2024年1月21日 主日礼拝「大きな恵みを受けた者として」

礼拝式順序

賛  美  
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇32篇8〜11節
讃  美  讃美歌4「よろずのくにびと」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌82「ひろしともひろし」
聖書朗読  マタイの福音書18章21〜35節
説  教  「大きな恵みを受けた者として」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌93「みかみのめぐみを」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書18章33節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書18章21〜35節

説教題

「大きな恵みを受けた者として」

今週の聖句

私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。

マタイの福音書18章33節

説教「大きな恵みを受けた者として」

マタイの福音書18章21〜35節

先日、あるデボーションガイドの中で「自分の親に対する態度がそのまま、神に対する態度である」という言葉を目にして、色々考えさせられました。先ほどの罪の告白(出エジプト記に記される律法をもとにしたもの)の中にもありましたが、「親を軽んじる」こと。「軽んじる」は先週の説教の中でも触れましたが、特に無視することによって相手を軽んじる、馬鹿にする、侮辱するというものです。私たちは時に親を軽んじてしまうことがあるのではないでしょうか。親、また親の権威、愛。そういったものに対する私たちの態度を見ると、そのまま神、また神の権威、愛に対する態度が見えるのだと言うのです。イエス様は言われました。「人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊に対する冒瀆は赦されません」(マタ1231)と。御霊とは神ご自身であり、神の霊、神の魂、心、それは感情の座であり、つまり愛でしょう。神の愛を軽んじることは、本当に大きな罪なのです。

また、自分の子に対する態度を見ても、神に対する態度が分かるというのも真理なのではないかと思うのです。自分が親になってみて初めて親の気持ちや苦労が分かると言いますが、本当にそうだと思います。親には精神的にも、肉体的にも、金銭的にも大変な苦労をさせたと思います。よくやってくれたと思います。疲れてくたくたなのに洗濯や掃除やご飯の支度をしなければならない。寝ていたくても早く起きなくてはならない。自分が親にそうしてもらったのだから、自分の子にもそうしてやらなければと思われないでしょうか。先日は娘の大学の授業料を納めるのに、大変な苦労しました。どのご家庭も同じでしょう。大学の授業料にもなると、決してポンっと簡単に出せる金額ではありません。あぁ、私の親もこんな思いをして学校を出してくれたのだなぁと思うと、自分の子にもそうしないわけにはいかないなと思います。

家族の間のことだけではありません。私たちは皆、他人に何かしら迷惑や苦労をかけてしまいます。仕事で失敗してしまったり、失礼なことを言ってしまったり。大きな道で車を運転していて、妙に渋滞していると思うと、前の方で右折しようとしている車がいる。すると車の中で一人怒鳴り散らしてしまう私…。しかしその私もまた右折しようとして渋滞を引き起こしてしまうのです。誰か車の中で怒鳴っているかなと思いつつ。

そのように、人というのは毎日、誰かに赦されながら、そして何よりも、神に赦されながら生きているのだ、生きて来たし、生きて行くのだとつくづく思わされます。

さて、今朝の箇所は、18章1節からイエス様が「天の御国の民の互いに対する態度」の教えを分かり易く説いて聞かせてこられた最後の締めくくりの部分です。これまで教えられたことは、

  • 天の御国の民は、自分を他の人より偉いと思うのではなく、子どものように自分を低くする(182-4
  • 天の御国の民は、相手のことをイエス様のように尊ぶべきであり、つまずかせてはならない(185-9
  • 天の御国の民は、だれも軽んじてはならず(1810-14)、もし共同体の中で誰かが罪を犯したなら、悔い改めて回復できるように、その人を慎重に導くべきである(1815-20

そして今朝は4つ目として

  • 天の御国の民は、悔い改めて赦しを求める兄弟を何度でも赦すべきである(1821-22)、なぜなら、神に赦されているから(1822-35

このことが教えられます。

イエス様の話しが、罪を犯した兄弟に対する忠告と、教会の取り扱い方に及んだので、ペテロはここで口をはさみ、自分に対して罪を犯した兄弟を、何度まで赦すべきかと質問しました。

