2024年10月20日 主日礼拝「悔い改めと恵みによる罪の赦し」

礼拝式順序

賛  美  「傷跡」
      「みもとにひれ伏し」
前奏(黙祷)
招  詞  イザヤ書42章5〜6節
讃  美  讃美歌6「われら主を」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌262「十字架のもとぞ」
聖書朗読  マタイの福音書27章1〜10節
説  教  「悔い改めと恵みによる罪の赦し」
讃  美  讃美歌280「わが身ののぞみは」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 ヨハネの手紙第一1章9節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書27章1〜10節

説教題

「悔い改めと恵みによる罪の赦し」

今週の聖句

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

ヨハネの手紙第一1章9節

説教「悔い改めと恵みによる罪の赦し」

マタイの福音書27章1〜10節

次の質問は私が神学生の時、神学校の授業の中で先生からされたもので、このことは妻や第2礼拝の中でも分かち合ったことなのですが、パウロがガラテヤ人への手紙5章の中でこのように言っています。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません」(516)。「御霊によって導かれているなら」(518)。この後に続くみことばは週報の祈りの課題にもなっているところで、皆さん毎日祈ってくださっていると思いますが、こう続きます。「御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません肉のわざは明らかです。すなわち、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです。以前にも言ったように、今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。このようなことをしている者たちは神の国を相続できません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものに反対する律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです」(518-24)。そして締めくくりとして「私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないようにしましょう」(525-26)と。皆さんはこれらのみことばを聞いて、どのような自分の姿を思い浮かべるでしょうか、という質問でした。いかがでしょうか。皆さんも御霊によって歩む自分、御霊によって導かれる自分、御霊によって進む自分の姿を思い浮かべてください。どのように歩み、導かれ、進んでいるでしょうか。面白いことに、神学校の授業の中では答えが真っ二つに分かれました。先生が言われるには、どこへ行っても同じ質問をすると例外なく答えは真っ二つに分かれるのだそうです。一方は自分は何もせずとも、引っ張られるようにして歩み、導かれ、進む自分の姿を思い浮かべるのです。そしてもう一方は、自分の体を打ちたたいて従わせるように歩み、導かれ、進む自分の姿を思い浮かべるのです。そしてお互いがお互いの意見が理解できないと言うのです。いかがですか。つい先日も第2礼拝で同じ質問をしたところ、やはり同じような結果になりました。しかしどちらも真理、本当で正しいのではないでしょうか。御霊によってお生まれになられ、御霊によって生きられたイエス様も、すべてを父なる神の御心に委ねておられましたし、その姿はきっと平安そのものであったことと思います。また同時に十字架に向かって進む中でゲツセマネの園で祈られた時には、血の汗を流されるほどに相当のストレスや恐怖を感じつつ、父なる神の御心に従われました。神の義と愛。父なる神の厳しさと優しさ。それらが見事に混じり合う。それがイエス・キリストの十字架でしょう。イエス・キリストの十字架を仰ぐ時、私たちはバランス良くと申しますか、身を委ねつつ、身を従わせつつ、御霊によって歩み、導かれ、前に向かって、天の御国、永遠のいのちを目指して進むことができるのではないでしょうか。

マタイの福音書は27章に入り、残りあと2章となりました。前回はイエス様の予備公判が行われ、イエス様が拳で殴られ、平手で打たれていた祭司長の中庭で、ペテロが3度イエス様との関係を周りの人たちに対して否定し、しかも最後にはペテロが「そんな人は知らない。自分とは関係ない。嘘ならのろわれてもよい」と誓い、誰がのろわれても良いのかと言いますと、実はイエス様がのろわれても良いと。当然ペテロは嘘をついたわけですから、結果的にイエス様をのろってしまったというところを見ました。私たちも耳が痛い、聞くのがつらいところでした。マタイの福音書には記されていませんが、ルカの福音書に記されている、その時振り向いてペテロを見つめられたイエス様とそのまなざし。ペテロはその時のイエス様のまなざしを一生忘れなかったし、忘れられなかったはず。そのペテロの信仰の礎は「愛される資格のない私が愛された、愛されている。赦されるはずのない私が赦された、赦されている」。このペテロの信仰の上に教会が、また私たち1人ひとりも建てられた、建て上げられて行くのであると。本朝はそれに続いてもう1人のイエス様を裏切った弟子、イスカリオテのユダの悲しいかな、最期のところを見てまいります。

