2024年10月27日 主日礼拝「イエスを十字架につけた3種類の人間」
礼拝式順序
賛 美 新聖歌434「語り継げばや」
新聖歌453「聞けや愛のことばを」
前奏(黙祷)
招 詞 イザヤ書53章3〜6節
讃 美 讃美歌7「主のみいつと」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌143「十字架をあおぎて」
聖書朗読 マタイの福音書27章11〜26節
説 教 「イエスを十字架につけた3種類の人間」
讃 美 讃美歌249「われつみびとの」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 イザヤ書53章5b節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
マタイの福音書27章11〜26節
説教題
「イエスを十字架につけた3種類の人間」
今週の聖句
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
イザヤ書53章5b節
説教「イエスを十字架につけた3種類の人間」
マタイの福音書27章11〜26節
いよいよ教会の外壁の修繕工事が始まりました。この工事に至った経緯は本当にただただ恵みでした。修繕の必要を覚えて皆さんに祈っていただいていましたが、そのような中で主の御腕が伸べられるように思いがけず塗装業者のお得なチラシが入り、それを発見された方が連絡を取ってくださり、連絡を取ったところとても良い条件で工事をしていただけることになりました。主の恵みを覚えてただ感謝するばかりです。しかし皆さん、これからその必要を覚えてお献げくださいと、改めてお願い申し上げるところです。確かに必要は主が恵みによってすべて満たしてくださいます。同時に私たちは主の恵みに感謝しつつ、応答して献げる者でありたいと願います。ささげ物はいわゆる犠牲です。また誰も有り余った中から献げるものではありません。普段の献金もそうですが、皆さん色々と苦しい中で主への感謝と献身の思いをもって献げてくださっておられると思います。犠牲の伴う真実の愛をもって主を愛し、また主が立ててくださった教会を愛して行く。そのような者たちでありたいと願っています。
さて、先週の質問を覚えておられるでしょうか。パウロがガラテヤ人への手紙5章の中で「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません」(516)。「御霊によって導かれているなら」(518)。「御霊によって進もうではありませんか」(525-26)。皆さんはこれらのみことばを聞いて、どのような自分の姿を思い浮かべるでしょうか、という質問でした。いかがでしょうか。皆さんも思い浮かべてみていただけたでしょうか。自分は何もせずとも、引っ張られるようにして従い、導かれ、進む姿を思い浮かべた方。あるいは自分の体を打ちたたくようにして従い、導かれ、進む自分の姿を思い浮かべた方。答えは2つに分かれるかもしれませんが、どちらも本当のあるべき姿であるということを分かち合いました。私の言葉足らずでいけなかったのですが、パウロはガラテヤのクリスチャンに向けて手紙を書いたわけですから、これは私たちが「救われるために」の方にではなく、「救われた私たち」のあるべき姿の方に重きが置かれているということです。先ほども赦しの宣言、神の赦しのことばをご一緒に聞きました。「『キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた』(Ⅰペテ224)。今、告白されたあなたがたの罪は赦されました。この福音を信じ、平和のうちに行きなさい」。福音を信じ、救い主イエス・キリストを信じ、そして愛される資格のない私が愛された。赦されるはずのない私が赦された。その素晴らしい恵みに対してどのような態度でこれからを生きて行くのか。主は福音を信じ、平和のうちに行きなさいと言われる。同時に応答として罪を離れ、義のために生きて行こうと願う。そしてどちらの姿も本当で、あるべき姿であるのだと。いわゆる2面性です。
イエス様も聖書の中でご自身の2面性を私たちに見せておられます。福音書の中の羊飼いのように弱い羊たちを守り導かれるイエス様。黙示録の中のそれは恐ろしい姿をもって人の前に現れるイエス様。どこまでも優しく、どこまでも厳しいお方。「恐れるな。どちらもわたしだ」と言われる。何よりもイエス様は100%神であり、100%人なるお方です。100%神であり何一つ罪を犯されなかったイエス様が、100%人として十字架の苦難(辱め、痛み、苦しみ、心もからだも大きなダメージ)を受けられ、そして人々の目には敗北者のような姿で死なれたのです。しかし完全は勝利者の姿でよみがえられた主は言われるのです。「恐れるな。どちらもわたしだ」と。このような主だからこそ、私たちはこのお方を心から信頼してお従いし、祈り願い、自らを委ねることができるのではないでしょうか。
本朝与えられましたみことばは、マタイの福音書27章11〜26節です。ここには神の御子イエス・キリストを重罪人に仕立てて十字架につけるという出来事が記されています。人間の罪の性質を劇的に示すようなところです。