18章21節    そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」

イエス様は少し前に、弟子たちにこのように言われていました。「あなたがたは、自分自身に気をつけなさい。兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい。」すると弟子たちは主に言いました。「私たちの信仰を増し加えてください」(ルカ173-5)。そのやりとりが記憶にあったのでしょう。ペテロは「7回まででしょうか」と質問しました。兄弟の罪を7回赦せば十分なのですよね、と。しかしイエス様はこう答えられます。

18章22節    イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。

ペテロは「いやいや、話しが違いますよ」と言いたかったのかもしれません。しかしイエス様は「ペテロよ。あなたは赦す回数にこだわっているが、そうではなく、あなたは真実に赦しなさい」と、そう言われるのです。

ユダヤ人にとって7という数字は完全を意味する数字です。そのまた70倍というのは単なる490回というものではなく、無限を意味するものです。神の赦しは7回でしょうか。490回でしょうか。神は毎日、私たちをイエス・キリストにあって恵みによって赦してくださっています。それこそ無限にでしょう。神の無限の赦し、無限の愛を受けているあなたは、その恵みを受けた者として、神のみこころに従い、限りない愛と赦しを与えなければならない、いや、「あなたは与えるでしょう、与えるのではないですか」と教えておられます。

真の兄弟愛とは、相手を無限に赦すことです。無限の赦しこそ真の赦しです。何回かは赦そうというものは、真の兄弟愛、真の赦しではないからです。もしかしたら、ペテロが7回と言ったことの根底には、一定以上は赦せないという思いがあったのかもしれません。しかしイエス様は、「あなたはあなたの兄弟の悔い改めを心から喜び、いくらでも赦せる心を持つように。それこそ、天の御国の民としてふさわしい」と教えておられるのです。

もし仮にイエス様が490回まで赦しなさいと言われたのだとしても、490回まで赦した回数を数える人はいるでしょうか。しかも赦した回数を数えるということは、その人に対する怒りをずっと握りしめて手放さないことで、結局は「赦さない」と決めているようなものではないでしょうか。490回数えるなど、数える人自身が不幸です。怒りにずっと捕らわれてしまっているのですから。その人は生き生きと生きられません。相手と生き生きとした交わりを持てません。そこは天の御国ではありません。

続く23節からのたとえは、イエス様がペテロに答えられたことの説明です。弟子たちはこのたとえから、天の御国の特徴について良く考え、そして悔い改める兄弟を何回でも赦すべきことを受け入れ、実践するようにと教えられます。悔い改める兄弟を何回でも赦すべきことを受け入れ、実践するようにというのはつまり、あなたがた自身が受けた父なる神の赦し、恵み、愛をもう一度深く覚えなさい、それをそのまま父なる神にお返しするように、兄弟へと注いで行くのだということでしょう。

すでにお分かりのことと思いますが、これからのたとえに出て来る「王」とは父なる神を表し、「家来たち」は私たち人間を表しています。

18章23節    ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。
18章24節    清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。

「清算」とありますが、神による清算の時があり、神の清算がなければ、私たち人間は自分の負債の大きさ、罪の大きさに気づくことさえないのかもしれません。

聖書の欄外注の説明にもありますが、1タラントは6,000デナリに相当します。そして当時のユダヤ人社会では、労働者の賃金は1日1デナリでした。つまり、1万タラントというのは、約16〜17万年分の賃金ということになります。これではとても返済できるはずはありません。どうしたらこれほどの負債を抱えることができるのだろうかとも思ってしまいますが、要するにこれは、人間が父なる神に対し、これほどまでに償うことのできない罪を犯していることを示しているのです。しかも私たち人間にはその自覚さえないのかもしれません。神に清算されて初めて気づくのです。

18章25節    彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。

古代ギリシア・ローマのならわしでは、大きな負債を抱え、それが返済できないならば、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じられていたそうです。弱い者に対する愛もあわれみも微塵も感じられない世です。今の世も同じなのかもしれません。

18章26節    それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。

家来はひれ伏しました。「ひれ伏す」というギリシア語は、落ちる、倒れる、転がる、うつ伏せになるという意味の語です。この場面はまるで時代劇を見ているようです。家来は両手を後ろ手に縛られ、殿の家臣によって強引に引っ張って行かれそうになり、何とか殿の前にもう一度進み出て懇願しようと、家臣の手を振りほどき、地面に転がり倒れ、そのまま殿を見上げて懇願するのです。

