2024年11月10日 主日礼拝「御子の叫び、父の涙」
礼拝式順序
賛 美 新聖歌264「われ贖われて」
新聖歌265「世人の咎のために」
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇100篇1〜5節
讃 美 讃美歌9「ちからの主を」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌135「十字架のもとには」
聖書朗読 マタイの福音書27章45〜56節
説 教 「御子の叫び、父の涙」
讃 美 讃美歌495「イエスよ、この身を」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 ヨハネの福音書3章16節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
マタイの福音書27章45〜56節
説教題
「御子の叫び、父の涙」
今週の聖句
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
ヨハネの福音書3章16節
説教「御子の叫び、父の涙」
マタイの福音書27章45〜56節
先日、私は腰を痛めてしまいました。妻には「大丈夫?」と声をかけてもらっていてありがたいと思います。痛いと訴えているのに誰からも気にされないとなると辛いと思われませんか。自分は何なのだろうと思ってしまいます。さて、「自分は何なのだろう」と言えば? ダビデの詩篇を思い起こさないでしょうか。こちらは嘆きではなく賛美の詩篇です。「あなたの指のわざであるあなたの天、あなたが整えられた月や星を見るに、人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」(詩83-4)。腰を痛めてしまうとは思ってもいなかった朝、寒い朝でしたがとても晴れており、満天の星空が見えました。ダビデも羊の番をしながら満天の星空のもと、立琴を弾きながら神をほめ歌っていたことでしょう。天地万物を創造された偉大な神が、こんなに小さな人間1人にさえ目を留めてくださっているのだと驚き感動して。
「父の涙」という賛美をご存知でしょうか。2番の歌詞にこうあります。「父が静かに見つめていたのは、愛するひとり子の傷ついた姿。人の罪をその身に背負い、『父よ彼らを赦してほしい』と。十字架からあふれ流れる泉、それは父の涙。十字架からあふれ流れる泉、それはイエスの愛」。何の映画か忘れてしまったのですが、こんな映像が記憶にあります。イエス様が十字架につけられている場面が高い空の雲の切れ間から映されています。そしてイエス様が大声で叫んで霊を渡された(死なれた)時、画面が水の波紋のようにぼやけるのです。そして波紋の中心から1滴のしずくが地上に落ちていく。これは父なる神が流された涙であったという映像です。また、私が須坂の教会の礼拝に伺った時に礼拝前に1人の男性が証しをされていました。「先日、小学生の息子が目の中の手術をしました。目の中ですから、目を開けたままの手術です。息子は恐怖で泣き叫び暴れました。私は医師や看護師さんと一緒に、泣き叫ぶ息子をベッドに押さえ付けました。手術が終われば治ると分かっていても、辛くて耐えられませんでした。私は大切なひとり子イエス・キリストを十字架につけられた父なる神を思いました」と。
さて、今朝与えられましたみことばは、マタイの福音書27章45〜56節です。今日の箇所で、これまで人々から嘲られ、罵られ、霊もからだも痛めつけられたイエス・キリストが十字架につけられ、筆舌に尽くしがたい苦しみの中で死を迎えられました。それは罪人が負うべき報いでした。しかしイエス様は1つも罪を犯されませんでした。前回も申しましたが、イエス・キリストの御姿。イエス・キリストの苦難、霊的苦しみ、そして肉体の死。それは1人の人の罪の結果そのものを表すものです。「罪の報酬は死である」(ロマ623)と聖書が言っているとおりです。そこで終わってしまっていたら私たちには何の希望もありませんが、続きの約束があります。「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(同)。
27章45節 さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。
過越の祭りの季節に日食は起こりません。この時、砂嵐か厚い雲が覆ったのか、どのような現象にしても、これは神のさばきを象徴する暗闇です。「おおった」という語は、「ある動作が行われてその結果として」というところが強調されるものです。イエス様が十字架につけられていた正午から午後3時までの間、世は神の憤り(嘆き悲しみとともにある怒り)の中で闇に覆われました。そうです。神の罪に対する思い、さばきに込められている思いというのは、ただの怒りではなく、憤り(嘆き悲しみとともにある怒り)なのです。愛があるのです。そこからあわれみが湧き起こるでしょう。
