2026年2月23日 主日礼拝「神の恵みによって建て上げられる教会」

賛  美  新聖歌248「人生の海の嵐に」
      新聖歌221「ああ主の瞳」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇148編1〜6節
讃  美  讃美歌8「きよきみつかいよ」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌87A「めぐみのひかりは」
聖書朗読  コリント人への手紙第一3章1〜15節
説  教  「神の恵みによって建て上げられる教会」
讃  美  讃美歌525「めぐみふかき」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 コリント人への手紙第一3章10節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

コリント人への手紙第一3章1~15節

説教題

「神の恵みによって建て上げられる教会」

今週の聖句

私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。

コリント人への手紙第一3章10節

説教「神の恵みによって建て上げられる教会」

コリント人への手紙第一3章1〜15節

  • 「恵み」とはどのようなものですか。
  • 人を招き、人を救い、そして教会を健全に成長させて行くものは何でしょうか。

はじめに「恵みとは」

アメリカでは信じられないくらいの大金が当たる宝くじがいくつかあるそうですね。これまでの最高額は日本円でなんと3,000億円だそうです。あるくじの当選確率はおよそ3億分の1だとか。現在世界の人口がおよそ81億人ですから、世界中のすべての人が1枚ずつくじを買ったとしたら、たった27人当選するだけです。宝くじを絶対に当てたいと思う人は、もの凄く意気込んで攻略法を探したり、神頼みしたり。それで本当に当たったという人はいるのでしょうか。実際に当たった人という人の話によると、両替目的で買ったものが当たったとか、友だちとノリで買ったものが当たったとか、そのような話しを良く聞きます。聞いた話しの中で凄いなと思ったものがあります。アメリカで超高額当選を果たした男性の話しです。彼はニューヨークの街の路上生活者(ホームレス)でした。朝方に街を歩いていると、高級レストランの外に出された生ごみの山の上に、1枚の宝くじが置かれているのを見ました。あと少しで通り過ぎてしまうところでした。しかしいつもの習慣でそれをつまみ上げてポケットに押し込みました。昼近くになって、ゴミの山から新聞を拾い上げ、ゴミの山から拾ったくじの番号と照らし合わせてみると、数字が全部合っていることが分かったのです。「まさか、そんなはずがない。ニューヨークのろくでなしが富くじに当たるはずがない」。彼自身そう思ったそうですが、その大ニュースを聞いた人たちもそう思ったことでしょう。働きもせず、自分のお金で買ったものでもない、目の前に落ちていたものを拾っただけで人生が大きく良い方向に変わったという、本当に妬ましいほどに羨ましい話し。

これが「恵み」というものです。信じられないことが起こる。与えられる資格も何もないと思われる者に与えられる。それが恵みでしょう。自分に誇ることができるものなど何もない。そこにあるのはただ感謝しきれないほどの感謝と大きな喜びでしょう。そして私たちは、他人が妬ましいほどに羨ましいと思うほどの恵みをいただいている者たちです。

ところが、私たちは信じられない幸福の裏には何か落とし穴があるのではないかと疑うことに慣れてしまっている者たちではないでしょうか。例えば宝くじに当たった人のその後の人生は転落人生であるとか。確かにそのような人たちの話しばかりが目立ちますが、先日NHKの朝の番組で、息子さんが宝くじに当たったという人の話しがされていました。その息子さんは学生時代に何となく買った宝くじが当たったそうなのですが、その後、生活を乱すこともなく、きちんと大学を卒業し、就職し、真面目に仕事をし、そして恵みによって与えられた大金は大切に、賢く計画的に使っているようだと、お母さんが話していました。大きな恵みに感謝して、そこにしっかりと土台を据えて生きる人と、恵みを忘れて自分の欲望のままに生きてしまう人との大きな差でしょう。

イエス様は言われました。「わたしがあなたがたを選んだのだ」と。これはまさに恵みです。そして他にも福音書に記されるイエス様の恵みの話しには、どれもその核に信じられないような、真実とは思えないほどの素晴らしい結末があります。神に選ばれ、神に愛され、癒やされたり、与えられたり、人生が大きく良い方向に変わる。そしてイエス様がなさったすべての恵みの話しから分かることは、「恵み」とは、神に選んでいただくために、私たちにできることなど何一つない。それなのに神は私を選んでくださった。神にもっと愛してもらうために、神に赦されて、愛してもらうために私たちの側でできることなど何一つない。それなのに神は愛してくださった。神は赦し、愛してくださるということではないでしょうか。