ここにイエス・キリストを十字架につけた3種類の人間の姿が見られます。まずはピラト、次にユダヤ人の指導者や群衆、そしてバラバ・イエスも。私たちは今日の箇所を、自分はこの3つのうちどれに属しているのだろうかと、そのことを思い巡らしながら見てまいりたいと思います。そして私たちの中にあるイエス・キリストを十字架につけた罪の性質を改めて聖霊によって認めさせていただき、感謝とともに悔い改めるべきことをも心に刻ませていただきたいと思います。
27章11節 さて、イエスは総督の前に立たれた。総督はイエスに尋ねた。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエスは言われた。「あなたがそう言っています。」
ところで、ここでの場面設定なのですが、イエス様とイエス様を訴える者たちが1つ同じ所にいるような印象を持ってしまいますが、実はそうではありませんでした。ヨハネの福音書18章28節を見ると、「彼らは、過越の食事が食べられるようにするため、汚れを避けようとして、官邸の中には入らなかった」とあります。また当時の裁判は公開裁判でした。そのため裁判の席は官邸の入り口にありました。イエス様は公開裁判の席に立たれていたのではなく、ピラトの前に個人的に立たれていました。そしてピラトは、イエス様とイエス様を訴える者たちの間を行ったり来たりしているのです。少しかわいそうなピラト。しかし原因はピラトのどっちつかずの優柔不断なところにあったのかもしれません。
イエス様は総督ピラトの前に立たれました。「立つ」というのは、ただ立っているのではなく、「しっかり立っている、不動である」という意味の語です。すでに大祭司カヤパの邸宅で身動きができなくなるほどに拳で殴られ、心が動かなくなるほどに平手で打たれ辱めを受けられたその直後であるのに、イエス様はどこか堂々たる威厳に満ちた姿をピラトに見せたのでしょうか。ピラトはイエス様の中に100%神でありながら、100%人である姿を見たのかもしれません。しかし祭司長たちや長老たちは訴えている。「この者はわが民を惑わし、カエサルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることが分かりました」(ルカ232)。そこでピラトは質問するのです。「あなたはユダヤ人の王なのか」「お前には本当に彼らが訴えているような罪があるのか」と、イエス様に罪を確認しようとする。するとイエス様は短く言われる。この「言う」という語は、「宣言する、言い切る、申し渡す」というもの。「あなたがそう言っています」。裁判官であるピラトに逆に判決を言い渡すようなイエス様。私たちはどこまでもイエス様を疑い、また裁く者なのではないことを覚えなければなりません。
27章12節 しかし、祭司長たちや長老たちが訴えている間は、何もお答えにならなかった。
ここの「答える」という語は、「対話に参加するために応答する」というものです。祭司長たちや長老たちの訴えにはまるでお答えにならない。対話に参加されようともしない。私たちももしかしたら祈りの中で経験していることなのではないでしょうか。
27章13節 そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにも、あなたに不利な証言をしているのが聞こえないのか。」
27章14節 それでもイエスは、どのような訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。
ピラトはイエス様に対する「激しい訴え」が正しくないことを知っていたのでしょう。「あんなにも、外であなたに不利な証言を叫んでいるのに、それが聞こえないのか」。それでもイエス様は彼らの訴えには一言もお答えにならない。応答しない。ピラトはこのように自分を全く弁護しない人をこれまで見たことがなかったのです。人というのは、とかく罪人というのは口数多く自分を弁護したり誰かを悪者にしようとする者です。しかしイエス様は不利な証言に対しても一言もお答えにならない。ピラトは「非常に驚いた」とあります。新共同訳では「不思議に思った」となっています。
イエス様は何も答えられない。イザヤの預言を思い起こします。「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」(イザ537)。このイザヤの預言には「口を開かない」ということばが繰り返されています。前半は「神の子羊」として全焼のささげ物にされることを受けとめているというイエス様の謙遜を、後半は「毛を刈る者」つまり父なる神に対する信頼の証しとしての沈黙を意味していました。イエス様がもしこの時、口を開いて答えておられたなら、彼らの偽りが暴かれ、イエス様は解放されていたかもしれません。しかしイエス様はそうされませんでした。イエス様は神の救いのご計画のままに、神を信頼し十字架の贖いの死へと向かわれました。罪人に対する、彼らに対する、私たちに対する愛のゆえにです。それも犠牲の伴う本物の、真実の愛ゆえにです。