「闇」と訳されている語は、物理的な闇、また道徳的な闇をも表す語です。イザヤは預言しました。「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く」(イザ92)。ザカリヤも預言しました。「これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く」(ルカ178-79)。イエス・キリストの父なる神、天地万物を創造し、私たち人間を造られた父なる神は、人間をあわれみ、憤りを神の御子イエス・キリストに向けられました。イエス・キリストのこの後の絶叫にそれが示されています。イエス・キリストは父なる神に従うことで、罪のさばき、罪の報いを受けて然るべき人を救うという神の御心、永遠のご計画を成就するために、私たち罪人の代わりに神の憤りの杯を自ら飲み干されたのです。父なる神は御子イエス・キリストが血の汗を流してまでも祈られた「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」との祈りにはこたえられず、憤りの杯を御子イエス・キリストにお与えになったのです。しかしそれは、決して楽勝、簡単なことではありませんでした。ヘブル書によると、イエス・キリストは大きな叫び声とともに涙を流されたと記されています。どのような涙だったのでしょうか。そしてそれをじっと黙って見つめておられた父なる神も涙を流されたことでしょう。その涙はどのような涙だったのか。
それは私たち人間のために、私、あなたのために流された涙です。
27章46節 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
「イエスは大声で叫ばれた」。ここを直訳すると「上に向かって叫んだ。イエスは大きな声で」。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、これはアラム語です。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。このイエス・キリストの最初の叫びの裏に、父なる神の深い嘆き、辛い、苦しい、悲しい胸の内の叫び声が聞こえて来ないでしょうか。神、そしてイエス様の苦しみは誰のためですか。私たちのためです。決して他人事ではないのです。この世の何%の人たちが他人事としてではなく、これは私のためだと気づいているのでしょうか。私のためだと受けとめているのでしょうか。日本では1%未満ですか、私たちは神と御子のお心、犠牲、愛を思うと、平気ではいられないはずです。
また「イエスは大声で叫ばれた」は、このようにも訳せます。「声を上げた。イエスは偉大な声(言語・方言)で」と。アラム語で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と偉大な声を上げた。この世に対する預言の成就、勝利宣言です。イエス・キリストの十字架上での叫びは、弱々しい敗北の叫びではなかったのです。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。実はマタイの福音書では、十字架の上でのイエス様の唯一の言葉です。これは詩篇22篇の冒頭の言葉です。ですから多くの神学者は、これは詩篇22篇をイエス様が唱えたのだとしています。その詩篇22篇はやがて神への賛美と信頼に変わるのです。しかしやはりマタイはじめすべての福音書を記した人たちは、詩篇22篇に含まれる賛美の言葉を加えていません。神の御子であるイエス・キリストの、神から見捨てられた悲痛な叫びであることを読者がしっかりと覚えるためでしょう。本来その叫びは私たち罪人の叫びであることを示すためでしょう。天の父とのまことに親しい関係、交わりの中にあったイエス様が、神に対する人間の罪を負い、神に対する私の罪を負い、のろわれた者となった、そのことをしっかりと覚えるためでしょう。その背後にある神の深い愛とあわれみを、本当に私たち自身で考え、思い巡らせ、聖霊によって悟らせていただき、しっかりと自分のものとして受けとめさせていただくためであると思います。
また、このような悲惨な罪の結果の絶叫のただ中にあっても、イエス様は「わが神、わが神」と呼ばれ、父なる神に対する信頼を捨てていない御姿を私たちに見せておられる。神が見せておられる。このこともしっかりと覚えたいところです。
ところが、十字架で叫ばれたイエス様の声を聞いた者たちが誤解しました。
27章47節 そこに立っていた人たちの何人かが、これを聞いて言った。「この人はエリヤを呼んでいる。」
道徳的暗闇、信仰的暗闇の世を思わせられないでしょうか。イエス様の叫びを聞いて、「これは詩篇22篇だ!」と思わない。皆さんは「詩篇22篇だ、神への賛美と信頼に変わる祈りだ」とすぐに思い起こされたでしょうか。それは別として、ここでの何人か以外の人は思い起こしたかもしれませんが、何人かの人は思い起こさなかった。マタイはこちらの方に焦点を当てているのです。世は道徳的、信仰的暗闇に満ちた世であるということです。
