを学び取ろうとするものです。イエス様はこの異邦人の地で、異邦人に対してあわれみを示され続けていたのではないでしょうか。そのイエス様の背中を見ながら付き従って来た弟子たちは、イエス様の背中から多くのものを学んで来たはずです。それなのに弟子たちはいまだ悟りきっていなかった。信仰的理解力、霊的理解力にいまだ乏しい弟子たち。
しかしそのような弟子たちに対して、イエス様は忍耐と寛容をもって訓練されるのです。ここにきて出来の悪い弟子たちを見ても、少しも彼らの不信仰を責めていません。忍耐と寛容によって弟子たちの信仰的、霊的無理解を赦され、「どれくらいパンがありますか」と、静かに問いかけておられるのです。もし私が師匠の立場であったなら、こんな場合、すぐに頭にきてイラついて「どうして分からないのか、どうしてこんなことも出来ないのか」と弟子たちを怒鳴りつけたりしてしまうのかもしれません。皆さんご存知の通り、以前私はデザインの仕事をしておりまして、「先生」と呼ぶ方が何人かおられ、実際にその方たちに色々と教えていました。弟子ではないですが、まぁ弟子のような方を持ってみると、弟子を育てることがどんなに難しいことであるかが身に染みて分かるようになります。弟子が家族とか親しい間柄であればあるほど、態度は厳しくなります。
しかし主は忍耐と寛容をもって静かに弟子たちに問いかけられるのです。主の弟子とされている私たちにも、主は日々、出来の悪い私たちに対して静かに問いかけてくださっているのではないでしょうか。静かに問いかけられる主の愛によって、私たちの心は砕かれるのでしょう。そして身に染みて知っていくのでしょう。それが主の訓練というものです。同じような試み、試練が繰り返される。同じような自分の力では解決できない困難や苦しみが繰り返される。なぜ、どうして。自分の力では解決できない困難や苦しみ、そこに主は御力を示されます。困難や苦しみに直面することはとても辛く、そして苦しいことですが、主はその上に素晴らしい、驚くべき、マーベラス、アメージング、ファンタスティックなみわざをなして、ご自身の栄光を何度も繰り返し現され、ご自身をますます信じることができるようにと導かれるのです。私たちの不信仰に忍耐し、私たちの信仰が成長するように助けてくださる。何度か、何度も同じわざをもう一度行って、あわれみ、愛をもって助けてくださる。私たちのような不出来な弟子を、忍耐と寛容をもって見捨てずに導いてくださる主イエス様に、私たちは感謝せざるを得なくなるのではないでしょうか。
もう一つ教えられることは、すでに申しましたように、異邦人(神を知らない、ゆえに神を信じられない、神を愛せない)に対するイエス様の深い愛とご配慮です。「彼らを空腹のままで帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから」。肉体ばかりでなく、霊(魂)をも深く愛される愛の表れです。「途中で動けなくなるといけないから」。この動けなくなるという語には、「疲れ切る、弱る、気が遠くなる、うんざりする、嫌気が差す」という意味があります。
神は荒野でマナを降らせ、大勢の民を養われました。そしてイエス様は荒野で悪魔の試みにあわれた時に言われました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(マタ44)。肉体を生かすために十分なパンはどうしても必要です。パンが不足してしまうと、それこそ体は疲れ、弱り、気が遠くなり、うんざりし、嫌気が差してしまうでしょう。そして霊(魂)を生かすためには十分な神のみことば、福音がどうしても必要なのです。神のみことば、福音が不足してしまうと、それこそ霊(魂)は疲れ、弱り、気が遠くなり、うんざりし、嫌気が差してしまう。そうであってはならないとイエス様は言われます。イエス様はユダヤ人を優先的に扱いはしましたが、決して異邦人を排他的に拒絶はしませんでした。神の愛、主のあわれみは彼らにも十分注がれているのであって、それは今も変わりはないのです。
異邦人も救いの恵みから決して除外されていないことを、今日のこの奇跡は示していると言えるでしょう。そして私たちは、まさにこの神の、イエス様の御心によって今があるのです。そしてこれからがあるのです。イエス様が空腹の異邦人の群衆をあわれまれ、それを解決してくださったように、主の恵みによって福音が届けられ、信仰が与えられ、永遠のいのちを得た私たちには、イエス様に従い、霊的な飢え渇きの中で滅びへと向かっている人々に、彼らを生かす神のパン、みことば、福音をこの手で届け、救いへと導く責任があります。
イエス様はこの15章から最後の28章に記される全世界に向けた大宣教命令に向かって進んで行かれます。弟子たちとともに、また読者である、弟子とされている私たちを伴って。
15章39節 それから、イエスは群衆を解散させて舟に乗り、マガダン地方に行かれた。
イエス様はこの後、群衆を解散させ普段の生活へと送り出されました。恐らく彼らはずっとイエス様のもとにとどまっていたいと思ったことでしょう。しかし、イエス様はご自身のみわざを、そこにいなかった人々に証しすることを望まれたのです。主の愛とあわれみを経験した者たち、主のみわざ、恵みに与った者たちには、まことのいのちの糧であるみことば、福音を世の神を知らない人々に伝える使命が与えられています。自分が体験した救いの恵みを多くの人に伝え、それを聞く彼らの霊(魂)がまことの喜びを得られるようにしなければなりません。そして証しをしていく中で、証しをする自分自身がますます整えられ、その人はますます主の弟子とされていくのです。主にまったき献身をしていくのです。普段の生活へと送り出された群衆の中から、改めて主に献身した人もいたのではないでしょうか。
そしてイエス様は舟に乗り、弟子たちとともにガリラヤ湖を渡ってマガダン地方へと行かれました。また「向こう岸へ」と渡っていったのです。新しい段階へ。マガダンがどこであるかは不明です。しかしイエス様は弟子を伴い、導き、先を進んで行くのです。
イエス様とともに進んで行った弟子たちは、これからイエス様がパリサイ人たちによってさらに攻撃され、苦難を受けられるのを見ることになります。弟子たちの信仰が試される時が来ようとしています。けれどもイエス様の働きはなおも続き、その視線は真っ直ぐ、すべての人々の救いを成し遂げられる十字架へと向けられている。その背中から色々なことを学ぶ弟子たち。彼らはやがて、十字架と復活のイエス様の証人として、福音を全世界へと宣べ伝えて行く者とされていきます。何度も信仰が試され、信仰のチャレンジを受けながら。何度も失敗し、それでも主の忍耐と寛容、あわれみによって導かれ、新しい段階へと進ませられながら。それは弟子たちの信仰の訓練であり、成長となりました。主は異邦人の地に住む私たちを普段の生活へと送り出し、そこで私たちに何を望まれているのでしょう。