2024年2月4日 主日礼拝「永遠のいのちを得るために」

礼拝式順序

前奏(黙祷)
招  詞  詩篇51篇10〜13節
讃  美  讃美歌6「われら主を」
主の祈り  讃美歌564
罪の告白・赦しの宣言
祈  祷  
讃  美  讃美歌333「主よわれをば」
聖書朗読  マタイの福音書19章13〜22節
説  教  「永遠のいのちを得るために」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌507「ふかきみむねを」
聖餐式   信仰告白(使徒信条・讃美歌566)
      讃美歌206「主のきよきつくえより」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書19章14節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書19章13〜22節

説教題

「永遠のいのちを得るために」

今週の聖句

しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいえません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」

マタイの福音書19章14節

説教「永遠のいのちを得るために」

マタイの福音書19章13〜22節

先日、私はあまりよろしくない体験をしました。娘以外の家族にも誰にも知らせていないことで、この場で初告白となるのですが・・・。私は先週、長野駅前で法律違反を犯し、警察に捕まってしまいました。どの法律を違反したかと申しますと、道路交通法第71条の3第3項です。何だかご存知ですか?「幼児用補助装置を使用しない幼児を乗車させて自動車を運転してはならない」、つまりチャイルドシート違反です。皆さんもご存知だと思いますが、私は平日のほとんど、皆さんが可愛がってくださっている姪っ子の子どもを保育園にお迎えに行っています。以前は車がなかったので徒歩や自転車でお迎えに行っていたのですが、最近、姪っ子の家の車を1台預かっており、普段使っても良いと言われているものですから、今年に入ってからでしょうか、車で保育園にお迎えに行っているのです。その車にはチャイルドシートが付いていないのです。それが悪いことだと分かっていながら、つい寒いから、楽だからと “ずくをやんで” 車でお迎えに行ってしまい、たまたまその足で娘を長野駅前の大学まで迎えに行ったその先で、案の定、捕まってしまったというわけです。おかげでまたもや「栄光のゴールド免許」を逃してしまうことになり、手の届かない憧れのゴールド免許となってしまいました。それにしても良く見ているものですね。物陰に隠れて良く見えるものだと思ってしまいます。違反切符を切られてしばらくは、私を捕まえた警察官に対して腹を立てていたのですが、良く考えて見ると、警察官は何も悪くないのです。悪いのは私。それが駄目だと分かっていながらついチャイルドシートを着けないまま幼児を車に乗せてしまい、段々とそれが当たり前のようになり、その違反(罪)を警察官が見つけて的確に指摘しただけのこと。いや、見つけてくださって、的確に指摘してくださったのです。それはダメですよと。しかも平然と違反を犯す者のいのちを守るためにです。今回は違反点数が加えられるだけで済みましたが、そんなことでは済まされないような事態、大切ないのちを失うようなことになっていたら、どのようにして罪を償えば良いのでしょうか。償えるのでしょうか。そのように、私たちの内にもしかしたら、はじめは悪いことと分かっていながら、色々と言い訳をしながら続けて、やがてそれが当たり前の様になってしまっている「よろしくないこと」はないでしょうか。

さて、聖書に話しを戻しますが、イエス様は今日の箇所に先立って、具体的に「教会」という語を使われ、「神によって建てられる教会」について語られました。その神の教会、キリストの教会について加えて教えられなければならないことの中に、「子どもについて」というものがありました。18章では子どもを実物教育として用いられましたが、ここではその子ども自体のことについて教えられています。

19章13節    そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちがみもとに連れて来られた。すると弟子たちは、連れて来た人たちを叱った。

イエス様が離婚、結婚、独身という非常に繊細で敏感な問題について述べておられた時でした。権威をもって偉大な素晴らしい神の教えをされる立派なお方、奇跡をもって病気を癒やすお方の手によって祝福していただこうと、子どもたちがみもとに連れて来られました。手を置くとは、祝福を与えることを意味しています。子どもが神から祝福を与えられて健やかに成長するように祈ってもらおうと思ったのです。すると弟子たちは子どもたちを連れて来た人たちを非難し、叱りつけました。イエス様の話しを中断されたくなかったのか、子どもたちには関係ないと考えたのか。イエス様が忙しいこと、また疲れておられることを知って、彼らの主を守ろうと彼らなりに気を遣い考えてのことだったのかもしれません。しかしイエス様は、子どもたちをご自分のもとに連れてくるように命じられます。ちなみにここでの「子ども」とは、18章の実物教育で用いられた子ども=乳離れした子ではなく、生まれたばかりの赤ちゃんから幼児までのことを指しています。ですから「子どもたち」は自力でイエス様のところに行くことが出来なかったり、難しかったりで、大人に抱っこされたり、手を引かれたりなどして連れて来られ、弟子たちはその連れて来た大人たちを叱ったのです。

