2023年11月5日 主日礼拝「不信仰のパン種にご用心」

礼拝式順序

賛  美  新聖歌182「ただ信ぜよ」
      新聖歌349「移りゆく時の間も」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇100篇1〜5節
讃  美  讃美歌543「主イエスのめぐみよ」
罪の告白・赦しの宣言
主の祈り  讃美歌564
祈  祷  
讃  美  讃美歌162「あまつみつかいよ」
聖書朗読  マタイの福音書15章1〜12節
説  教  「不信仰のパン種にご用心」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌168「イエス君の御名に」
聖餐式   信仰告白(使徒信条・讃美歌566)
      讃美歌205「わが主よ、今ここにて」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書16章11節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書16章1〜12節

説教題

「不信仰のパン種にご用心」

今週の聖句

「わがしが言ったのはパンのことではないと、どうして分からないのですか。パリサイ人たちとサドカイ人たちのパン種に用心しなさい。」

マタイの福音書16章11節

説教「不信仰のパン種にご用心」

マタイの福音書16章1〜12節

先週は冒頭に秋の行楽シーズンについて少しお話ししたと思うのですが、それに関連して、私はつくづく罪人だなぁと考えさせられることがありました。私は駅前の某ビジネスホテルで朝食スタッフとして働かせていただいているのですが、今はとにかく観光客が多いです。そして外国人旅行者も多い。そのホテルでは朝食無料サービスを行っており、最上階の1フロアをぶち抜いた朝食会場でバイキング形式となっています。普段はビジネスマンの利用が多く、みなさん行儀良く控えめに召し上がるのですが、観光客の方々はまるで食欲が違います。まるで食べなければ損とばかりに、もの凄い勢いで召し上がる方が多いです。作っても作っても間に合わず、あれがない、これがないともの凄く怖い顔でクレームを入れてきます。少しお待ちいただければちゃんと出しますからと思ってしまいます。そうこうしていると洗い物に手が回らなくなり、食器やトレーが廊下にまではみ出して山積みになってしまいます。皆さん食器をたくさん使わなければ損だと思われるのでしょうか。何枚も何枚も使われて、しかももの凄く汚すのです。これがまた洗うのに余計に手間がかかってしまう。そうするとお客様に対して色々と悪い感情が出てきてしまうのですが、先日、息子が修学旅行でいないので、残った家族で簡単にファミレスで夕食を済ませてしまおうと行った時のことです。私もまぁ良く食べるのです。食べ終わったお皿を見るとまぁ汚れていました。しかし自分が汚す側になると、汚れるのは仕方がないと思ってしまうのです。料理を取り分ける小皿も何枚も使って、その小皿もオリーブオイルダラダラと、味変の調味料ドバドバと、汚すのです。つまり何を言いたいかと申しますと、私が腹を立てていた相手とまるで同じ姿が、私の内にも普通に存在しているということに改めて気づかされたことです。他人を非難してばかりいられないし、自己中心に考えてはいけないなと思わされた出来事でした。

さて、本朝与えられましたみことば、マタイの福音書は16章に入って行き、1節から12節です。

16章1節      パリサイ人たちやサドカイ人たちが、イエスを試そうと近づいて来て、天からのしるしを見せてほしいと求めた。

イエス様はガリラヤ湖の東岸(そこは異邦人の地)から再び弟子たちを連れて向こう岸(西岸・ユダヤ人の地)へと帰って行きました。するとパリサイ人たちとサドカイ人たちが待ち構えていたようにイエス様のもとにやって来ました。彼らはイエス様に「天からのしるしを見せてほしい」と求めました。その理由はイエス様を「試す」ためでした。この「試す」と訳された語には「罠にかける」という否定的な意味があり、ここではその意味で使われています。そして「求める」と言う語は「尋問する、答えを要求する」という意味のギリシア語が使われています。彼らはイエス様に尋問し、罠をかけ、何と答えるかその答えを要求しました。