イエス様の沈黙。ピラトにとっては、それは驚きであっただけでなく、法的にも厄介なことでもありました。使徒の働きなどを見ると、ローマの法廷では有罪の判決を下す前に被告に3回答弁する機会を与えることが決まっていました(使徒2516)。イエス様には死刑に該当する罪がなく、ユダヤ人たちがイエス様をねたんで捕らえたことを察していました。しかしピラトには、イエス様に味方し、イエス様を釈放することによって自分が被ってしまう色々な不利益をそのまま受け入れるほどの正義感はありませんでした。そこで1つの策を練るわけです。
27章15節 ところで、総督は祭りのたびに、群衆のため彼らが望む囚人を一人釈放することにしていた。
ピラトはこれまで、自分の地位や民衆の支持や人気を得るために、祭りのたびに群衆が望む囚人を1人釈放するということをしてきました。それを利用しイエス様を釈放しようと考えました。きっと群衆はイエス様の釈放を願うと浅はかにも予想したからです。よく考えもせずにイエス様に対する重要な決定を下そうとしてしまいます。しかしそのことによって、ピラトは使徒信条の中であのような形で代々にわたり名前を呼ばれてしまうことになるという、何とも残念と言いますか、不名誉で気の毒なことになってしまっています。ピラトのように浅はかにではなく、深く思い巡らし、唯一まことの神と、神が遣わされたイエス・キリストを本当に知っていくこと。これこそ幸いな永遠のいのちであると聖書は言っています。
27章16節 そのころ、バラバ・イエスという、名の知れた囚人が捕らえられていた。
27章17節 それで、人々が集まったとき、ピラトは言った。「おまえたちはだれを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」
27章18節 ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことを知っていたのである。
「名の知れた」、新共同訳では「評判の」となっています。原語の意味としては「注目に値する、重立った(集団の中で重要な地位を占める中心的人物)」というものです。ここにピラトは2人の「イエス」を並べるわけです。まさに浅はかでイベント感覚で楽しむような様子が見てとれるのではないでしょうか。イエスとはヘブル語で「ヨシュア」であり、極めて一般的な名前でした。同時に「主は救い」という意味で、イスラエルを新しい時代に導く指導者にふさわしい名前でもありました。つまり「暴動と人殺し」によって革命運動を主導したと思われるバラバ・イエスと、キリスト(メシア)と呼ばれているイエスと、おまえたちはどちらを釈放して欲しいのかと問いかけたのです。
ピラトは、イエス様が祭司長たち、長老たちのねたみによって引き渡されたことを知っていました。ピラトは群衆がつい5日ほど前にイエス様を「ダビデの子」として歓迎したのを知っていました。ですから人々がキリストと呼ばれるイエス様の釈放を願い、一件落着となるという浅はかな予想をしたのです。ピラトは、この時のユダヤ人の心理状態や、聖書の預言や預言の解釈に何の興味を持たず、この世的な打算による提案をしてしまったのです。そして後に、正しい決定を知っていながらも、群衆の決定に従わなければならくなってしまうのです。自分で自分の首を絞めることになってしまうのです。群衆の人気を得ようと立てた策によって永遠に誰よりも不名誉を受けてしまうという悲惨。
ここに割り込むようにして1人の女性が登場します。ピラトの妻です。
27章19節 ピラトが裁判の席に着いているときに、彼の妻が彼のもとに人を遣わして言った。「あの正しい人と関わらないでください。あの人のことで、私は今日、夢でたいへん苦しい目にあいましたから。」
ピラトが裁判の席に着いているとき、つまり公開裁判の中で、ピラトの妻によってイエス様の裁判についての重要なメッセージが伝えられました。それによって裁判は中断されました。群衆は聞き耳を立てたことでしょう。そしてピラトの妻は「あの正しい人と関わらないでください。あの人のことで、私は今日、夢でたいへん苦しい目にあいましたから」と伝えました。これはイエス様には罪がなく、処刑される理由などまったくないことを、ピラトに、群衆に、そして読者である私たちに確認させるものです。
ユダヤ人であれば知っていたでしょう。聖書には、神が指導者に不思議な夢を見させて未来への備えをさせるという記事がたびたび登場します。つまりこれは1つの神からの預言です。そしてそれを1人の女性に語らせる。これにもまた重要な意味があります。当時の女性には何の力や影響力も与えられていませんでした。認められていなかったのです。それは、信じる、決定するというのは、誰かの権威に従うのではなく、強制ではなく自由に、とても信じられないようなことであっても自分で決めて、自分で信じて、自分で従わなければならないということを示しているのではないでしょうか。
さて、群衆の心が少しだけ動き出したかもしれないその時、ちょっと待てとばかりに祭司長たちと長老たちが動き出しました。
27章20節 しかし祭司長たちと長老たちは、バラバの釈放を要求してイエスは殺すよう、群衆を説得した。