教会とは、そのような神の恵みに満ちているところ。一人ひとりが神から恵みをいただき、恵みによって生かされているところ。その教会が、神の恵みとはかけ離れたことをしているとしたら、それは実におかしなことでしょう。パウロはこの手紙の始めから3章に至るまで、教会内の分争を最重要問題として扱ってきました。そしてパウロは、コリントの聖徒たちの間にあるねたみや争い、それらを引き起こしているものは、実はあなたがたの信仰の未熟さだと指摘するのです。そして彼らの霊的な成長を心から願うのです。

コリント教会の未熟さ

3章1節        兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。

1節でパウロは、コリントの教会に愛情を込めて「兄弟たちよ」と呼びかけます。パウロは叱らなければなりません。しかし、愛をもって叱るのです。

パウロは前回の2章の議論にしたがって、コリントの聖徒が神の霊(心)を受けた「御霊に属する人」のように行動せずに、「肉に属する人(肉的な人)」のように行動していると批判しています。

御霊に属する人のような行動とはどのようなものなのでしょう。イエス様はその人の実を見れば分かると言われました。その実というのは、もちろん御霊の実です。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラ519)。

では「肉に属する人(肉的な人)」のような行動とはどのようなものか。これもまたイエス様はその人の実を見れば分かると言われます。淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類いのもの。このようなものが当たり前のようなコリントの町とそこに住む人々。そしてその中に建つ教会。

パウロはコリントの教会の人たちのことを「キリスト・イエスにあって聖なる者とされ、聖徒として召されたあなたがたである」と言いました。あなたがたは神の恵みによって、イエス・キリストの十字架によって贖われたという恵みによって、神のために特別にこの世から取り分けられた者たちである。主に従う仲間とされた者たちである。罪赦され、救われ、イエス・キリストの弟子とされたのもすべて恵みによるもの。それなのに、なおも世と肉に属する人のようであるとは何事かと叱るのです。

しかしやはり愛がこもっていたのです。パウロは「キリストにある幼子」に対するように語ったのだと言っています。親が子を叱るように、信仰を持ったばかりの人に対してのように分かり易く教えたと言っています。私たちも小さな子にしてはならないことを分かり易く教えるとどうなるかというと、厳しい注意になってしまうのかもしれませんね。危機的状況でその子の命を守るために、ストレートに言わなければならないのですから。パウロにはやはり、幼い子のいのちを必死で守るための、そのような愛があったのです。

そしてパウロは、彼らは「キリストにある幼子」なのだから、成長の可能性があるとも考えていました。彼らは(また私たちは)、イエス・キリストを信じて「新しく生まれ変わった人」(Ⅱコリ517)です。新しく生まれ変わったからには成長して行くのです。霊的に成長して行き、キリストの似姿に、キリストの身丈にまで成長し、キリストの品性である御霊の実を結ぶようになる。しかし、相変わらず肉に従って生き続けるならどうなるでしょう。その人のいのちの危険、滅びが待っているのです。教会の滅びが待っているのです。パウロは幼い子のいのちを必至で守ろうとする親の愛によって叱るのです。

3章2節        私はあなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。

2節でパウロは、コリントの聖徒には乳を飲ませ、固い食物を食べさせなかったと言います。コリントの聖徒が、固い食物、つまりより高度な水準には耐えられない未熟な状態だったからです。イエス様が言われた「“わたしがあなたがたを愛したように”、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(ヨハ1512)。言うは易く行うは難し(口で言うのはたやすいが、それを実行することはむずかしい)、イエス様が求める超高水準に達することができていなかったコリントの聖徒たち。互いに愛し合うどころか、互いに争っていたのですから。

パウロが初めてコリントの聖徒に接した時は、もちろん彼らは未熟でした。そして今もなおそのような状態に留まっていた。パウロはコリントの聖徒たちのところに行ったなら、御霊に属する者同士、成熟した者同士のように話したいと考えていました。神の恵みを知り、神の恵みに与った者同士、神の恵み、イエス・キリストの恵みに心から感謝し、喜びや信仰を分かち合い、主の御名をともに心から褒め称えたいと考えていました。しかし実際は、手紙を携えて来た人から聞いた話しによると、彼らが世の力や地位のために妬み、幼稚な争いをしていて、パウロが期待できるような状態ではなかったのです。私たちも考えさせられるのではないでしょうか。