27章1節      さて夜が明けると、祭司長たちと民の長老たちは全員で、イエスを死刑にするために協議した。

27章1節にあるとおり、夜が明けると祭司長たちと民の長老たちは全員で、イエス様を死刑にするために協議しました。彼らは一晩中イエス様を尋問し、イエス様がご自分を神の子キリストであると言われたことについて、神を冒瀆したと断罪しました。それによってイエス様を死刑に処することが可能だとしました。しかしユダヤ人には罪人を死刑に処することはできませんでした。罪人の死刑はローマ総督の命令がなければ執行できませんでした。しかし、神に対する冒瀆罪はユダヤ人にとってはとても大きな罪ではありましたが、ローマ総督のピラトにとっては全くそうではないので、彼らは別の理由でイエス様をピラトに引き渡そうとしました。

27章2節      そしてイエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。

寄り合って相談し、ピラトを説得できる政治的な罪状を探り出しました。そしてイエス様を死刑に処する方策が決まりました。ルカの福音書には、イエス様が「民を惑わし、カエサルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言った」という3つの罪のために、彼らはイエス様をローマに告訴したと記されています。扇動罪、ローマ皇帝とローマに対する反逆罪でしょうか。屠られる羊のように口を開かず、反抗しないイエス様であったのに、彼らはイエス様を一晩中嘲り、むちで打ち、心も体もボロボロにし、もう自力では立ち上がれない、立ち向かえないほどに痛めつけ、自分たちの地位や名誉や富を奪う危険がある憎きイエス様を、無罪のイエス様を縛り、夜明けにローマ総督ピラトのところに連れて行きました。

このピラトは普段はカイサリアに住んでいましたが、過越の祭りの間はそこら中から大勢の人たちがエルサレムに押し寄せ、暴動や反乱などの危険が増すために、治安維持のためにエルサレムに滞在していました。ピラトは最悪な為政者で、政治腐敗に大きく加担し、ユダヤ人の慣習についての理解や常識が足りない人でした。ルカによると「ピラトがガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちが献げるいけにえに混ぜた」などということをした人。それで統治の初期の頃からユダヤ人との摩擦が絶えなかったと言われています。そのような敵対関係にあるピラトと組んでまでイエス様を抹殺したいとは…。自分を守るため、自分の欲望を成し遂げるために無罪のイエス様を有罪に仕立て上げようとする、なき者にしようとする人の底知れぬ罪を思わされます。そしてそれは誰の心にも潜んでいるものです。結局のところ、イエス様の弟子であるペテロがイエス様を知らない、関係ないと言ったのも同じことでしょう。

さらに彼らは自らの手を汚そうとしないのです。人を殺すように仕向けておきながら、律法を守っていると主張するのです。「安息日に働いてはいけない」という律法を守るために、エレベーターのボタンを押すことは労働にあたるので、異邦人を呼び寄せ、異邦人にエレベーターのボタンを押させる。「彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません」(234)。偽善者の姿です。イエス様は偽善者に対する厳しいさばきのことも語られました。

場面は移ります。

27章3節      そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。

「イエスを売った」というのは、イスカリオテのユダが銀貨30枚でイエス様を祭司長たちに引き渡すと約束したことを指します。彼らにイエス様を銀貨30枚で引き渡したユダは、イエス様がピラトに引き渡され死刑に定められたのを知って後悔しました。しかしこの「後悔」という語は、悔い改めたというよりも「気が変わった」というものです。

27章4節      「私は無実の人の血を売って罪を犯しました。」しかし、彼らは言った。「われわれの知ったことか。自分で始末することだ。」

「気が変わった」ユダが、どのような思いで「私は無実の人の血を売って罪を犯しました」と言ったのか。それはやはり悔い改めたのではなく、ただの後悔だった。自分のしてしまったことを後になって省みて、あれは失敗であったと残念がったのでしょう。

