2024年10月13日 主日礼拝「ペテロの否認」
礼拝式順序
賛 美 新聖歌340「救い主イエスと」
新聖歌221「ああ主の瞳」
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇51篇10〜17節
讃 美 讃美歌5「こよなくかしこし」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌142「さかえの主イエスの」
聖書朗読 マタイの福音書26章69〜75節
説 教 「ペテロに否認」
讃 美 讃美歌248「ペテロのごとく」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 マタイの福音書26章75節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
マタイの福音書26章69〜75節
説教題
「ペテロの否認」
今週の聖句
ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。
マタイの福音書26章75節
説教「ペテロの否認」
マタイの福音書26章69〜75節
先日、敗北感を感じる出来事がありました。また職場での話になるのですが、一人の落ち着いたクールビズ姿のサラリーマン風の男性が朝食を食べに来られました。ごった返す朝食会場の中で何となく雰囲気を感じて目が留まり、ついついその方をじっと見てしまいました。会場は満席で、当然皆さん知らない人同士の相席になるのですが、その方は何と朝食を前にして、人混みの中で合掌して深々と頭を下げ、声は出さずに「いただきます」と言って食べ始められたのです。偶然それを見た私は非常に感心しました。1度厨房に戻り、再びお客様が食べ終わった食器類を回収しに返却コーナーに出向いたところ、たまたまその男性が食べ終わった食器を持って来られました。そして私にそれを手渡すと、まことに雰囲気のある軽い一礼をされ、まことに落ち着きと威厳のある声で「ごちそうさまでした」と、そう言われたのです。雰囲気がただの真面目な男性ではないのです。何と言ったら良いのか、良い意味で人とは違う雰囲気を感じる。内面に何かを持っておられるのだろう。きっとこの方は信仰者なのだろう、私にそう感じさせたのです。そして私は敗北感を感じたのです。私と来たら、教会を一歩出たら、どこかこの世と調子を合わせて生きてしまっているようなところもあると自分でも思ってしまいますし、教会を出たらまるで自分が牧師だと見られたくないかのように生きているようなところがあるのではないかと考えさせられます。何食わぬ顔で他人のうわさ話の輪に加わってみたり、悪に同調し、口を開かず、賛成までしてしまっているような。見ず知らずの人が私を見たら、きっと誰一人私が牧師だなんて思わない、それどころか信仰者なのだとすら思わない、感じないのではないかと思うと、何だか敗北感を感じてしまいました。負けていられないなと悔い改めました。
また、こんな話も聞いたことがあります。まだスマホも普及していない昔。ある求道者(未信者)が教会の礼拝に行ってみたいと考えて(神さまは人に選んでもらわなくてはならないお方ではありません。人が礼拝に行こう、行かなくてはと思うより先に、神さまが招いておられるのです)、ある駅で降りて改札を出たは良いのですが、どこに向かって行ったら良いのか分からない。するとある雰囲気のある男性を見かけ、その後をついて行ったら教会にたどり着いたと。半分笑い話のようですけれど本当の話だそうです。皆さんはそんな人でしょうか。そんな人になりたいですよね。
さて、今朝の箇所は、これまでどれだけ多くの信仰者の胸を刺してきたことでしょう。今一度ご一緒に神のみことばの前にへりくだり、耳を傾け、それぞれに聖霊を通して語られる神からの語りかけをいただきたいと願います。
前回は、ゲツセマネの園でイエス様が人々に捕らえられ、律法学者たち、長老たちが集まる大祭司カヤパの家に連れて行かれ、そこで予備公判、予備審問(正式の裁判に先立って、起訴するに足りる証拠があるか否かを判断する手続き)が行われたところを見ました。今朝はその傍らで起こった、ペテロに関する出来事を見てまいります。福音書の中でペテロはいつもイエス様の弟子たちを代表するような形で登場させられます。ですから今朝の箇所も、決してペテロ一人の経験ではありません。これまでイエス様を信じて、愛して付き従って来たすべての者が経験してきたこと、また経験することでしょう。