コリント教会での争い

3章3節        あなたがたは、まだ肉の人だからです。あなたがたの間にはねたみや争いがあるのですから、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいることにならないでしょうか。
3章4節        ある人は「私はパウロにつく」と言い、別の人は「私はアポロに」と言っているのであれば、あなたがたは、ただの人ではありませんか。

3節からは、パウロは再び1章の争いの問題に戻ります。お互いに自分の信仰の方が勝っていると争っているあなたがた。あなたがたはお互いに「主のため」と争っているのかもしれないけれども、残念ながらまだ肉の人、肉に属する人である。なぜならねたみとか争いは肉の思い、肉の行いなのだから。

ウクライナとロシアの争いを見てください。私は驚いてしまうのです。クリスマスにはウクライナもロシアも同じ主を礼拝していました。それなのにお互いの間に争いがあるのです。戦争の最中に同じ主に何を祈っていたのか想像するとゾッとしませんか? 私たちはそれを見て、彼らは真の信仰者だと思えるでしょうか。彼らは信仰によって生きている人たちだと思えるでしょうか。やはり彼らは肉の人、肉的な人たち、肉に属する人、英語の訳では「世俗的な人」だと思ってしまうでしょう。同じように、教会の中にねたみや争いがあったとしたら、それを見る教会外の人たち、またコリントの教会の中にはまだ救いを求め始めたばかりの、クリスチャンとして産声を上げていないこれからという人たちも当然いたことでしょう。そういった人たちはどう思うでしょう。「教会の人たちもただの人だね」と思ってがっかりしてしまうのではないでしょうか。教会に救いを見いだそうとしている人の心をくじくことになってしまうでしょう。

コリントの聖徒は、自分たちが宝くじにあたったニューヨークのろくでなしと同じように、ただ恵みによって受けた神の選び、神の召し、そして与えられた莫大な富、人生の真の益となる十字架のことば、御霊の力による変化、救いの恵みを忘れ、自己中心に、恵みとは全く相反することをしていました。

そもそも彼らの問題の大元は何だったでしょう。「私はパウロにつく」「私はアポロに」といったように、コリントの聖徒が教会の働き人たちを争いの種にしていたことでした。それでパウロはその働き人たちの本質について説明しようとします。自分もアポロも恵みによって神に選ばれ、召され、そして神が用いられる奉仕者にすぎないこと、神があなたがたコリントの聖徒を成長させてくださったのだという点を強調するのです。

庭師としての働き人

2章5節        アポロとは何なのでしょう。パウロとは何なのでしょう。あなたがたが信じるために用いられた奉仕者であって、主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。
2章6節        私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。
2章7節        ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
2章8節        植える者と水を注ぐ者は一つとなって働き、それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受けるのです。
2章9節        私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。

パウロはまず働き人を庭師にたとえて説明します。「神の畑」というのは、詩篇1篇にあるとおり、神が用水路などを整備し、どこにどの木を植えるかを計画するなどして整えられた庭園を指しています。

パウロもアポロも、また神が何らかの形で人の上に立てられた人も皆、あなたがたコリントの聖徒が主を信じ、救われるために用いられるただの奉仕者であると。「奉仕者」というギリシア語は、一般的には「仕える働き人」を意味する語です。

パウロは「神の畑、庭園」でのすべての奉仕者たち、その働きの多様性と独特性を認めています。その働きは様々な形があり、神が召されたその人にしかできない働きであること。主がそれぞれに与えられたとおり、植える者がいて、水を注ぐ者がいる。草取りをし、刈り込みをする者がいる。神が恵みによって与えられたそれぞれの働きですから、当然尊い働きであるはず。その働きを評価したり批判したりするならば、それは神を評価し批判することになるのではないでしょうか。パウロがしたくもないのに、コリントの教会をこのように厳しく注意して叱るのも、やはり神が与えられた働きです。パウロは聞く者が真に主を信じ、真に救われるために、神が選ばれ、神が用いられる器でした。