ユダは後悔しましたが、もう自分ではどうしようもない、取り返しのつかないところまで来てしまっていました。ユダはこの時「無実の人の血」と言いました。申命記27章25節にはこうあります。「賄賂を受け取り、人を打ち殺して、咎のない者の血を流す者はのろわれる」と。ユダは明らかにこれを意識し、自分が神の御前で罪を犯し、のろわれるべきことを知ったということです。そして気が変わった。後悔した。しかし悔い改めではなかった。

もしかしたらユダは祭司長たち、長老たちにも申命記のみことばを突きつけたのかもしれません。しかし彼らは取り合わず、このことに対する自分たちの責任を認めようとはしませんでした。罪を認め、「では一緒に何とかしようではないか」というようにはならなかったのです。すべての責任をユダになすりつけたのです。「それが私たちにとって何なのか」と。新共同訳では「それはお前の問題だ」と。「自分で始末することだ(償うことだ)」と。皆さんはすべての責任を自分ひとりになすりつけられたことがあるでしょうか。想像しただけで悲惨です。絶望です。しかしユダがどんなに後悔しても、もう状況がここまで進んでしまった以上、何とかできる状況ではありませんでした。取り返しがつかない状況でした。もう神に立ち返り、神に必死になってすがりつくようにして、からみつくようにして神に依り頼むしかない。それこそ後悔ではなく悔い改めでしょう。

しかしユダは悔い改めることはせず、自力で解決しようとしたのです。

27章5節      そこで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして出て行って首をつった。

ユダは気が変わって受け取った銀貨30枚を返そうとしましたが受け取ってもらえなかったので、その銀貨を神殿に投げ込んでそこから、つまり神の前から立ち去りました。「立ち去った」という語は、「危険から逃れるために撤退する」を意味します。やはり心からの悔い改め、神に立ち返り、神に依り頼むものではなかったのです。そして出て行って首をつった。これは「ぎゅっと押す、縛り付ける」という語から派生した語で、「自らを縛り付ける、締め付ける、自分で自分の首を絞める」という意味の語となっています。自らを縛り付ける。自力で解決しようとする。それは自分で自分の首を絞めることになってしまうのです。

また場面は変わります。

27章6節      祭司長たちは銀貨を取って、言った。「これは血の代価だから、神殿の金庫に入れることは許されない。」

祭司長たちはユダが神殿に投げ込んだ銀貨を取って(新共同訳では「拾い上げて」)、「これは血の代価だ」と言いました。「血の代価」は文字どおり血に対する代価、あるいは人の血を流した行為のことを指します。彼らはそのような罪によって得たものを神は忌み嫌われることは心得ていたのでしょう。

27章7節      そこで彼らは相談し、その金で陶器師の畑を買って、異国人のための墓地にした。
27章8節      このため、その畑は今日まで血の畑と呼ばれている。

罪であることを心得ていながらも、誰一人それが罪である、私は罪を犯しているのかもしれないとは心のどこかで思っていても決して言い出さず、お互いの心を探るように、お互いの顔色をうかがいつつ、「われわれの知ったことか」と言い訳をし、正当化し、それを拾い上げ、相談した結果、その金で陶器師の畑を買ってそこを異国人のための墓地とすることに決定しました。良いことをしたつもり、せめてもの罪滅ぼしのつもりだったのでしょうか。偽善者です。彼らは宗教指導者たちでしたから、そこで輪にでもなって心一つにして神にどうしたら良いのか心から依り頼んで、信じて祈るべきだったのではないかと思ってしまいます。頑なな心は神に砕いていただかなければ決して砕かれないものです。しかし彼らの心は砕かれることはありませんでした。それは預言の成就のためであったようです。イエス・キリストの死に関するすべてのことが、神の主権の下で進んで行っていたということです。

27章9節      そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。「彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの子らに値積もりされた人の価である。
27章10節    主が私に命じられたように、彼らはその金を払って陶器師の畑を買い取った。」

マタイはユダの死について、これらのことが預言者エレミヤを通して神が語られたみことばの成就だと記します。しかし実際は、ゼカリヤとエレミヤ2人の預言者による預言を組み合わせたものです。エレミヤの方がゼカリヤよりも有名だったので、「預言者エレミヤを通して語られたことが成就した」と、ゼカリヤにとっては何とも言えない記され方がされています。