遠くからイエス様についてきて大祭司の家の中庭に入り、イエス様の予備公判を見ようとしたペテロは、外の中庭にいた下役(役人)と公判の見学者など、この世の権威とイエス・キリストのどちらに軍配が上がるか、その終わりを見ようではないかという人々に混じって座っていました。
26章69節 ペテロは外の中庭に座っていた。すると召使いの女が一人近づいて来て言った。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」
見学者と一緒に座っていたペテロに、召使いの女の人が一人近づいて来て言いました。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね」と。そしてペテロはドキッとしました。咄嗟に「ヤバイ!」と思いパニック状態になってしまった。それはそうでしょう。ガリラヤ人イエスは今、裁かれ、拳で殴られ、平手で打たれているのですから。死刑に定められるに足りる証拠(偽証)を突きつけられ、押さえ付けられ、激しい痛みを加えられながら、容赦なくひっぱたかれている、体が不自由になるほどに拷問を加えられている。人々の前で平手で打たれ、恥をかかせられている。「当てて見ろ、預言しろ、キリスト。おまえを打ちのめしたのはだれだ」と馬鹿にされているのです。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね」と言われた。咄嗟に「ヤバイ!」と思いパニック状態に陥ってしまったペテロを「情けない」「なっていない」などと、一体誰が責めることができるでしょう。
ところで、どうしてこの召使いの女の人が人々に混じって座っていたペテロに近づいて来たのでしょうか。他の福音書を見ると、この地の夜はとても寒いので火が焚かれていたようです。見物人は皆火に当たっていました。火に当たるということは、顔が火の明かりに照らされてバレてしまう危険があります。ペテロはいつも誇らしげにイエス様の傍らにいたのに、自分の顔が誰にもバレていないと思っていたのでしょうか。しかしペテロは人々と違う行動をすることによってイエス様の弟子であることがバレしてしまうことを恐れたのでしょう。皆と同じ行動、皆と同じ態度をとっていました。すると召使いの女の人がペテロに目を留めたのです。
確かに、イエス様はエルサレムでは有名人で、その脇にいつもいるペテロの顔も良く知られていたのかもしれません。しかし私はそれ以前に、この女の人がペテロから何かを感じ取ったからだと期待するのです。他の福音書ではこの女の人が火にあたっているペテロを「見かけた、目にした、目を留めた」と記されています。あれ?と思った。はじめは他の人とは違う何かを感じた。それが、私が人々でごった返す朝食会場の中で一人の男性に目が留まったように、女の人もペテロにふと目が留まったのではないかと期待するのです。3年間、イエス様と寝食を共にし、日々主の御声、みことばを聞き、また主に本当に愛され、時には叱られながらも、心もからだも養われ、守られ、導かれて来た。多くのしるしや奇跡を目の当たりにして来た。罪人たち、社会的弱者、病気の者、貧しい者、虐げられている者たちを愛し、いたわられ、救われるイエス様の姿を間近で見て来た。そのようなペテロでしたから、決して隠しきれない内側から滲み出る良いものがきっとあったはず。召使いの女の人は確かにそれを感じたのではないかと期待するのです。それでふと目が留まった。ところが何かキョドっている(挙動不審)。うん?と思った。そして他の福音書では女の人は明かりの近くに座っているペテロをじっと見つめたと記されています。じっと見つめ、良く考えて思わず聞いたのでしょう。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね」と。イエスという名前は当時ポピュラーな名前でしたから、区別するために「あのガリラヤ人のイエスと呼ばれている人と一緒にいましたね」と尋ねたのでしょう。そしてこの女の人はペテロに個人的に尋ねたのです。今で言うと、皆の前で「あれ?そういえばあなたクリスチャンでしたよね」と言われるみたいな感じです。ですからこの女の人の言葉には、特に見咎める(悪事を非難する)響きはありませんでした。ただ、ペテロは周囲の人たちがこの言葉に聞き耳を立てたことを感じたのではないでしょうか。