神は神の主権によって、ある人を選び、恵みによって賜物を与え、ある働きに召し、その人が与えられたとおりの働きをすることで、聖徒と教会を信仰によって成長させて行かれるのです。その働きは様々です。多様性と独特性に富んでいます。しかし今の時代、神が恵みによって与えられた多様性と独特性(例えば男であるとか、女であるとか)を恵みとは考えず、人は自己中心の欲望によって間違った主張をしているようです。それは教会の中にも忍び込んで来るのです。

パウロは勧めています。「私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい」(ロマ126-8)。神がすべての働きの起源であり、そこに神の目的があり、神が目的達成の力となられるのです。「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです」(ロマ1136)。信仰者は恵みによって自分に与えられている神からの賜物を喜び感謝して神の目的(成長)のために用い、また誰かに与えられている神からの賜物を認め、それを喜び感謝し、神の目的(成長)のために受け入れるのです。

そして奉仕者たちは「それぞれ自分の労苦に応じて自分の報酬を受ける」とあります。パウロが言う奉仕者たちが受ける報酬というのは、自分に人からの栄誉が与えられるとか、自分に地位が与えられ偉くなるとかではありません。それでは肉の人です。そうではなく、この少し後にパウロ自身が言っているのですが、「だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受ける」(Ⅰコリ314)ということです。世の荒波、世の嵐、揺るがすような地震、火で焼かれるようなことがあっても、その人が奉仕した教会が、またその人が奉仕したクリスチャンが最後までしっかり立っている。それが神のために働く同労者、私パウロも、アポロも、すべての奉仕者が受け、奉仕者に与えられる最高の栄誉、喜び、報酬であると言うのです。

パウロは「あなたがたはこの信仰の上に立ちなさい」ということを言いたかったのでしょう。ここで「建物」を持ち出しました。

建築家としての働き人

3章10節      私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。
3章11節      だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。

次にパウロは、賢い建築家にたとえて働き人たちについて説明します。パウロは自分の働きは、「自分に与えられた神の恵みによって」だと明言します。そうです。パウロは自分を「罪人のかしら」と言います。自分を少しも誇ってはいません。その自分が据えた土台。それはイエス・キリスト。イエス・キリストを通して与えられた赦しと救い、そして永遠のいのち、天の御国という莫大な相続財産。あのニューヨークのろくでなしのように、与えられる資格がまったくない者に与えられた罪の赦し、救い、永遠のいのち、天の御国、真の幸い。それは「恵み」。パウロが教会の土台として据えたもの、教会を真の神の教会とするために土台として据えたのは、もちろんイエス・キリストの十字架に対する信仰ですが、そこに現される神の恵みでしょう。神への感謝と喜びでしょう。人間の知恵や力、誇りではありませんでした。そしてコリントの教会は、このパウロが据えた土台の上に、教会を建て上げて行くことが期待されていたのです。

庭師のたとえと同様に、パウロは建築家にも「土台を据える者」と「その上に家を建てる者」がいると言い、ここでも働きの多様性を説明しています。そしてそれぞれが、一人ひとりが注意するようにと言います。あの人が気をつければ良いのではありません。あの人も私も気をつけなければならない。人は注意していないと、気をつけていないと、いつも御霊に満たされて、御霊を通して神の愛が注がれていないと、霊の目を覚ましていないと、霊の目を覚まして神の恵みから目を逸らさずにいなければ、すぐにこの世の霊、息、風に流され、肉の思いと行いに傾いてしまうからです。

3章12節      だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、
3章13節      それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。
3章14節      だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。
3章15節      だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。

3匹の子豚のお話しのようですね。そのお話しと違うのは、3匹の子豚の方ではレンガが風にも吹き飛ばされず、火にも耐え得る賢い建材として描かれていますが、聖書はこの世のいかなる賢いもの、堅いもの、高価なものであっても「その日」には役に立たないとしているところです。