また「天からのしるし」。これは「奇跡」という意味での「しるし」とは別のギリシア語で、イエス様がメシアであることの証拠、それも「神が与えられた確かな証拠」を示せと迫っているのです。彼らは具体的にどのような「神が与えられた確かな証拠」を示されたら、イエス様がメシアであることを認めるのでしょうか。彼らはイエス様が行ったメシアとしての証拠を示す数々の天からのしるしを見たはずです。彼らが大切にし信じている旧約聖書のメシア預言にある「目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、貧しい者たちが福音を聞いている」。立派な信仰者でみことばを信じ、みことばを教えているはずの彼らが、神のみことばに信頼せず、しかも少し前には、イエス様が行ったメシアとしての証拠を示す数々の奇跡を、悪霊どものかしらベルゼブルの力によるものだと言って否定したのです。その彼らが「天からのしるしを見せてほしい」と、イエス様に付き従って来た弟子たちの前でイエス様に尋問し、その答えを迫りました。その答えがどのようなものであっても、少しでも言い損ないがあればそこにつけ込んで、なじったり皮肉を言ったり、失言をとがめたり、そのようにしてイエス様を告発し、さらに弟子たちや群衆のイエス様に対する信用を傷つけようという悪い企みがあったのです。

パリサイ人とサドカイ人は、それぞれの神学が異なっていました。パリサイ人は「メシアが来られてローマを打ち破り、世を正してくださる」と信じました。それに対しサドカイ人は「ローマが治める今の世はさほど悪くはない」と考えていました。パリサイ人は「やがて新しい時代が来るならば、神は義人たちに復活を与えてくださる」と信じました。また「復活と御使いと霊」を認めていました。それに対しサドカイ人は、それらすべてを否定していました。彼らはそれぞれの神学の違いのために激しく争っていたのです。その彼らが、イエス様を取り除く罠を仕掛けるために、自分たちの神学さえも捨てて一つになったのは何故でしょうか。

彼らには共通点もありました。彼らは良い家柄の出身で、伝統的に認められた教育の課程を経ていたので、世の人々の間で権威ある者として尊敬されていました。しかしイエス様は平凡な大工の子ながらも神のみことばを教え、多くの奇跡を行われました。多くの人々がイエス様に従い、その話に耳を傾けました。イエス様は自分たちを責めて「過ちがある」と言い、自分たちに対する人々の尊敬を奪っていきました。結果、多くの人々が自分たちを離れ、イエス様に付き従っていく。イエス様の評判はますます高まっていく。彼らはそれを見てプライドが傷つけられ、イエス様を妬んだのです。そこで正反対の彼らが自分たちの大切な神学をいったん脇に置いて、一致して、イエス様を取り除く罠を仕掛ける。自分たちにとって都合の悪いイエス様、自分たちの立場を危うくするイエス様を世から抹殺するために、自分たちの世界から抹殺するために、イエス様が偽物であることの証拠を得ようと色々と試し、この時はイエス様に尋問し答えを迫りました。イエス様を信じ従ってきた弟子たちの前で罠を仕掛けたのです。

人間は自分が大好き、自分が一番大事。自分が立派で正しく、誰よりも優れている、偉いと思う。そのような自分の立場を危うくするもの、自分の世界で自由に生きることをできなくする存在を尋問して言葉尻を捉えたりして、何とかその存在を否定して取り除こうとする。神のみことばであっても「ちょっとそれは違うのではないか」と。その姿は誰の内にもあるのではないでしょうか。

イエス様は予想どおり、彼らの要求には応えられませんでした。その代わり、彼らが「天からのしるし」と言ったことを巧みに利用し、「天のしるし」空模様の見分け方を例にとって逆に問いただされます。

16章2節      イエスは彼らに答えられた。「夕方になると、あなたがたは『夕焼けだから晴れる』と言い、
16章3節      朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は荒れ模様だ』と言います。空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。