9節の「彼らは銀貨30枚を取った。イスラエルの子らに値積もりされた人の価である」というのは、ゼカリヤ書11章に記されている預言です。ゼカリヤは屠られる神の羊の群れを飼う牧者の1人でしたが、他のなっていない牧者、屠られる神の羊に対してまったくあわれみの心を持たない他の牧者たちを叱責し、彼らを退けました。そして彼らから嫌われました。それらを見ていた羊の持ち主にゼカリヤは言いました。「『あなたがたの目にかなうなら、私に賃金を払え。もしそうでないなら、やめよ。』すると彼らは、私の賃金として銀30シェケルを量った」(ゼカ1112)。牧者ゼカリヤは銀30シェケルに値積もりされました。さらに主は言われました。「主は私に言われた。『それを陶器師に投げ与えよ。わたしが彼らに値積もりされた、尊い価を。』そこで私は銀30を取り、それを主の宮の陶器師に投げ与えた」(ゼカ1113)。神から遣わされた牧者ゼカリヤが自分の民から捨てられ、銀30シェケルという侮辱的な少額の価で値積もりされ蔑まれたように、神から遣わされたまことの牧者であり王であるイエス・キリストも同じように銀貨30枚で値積もりされ、蔑まれたのです。

そして10節の「主が私に命じられたように、彼らはその金を払って陶器師の畑を買い取った」というのは、エレミヤ書32章に記されています。「陶器師の畑」とは、陶器を作るための土を取る地所です。

その前にエレミヤはエレミヤ書19章のところで、神はエレミヤに土の焼き物の瓶を買い、それを砕いて、イスラエルにもたらされる神のさばきについて警告するように命じられました。このみことばが、イエス・キリストの十字架が近づいているこの時点で、ユダヤ人指導者たちがイエス様を捕らて殺そうとして、自分たちやイスラエルの地に神のさばきをもたらしていることによって成就することを示しています。神の義です。

そして32章でエレミヤは、イスラエルの民にいつの日か神がその地を回復させられることを教えるために、エルサレムの近くの陶器師の畑、陶器を作る土を取る畑を買い取りました。そこから土を取って新しく器を作り直そう。これは神の真実のゆえに、何があろうとも決して変わることのない神の民に対する真実の愛、また契約を守られる真実のゆえに、神の大切なひとり子イエス・キリストを十字架につけたご自分の民を救い、その地を回復するという救いのメッセージです。神の愛です。

マタイはイスカリオテのユダの死についての記事を締めくくりながら、これらすべてのことが預言者を通して語られた神のみことばの成就であったと言います。これは、メシアとして来られた神の子イエス・キリストを受け入れず、ねたみ、排斥しただけでなく、死に追いやったユダヤ人、またメシアとして来られた神の子イエス・キリストを受け入れず、排斥するだけでなく、死に追いやろうとさえする私たちすべての人に対する神のさばきのメッセージです。しかし同時に、ご自分の真実のゆえに、ご自分を十字架につけたご自分の民を救い、その地を回復するという救いのメッセージでもあります。神の義と愛のメッセージです。

ユダは悔い改めではなく死を選択して、3年間ともに過ごしたイエス様と他の弟子たちと永遠に決別しました。ユダにとって、他の弟子たちにとって、またイエス様にとって、何と悲惨で悲しいことだったかと思わされます。ユダは罪から自由ではなく、自分の罪を解決する力もなかったことを思わされます。同時にすべての人間は罪から自由ではなく、自分の罪を解決する力もないことを思わされます。神の義と愛、あわれみを覚えることによる悔い改めだけが、罪の赦しを得させるのです。ユダはイエス様が宗教指導者たちによって罪に定められるのを見て、イエス様を彼らに売り渡したこと、引き渡したこと、裏切ったことを後悔し、気が変わって銀貨30枚を彼らに返そうとしましたが、それで彼らがイエス様を解放するはずがありませんでした。もうどうにもならない状況でした。そしてユダは自らを縛り付けた、締め付けた、自分で自分の首を絞めました。そして死んでしまった。それが自分の罪を悔いていることの最大の証拠と考えたのでしょうか。しかしこの行為さえ、ユダに罪の赦しを得させはしませんでした。なぜなら、結局ユダは神を求めなかったからです。ユダは罪を解決できるのが神だけであることを認めようとせずに、あくまでも自分の力で解決しようとしたからです。イスカリオテのユダを通して、人間が何をしても自分の罪を償えないほど無力であることが確認出来ます。そのことを素直に認め、神だけに依り頼んで、罪の赦しの恵みを受けなければなりません。

