2025年11月16日 主日礼拝「礼拝は教会を造り上げる」
賛 美 新聖歌421「ここに主は在して」
新聖歌38「わが目を開きて」
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇68篇3〜4節
讃 美 讃美歌7「主のみいつと」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌225「すべてのひとに」
聖書朗読 コリント人への手紙 第一 14章26〜40節
説 教 「礼拝は教会を造り上げる」
讃 美 讃美歌388「みむねのまにまに」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 コリント人への手紙第一 14章40節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
コリント人への手紙 第一 14章26〜40節
説教題
「礼拝は教会を造り上げる」
今週の聖句
ただ、すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい。
コリント人への手紙 第一 14章40節
「礼拝は教会を造り上げる」
コリント人への手紙 第一 14章26〜40節
コリント教会での礼拝の現実——
「礼拝学」という神学の分野があることをご存知でしょうか。神学というのはそのまま「神の学問」ですが、その神の学問の中に「礼拝学」という「礼拝の学問」というものが存在するのです。礼拝学はどこの神学校でも必須の科目となっています。それほど礼拝が重要で大切で、学ばなければならないものであるということです。その礼拝学の内容というのは、礼拝という行為を神学的に研究するもので、礼拝の形式や意味、また目的を深く探求するものです。そして礼拝の順序や内容を吟味し、神学的に、理論的に整えて行こうとするものです。そして実際にそのようにして整えられて来ました。またその礼拝を整えて行こうとする吟味は今でも続いているのです。常に省みながら探求し続けて行くべきものなのです。
礼拝まで小難しい学問になるのか。神学的だとか、理論的だとか、そのようなものが必要なのだろうか。堅苦しい、馬鹿馬鹿しいと、そう思われるでしょうか。礼拝は神を礼拝する者が神に感謝し、心から喜んで神を賛美し、神を信じて神に祈れば良いのではないか。また自分に与えられている賜物をもって、それぞれが自由に神に仕えれば良いのではないか。イエス様だって「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」(ヨハ423-24)と言われています。だから形式ではないのだ、まことに自由なものなのだと、そう思われるでしょうか。
恐らく私たち日本人は「形式にとらわれる」ことに対してはそれほど反発を感じない文化の中にあると思いますし、「秩序」というものを非常に重んじる民族なのではないかと思うのですが、そうではない文化の中にある人たちにはこれらに対して、私たちと違った考えや思いがあると思います。
ちなみに、先ほどのヨハネの福音書4章23〜24節のみことばは新改訳第3版の訳です。その訳も省みられ探求され、新改約2017ではこのように訳し直されました。「しかし、まことの礼拝者たちが、『御霊と真理』によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、『御霊と真理』によって礼拝しなければなりません」。わずかな言葉の違いですが、私には大きな意味があるように思います。
確かに礼拝は形式ではありません。「霊とまことをもって」神にささげるものです。しかし、そのような素晴らしい考えであっても、やはり弱い罪人の群れです。礼拝の中身を吟味することを怠ってしまうならば、それが段々と変化し、整えられていない礼拝は混乱し、もはや「御霊と真理によって」神にささげることができない状態になってしまうでしょう。実際にそのような礼拝になってしまったのがコリントの教会でした。実はコリントの教会の礼拝は、整然と行われていたのではなく、聖霊に導かれて、各自が自由に、思い思いに賛美したり、教えたり、説教したり、異言を話したり解き明かしをしたりする、そのような礼拝でした。礼拝が混乱し、手に負えなくなってしまっていたのです。そのような状態を憂う人たちがパウロへの手紙にこのことをも記し、指示を仰いだのでしょう。
混乱した礼拝に対するパウロの命令
14章26節 それでは、兄弟たち、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれが賛美したり、教えたり、啓示を告げたり、異言を話したり、解き明かしたりすることができます。そのすべてのことを、成長に役立てるためにしなさい。
