2024年4月21日 主日礼拝「神のものは神に—心を見られる主」
礼拝式順序
賛 美
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇37篇3〜6節
讃 美 讃美歌16「いときよきみかみよ」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌506「たえなる愛かな」
聖書朗読 マタイの福音書22章15〜22節
説 教 「神のものは神に—心を見られる主」
讃 美 讃美歌332「主はいのちを」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 マタイの福音書22章21節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
マタイの福音書22章15〜22節
説教題
「神のものは神に—心を見られる主」
今週の聖句
そのときイエスは言われた。「それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」
マタイの福音書22章21節
説教「神のものは神に—心を見られる主」
マタイの福音書22章15〜22節
先週はオンギジャンイのコンサート、本当に感謝でした。私たちが来てくださることを期待してお知らせした方が来てくださったり、残念ながら来ていただけなかったり。前回の「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです」というみことばに深く考えさせられたところだったと思います。ところで、今さらですが、どうしてイエス様は「選ばれる人は少ない」と言われたのでしょうか。普通に考えるなら「招かれる人は多いけれども、選ぶ人は少ない」となりそうですが。それは私たちの信じる神は、この世の偶像のように人に選ばれるようなお方ではないということ。また主ご自身が言われているとおり「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのだ」(ヨハ1516)とのみことばに基づくのでしょう。そして神の招きに対する無礼がさばかれることも語られました。22章5節のみことばによると、神の恵みの招きに何らかの事情で応えられない人、後ろ髪引かれる思いで辞退することは責められるものではないように思います。準備万端、すべて整えられた神の恵みの招きを気にもかけずにそっぽを向く人、そのような人はさばかれるでしょうという、天の御国はこのようなところであるというイエス様のたとえ話。主は私たちの心を見られるお方であることをつくづく思わされます。
しかし思わぬ方がひょっこり来てくださったということもありました。神の知恵や招きの御手は本当に不思議で、私たちの想像をはるかに超えたところにあるのだと思わされます。でもやはり正直なところ、お誘いしたのに、たくさんチラシを配ったのに、どうして皆さん来てくれなかったのだろうかという残念な思い、悔しい思いもあります。主よ、どうしてですかと。イザヤは言います。「見よ。主の手が短くて救えないのではない」(イザ591)。もしかしたら私たちは、「主の御手が短い」と思い込んでしまっているところはないでしょうか。これを不信仰と言うのです。神の愛と力を本当には信じられていない。私たちはただ、主の招きの御手を信じて、これからも諦めずに隣人の救いを祈り求め、主の招きの御手となって人々を神のもとに招いてまいりましょう。神が今も時間をかけて準備万端を整えておられ、やがて完成される天の御国のために喜んで仕えてまいりましょう。なぜなら、神が私という罪人を諦めることなく招き続けてくださり今があるからです。誰かが私という隣人を諦めることなく主のもとに招いてくださったから今があるからです。人の目を恐れずに諦めることなく余ったチラシを手渡したり、ポストや自転車のカゴに投げ入れてくださった。断られることを恐れずに諦めることなく暗い顔つきをしている私にみことばを届けてくださり、教会に誘ってくださった。実は本当に勇気のいることであるのを皆さんも嫌というほど経験しているのではないでしょうか。どうしたらそのようなことができるのでしょう。教会に誘ってくださったその人もまた、主と先に主に招かれ救われた人が諦めずに招いてくださったという経験をされたのでしょう。そしてその背後には、全知全能なる父なる神の一方的な選び、まったくふさわしくない者を、その時まだ罪人であった私たちを、ただ恵みによって一方的に選び招いてくださったということを、そしてまだ罪人であった私たちのためにイエス・キリストが十字架に架かって死んでくださったこと、ここに神の私たちに対する愛があることを後になって知ることになるのですが、その感謝や感動、信仰が原動力なのではないでしょうか。