9章14節      しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」

「来させなさい」「邪魔してはならない」と、2つの命令が重ねられており、イエス様の強い意志が感じられるところだと思います。どうしてこのように強く言われるのでしょうか。それは、天の御国がこのような子どもたち(生まれたばかりの赤ちゃんから幼児までの子どもたち)のものだからと言うのです。子どもに罪がないから、天の御国に入れるという意味ではありません。赤ちゃんは教えなくてもちゃんと悪いことをするのです。赤ちゃんこそ自分ではどうしようもない罪の奴隷です。ですから子どもには罪がないから天の御国に入れるということではなく、大人に依り頼まなくては生きられない者、大人に連れて来てもらわないと天の御国に入ることができない者、それがここでの「子どもたち」であり、イエス様は天の御国(神の国・地上での神の国=教会)は“このような”者たちのものだからだと言われるのです。

この出来事と出来事を通して教えられたイエス様の教えは、弟子たちの子どもたちに対する考え方、態度に大きな影響を与えたことでしょう。ひいては後に弟子たちが使徒となり、教会を建て上げ、建て上げられて行ったすべてのキリストの教会の子どもたちに対する考え方、態度に一つの指針が与えられたのではないでしょうか。私たちの教会でも共通認識となっているのと思います。それは、子どもたちの上にも神の祝福が間違いなく注がれているのだということ。また大人には、神の祝福が受けられるように、子どもたちを神(イエス様)のもとへ連れて行く責任があるということ。それはその子の親はもちろんのこと、大人たち、つまり教会全体の責任でもあるということ。私たちが属する教会(長野聖書教会)にも、神の祝福を子どもたちに積極的に与えるという聖なる義務があるのです。ところがどうでしょう。この教会を見渡してみて、子どもたちはいるでしょうか。神の祝福を積極的に与えなければならない子どもたち自体がたくさんいるでしょうか。もしかしたら、大人たち、教会全体に「よろしくないこと」があるのかもしれません。それが普通であると思ってしまっていて、それが重大な問題であることに気づいていないのかもしれません。仕方ないこととして、見て見ぬ振りをしているのかもしれません。私たちは積極的に子どもたちをイエス様のもとに連れてくるという聖なる義務を果たして行かなければならないのではないでしょうか。

ここでイエス様が教えておられるのは、子どもたちも天の御国(神の国・地上での神の国=教会)の一員であるということ。その子どもたちが成長し、天の御国(神の国・地上での神の国=教会)を建て上げて行くのだということ。そして弟子たちもまた、子どもたちが大人に依存するように神に依り頼むべきこと。これらを教えておられます。

9章15節      そして手を子どもたちの上に置いてから、そこを去って行かれた。

イエス様は子どもたちを祝福して、そこを去って行かれました。現地の大人たちに子どもたちを託して去って行かれるのです。

このあたりのことを、もう少し霊的に踏み込んでみたいと思います。イエス様は現地の大人たちに子どもたちを託して去って行かれた。それは教会に託して天に帰られたということではないでしょうか。そして大人たちとは、成長した者たち、つまり成長した信仰者。それはパウロが言うように霊的に成長し成熟した者、力ある者、信仰の強い者ともなるのでしょう。子どもたちとは、生まれたての信仰者、霊的に未熟な者、力ない者、信仰の弱い者たちでしょう。大人には、神の祝福が受けられるように、子どもたちを神のもとへ連れて行く責任がある。邪魔をしてはならない。教会はこのような者たちのためにあるものなのだから。深いことを言われているなぁと思わされます。そして教会というのは、今に至るまで子どもが生まれ、また信仰者が生まれ、成長し建て上げられて行くという歴史を繰り返しているのです。ですから教会に与えられる子ども、あるいは求道者は、神の祝福によって与えられた賜物です。大人は神からその養育の責任を託されているのです。本当に大切にしなければなりません。そうでないと教会は滅んでしまう。それは決して幻ではなく、真に現実的なことなのではないでしょうか。イエス様は不思議なことなどひとつも仰っていないのです。