「ガリラヤ人イエス」。これは確かに「ユダヤが見下すガリラヤの出身だ」と蔑む表現でした。しかしイエス様はエルサレムに入られる時、そこに集まっていた群衆から「ガリラヤのナザレから出た預言者イエス」と呼ばれました(2111)。それは預言者たちを通して「メシアはナザレ人と呼ばれる」と預言されていたからです。その時はエルサレムの都中が大騒ぎになり、非常に多くの群衆が自分たちの上着を道に敷き、また木の枝を切って道に敷きました。これは王を迎える時にする行為でした。そして子ろばの背に乗って入城されるイエス様を王として迎え、「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に」と大歓迎しました(2110)。そのすぐ傍らにいたペテロは、どれだけ鼻高々、誇らしかったことでしょう。ところが、同じようにイエス様のそばにいるのに、この時のペテロは正反対。死刑に定められ、蔑まれ、拷問され、恥をかかされているイエス様の傍らで、ペテロには「あら?あなたあのガリラヤ人のイエスと呼ばれている人と一緒にいましたよね」という言葉がどのような響きを持って聞こえて来たのでしょうか。主を信じている、愛している、尊敬している、誇らしい。しかし状況によって変わってしまう弱さ。決してペテロだけの問題ではないでしょう。
26章70節 ペテロは皆の前で否定し、「何を言っているのか、私には分からない」と言った。
ペテロは召使いの女の人に対してではなく、“そこにいた皆に向かって”「何を言っているのか、私には分からない」と言いました。これは明確な否定ではなく言葉を濁した感じです。しかしむしろそれがペテロの卑怯な心を表しているのです。「否定する」という語は、「その人を拒む、知らない、その人とは何の関わりもない」という意味です。以前にイエス様は言われました。「人々の前でわたしを知らないと言う者(拒む者、何の関わりもないと言う者)は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らない(拒む、何の関わりもない)と言います」(1033)と。ペテロはイエス様のそのみことばを覚えていたのでしょう。どう答えたら良いか分からず、イエス様との関係を否定することもできず、あいまいな答え方をし、そして不安を感じて入り口の方に退きました。
26章71節 そして入り口まで出て行くと、別の召使いの女が彼を見て、そこにいる人たちに言った。「この人はナザレ人イエスと一緒にいました。」
「入り口」とは、大祭司の家の敷地の出入口のことです。ペテロは召使いの女の人のことばを聞いて恐れ、周囲の人たちを恐れ、大祭司の家から出るために中庭から出て、入り口に移動したようです。なぜなら、彼女が言ったことをそこにいた人々が聞き、彼らが「この人は確かにイエスと一緒にいた」と言い出されてしまうと、ペテロ自身もイエス様と同じ罰を受けることが予想されたからです。ペテロがそれを避けようとイエス様を知らない、イエス様とは関係ないと言い、大祭司の中庭から出ていこうとしたことは、「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らない、あなたとは関係ないなどとは決して申しません」と言ったこととは正反対でした。それもつい先ほど(数時間前? 数十分前?)のことです。心熱くしイエス様を愛したその時のペテロはどこに行ってしまったのでしょうか。もしかしたら教会を出て数十分後にはイエス様と関係のない顔をして生きる私たち。心熱くし信仰を告白した私たちはどこに行ってしまうのでしょうか。
「そして入り口まで出て行くと、別の召使いの女が彼を見て、そこにいる人たちに言った。『この人はナザレ人イエスと一緒にいました』」。すると別の召使いの女の人がペテロを見て、今度はペテロに対してではなく、そこにいる人たちに向かって、ペテロの周囲の人たちに向かって「この人はナザレ人イエスと一緒にいました」と言ったのです。今回はうわさが広められようとしていました。するとペテロは先ほどよりもさらに大きな恐れを感じたのです。慌てたペテロは誓いまで立てて、イエス様との関係を否定しました。
26章72節 ペテロは誓って、「そんな人は知らない」と再び否定した。
ペテロは再び否定しました。今度は誓いとともにです。それはイエス様と自分は関係ないと強く否定するためでした。けれどもそれによって自分がのろいを受ける可能性を生じさせてしまいました。誓うということは、誓ったことが真実ではない場合には、自分がのろいを受けて死ぬと宣言することです。イエス様は以前に言われました。「決して誓ってはいけない」と(534)。後にペテロはそのイエス様のみことばを思い出して、さらに大きな罪悪感を感じたことでしょう。しかし、イエス様はペテロが受けるべきそののろいをも背負って、苦しめられ、辱められ、そして十字架に架かられ死んでくださったのです。後にペテロが何かをきっかけにそのことを示され悟った時、ペテロの胸はどれほど刺されたことかと思います。