ローマ人への手紙の中でパウロは言いました。「私には義務があります」と。直訳すると「私は債務者です」となります。つまり返済する義務があると言うのです。誰に返すのでしょう。もちろん神です。私を愛し、私のために御子を惜しまずに与えてくださったその父なる神の愛。そして私を愛し、私のために十字架に架けられ苦しまれ死なれた、しかし3日目によみがえられた御子イエス・キリストの愛。その返しきれないほどの愛をお返ししたいのだと、それがあの伝道者パウロの熱い思いの原動力だったのでしょう。そしてそれは私たちのうちにも同じ思いがあるのではないでしょうか。もし罪の悲惨な中から救われたのであるならば、罪の赦しを主からいただき、涙を流して主の御前に悔い改めた経験をした者であるならば、パウロと同じ思いが自然と湧いてくるのではないでしょうか。真心をもって主にお返ししたい。そして主は、私たちのその心こそご覧になり、喜ばれるのではないでしょうか。
今朝与えられましたみことばは、マタイの福音書22章15節からのところです。ここにはその心にイエス様に対する悪意を抱き、イエス様の前に進み出る者たちが登場します。並行箇所であるルカの福音書では、彼らは「義人を装った回し者」であると言います。イエス様はご自身の前に進み出る彼らの心をご覧になり、彼らの心の中にある悪意を見抜かれました。主はまことに心をご覧になるお方なのです。そしてその人を叱るのでもなく、怒るのでもなく、また彼らをどうでも良いとは思われずに、あわれまれ、諦めずに、目をつむることなく、かえって目を真っ直ぐに見つめ、彼らが自発的に変わるようにみことばをもって導かれるのです。
22章15節 そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにしてイエスをことばの罠にかけようかと相談した。
22章16節 彼らは自分の弟子たちを、ヘロデ党の者たちと一緒にイエスのもとに遣わして…
すでに先ほどご一緒にお読みしたとおり、彼らがイエス様にした質問は、税金を納めるべきかについての質問でした。当時ローマの支配下にあったユダヤ人は、ローマに納める重税のために屈辱を感じ、怒っていました。ふつふつとくすぶっていたのです。パリサイ人たち、つまりユダヤの指導者たち、民族の宗教的、霊的な指導者たち。本来ならば民族の心に寄り添い、霊的に正しく導く立場にあった彼らでしたが、いつしかうぬぼれ高ぶり、民のトップに君臨し、自らを有利な立場に置き、権威を振るい民を従わせるようになった彼らは、群衆が慕い、新しい指導者として期待するイエス様を試みるために、自分自身ではなく、自分の弟子たちを送り込み、敏感な問題である税金を納めるべきかについてイエス様に質問させました。自分を隠すずるい卑怯なやり方です。それはイエス様に罪を指摘されて怒った彼らが、何とかしてイエス様を苦しい立場に陥れて引きずり下ろすため、また自分たちがトップに君臨し有利な立場に立ち続けることができるための手段でした。
またパリサイ人たちは、普段は対立しているヘロデ党と協力しました。ヘロデ党はヘロデ家の権威を保持しようとするための政党でした。ローマとの関係を親密に保つために、ローマへの納税を推進していました。これに対してパリサイ人は、ユダヤ人が神の選びの民であることを強調し、異邦人に税を納めることは神の権威を冒瀆することであると考えて反対していました。パリサイ人たちがこれほどまでに対立するヘロデ党と協力したのは、恥も外聞もなく、手段をも選ばずにイエス様を罠にかけ、何とかイエス様を引きずり下ろそうというその一心であったということです。自分こそが王のようでありたいという思い。悪、自己中心な心というものは、嘘に嘘を重ねるような、奇抜で恥ずべき方法をも使わせ、ためらって避けていたことをも行わせるという恐ろしいものだと思わされます。自分の敵とも躊躇なく手を組んでしまう。私たちの内にももしかしたら、本当の自分は隠しておいて、自分の分身のような自分を、それも敵、サタン、試みる者と手を組み、敬虔を装った自分をイエス様の前に進み出させていることはないでしょうか。本当の自分を隠して偽物の自分を、偽善者の自分をイエス様の前に進み出させている私がいないでしょうか。その時の私の中の本当の私の表情はどのようなものであるのでしょう。
22章16節 彼らは自分の弟子たちを、ヘロデ党の者たちと一緒にイエスのもとに遣わして、こう言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれにも遠慮しない方だと知っております。あなたは人の顔色を見ないからです。