パウロは26節で、コリントの教会にあらゆる賜物が与えられていることを神に感謝しています。しかし、信仰がまだ未熟だったコリントの教会は、その賜物を無秩序に用いる人たちによって、礼拝が乱され、収拾が付かなくなってしまっていました。自分たちの礼拝は聖霊に導かれているものだと主張しつつ、実は自分の賜物を誇って競い合い、礼拝が混乱ていたのです。
パウロはここではっきりとした答えを提示しています。「すべてのことを、成長に役立てるためにしなさい」と。礼拝において、また教会生活において、自分に与えられている賜物を積極的に用いるのだけれども、それをすべて「成長に役立てるためにしなさい」と命じるのです。この箇所を新共同訳では「すべては教会を造り上げるためにすべきです」と訳されています。成長に役立てるため、教会を造り上げるために賜物を積極的に用いる。しかしそこには節制も必要であるということです。度を越さないように控えめにしたり、自分の欲望を理性でコントロールしたりすることも必要なのだと。人知れず、ということもあるでしょう。ある姉妹が大切にしておられるイエス様のみおしえ「右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。隠れたところで見ておられるあなたの父(神)が、あなたに報いてくださる」(マタ63-4)。素晴らしい信仰ではありませんか。それらはすべて成長に役立てるため、教会を造り上げるためなのです。
14章27節 だれかが異言で語るのであれば、二人か、多くても三人で順番に行い、一人が解き明かしをしなさい。
14章28節 解き明かす者がいなければ、教会では黙っていて、自分に対し、また神に対して語りなさい。
ここにもコリント教会の礼拝の無秩序、混乱が見てとれます。次から次へと異言の賜物を誇り、異言を語る人が出て来て、競い合うようにして異言が語られ、その解き明かしもされていませんでした。傍から見れば、聖霊に満ち溢れた凄い霊的な礼拝のように見えるでしょう。しかしそこに成長はないのだと聖書は言います。また、「初心の人、信じていない人が入って来たとき、この人たちは気が変になっていると言われることにならないでしょうか」(1423)とまで言っています。
御霊と真理によってささげる礼拝によって成長する
想像してみてください。順序もない、何のためにしているのかも分からない。皆がそれぞれに自分の賜物をもって礼拝中に好き勝手なことをして、ガチャガチャに混乱している礼拝があったとしましょう。そのような礼拝を通して、そのような礼拝を見て、果たして私たちは「お互いに」神を恐れ、神に感謝し、神を賛美し、神の御前にへりくだり、神を心から信頼して祈ることができるでしょうか。神の栄光を見ることができるでしょうか。また未信者や求道者は、そのような礼拝を通して正しく神を恐れることができるでしょうか。正しく神を恐れることが永遠のいのち、救いへの道の第一歩です。私たちの礼拝を通して見聞きした情報や内容を元に物事を理解し、考え、判断し、そして「怪しい、危ない」などと間違った恐れを抱かせてはなりません。また「おもしろかった、楽しかった、スカッとした」とか、「礼拝の中のあの人は素晴らしかった」などで終わらせてもいけません。もしかしたら一時の熱狂的、感情的なだけの信仰は与えられるかもしれません。しかしそれだけではダメなのです。私たちの礼拝は、礼拝を通して本当にその人が神の御前に導かれ、そこでイエス・キリストに出会うことができるものであるべきです。主が本当に求められる信仰。それは基本的に理性的なものであるというのが前回の説教の内容でした。感情に流されずに論理的に整理して物事を考え判断し、そして納得し、「アーメン、私はこの信仰の上に立ちます」と告白し、そこに聖霊が働かれ「イエス・キリストはまことに私の主である」と告白するに至ることができる。それこそが神が求めておられる礼拝。神が喜ばれ、受け入れてくださる「御霊と真理によってささげる礼拝」でしょう。霊で祈り、知性でも祈る。霊で賛美し、知性でも賛美する(146)。霊に満たされて礼拝し、同時に知性をもって礼拝する。感情に溢れ、しかし同時に感情に流されずに見聞きした情報や内容を元に物事を理解し、考え、判断し、そして天の御国に至ることができる、そのような礼拝であるべきでしょう。そしてそのような礼拝を通して、「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになる」(エペ413-16)のです。
14章29節 預言する者たちも、二人か三人が語り、ほかの者たちはそれを吟味しなさい。
14章30節 席に着いている別の人に啓示が与えられたら、先に語っていた人は黙りなさい。