日本でも「朝焼けは雨、夕焼けは晴れ」ということわざがありますが、そのままユダヤにも通じるものがあるようです。実際はもっと複雑で、晴れる日の朝焼けもあり、雨になる夕焼けもあるそうです。ポイントは色合いの変化だそうです。彼らはそれらも上手に見分けることが出来たのでしょう。またルカの福音書では他にも言われています。「あなたがたは、西に雲が出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言います。そしてそのとおりになります。また南風が吹くと、『暑くなるぞ』と言います。そしてそのとおりになります」。イエス様は続けてこう言われました。「偽善者たちよ。あなたがたは地と空の様子を見分けることを知っていながら、どうして今の時代を見分けようとしないのですか」(ルカ1254-56)。彼らは空模様については良く見分けるのに、それと同じくらい見分けやすい「今の時代(メシアの時代)のしるし」を見分けることはできませんでした。しようとしませんでした。それは彼らが「悪い、姦淫の時代」だったからです。

16章4節      悪い、姦淫の時代はしるしを求めます。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」こうしてイエスは彼らを残して去って行かれた。

4節の「求める」は、1節の「求める(尋問する、答えを要求する)」とは微妙に異なるギリシア語が使われており、その意味は「望む、探す」です。

イエス様は先の12章でも同じことを言われています。「悪い、患難の時代はしるしを求めます(望む、探す)が、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です」(マタ1239)。イエス様は律法学者、パリサイ人、サドカイ人たち、つまりイエス様に反対し排除しようとする者たちを「あなたがたは『悪い、姦淫の時代』だ」と言われました。その意味は「あなたがたは背信・不真実に満ちている」、「あなたがたは信仰者を装いながら、神に対する背き、神の愛と信頼に対する裏切りに満ちている」と、そういう意味です。それは「悪い」と言われている通り、神のさばきを免れない罪です。「人はどんな罪でも赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません」(マタ1231-32)。御霊、神の霊、神の心、父なる神の親心、愛を冒瀆する罪は決して赦されないのです。イエス様は彼らの内のその罪を指摘されました。

神の愛に背き、信頼しない。不信仰。彼らは不信仰の故に、しるしを信仰の必要前提として要求するのです。こうすれば信じよう、こうなれば信じよう。神の愛を信じられずに、自分から信じようとせずに、「何か信じられるような状態にしてくれ、そうすれば信じよう」。自分から進んで信じることをしないで、神の方から信じさせてもらう。何もしないで自動的に上に上げてもらうような信仰のあり方。恵みに対して全くの受け身。それは本当に信仰なのでしょうか。信頼なのでしょうか。姦淫、貪り、不信仰なのではないでしょうか。主にしるし(癒やしや助け、救いなど)を求めることは良いことでしょう。主はご自身に求めることを望まれるお方です。そして求めに応えてくださる恵み深いお方です。しかししるしを求めることの中に、気をつけなければ実は姦淫、貪り、不信仰が潜んでいる場合もあるのです。そして天からのしるしを求める者たちをご覧になった時のイエス様の感情が記されているところがあります。マルコの福音書8章11-12節です。「イエスは、心の中で深くため息をついて」。そしてこう言われました。「この時代はなぜ、しるしを求めるのか」(マコ811-12)。

「悪い、姦淫の時代はしるしを求めます(望む、探す)。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません」。イエス様は12章に続いてここでも同じことを言われました。一貫して言われるのです。悪い、姦淫の時代に、あなたがたに与えられるしるしは、ヨナのしるしによって予め表されたイエス様の十字架の死と復活のしるし、それ以外のしるしはない。神があなたがたを真実に愛される証拠に、またあなたがたを救うのにそれ以上のしるしはない。ただそれだけ。それだけを求めて、望んで、探して、そして信じなさいと。

そう言われてから、イエス様は彼らを残して去って行かれました。「去って行く」というギリシア語は、立ち去るという意味の他に「出発する、追い求める」という意味をも持つ語です。イエス様はそこから前へ進んで行かれました。十字架の死と復活を目指して、自ら十字架の死と復活を追い求めて行かれました。パリサイ人たち、サドカイ人たちをも含む全人類の救いのために。その原動力とは何なのでしょうか。人間に対する愛、あわれみ、熱心、情熱でしょう。前を進んで行かれるイエス様の背中に、彼らは何を感じ考え、私たちは何を感じ考えるでしょうか。