ここには「懇願した」とは記されていませんが、32節を見ると主君に懇願したことが分かります。懇願するというのは、事情を述べずにひたすら頼むこと、拝み倒すことです。そして「懇願する」を名詞にすると「乞食」になります。憐れみにたよるほかない者のことです。それはそうでしょう。16〜17万年分の賃金ほどの負債があるのですから、返せる訳がありません。どうしてそれほどの負債が積み重なってしまったのか、具体的な説明などできません。ですから家来はひれ伏して、主君を拝して、主君のあわれみにたより拝み倒したのです。

18章27節    家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。

主君は内なる部分に感動を覚えました。それは深い同情であり、深い思いやりであり、深いあわれみでした。そして一方的なあわれみによって、なんと家来の負債は免除されたのです。主君の一方的なあわれみによって赦されるほかないほどの負債は、まさに一方的なあわれみによって赦されたのでした。

「免除する」というギリシア語は、許す、手放す、解放するという意味の他に、苦しむ、被害を被る、苦しいことやつらいこと、嫌なことをじっと我慢する、辛抱するという意味があります。主君は自分にとっては大損害となること、自分にとって苦しいこと、辛いこと、嫌なことをじっと我慢して、苦しみながらも手放したのです。人を赦すことは、それほどまでに簡単なことではないのです。しかし、イエス様はこのたとえを通して、人を赦すべきことと、その理由を教えておられるのです。

18章28節    ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。

負債を免除された家来は出て行くと、自分に100デナリの借りがある仲間の一人に出会いました。「出会った」とありますが、このギリシア語は、見つけること、探し歩いていて出会った、見つけたという意味の語です。主君の一方的なあわれみによって巨額の負債を赦されたばかりの人が、自分に負債のある人をわざわざ探し出したのです。その額は100デナリ。約4ヶ月分の賃金で、庶民にとってははした金ではすまない額ではありますが、それにしても16〜17万年分の賃金に相当する額の負債が赦されたばかりの人です。彼がその人を捕まえて、首を絞めて「借金を返せ」と言ったのです。皆さんの心はどう感じられますか。

18章29節    彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。

この仲間の一人もまた、地に倒され、転がり、そこからひれ伏して彼を見上げ、嘆願したのです。

さきほどの家来は懇願しました。ここの彼の仲間は嘆願しました。嘆願とは、事情を述べながら熱心に頼むことです。先ほどの家来は事情や理由の説明もせずにひたすら拝み倒しました。そしてただ一方的な主君のあわれみによって赦されたのです。彼の仲間は事情や理由を説明し、なんとか待ってくださいと頼んだにもかかわらず、この人はこの人を赦さなかったのです。

18章30節    しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。
18章31節    彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。

引かれて行ってしまった人の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛めました。深く悲しんだのです。彼らは「あの人はあの人を赦して当然だ」、そう思ったのでしょう。恐らく事の成り行きを見た人であれば、誰でもそう考えるのではないでしょか。それが正しいことだからです。誰もがそれは正しいことだと知っているからです。

18章32節    そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。

この知らせが王の耳に達すると、王はこのしもべを呼び出し、自分が巨額の借金を赦されたのに、それと比較するなら60万分の1にしかすぎない同僚の借金を赦さなかったということで、大いに怒ります。「お前が私に拝み倒したから、私はお前の負債をすべて免除してやったのだ。お前をあわれんで、だから私は自分の大損害を我慢して、苦しみながらも赦したのだ」。

始めに申し上げました。主君(王)とは父なる神を表し、「家来たち」は私たち人間を表していますと。父なる神に対する巨額の負債。それは父なる神に対する罪です。日々赦されて来た、赦されている、赦されるであろう罪です。

パウロは言いました。「ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります」(ロマ812)。ここを直訳すると「私たちは債務者です」となります。しかし「神は様々な規定で私たちを責め立てている債務証書を無効にし、それを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」(コロ214)。高価な、休みなしで働いて16〜17万年分の賃金にも相当する罪という負債を、それに相応する高価なキリストの血の代価によって私たちは贖われたのです。債権者は誰かとあえて問われるならば、それは私たちを贖ってくださった神です。私たちの罪をただあわれみによって、イエス・キリストを私たちの罪のために十字架に架けられ、流されたイエス・キリストの血の代価によって赦してくださった父なる神です。返しきれない感謝がある。そのように多く赦された者は、より多く感謝するでしょう。そして神のあわれみに何とか応えたいと願うのが正しい態度のではないでしょうか。また、多く赦された者は、より多く神を愛するのです。その愛を、あわれみを、兄弟に、隣人に注いで行くことを神は望んでおられるのです。