そのような世で、このような光景が見られました。
27章48節 そのうちの一人がすぐに駆け寄り、海綿を取ってそれに酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けてイエスに飲ませようとした。
「酸いぶどう酒」というのは、当時簡単に手に入れられた喉の渇きを癒やす飲み物でした。イエス様を見張る兵士たちが、今の時代だと水筒に入れて自分のために用意しておいた、そのようなものです。ヨハネの福音書ではイエス様が「わたしは渇く」と言われました。しかしこれはイエス様がすべてのことが完了したことを知り、聖書が成就するために言われたおことばでした。そのようなことなど想像もできない異邦人の兵士の1人がイエス様にすぐに駆け寄り、スポンジに含ませて、それを葦の棒に付けてイエス様の飲ませようとしたのは、十字架につけられたイエス様の喉の渇きを癒やそうと親切心から出たことでした。長い時間、十字架につけられたイエス様の真正面に座り、イエス様を見張り、罪状書きを読み、あれこれと考えていたのか。その中で何か心に変かが起きたのか。34節の「苦みを混ぜたぶどう酒」と時は、まったくその逆の動機であった。異邦人である百人隊長や一緒にイエス様を見張っていた者たちは「わたしは渇く」と言われたイエス様のみことばの本当の意味は分からなかったけれども、みことばを聞いて心に留め、イエス様のために、イエス様に対する愛に基づいた行動をとっさに起こした。ところが、このように親切にしようとした人とは対照的な人たちが出て来ます。どうやらユダヤ人のようです。
27章49節 ほかの者たちは「待て。エリヤが救いに来るか見てみよう」と言った。
当時は、死なずに天に上ったエリヤ(Ⅱ列211-12)が、義人のところに助けに来るという伝承がありました。ユダヤ人はしるしを要求するのです(Ⅰコリ123-24)。また、これはイエス様に対する愛のない嘲りでもありました。
27章50節 しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。
しかし実際にエリヤは助けに来なかった。それでユダヤ人たちの多くは信じなかった。みことばを自己中心に理解しようとする、また福音が異邦人に与えられて行くというパウロの言葉、そして実際の今の時代の世を思わせます。
この時イエス様が再び「大声で叫ばれた」「偉大な声を上げた」ことばは「完了した」(ヨハ1930)だと思われます。イエス・キリストの死が悲劇的な最期であるだけではなく、神のみこころの成就であることをほのめかしています。そして「霊を渡された」とありますが、これは受動態ではなく能動態です。イエス様は「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです」(ヨハ1018)と言われたとおりです。このイエス・キリストの死が、神が下す人の罪に対するさばきであるのと同時に、救いであることが、この後に起こる事に示されます。
27章51a節 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
ちなみに、マタイの福音書とルカの福音書とでは、イエス様の死と神殿の幕が裂けた順番が逆になっています。ということは、これらは同時に起こったということではないでしょうか。御子に対する、また人に対する神の熱い愛とあわれみが伝わってきます。
神殿の幕は、外庭と聖所を仕切る幕ではなく、聖所とその中にある至聖所を仕切る幕を指します。ですから、ほとんどのユダヤ人の目には見られなかったはずです。もし見ることができていたら、しるし大好きなユダヤ人も簡単に信じたかもしれません。しかしやはりそれは神のみこころではないのでしょう。
「真っ二つに裂け」と訳された語は、《神的受動態》と呼ばれるもので、神ご自身が幕を裂かれたことを示しています。上から下に避けた。それは人の手ではあり得ない現象でもあるでしょう。それが意味するところは聖書には説明されていませんが、当時の文献や伝承から十分に推論できるところです。
これは、神のさばき、特にユダヤ人指導者たちと神殿に対するさばきを示しています。神は彼らがこれ以上、自分たちの罪や恥を隠すことができないように幕を裂かれたのです。彼らは人の見えないところで恥ずべきこと、貧しい者を虐げたり、貧しい者たちから集める献金によって自分を富ませたり、神の御心に反することを神殿の中でしていたのです。神は幕を裂かれこれを暴かれ、そして神殿から立ち去られたことを意味しています。
また、幕が裂かれたことによって神の臨在と神の統治・支配(完全な支えと配慮)が至聖所から世に広がることを意味しています。イエス・キリストの死とともに幕が上から下に避けた。天を裂いて聖霊が降られる。福音、神のみことばが全世界に出て行き、それによって救いが全世界に広がって行くことを意味しています。どのように広がって行くのか。聖霊が注がれ、力が与えられ、十字架の福音を携えて世に出て行くよう、救い主によって使命が与えられた私たちによってです。