イエス様は弟子たちを連れて、ガリラヤ湖の西岸(ユダヤ人の地)から再び東岸(異邦人の地)へと渡ります。そこで弟子たちにある注意を与えられます。

16章5節      さて、向こう岸に渡ったとき、弟子たちはパンを持って来るのを忘れてしまっていた。
16章6節      イエスは彼らに言われた。「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい。」
16章7節      すると彼らは「私たちがパンを持って来なかったからだ」と言って、自分たちの間で議論を始めた。

その後すぐにイエス様は向こう岸へ渡るために進んで行きました。そこを去って十字架を追い求めて行くイエス様の背中に何かを感じたのでしょうか。弟子たちも慌ててついて行ったのでしょう。そのために旅行の際にはパンを入れて持ち運ぶ例の「12のかご」、12弟子それぞれのかごの中にはパンがからっぽで、皆が「しまった!」と言ったのか思っていたのか、その弟子たちにイエス様はここぞとばかりに弟子たちにあることを教えるために言われました。「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい」と。すると弟子たちは議論を始めました。「私たちがパンを持って来なかったからだ」。この議論はイエス様が期待していた議論ではありませんでした。弟子たちはイエス様のことばをよく理解できずに、的外れな議論を展開しました。

16章8節      イエスはそれに気がついて言われた。「信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。

そんな弟子たちをイエス様は「信仰の薄い人たち」だと言われます。「あぁ、信仰の薄いひとたち」。イエス様の深いため息、寂しさが感じられるところです。

前回、このことばはペテロに向かって発せられました。その時はいざとなると信仰が働かないということを言われました。今日のところでマルコの福音書ではこのように言われています。「まだ分からないのですが、悟らないのですか。心を頑なにしているのですか」(マコ817)。ここでは弟子たちの理解力が欠けていることに対して、また心が堅く閉ざされていることに対して言われています。「あぁ、信仰の薄い人たちよ」。それでイエス様は、彼らの不信仰を悟らせるために「まだ分からないのですか」と言われます。「言う」という語には叱るというニュアンスはなく、勧めるという意味の語です。弟子たちのさらなる成長へと進ませるために言われるのです。

16章9節      まだ分からないのですか。五つのパンを五千人に分けて何かご集めたか、覚えていないのですか。
16章10節    七つのパンを四千人に分けて何かご集めたか、覚えていないのですか。

弟子たちはどうして「パンがないからだ」などと論じ合ったのでしょうか。イエス様が数千人を食べさせられたわざを繰り返し見ても、イエス様に神の力があることを信じようとしなかったからでしょう。信じ切れていなかったからでしょう。もし信じていたのなら、ほぼ同じような状況を前にして「パンがないからだ」などと論じ合わなかったことでしょう。もし信じていたら、イエス様が「彼らのパン種に、くれぐれも用心しなさい」と言われたことがパンのことではないことが分かったはずでしょう。しかしイエス様は寛容と忍耐をもって不出来な弟子たち、霊的・信仰的理解力にいまだ乏しい弟子たちを教えられます。彼らの不信仰、悟りのなさ、心の頑なさを赦し、彼らの内の不信仰を悟らせるために、大勢の群衆を食べさせたわざを思い起こさせます。成長を促されます。そしてイエス様はもう一度、「パリサイ人たちとサドカイ人たちのパン種に用心しなさい」と警告されます。

16章11節    わたしが言ったのはパンのことではないと、どうして分からない(気づかない)のですか。パリサイ人たちとサドカイ人たちのパン種に用心しなさい。」
16章12節    そのとき彼らは、用心するようにとイエスが言われたのはパン種ではなく、パリサイ人たちやサドカイ人たちの教えであることを悟った。