26章73節 しばらくすると、立っていた人たちがペテロに近寄って来て言った。「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。」
「しばらくすると」。ルカの福音書によると、それは約1時間後でした。その1時間の間、中庭では何が起こっていましたか?イエス様は大祭司、律法学者たちや長老たちによって不当に裁かれ、拳で殴られ、押さえ付けられ、激しい痛みを加えられながら、容赦なくひっぱたかれていた。体が不自由になるほどに拷問を加えられていた。人々の前で平手で打たれ、恥をかかせられていた。馬鹿にされ罵られていた。ペテロは見ていませんでした。しかし聞こえて来ていたのではないでしょうか。イエス様が遠くで殴られている音、大祭司たちがイエス様を罵る声、見物人たちがイエス様を罵る声。そのような中で、1時間もペテロは大祭司の敷地の入り口である人たちと一緒に立っていたのです。出て行くに行けなかった。平気なはずがありません。平気だったらさっさと逃げて行くはずです。ペテロにとってイエス様との3年間の歩みは決して無駄ではなかったということでしょう。
ところがそのような中で、立っていた人たちがペテロに近寄って来たのです。そして言いました。「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる」と。恐らくペテロが2度否定して言ったことばに、ガリラヤのなまりがあったのでしょう。都には巡礼者が多くいました。ガリラヤからの巡礼者も大勢来ていました。ですから冷静に考えれば、ガリラヤのなまりくらいでは証拠にならないのですが、恐れるペテロを狼狽させるには十分だったのです。思わぬところをつつかれ、不意を打たれ驚き慌てたりして取り乱してしまった。
26章74節 するとペテロは、嘘ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と言った。すると、すぐに鶏が鳴いた。
窮地に追い詰められたペテロは、嘘ならのろわれてもよいと本格的に誓い始め、「そんな人は知らない」と言ったのです。ペテロはイエス様を知らないと言ったことを、自分はイエス様とは関係ないと言ったことを、人々に信じてもらおうと一生懸命努力したのです。
実はこの「のろわれてもよい」というところは、文法や文章の構造から解釈する時、自分自身をのろったとは解釈できないのです。最も強いこの3度目の否定で、周囲の人々に自分はイエス様とまったく関係ないと信じてもらおうと一生懸命努力した末に、何とペテロはイエス様をのろってしまった可能性が高いのです。「あの人がのろわれたって自分は平気だ。関係ないのだから」と。
「呪う」というのは「恨みや憎しみを抱いている人に悪いことが起こるよう神に祈る」ことです。何とペテロはイエス様を結果的にのろったのです。イエス様に恨みや憎しみを抱いている人たちに同調した。3年間、イエス様と寝食を共にし、ずっと自分を愛してきてくださったイエス様を結果的にのろったということです。自分の身の安全を守るためにイエス様を知らない、あの人とは関係ないと言ったことを、人々に信じてもらうために、自分を守るためにイエス様をのろうことになってしまった。
26章75節 ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。
イエス様を3度否定してからすぐに鶏が鳴いたのを聞いたペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」とイエスが言われたのを思いだして、外に出て行って激しく泣きました。イエス様がペテロに、「鶏が鳴く前に3回わたしを知らないと言う」と告げられた時、ペテロと弟子たちは「主とともに死ななければならないとしてもそんなことは決してしません」と豪語していました。ペテロはそれを思い出して激しく泣いたのです。こんなことをしてしまった自分に失望し、イエス様に対してただ申し訳なく、どうしたら良いのか分からなかったことでしょう。
ルカの福音書によると、鶏が鳴くと、「主は振り向いてペテロを見つめられた」とあります。どのような思いで見つめられたのか、ここの聖書のみことばだけでは何のヒントも見つかりません。しかしペテロはイエス様のそのまなざしを見て、イエス様のみことばを思い出し、自分の決意を思い出し、そして激しく泣いたのです。自分に失望し、激しく後悔したのです。