さらには、聖なる神の臨在がある至聖所は、誰でもいつでも入ることができる場所ではありませんでした。律法では至聖所には年に一度、大祭司だけが入ると定められていました。しかしイエス・キリストの死によって、その幕が裂かれたのです。それも先ほども申しましたが、上から下に裂けたことは、神がそうされたことを示しているのです。誰もが神の御前に大胆に出ることができる道が恵みによって開かれたことが明らかにされたのです。誰であっても、どのような者であってもイエス様が流された血潮に頼って、いつでも神との交わりが持てるようになった。神との交わりを持つために必要だった贖いがイエス・キリストによって完成されたので、定められた時に定められた場所に行って、動物を屠り、動物の血を流し、いけにえを献げることによってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって誰でもどのような者でもいつでもそれができるようになったのです。神と交わりが親しく持てるのです。本来神との交わりが決して赦されない罪人が、神との交わりが許される。回復される。これこそ真の救いです。これがどれほど幸せなことか、恵みであるか、理解されているでしょうか。最初はそうだったかもしれません。しかし段々とこの世の偶像礼拝と同じように、自分の願望を神が後押しをしてくださって叶えてくださる。それが本当の救いではないのです。
27章51b節 地が揺れ動き、岩が裂け、
27章52節 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。
27章53節 彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現れた。
「地が揺れ動き、岩が避け」は地震の描写です。地震は神のさばきの象徴とされています。「山々は主の前に揺れ動き、もろもろの丘は溶け去る。地は御前でくつがえる。世界とその中に住むすべてのものも。主の激しい憤りの前に、だれが立てるだろうか。だれが、その燃える怒りに耐えられるだろうか。主の憤りは火のように注がれ、岩々は御前に打ち砕かれる(ナホ15-6)。ここにもイエス・キリストの死が神のさばきをも示していたということが分かります。
52節は難しいところですが、復活と新しい時代が開かれることをほのめかすところです。そしてこれも預言の成就です。「それゆえ、預言して彼らに言え。『神である主はこう言われる。わたしの民よ、見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知る』」(エゼ3712-13)。さらには終末、イエス・キリストの再臨の預言でもあるでしょう。「眠りについていた多くの聖なる人々」というのは、旧約(イエス・キリストの復活前)の神の民のこと。新約(イエス・キリストの復活後)ではイエス・キリストを救い主と信じて死んでいった人たちのこと。ここでも聖書のみことばを思い起こします。「ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に」(ダニ122)。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」(Ⅰコリ1520)。墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返ったとあります。しかし墓から出て来たのはイエス様の復活後のことでした。マタイがどうしてここにこれを挿入してきたのか。神が預言させたのでしょうか。
27章54節 百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」
イエス様の十字架の正面に立ち、すべてのことを見聞きしていた彼らは、イエス様がこのように息を引き取られたのを見て言いました。「この方は本当に神の子であった」。素晴らしいことではありませんか。暗闇の世であっても、義務であったのか自発的であったのか。偶然だったのか必然だったのか。イエス・キリストの十字架としっかり向き合う者がおこされ、イエス・キリストの中に光のようなものを見いだし、そして救われて行くのです。「これは、預言者イザヤを通して語られることが成就するためであった。『…闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。』この時からイエスは宣教を開始し、『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから』と言われた」(マタ412-17)。「これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く」(ルカ178-79)。