16節から場面が変わります。

19章16節    すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」

イエス様はそこを去り、道に出て行かれると、一人の人がイエス様のところに来ました。22節を見ると、この人は青年であり金持ちでした。またルカの福音書によると、この人は指導者(役人)でした。幼く、無力で、世からは無価値とされている子どもたちとは対照的な人です。マルコの福音書によると、この青年は「走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた」とありますから、よほど熱心な求道者であることが分かります。金持ちの役人などと聞くと、鼻持ちならない奴と思ってしまいがちですが、彼は熱心に求める心を持ち、まじめで、律法を落ち度なく守り行い、どうやら人望もあり、おまけに財産もあって、まるでパーフェクトヒューマンのように見える人です。ところが彼は、自分の信仰生活、宗教的な活動にどこか不足を感じていたようです。自分は不完全であると感じていたようです。その原因は分からない。どうすれば完全になって、永遠のいのち、もっともっと神の祝福を得られるのかを知りたかった。私たちにもこの青年と同じようなところがあるのではないでしょうか。神を信じている、まじめに生きようとしている。なのにどうして、という状況があると思います。

青年はイエス様に質問しました。「どんな良いことをすれば、神の祝福を得ることができるのでしょうか」。

19章17節    イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」

マルコの福音書には、イエス様はご自分を訪ねてきて、永遠のいのちを得る方法を尋ねる熱心な求道者である青年を見つめ、そしていつくしんで質問に答えられます。青年をじっと見つめ、青年の中に永遠のいのちに対する熱意を感じられたのでしょう。現実的な問題も色々あった中で、彼は救いと永遠のいのちに対する真剣な疑問を無視する(軽んじる)ことなく、何とか解決したいと思いイエス様を探し訪ねたのです。イエス様を見つけると駆け寄って、御前にひざまずいて質問したのです。そのような必死な青年を、イエス様はいつくしまれ、質問に答えられました。

17節を少しかみ砕いて私なりに訳すならばこのように訳せるように思います。「もし、あなたが良い行い、律法を守ることによって救われると考えるならば、まことに良い方、唯一善なるお方、正しいお方である神が定められた律法を本当に守ったら良い」。ここで興味深いのは、青年がいのちを「得る」と言ったことに対いて、イエス様はいのちに「入る」と言い換えられていることです。永遠のいのちは、何か物のように自分で得るものではなく、神の命令、みことばを完全に守り行うことによって神のものとされ、そして神によって与えられるものです。

19章18節    彼は「どの戒めですか」と言った。そこでイエスは答えられた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。
19章19節    父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」

再び青年は、自分はどの戒めを守るべきかをイエス様に問い直しました。するとイエス様は青年を見つめ、いつくしんで答えられました。青年に与えられたイエス様の答えは、十戒の後半、つまり対人関係におけるものでした。隣人に対してしてはならないこと、すべきことを教えるところです。

19章20節    この青年はイエスに言った。「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」

マルコの福音書によると、「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました」と、自信満々に答えるのです。「守ってきた」と訳されている語は、「細かく守る、徹底的に見張る、ぬかりなく世話をする」という意味の語で、青年はユダヤ人が守っていた伝統的な言い伝え、道徳的な基準では非の打ち所がないように努力して生きて来たのです。まじめに、熱心に。しかし「何かがまだ欠けている」と感じていた。なので彼は自分の生き方をイエス様に認めていただき、合格点をもらおうと考えていたのかもしれません。しかしイエス様は、それだけでは十分ではないと言われました。この青年は、人間的な基準ではまじめで正しい人間であったかもしれませんが、唯一真に善である神の絶対的な基準においては、実は自分に罪があるということに気づいていない人間だったのです。この世の中には、私も含め、この青年のように自分の基準によって自分は正しい人間であると思い込んでいる人が多いのではないでしょうか。

イエス様は核心を突く答えをされました。彼に不足していたことを指摘されました。彼がイエス様に従って行き、イエス様とともに天の御国に入れられるためには絶対に必要なことを指摘されました。急所をつかれたのです。しかし彼を責めるのではなく、見つめ、いつくしんで言われたのです。