義人を装った回し者は立派なことを言いました。パリサイ人たちが遣わした人たちは、質問の前にイエス様に対する長々とした賛辞を並べました。その時、イエス様の周りには弟子たちや従って来た群衆がいたのでしょう。「ホサナ」と叫び喜び迎え入れた群衆もいたのでしょう。そのような大勢の人たちを前にして聞こえるように大声で「あなたは真実な方」「あなたは真理に基づいて神の道を教え、だれにも遠慮しない方」と賛辞を並べました。確かにその通りです。イエス様はその通りのお方です。しかし彼らの賛辞には真実な心が伴っていませんでした。偽善に満ちており、イエス様を危機に追い込み、引きずり下ろすことがこの賛辞の目的でした。最後に「あなたは人の顔色を見ないからです」と言っていますが、これもどんな答えをされようとも、それがイエス様の真実なお考えであることを群衆に印象づけるためのものでした。
22章17節 ですから、どう思われるか、お聞かせください。カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」
悪意に満ちた巧妙な質問をしました。質問の答えは二者択一。どちらの答えをしたとしてもイエス様を危機に追い込むことになる、まことに巧妙な質問です。彼らはイエス様を窮地に追い込むために綿密な計画を立てていたのです。
彼らはカエサルに税金を納めることは正しいかと質問しました。もしイエス様が「税金を納めてはならない」と言うなら、一緒に連れてきたヘロデ党員が群衆の前ですぐにイエス様を捕らえ、ローマ政府もすぐにローマ政府の統治に抵抗するガリラヤ人として罰することになるでしょうし、もし「税金を納めなさい」と言うならば、群衆の怒りを買い、イエス様は人々から受けている預言者として尊厳を失うことになります。
22章18節 イエスは彼らの悪意を見抜いて言われた。「なぜわたしを試すのですか、偽善者たち。
ここで「悪意」と訳されている語は、「凶悪性」とも訳せる語です。どうでしょうか。私たちの心の内にイエス様に対する悪意、凶悪性、強い反抗心などないでしょうか。主を賛美する同じ心で、主を否定し攻撃してしまっているところはないでしょうか。最初から従うつもりもなく、イエス様を引きずり下ろし、自分をトップに立たせるための、反抗的で、敏感で意地悪な質問をイエス様に投げかけてしまっていることはないでしょうか。私たちは皆、そのような凶悪性を内に秘めた不完全な者たちです。救われてもなお不完全な罪人です。
22章19節 税として納めるお金を見せなさい。」そこで彼らはデナリ銀貨をイエスのもとに持って来た。
22章20節 イエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像と銘ですか。」
22章21節 彼らは「カエサルのです」と言った。
イエス様は彼らの意地悪な質問に答える代わりに、彼らに「税金として納める銀貨をわたしに見せなさい」と命じられました。すると彼らはデナリ銀貨を持って来ました。恐らく彼らの胴巻きか金入れから取り出したのでしょう。
実はこれはおかしなことで、このやりとりは神殿で行われていました。イエス様は、その銀貨に刻まれた「肖像と銘」は誰のものかと彼らに問われました。その銀貨には「ローマ皇帝が神の子である」という文字が刻まれていたのです。肖像を刻むことは律法に反することでした。「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない」(出204)。ローマの役人たちは、ユダヤ人にその律法のために、ユダヤ人が自分たちだけの銀貨を造って使用するのを許していたにもかかわらず、パリサイ人たちが遣わした人々は、カエサルの肖像が刻まれた銀貨を聖なる神殿に持って来ていたのです。神と律法に忠実に仕えていると豪語する彼らこそ、どっぷり世におもねっていたというわけです。律法に厳格であると自称し、民衆に律法を厳格に守れと言う彼らこそが、真心が伴わない見せかけだけの偽善者でした。
イエス様は彼らに銀貨を出させて、その肖像と銘がカエサルのものであると告白させることによって、彼ら自身の偽善を暴かれ自覚させました。
22章21節 彼らは「カエサルのです」と言った。そのときイエスは言われた。「それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」
彼らが「カエサルのです」と言ったその時、彼らは気まずかったのではないでしょうか。イエス様を陥れるために綿密な計画を立てたのに、しまったと思ったでしょうし、敗北感やら、恥ずかしさやらをひしひしと感じたのではないでしょうか。主の御前で、私たちはどれほど知恵を絞ってみても、主よりも、主のみことばよりも自分が正しいなどと言うことはできないのです。