彼らは説得に動き出したのです。彼らは自分は正しい、これは神のためと思って行動していたのだと思います。それが自分たちのイエス様に対するねたみであることを知ってか知らずか。彼らはイエス様を殺すために、バラバの釈放を要求させようと群衆に働きかけるのです。そして群衆はその説得に聞いてしまいました。よく考えもせずに、自分で決めるのでもなく、この世の権威に、この世の流れ、この世の見方に従ってしまったのです。祭司長たちが言うとおり、群衆の目にはローマの軍隊に捕らえられ、無力となったイエス様が自分たちを救い出してくれるメシアとは思えなくなってしまったのです。それに比べれば、ユダヤの解放のために勇敢に戦ったバラバの方が英雄、力あるメシア、救い主に見えてしまったことでしょう。群衆はイエス様にしていただいたことをすっかり忘れてしまった。イエス様から聞いたことを忘れてしまった。祭司長たち、長老たちがそうさせたのです。
彼ら宗教指導者たちはイエス様を初めから殺そうとしていました。イエス様が自分たちの罪を人々の前で厳しく指摘し、力あるわざを行い、御国の福音を宣べ伝え、多くの人々の尊敬と支持を受けたことに脅威を感じていたからです。ねたんでいたからです。「しかし、ねたみの前には、だれが立ちはだかることができるだろうか」と聖書は言います(箴274)。それほどねたみは恐ろしいものなのです。イエス様が自分よりも優れているからとなぜか憎んでしまう。憎んでしまうのはやはり自分の欲望が第一であり、何としてもそれを成し遂げようという強い思いがあるからでしょう。自分の苦しみや悲しみの原因がなんなのか、その意味は何なのか、イエス様はみことばを通して何度も語られているのに、それを理解しようとしない、従えない頑なな心。祭司長たちや長老たちがこのような罪を犯した理由は、神よりも自分たちの欲望や心情を追求したためです。神のみことば、神の約束の前にへりくだり、すべてを委ねる。同時に辛い作業ではありますが、神の前で自分の欲望を捨て、神だけを慕い求めるべきことが教えられるように思います。
27章21節 総督は彼らに言った。「おまえたちは二人のうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
ピラトは再びバラバとイエス、「2人のうちどちらを釈放してほしいのか」と群衆に聞くのですが、説得されてしまった群衆はバラバだと叫んでしまいます。説得によって、以前はイエス様に従い、イエス様の教えを喜んで聞き、イエス様の力あるわざに驚き、癒やしを求めてイエス様のところに集まったユダヤ人たちも、宗教指導者たちの言葉を聞いて、イエス様が神を冒瀆したなら殺されるべきだと思い直したようです。イエス様が威厳のある王になるどころか、捕らえられて裁判を受けているではないかと言いふらし、群衆を失望させ、そして群衆は失望してしまう。そして宗教指導者たちに先導され、イエスを十字架につけろと叫んでしまう。
27章22節 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと呼ばれているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはみな言った。「十字架につけろ。」
27章23節 ピラトは言った。「あの人がどんな悪いことをしたのか。」しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。「十字架につけろ。」
イエス様に対する失望が怒りに変わる。誰かに対する失望が怒りに変わる。自分の期待が裏切られたと思ったとたん、それが激しい憎しみに変わるということが良くあります。期待が大きかった分だけ裏切られたと思う時の失望は大きくなります。慰めを期待したのに、イエス様(あの人)は私の罪を徹底的に指摘され、悔い改めるように迫られる。そしてイエス様(あの人)に対する憎しみと反感を抱くようになる。
しかし、「あの人がどんな悪いことをしたのか」。これほど私たちの心に刺さる問いかけはないのではないでしょうか。私たちにも問いかけられているのです。「あの人がどんな悪いことをしたのか」。
バッハのマタイ受難曲という、マタイの福音書26〜27章のイエス・キリストの受難を題材にした有名な曲があります。その最初の部分で「慕わしき 救い主の 破りしは何の掟 犯せしはいかに深き、罪咎ぞ」という問いかけが歌われます。それがマタイ受難曲全体での問いかけとなっています。その答えとして、十字架の判決の前に「彼は私たちすべてに良いことをしてくださった。彼は見えない人の目を開き、足の萎えた人を歩けるようにしてくださった。彼は私たちに御父のことばを伝え、悪魔を追い払ってくださった。悲しむ者に気力を回復させ、罪人を受け入れ、引き受けてくださった。そのほかのことを私のイエスは何もなさらなかった」と歌われます。イエス様は善い行いしかしなかったために十字架につけられることになった。人を愛されたために殺された。何という皮肉でしょうか。そのことがイザヤ53章3〜6節では、「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。…まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。…彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた」と描かれます。イエス様の十字架へ向かうすべての苦しみが、人々の病をいやし、気力を回復させるための地上での最後の働きであったのです。それは私たちに真の平安と癒やし、神との平和と罪の赦しをもたらすための主の真のしもべ、神の御子としての働きでした。神の御子イエス・キリストはまさにこの時、私たちへの愛のゆえに死のうとしておられるのです。そのイエス様を「十字架につけろ!」と叫ぶ群衆。その罪のゆえにイエス様は十字架にかけられ死なれました。