18章33節    私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』

先ほども申しました通り、私たちは他人を赦すことに対しては非常に難しさを覚えるのではないでしょうか。苦しむのではないでしょうか。自分の心が責めるのではないでしょうか。「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。…たとえ自分の心が責めてもです」(Ⅰヨハ316-24)。イエス様は自分の気持ちではなく、自分が受けた憐れみと恵みのゆえに赦すように教えておられます。これは逆の言い方をすれば、自分に罪を犯した人を赦せないのは、自分が神に赦していただいたことの意味と、その恵みの大きさを知らず、感謝もしないということです。神のあわれみを受けた者が、兄弟姉妹を真実にあわれむことができるのです。つまり、兄弟姉妹をあわれむことができるか、それを通してその人の神に対する態度、またその人の魂の状態を知ることができるのです。

18章34節    こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。

「獄吏」と訳されている語は、看守、また拷問する人を意味するギリシア語です。そこでは「片手片足でいのちに入る方が、片目でいのちに入る方が、両手両足揃ったままで、両目そろったままゲヘナの火に投げ込まれるよりまし」と言われるほどの拷問をする人たちに引き渡される。自分に対する負債を免除してやらない者は、自分が到底返しきれない負債を免除していただいたことを認めないのと同じである。ならば、その人は獄吏たち、拷問する人たちに引き渡されて当然である。赦された者が赦さないというのは、それほどまでの「悪」であると、これが神のお考えです。

18章35節    あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」

今日の箇所でイエス様は、1万タラントの負債を免除してもらったのに、自分に対する仲間の100デナリの負債を免除してやらない家来になってはいけないということを教えておられます。そうでないと、負債を免除してもらったことを認めていない、つまり、罪を赦してくださった父なる神のあわれみを知らないのと同じだから。このたとえに出て来る豊かに多く赦されたしもべは「やった!しめた!」と思ったかもしれませんが、その恵みを感謝する気持ちに欠けていたのでしょう。赦された喜びを知る者だけが、他人を赦すことができるのです。

そして、もし王に免除された家来が、同僚の自分に対する負債を免除したなら、王は彼に恵みを与えたのではないでしょうか。なぜなら、自分の莫大な負債を免除してくれた王の立場になって、王の気持ちを本当に察して、分かって、心から感謝し、そして実践するのですから。それと同じく、私たちを赦してくださった父なる神さまと同じ立場になって、父なる神の心を本当に察して、分かって、心から感謝し実践する。兄弟を、また隣人を赦す。それが神を愛するということでしょう。神の恵みに感謝して、自分に与えられた恵みと愛を人々に施すならば、神は喜ばれ、受け入れてくださり、神の恵みはより豊かにされていくことでしょう。

イエス様は日々私たちに祈るようにと教えてくださいました。「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」(マタ612)と。そして聖書はいたるところで言っています。「互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです」(エペ432)。「互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(コロ313)。「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです」(Ⅰヨハ411)。「私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおり互いに愛し合うこと、それが神の命令です」(Ⅰヨハ323)。

兄弟の罪を赦すことが自分が赦される条件だというのではありませんが、自分が計り知れないほどの大きな罪を、多くの罪を赦されていながら、他の者を赦さないことの危険性は明らかです。

私たちは、神にどれほど赦していただいただでしょうか。そして私たちは、自分の兄弟姉妹を、隣人をどれほど赦しているでしょうか。教会は、家庭は、真実に赦し合う者たちの集まりとなっているでしょうか。そこは天の御国でしょうか、私たちは天の御国の民でしょうか。今日のイエス様のみことばを通して、私たちは御霊に導いていただき、改めて省みさせていただきたいと思います。そして私たちは真の天の御国の民となり、私たちの周りに天の御国、神の国を現し、素晴らしい、大きな神の恵み、愛を証ししてまいりましょう。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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