ペテロはイエス様のまなざしを一生わすれなかったし、忘れられなかったはずです。もしペテロの記憶が怒りのまなざしの記憶だったとしたら。ペテロのその後の働きは愛に基づくものではなかったでしょう。罪滅ぼしです。単に良いことをして過去の罪の埋め合わせをすることです。そうではありませんでした。ペテロは自分が受けた主の恵み、愛、あわれみに応答したのです。
イエス様はペテロにこう言いました。「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」と(1618)。つまりペテロの信仰の上に教会が建てられる。ペテロが信じていることの上に教会が建て上げられて行く。私たちの教会は、罪滅ぼしのために建てられたものでしょうか。ましてやこの世の偶像礼拝のように自分の欲望をかなえるために建てられたものでしょうか。そうではありませんね。ペテロの信仰の礎は、「愛される資格のない私が愛された、愛されている」「赦されるはずのない私が赦された、赦されている」というものでしょう。そして私たちの教会、そして私たち1人ひとりの信仰の礎も同じです。「愛される資格のない私が愛された、愛されている」「赦されるはずのない私が赦された、赦されている」。その信仰の上に教会は建て上げられ成長して行くのです。その信仰の上に私たちは立て上げられ、日々成長して行くのです。愛、赦し、あわれみ、そしてただ神の恵みによって良いもので満たされて行くのです。
イエス様の時代、ローマ皇帝を主と告白しなければ生きて行けない世の中でした。その世の中でイエス・キリストを主と告白することは「死」を意味したのです。すべての人が当たり前のように偶像崇拝に染まり、当たり前のように自分の欲望ばかりを追い求め、悪を平気で行い、罪を罪とも思わずに平気で犯し、それを楽しむように、それがまるで善いこととされている今の世の中で、イエス・キリストを第一とする、イエス・キリストを主と告白する、主のみことばに従うことは死を意味することになるのではないかと恐れてしまうかもしれません。皆と同じことができず、生き生きと生きられないのではないかという恐れを抱かせるものになるのかもしれません。そのような中で、私たちはペテロと同じ失敗を何度も繰り返してしまう者たちでしょう。私たちは信仰を持ったまま、クリスチャンとして生きて行けるだろうか、こんな自分をクリスチャンと呼べるだろうかと葛藤し、思い悩むことがあるでしょう。しかし、救いはどこもまでも神の恵みによって与えられたものです。弱い私、どうしても罪を犯してしまう私をご存知の上で、救われる資格のない私が救われたというものです。だからこそ、神がその救いを完成させてくださるのです。私たちは信仰を与えた神が、救いを与えた神が、責任を持って救いを完成させてくださることを信じましょう。ペテロは失敗しましたが、その失敗のせいでイエス様から受けた契約が変わることはありませんでした。変わることはないのです。そしてペテロの信仰は守護自身によって回復させられ、完成させられました。救い、そして救いの完成は主の恵み。私たちはその恵みの上にあぐらをかくのでしょうか。そうではないでしょう。主に愛されているなら、主を愛しているなら、感謝しているなら、尊敬しているなら、私たちはその大きな主の愛と恵みによって、主の私たちに注がれるまなざしによって、日々砕かれ、悔い改めの涙を流すのではないでしょうか。しかしその悔い改めの涙は、感謝と喜びの涙へと変えられます。イエス・キリストはすべての人に裏切られ、苦しめられ、辱められ、十字架にかけられ死なれましたが、栄光の姿によみがえられたからです。今も生きておられるからです。私たちにとって十字架はのろいのシンボルではなく、神の祝福のシンボルとなったからです。 ペテロは砕かれ、悔い改めの涙を流すことになりました。そしてペテロの信仰の上にイエス様は教会を建てられ、建て上げられて行く。私たちもこの世にあって生きて行く中で、自分の弱さ、主に対する罪、自分の身を守るためなら主をのろってしまうことさえしてしまう惨めな自分を素直に認め、それでも変わることなく愛し、赦し、恵みをそそいでくださる主の前に、高ぶることなくへりくだり、主に助けとあわれみを求めてまいりましょう。主の愛と恵みによって日々砕かれ、悔い改めの涙に終わらずに、「愛される資格のない私が愛された、愛されている」「赦されるはずのない私が赦された、赦されている」、その感謝と喜びの涙を流すまでに主を知り、主と交わり、主との関係を諦めずに、その信仰の礎を日々強固なものとしていただき、日々成長させていただき、日々イエス様に似たものとされて行くために、この世にあってしっかりと、喜んで天の御国を目指して、救いの完成を目指して歩んでまいりたいと願います。