しかしその時、イエス様はあえて彼らを否定されませんでした。さばかれませんでした。言われたのです。「それなら、カエサルのものはカエサルに返しなさい。神のものは神に返しなさい」。
22章22節 彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。
イエス様を試みた彼らは、イエス様のみことばを聞いて驚嘆しました。驚嘆したのです。驚嘆の意味は、ものすごく感心した、イエス様を褒め称えたというものです。まことに知恵に富んだ答えだったからでしょうか。そうでしょう。主の知恵にまさる知恵はないのです。しかしそれだけでしょうか。普通、試み挑戦する相手の優れた答えを聞いたなら、敗北感を感じ、ますます怒りや妬みに燃えてしまうのではないでしょうか。実際、彼らを送り込んだ本丸のパリサイ人たちは、妬みによってイエス様を十字架に架けて殺してしまったのです。しかし彼らはイエス様を褒め称えたのです。そこには主の赦しの経験があったのではないでしょうか。心に悪意をもって主を試みる私を責めるのでもなく、怒られるのでもなく、あわれみ、赦し、諭らせようとされる。その主の愛に触れた時、怒りや妬みは過ぎ去り、賛美、喜びが溢れたのでした。しかし残念なことに、彼らはイエス様を残して立ち去ってしまいました。イエス様のもとにとどまって欲しかったところです。イエス様はどのような思いでその背中を見送ったのでしょうか。
さて、17節で彼らが「納める」と質問したのに対し、イエス様は「返す」と答えられました。「神のものは神に返しなさい」と言われました。私たちが神にお返しするものは何でしょうか。
この「返す」というギリシア語には「義務」というニュアンスが含まれています。冒頭でも申しましたが、パウロは「私には義務があります」と言いました。直訳すると「私は債務者です」となります。つまり返済する義務があると言うのです。
誰に返すのでしょう。もちろん神です。私を愛し、私のために御子を惜しまずに与えてくださったその父なる神の愛。そして私を愛し、私のために十字架に架けられ苦しまれ死なれた、しかし3日目によみがえられた御子イエス・キリストの愛。その返しきれないほどの愛をお返ししたいのだと、それがあの伝道者パウロの熱い思いの原動力だったのでしょう。そしてそれは私たちのうちにも同じ思いがあるのではないでしょうか。もし罪の悲惨な中から救われたのであるならば、罪の赦しを主からいただき、涙を流して主の御前に悔い改めた経験をした者であるならば、パウロと同じ思いが自然と湧いてくるのではないでしょうか。そして主は、私たちのその心こそご覧になり、喜ばれるのではないでしょうか。その心をもって神にお返しするもの。皆さんにとってそれは何だと思われるでしょうか。
主はあれを返せ、これを返せなどとは言われていません。何しろ主は私たちに惜しみなくすべてを、ご自身のいのちまでも惜しみなく与えられるお方です。貸したなどとはまったく思っておられないでしょう。では主は何を返せと言われているのでしょうか。私たちも誰かに返してもらうつもりなく何かを与え、お返しされようとする時に「お気持ちだけで十分です」などと言うのではないでしょうか。主も私たちに「あなたの心だけで十分だ」と言われないでしょうか。私たちが真心から「感謝します。愛しています。尊敬しています」と主に申し上げるなら、主はどれほどその心を喜ばれるでしょう。どうぞ皆さん、その心を主に献げてください。そして返しきれない主への感謝や尊敬の気持ちを何とかして表したいという思い、その心に示された具体的な何かも、真実な心をもって自発的に喜んで主にお返ししてください。主はその心こそを喜んでくださり、聖めて用いてくださり、世にあって大きな祝福を注いでくださることでしょう。皆さんを通して、神はご自身の栄光を現してくださることでしょう。
しかし同時に、イエス様が「カエサルのものはカエサルに返しなさい」と言われたことも忘れてはなりません。イエス様は決して世の権威と天の御国のどちらか一方を選び取りなさいと言われているのではありません。世にあって、世の権威に対しても心を伴わせて生きなさいと言われるのです。この世と調子を合わせて生きなさいということではありません。諦めや妥協でもありません。神に愛され、神に選ばれ、神に召された私たちは、世の国々の市民としての義務を真心を込めて、つまり神が愛される世に対する愛や配慮、願い、祈りなどの気持ちを十分に含ませて果たしながら、真心を込めて、神に対する愛や配慮、願い、祈りなどの気持ちを十分に含ませて、天の御国のために仕えてまいりましょう。
主を愛し、隣人を愛し、主を喜び、隣人を喜ぶ皆さん、主に愛され、主に喜ばれる皆さんの上に、神の祝福が豊かに注がれることを祈ります。