パウロは明らかに終末、やがて必ず訪れる世の終わりの時を意識して語っています。そしてその日までに、必ず何度も襲ってくる、教会を、また信仰者を焼き尽くそうとする火、試みのことを言っているのでしょう。またこの世の支配者、サタン、悪霊をも意識しているのでしょう。彼らはイエス・キリスト、神の恵みという揺るがない素晴らしい土台の上に、世のむなしいもの、肉の思い、肉の行いをもって教会を建て上げようと必至になって惑わすでしょう。終わりの日に滅ぼすために。神が選ばれ、神が御心のままに召された神と教会に仕える奉仕者、それはパウロやアポロだけではない、一人一人が神と教会に仕える奉仕者であり、一人一人に違った尊い働きが委ねられている私たち聖徒とされている者たちは、報いを得るためにそれぞれが気をつけて、お互いの救いの完成のために働くのです。私たちは、与えられた恵みにしたがって、それぞれが異なる賜物を持っているので、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行うのです。その報いについて、パウロは今日のところで具体的には言っていませんが、先ほども触れた通り、自分の働きの実に対する喜びと感謝でしょう。自分の働きに対する誇りや自慢ではなく、神の恵みによって与えられた自分の働きが、神によって用いられ、神の教会が、お互いが成長し、堅く信仰に立っている。その結実を見て湧き起こる喜びと感謝。それが最高の報いとなるのです。神と教会を愛する者の奉仕とはこのようなもの。そうでなければ「ただの人ではありませんか」とパウロは言うのです。

世の人々は、また私たちはキリストの教会に何を求めて来るのでしょうか。キリスト教独自と思われる考え(信仰)を求めて来るのでしょうか。

コリントの教会にはどうやら3種類の人たちがいたようです。2章14節にあるように、「生まれながらの人間」。これは未信者のことです。そして「肉に属する人」。これはキリストにある幼子、新生はしたけれども、またキリスト者としての完全な域に達していない人。そして「御霊に属する人」。目標に到達した完全な者というのではなく、キリストにある幼子よりも霊的に成長している人のことでしょう。彼らは皆、何を求めてキリストの教会に来ていたのでしょうか。

改めて問います。世の人々は、また私たちはキリストの教会に何を求めて来るのでしょうか、来ているのでしょうか。

キリスト教独自と思われる考え(信仰)でしょうか。それは受肉でしょうか。しかし神が人間の形をとって現れるという考えは、形は違っても他の宗教にもあります。復活でしょうか。これもまた同じく、他の宗教にも死から生還する話しがあります。では何を求めているのでしょうか。

それは「恵み」を求めて来ているのではないでしょうか。神の「恵み」を、心の飢え渇き、霊、魂の飢え渇きをもって求めて来るのではないでしょうか。あのマンハッタンのろくでなしが思いがけず莫大な富を得て、人生が好転した。それは恵みであった。自分で考えてみても、また他人が考えても、本来ならば与えられる資格のない者が与えられる。それが恵みであったように、本来ならば赦されるはずのない者が赦される。神に愛される資格のない者が神に愛される。「わたしはあなたの罪を赦している、わたしはあなたを愛している」と言われる恵み。その恵みを人は心から求めているのではないでしょうか。神の恵みこそ、人の魂を慰め、人の霊を癒やし、そして人を救う。恵みこそ、神の教会を神の教会とするのです。

教会は(私たちは)、信仰の土台をイエス・キリストに、イエス・キリストに現される神の恵みにしっかりと据えて、その上に教会を、私たち自身を建て上げてまいりましょう。神の恵みの上に、神の恵みをますます知り、神の恵みをますます喜び感謝し、そして心から神と人とに仕えるならば、そこに救いを求める人々は集められ、そして救われるでしょう。教会は健全に成長して行くでしょう。

教会の成長は神によるのです。神の恵みによるのです。ですからコリントの教会のように、どの働き人が優れているかと教会の中で争うことは間違っています。 教会は一人(牧師や伝道師)の働きで立てられ、守られ、成長して行くものではありません。神によって選ばれ、集められ、召された一人一人に、神の恵みによって与えられた多様な賜物をそれぞれが喜んで用い、互いに認め、そしてともに労苦することによって建て上げられて行くのです。生まれや育ち、文化や考え方が異なる兄弟姉妹を1つにするのも、イエス・キリストを信じる信仰であり、またイエス・キリストに現される神の恵みに対する感謝と喜びです。互いに励まし合い、教え合い、支え合い、主の恵みに対する感謝と喜びのもとに1つとなり、主の素晴らしい福音を世の人々に証し、宣べ伝えてまいりましょう。それが教会がこの世に存在する意義でもあります。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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