イスカリオテのユダが滅びたのは、イエス・キリストを裏切った行為だけでなく、自分の罪を自分で償おうとしたからでもあります。もしユダがイエス様のところに行って、苦しくても、悲しくても、悔しくても、自分の心が責めようとも、身動きもできないほどに拷問され、蔑まれ、心も体もボロボロのように見えるイエス・キリストの前に行っていたなら、その御姿を拝して心から悔い改めへと導かれていたなら、きっとユダは他の弟子たちのように赦され、使徒としての使命を与えられたことでしょう。「ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけますが、御霊(神の心、親心、愛)に対する冒瀆は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来るよでも赦されません」(マタ1231-32)。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」(Ⅰヨハ19)。しかし、ユダにはこのことを語られたイエス様に対する信仰がありませんでした。彼にとってイエス様はただのラビ、先生、自分の方から口づけをした(故意に侮辱した)相手でした。

ダビデはバテ・シェバと姦淫し、その夫ウリヤを間接的に殺すという大変な罪を犯しました。しかし、その罪とともに、それを自分の力では償えないことを認めて、神の御前にひれ伏し、涙とともに真実に悔い改め「神よ 私をあわれんでください。あなたの恵みにしたがって。私の背きをぬぐい去ってください。あなたの豊かなあわれみによって」と祈りました(詩511)。ダビデは罪の赦しが神のあわれみであることを信じたのです。罪の赦しが恵み(与えられる資格のないものに与えられるもの)であることを信じたのです。ペテロや他の弟子たちもイエス様を裏切りました。しかし、ユダのように自分の力で罪を償おうとはしませんでした。それは弱かったからでしょうか、それとも強かったからでしょうか…。

後に両手に釘跡が残り、わき腹に槍に刺された傷が残る復活のイエス・キリストに会って、罪の赦しの恵みを受けました。私たちもその信仰をもって、主の御前に悔い改めようではありませんか。私たちは全く罪を犯さない者たちでしょうか。日々「私の罪をお赦しください」と祈る者たちでしょう。諦めずに、すがりついて、ヤコブのようにからみついて、からみついて離さないほどに、主の愛とあわれみにすがって悔い改め、真の赦し、救いをいただこうではありませんか。神はそのヤコブを祝福されたのです。神が自らひざを折られたのです。恵みによって赦しをお与えになったのです。

最後に、ユダと他の弟子たちとの相違点は、悔い改めて新しい人生を生きたという点にもあります。彼らが犯した罪と、主から与えられた罪の赦しは、彼らの生きる力、この世を生き抜く力、そして福音の証しの力となりました。罪の中にいる人々を蔑んだりせず(誰が蔑むことができるでしょう)、すべての人が悔い改めて救われるべき尊いたましいであることを信じて、世の人々を愛し、あわれみ、仕えながら福音を伝えることができました。時には自分の心が嫌だ、あんな人のために、イエス様を十字架に架けたあんな人のために、自分を傷つけ辱めるあんな人のためにと責めることもあったでしょう。しかし主の御心のとおりにすべての人々が救いへと導かれるようにとりなし祈ることができました。彼らのように私たちも頑張ってなりたいものです。いや、普通になれるのです。

神はどんな悪者であっても、悔い改めるなら恵みとあわれみを施されます。私たちはその恵みとあわれみをいただいた経験者。今も日々経験させていただいている者。今日からも私たちは、すべての咎と罪の赦しの恵みを受けさせる悔い改めと救いの福音を、すべての国の人々に伝え、すべての人が救われることを望まれる神に従ってまいりましょう。

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