27章55節 また、そこには大勢の女たちがいて、遠くから見ていた。ガリラヤからイエスについて来て仕えていた人たちである。
27章56節 その中にはマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子たちの母がいた。
ガリラヤからイエス様について来て仕えていた女性たち。イエス様のお世話をしていたのでしょう。そして兵士たちがイエス様を見張っていた、この「見張っていた」というのも世話をするという意味を持つものです。大勢の女性たちは遠くから一部始終を見ていた。その中にはマグダラのマリアがいた。彼女はかつて7つの悪霊を追い出してもらった人です。ヤコブとヨセフの母マリア。彼女はイエス様の母。母である彼女はイエス様の地上での生涯のはじめから終わりまで、どのような思いで見つめてきたのでしょうか。どのような時でも決してわが子から目を離さなかったのではないでしょうか。ゼベダイの子たちの母。どうやら彼女は母マリアの姉妹であったようです。以前は息子たちを偉い立場に置いて欲しいと願った少々問題発言をした人でしたが、その後イエス様を見つめてきた中でどのような変化があったのでしょう。そして彼女たちこそ、イエス様の復活の証人となったのです。兵士たちも一部始終を見ていた。彼らもまたイエス様の復活の証人となったのかもしれません。どのような形であれ、イエス様をいつも見ている、十字架のイエス・キリストを見上げることの大切さを覚えさせられます。また、この世的には愚かな人による愚かな証言によって信じることの重要さをも覚えさせられます。
イエス・キリストが天から降って来られ、十字架につけられたのは神のご計画です。思えば父なる神は、御子イエス・キリストが十字架につけられ死なれた時ばかりでなく、罪に満ちたこの世に降らせた時も、母マリアの腕に抱かれた時も、少年時代も、青年時代も、そして公生涯に出て行かれ、罪に満ちたこの世で経験された迫害や理不尽な攻撃などすべての苦難の時も、いつも御子から目を離さず、時には断腸の思いで、そして幾度となく様々な涙を流されたのではないでしょうか。その眼差しが私たち人間、それも罪人にも向けられている。その涙が私たち人間、それも罪人のためにも流されている。「人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」。私たちを顧み、あわれんでくださり、御子イエス・キリストを十字架につけ、これほどまでに苦難に遭わされてまで私という1人の罪人を救ってくださった。神に背き、自分勝手に生き、自分勝手に血を流し死にそうになっていた私という1人の罪人を見放さず、見つめられ、涙を流され、御子イエス・キリストを与えてくださった。御子イエス・キリストの御姿に、罪人の悲惨な結末を見させ、そこからあなたを救おうと、そこからあなたを助けようと、そのあなたを赦そうと、恵みを施そうと、あなたと親しく交わりたいのだと、それこそが真の救いなのだと、両腕を力いっぱい広げて待っておられる神の御姿をも、父なる神は御子イエス・キリストの御姿に映しておられます。1人の罪人は、ただ十字架のイエス・キリストを信じ、頼って、思い切って正面に進み出れば良いのです。救い主であるこの方を見上げれば良いのです。やがて祈りが与えられます。やがて感謝の思いが与えられます。神との仕切りの幕は神によって裂かれ、聖霊が注がれ、聖霊によって注がれる心に与えられる思い、何か暖かな思い、神の愛があなたを救いへと導くことでしょう。神との親しい交わりに導かれるでしょう。福音書に登場する祭司長たちのように、心を頑なにしてはいけません。彼らにとって十字架は愚かです。十字架のことばは愚かです。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です」。
そして神のあわれみによって救われた私たちは、仕切りの幕が取り除かれ聖霊が注がれ、聖霊を通して惜しみなく注がれる愛と宣教の力によって、十字架のことばを、暗闇の世に生きている人々に宣べ伝えて行かなければなりません。私たちは暗闇の世に生き、神との断絶、そしてその中で味わう様々な苦難を私たちは知っており、そこから救われた真の救いの喜びの涙を流した者たちです。すべての人に神の目が私たちと同じようにそそがれているのです。私たちに対して流される涙が同じように流されているのです。私たちの目には絶望的であっても、私たちが聖霊によって宣べ伝える十字架の福音を通して、神は暗闇の世に生きる人々の中からもイエス・キリストの十字架の真正面に立つ者を起こされるでしょう。神を信じ、イエス・キリストを信じ、聖霊に導かれ、神が私たちに期待されていること、十字架の福音、愚かな、しかし救われる者にとってはいのちのみことばを、すべての人に宣べ伝えてまいりましょう。そこには迫害があります。しかし神の目は私たちから決して一時たりとも逸らされることはなく、神の愛とあわれみも決して私たちから離れることはありません。