イエス様のみことばに導かれ、「そのとき」になって弟子たちはその意味を悟りました。私たちは分からない時にこそ、今も生きて語られる主のみことばに注意深く耳を傾けるべきです。分からないところ、ひっかかりを感じるところでこそ主は語られるのです。

マタイはここで、イエス様が言われた「パン種」が、具体的に「パリサイ人たちやサドカイ人たちの教え」を指すことを明らかにしています。そして「教え」という語ですが、原文では「単数」で言われています。つまり1つの教えであるということです。神学がまるで正反対のパリサイ人たちとサドカイ人たちを一括りにして、「彼らの一つの教え」と言うのです。

改めて彼らの共通点、また正反対の彼らが教えていた共通の教えとは何でしょうか。彼らの共通点は、彼らが「悪い、姦淫の時代」であること。彼らの心が神に対する背信と不真実で満ちていること。その心によって、彼らは一致してイエス様を信じないと心に決めていたのです。彼らは一致してイエス様に反対し、イエス様を陥れよう、罠にかけようと心に決めていたのです。イエス様をメシアと認めず、それ故にしるしを要求する頑固な態度。彼らはそれを群衆に言い広めていました。吹き込んでいました。教えていました。その教えによって群衆を、また弟子たちをも混乱させ、信仰を失わせようとしていました。「メシアであるなら、天からの(神からの)しるし、証拠を見せてみろ。見たなら私たちは信じようではないか」。そのような教え、パン種が心の内にあり、次第に心の内でパン種のように大きく膨らんでいく。するとイエス様とイエス様の力、またイエス様の教えに対する信頼が弱まってしまうのです。イエス様はそのことを用心するように、よくよく注意を払うようにと勧められるのです。

パリサイ人たちとサドカイ人たちは、いつもの対立を越えて一致し、イエス様に天からのしるしを求めました。表面的にはイエス様をより確かに理解するために尋ねたようにも見えますが、すでに見て来た通り、それは偽善でした。信仰者を演じるようなものでした。その心はイエス様に対する殺意が満ちていたのです。

また、イエス様はすでに十分なしるしを与えておられ、それを認めればイエス様がメシアであると信じることは特に難しくはありませんでした。彼らがイエス様を信じられないのは、彼らの心に問題があったからです。「悪い、姦淫の」心、背信・不真実に満ちた心、神に対する背き、神の愛と信頼に対する裏切りに満ちた心。その心が、イエス様をメシアと信じられないようにしていたのです。

実はイエス様に対するそのような心、不信仰は、弟子たちの内にも見られました。イエス様の数々のわざを繰り返し見ても、イエス様を疑うパリサイ人たちやサドカイ人たちのように、弟子たちもイエス様にその力があることを信じられず、疑い、同じような状況になって同じように心配したのです。もしかしたらあの彼らの尋問に同調して、イエス様が何と答えるか彼らと一緒に耳を傾けていたのかもしれません。弟子たちの心の中に、パリサイ人たちとサドカイ人たちのパン種(教え)があることをイエス様はご存知なのです。

イエス様を否定するパリサイ人たちとサドカイ人たちだけでなく、イエス様の教えを受け入れていても、イエス様の力を信頼しなかった弟子たちの心にも、同じ不信仰のパン種がある。偽善のパン種がある。ですから私たちも、「パリサイ人たちとサドカイ人たちのパン種に用心しなさい」というイエス様の勧めを、心して聞くべきでしょう。弟子たちのように無知と無理解によってイエス様に深いため息交じりに「あぁ、信仰の薄い人たち」と、私たちを愛し、私たちを救うためにご自身のいのちさえ捨てられ、私たちに永遠のいのちを与えてくださったイエス様を悲しませないように、私たちの心の内にある偽善者の教え、不信仰のパン種にはよくよく注意しなければなりません。改めて私たちは、私たちの信仰の中に潜む不信仰のパン種、悪い教えがないかどうか、よくよく顧みたいと思います。そして一点の疑いもなく主を見上げ、心から信頼し、喜びに満ちた信仰生活を送ってまいりましょう。

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