27章24節 ピラトは、語ることが何の役にも立たず、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の目の前で手を洗って言った。「この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい。」
予想の外れたピラトは、自分の手を洗ってこの件について自分には責任がないと主張しながら、イエス様を十字架につけ、卑怯にもイエス様を殺しました。ピラトは祭司長たちの狙いと偽りを見破っていました。何が正義か分かっていました。総督という権力でイエス様を釈放することもできましたが、エルサレムに騒ぎが起こり、自分の地位が脅かされることを望みませんでした。ちなみに「ピラト」という名前は、「槍兵」という意味のラテン語から来ているそうです。家系的には一介の兵士で、そこから成り上がった人だったのかもしれません。それだけに自分の地位というものに固執していたことが予想されます。それで民衆の圧倒的な叫び声を聞いて、イエス様の釈放をあきらめたのです。イエス様をあきらめたのです。彼らの願いどおりにすると決めてしまいました。正義をなすためには、勇気と、時には犠牲が必要なのです。ピラトにはそのどちらもありませんでした。
今日でも、イエス様の教えは真理であり、イエス様は罪のない正しいお方、また救い主であるということを知りながら、この方を信じて従うと、自分の立身出世の障害になるのではないかとか、人々から特別な目で見られるのではないかとか、好きなことができない、自由が制約されるのではないかという目先のことを考えて打算的になり、真にイエス様に従わない、裏切る、知らないという人が残念ながらいるのです。またイエス様に対する信仰を告白できない人がいるのです。しかし、ピラトのような優柔不断な態度では、問題の真の解決はできず、ただ後悔を残すのみとなってしまいます。
27章25節 すると、民はみな答えた。「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に。」
27章26節 そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスのほうをむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した。
群衆は、「その人の血は私たちや私たちの子どもらの上に」と答え、イエスの死についての責任が彼ら自身とその子どもらにあると認めました。それはつまり、イエス・キリストがメシア救い主であることを結果的に信じなかったということです。そこでピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエス様はむちで打ってから十字架につけるためにローマの兵士たちに引き渡しました。十字架刑に処される囚人は、その前に十字架刑の時間を短縮するために、木の柱に縛られて、先端に鋭い鉛や骨片を付けた皮のむちで打たれました。これも非常に残忍な刑罰で、十字架につけられる前に死んでしまう者さえいたほどでした。ピラトという人はイエス様の無実を知りながらも、自分の地位や名誉を守るために、責任を他人に押しつけ、こんなひどいことをするのです。
驚くほどの恵みをいただいたのがバラバです。バラバは思いがけず死刑を免れました。これは明らかに、イエス様の身代わりの死により、罪人である私たちが救われることを示していると言えます。このバラバもまた間接的にかもしれませんが、イエス様を十字架につけた1人です。釈放されたバラバのその後はどのようなものだったのか。聖書にはバラバのその後を示唆する材料がありません。バラバは受けたその恵みの大きさも知らずに以前と変わらずに生きたのか。しかしバラバが知らずとも、それは明らかに神からいただいた祝福によって、恵みによって与えられ導かれた人生です。その恵みの大きさを知り、悟り、大きな驚きと感謝をもって生きて行ったのか。それは全く分かりません。私たちのこれからも分かりません。私たちのこれからの人生が、神の御霊によって導かれ、御霊によって進むものであるようにと願わされます。
さて、最初に申し上げました。あなたは今日の箇所に登場する3種類の人間のうち、どれに属しているでしょうかと。イエス・キリストを十字架につけた者たちの罪は、すべての人の罪です。イエス・キリストを十字架に付けたのは、他ならぬ私自身です。神に敵対したこの私、神に敵対しているこの私をも愛して、十字架の贖いを成し遂げてくださった主の恵みを覚えたいと思います。そしてへりくだって罪を認め、悔い改めて、それをこれからを正しく生きる力にしてまいりましょう。イエス・キリストの福音を正しく宣べ伝えていく力としてまいりたいと思います。