19章21節    イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」

「財産」という語を調べて見て、これか、と思わされました。「財産」という語は、お金ではなく「土地、領土、不動産」を意味する語です。青年は多くの土地、領土を持っていた。おやおや、と思われないでしょうか。ユダヤではすべての家にそれぞれ割り当てられた土地があり、どんなに貸し借りがあったり、借金の担保となっていたとしても、もとの持ち主に返さなければならない時があるはずです。「ヨベルの年」としてレビ記に規定があります。それなのに多くの土地を持っていたということは、どういうことでしょう。この青年ではないにしても、彼の父、あるいや祖父、または先祖が「よろしくないこと」をしていたということでしょう。だまし取っていたのでしょう。青年は直接関わっていなかったかもしれません。しかし、まじめで、落ち度なく律法を守り行おうとする青年でしたから、それがよろしくないことをどこかで気づいていたのかもしれません。気づいていながらも、それが普通だからとか、受け継いだものだからとか、自分には関係ないことだから、仕方ないとか言い訳をしながら、自分は正しいとして、その富を享受していたのかもしれません。それがあなたに足りないことなのだとイエス様はいつくしんで言われるのです。「あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります」。あの有名なザアカイのように、彼は立ち上がって言うことができれば良かったのにと思います。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、4倍にして返します」。そうしたら、イエス様はザアカイに対して言われたことと同じことを言われたのではないでしょうか。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」。ザアカイが実際に言った通りのことをしたかどうかは分かりません。しかしそこに自分を罪人と認め、心からの悔い改めと、悔い改めたことによる大きな喜び、赦されたという確信が与えられて湧き上がる喜びがあったことは確かです。ザアカイは永遠のいのちに入れられた、救いが与えられたのです。

どうでしょうか。イエス様が言われることはいつも正しいのではないでしょうか。その人のいのちを守るために、また、弟子としてイエス様に従って行くために、そして「宝のある所にその人の心があるのです」とイエス様は言われましたが、その人の心を地上ではなく天に向けさせ、偶像ではなく神を見上げさせ、イエス様とともにまっすぐ天の御国に入るために今、その人に一番必要なことを指摘されるのではないでしょうか。急所をつかれるのではないでしょうか。それも私たちを見つめ、いつくしみをもって「よろしくないこと」を指摘してくださる。この青年にとっては財産でした。財産を売って貧しい人に与えなさいということでした。自分でも気づいていなかった、気づいていても見ない振りをしていた。しかし本当に解決しなければならない問題であった。イエス様はそこを的確に指摘されたのです。それがイエス様のチャレンジだったのです。

しかし、今日の箇所で私たちが心して聞かなければならないことは、ここでイエス様が急所をついて指摘してくださった「〜しなさい」というものは、それが救いの条件としたり、何か霊的エリート、パーフェクトヒューマンになるための条件としてはいないということです。ただ良い行いによって救いを得ようとする者に、その誤りを悟らせるためのチャレンジであったということです。

19章22節    青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。

人は自分の良い行いによっては救われません。この世の常識では、善行を積めば来世は必ず幸せになれると考えられています。しかし聖書は、行いによって救われようと思うなら、神が命じられた律法の戒めを全部、しかも完全に行わなければならないと教えています。この青年はそれを実行することができず、悲しみながら去って行きました。

イエス様は彼を叱責し、みもとから去らせるために言われたのではありません。彼を見つめ、いつくしんで、この青年に、神の戒めを完全に実行することなどできないということを自覚させ、罪の意識に目覚めさせるためにこのように言われたのです。素直に自分を罪人と認め、罪を悲しみ、自分ではどうしようもないその罪をわたしに委ねなさい、わたしに救いを求めなさいとチャレンジを与えられたのです。なぜなら、自分の罪を知り、その罪が自分ではどうしようもないことを知る時にはじめて、私たちにはどうしてもイエス・キリストの十字架が必要であることを悟ることができるからです。自分には自分を救うことのできる何の力もない。自分には救われるべき価値などまったくない。だからこそ、イエス・キリストの十字架による贖いがどうしても必要なのです。永遠のいのちを得ること、救われるということは、ただ神に、救い主イエス・キリストに、力のない赤ちゃんのように依り頼むしかない。そのことに気づかせるために、主は今の私たちに必要なチャレンジを与えてくださるのです。与えてくださっているのかもしれません。主が私たちのよろしくないところ、急所をつかれるのは、決して私たちを責め、遠ざけるためではありません。私たちにいのちに入りたいと願わせるため、そして私たちが願う通りに、私たちを救い、いのちに入らせるためなのです。

今、私たちのうちのよろしくないことを告げられる主の御声を聞くならば、主のいつくしみの眼差しを感じ、主の愛の内にとどまり、自分の気づいていない罪、気づいていながらも無視してきた罪、気づいていながらも自分ではどうしようもない罪、それらを素直に認め、イエス様にとどまり、イエス様に救いを求め、イエス様とともに天の御国に、救いに入れさせていただきましょう。子どもたちにはイエス様のもとに導く大人が必要です。あくまでも「互いに」です。私たちは互いに愛し合うように命じられているのです。私たちは互いに子どもであり、互いにイエス様のもとに導く大人となって、互いに神の祝福が受けられるように、神(イエス様)のもとへ連れて行くという責任を果たしてまいりましょう。天の御国(神の国・地上での神の国=教会)はこのような者たち、子どもたちのものだからです。

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