コリント教会の礼拝では、預言する人たち、つまり預言の賜物を持ち、説教できる人たちも「聖霊に導かれて」次から次へと登場し、それぞれがそれぞれの説教をしていたようです。それもまた教会の礼拝と、礼拝に集う人々に混乱を引き起こしていました。パウロは、「そうではなく、礼拝ではせいぜい2人か3人が語り、他の者たちは彼らが語る内容を吟味しなさい」と命じます。「吟味する」というギリシャ語は、「争う、異論を唱える、疑う、見分ける、判断する、決断する」という意味の語です。しかしはじめから彼らの説教に対して争いや疑いの姿勢で臨めと言っているのではありません。彼らが語っている内容が、本当に神からのものか、それとも人の考えにすぎないのかをよく見極め、神からのものであると分かったならば、決断しなさい、聞き従いなさいということです。また、すべての賜物を用いる際にも、それが御霊によって示されたと主張してみても、私たちは人間である以上、間違ったり誤解したりしてしまうこともあります。ですからなおのこと、自分の賜物を用いて何かする時には、それが実際に神から来たものであるかを自分自身が吟味することは、とても重要なことです。27〜28節の繰り返しとなりますが、礼拝において、また教会生活において、自分に与えられている賜物を積極的に用いるのだけれども、それをすべて「成長に役立てるためにしなさい」。「すべては教会を造り上げるためにすべきです」。成長に役立てるため、教会を造り上げるために賜物を積極的に用いる。しかしそこには節制も必要であるということです。度を越さないように控えめにしたり、自分の欲望や感情を理性でコントロールしたりすることも必要なのだと。
正しい態度(仕方)で賜物を用いる
預言のことばも、正しい態度で伝えられることが伴ってこそ益となるのです。すべての賜物にも同じことが言えます。無礼な態度は、神を正しく反映するものではありません。もし礼儀に反する態度で賜物を用いるならば、それは自分の利益だけを追求するものであり、まさに「うるさいシンバル」のようなものでしかありません。この「シンバル」というのは、偶像礼拝の中で女司祭が用いた楽器のことです。礼儀に反する態度で賜物を用いる礼拝というのは、まさに偶像礼拝の罪だということです。自分では真の神を礼拝していると思っていても、実は偶像礼拝であったなどということは恐ろしいことで、避けなければなりません。神に愛され、赦されているにもかかわらず、神と隣人に対する愛がない罪でもあります。
14章31節 だれでも学び、だれでも励ましが受けられるように、だれでも一人ずつ預言することができるのです。
14章32節 預言する者たちの霊は預言する者たちに従います。
御霊の賜物にあふれるコリント教会への称賛と励ましに聞こえます。神からの私たち教会への称賛と励ましでもあるでしょう。神はそれぞれに賜物を分け与えておられる。あなたがたはその賜物を神の愛をいっぱいに受けて磨き、「御霊の賜物」とし、その賜物を通して神の栄光をあらわすことができる者と、すでにされている。神のすばらしい御業を人々に宣べ伝えることができる者とされているのだから。そしてあなたがたはそれぞれの賜物を通して、互いに益を受け、互いに造り上げられていくのである。そこに混乱や対立はないでしょうと。
預言の賜物も、異言賜物も、すべての賜物は今、吟味されるべきです。これからも吟味され続けるべきです。そして積極的に、正しく神が喜ばれる仕方で用いて行くのです。礼拝の中で、また教会生活の中で用いて行くのです。正しい態度、正しい仕方で。その判断基準は、教会の成長につながっているか。また混乱や対立ではなく、和解や平和を生じさせているか、です。自分自身で「吟味」(争う、異論を唱える、疑う、見分ける、判断する、決断する)するのです。
14章33a節 神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。
私たちそれぞれに賜物を分け与えられた神は、混乱の神ではなく、平和の神です。
女性に関する勧め
33節の後半から、礼拝の秩序を語る流れの中で、あらゆる集会での婦人のあり方について注意を促しています。すでにパウロは礼拝での婦人のかぶり物、髪型、服装のことについて語りました。神が創造され、よしとされた秩序の乱れについて語ったところです(112-16)。ここでは礼拝をはじめとする集会の場における婦人の発言について述べています。注意して聞かなければならないのは、これは当時、その時代のコリント教会特有の問題であったということです。また神は美しく整えられた秩序の中で、ご自身の栄光をあらわされ、教会も整えられ、健全に成長し、建て上げられるのだということです。
14章33b節 聖徒たちのすべての教会で行われているように、
このように言われているところから、婦人が男性と同様に礼拝で預言や異言をするのは、コリント教会特有の習慣であったことが分かります。他の教会には見られない現象でした。
パウロは11章5節で「女はだれでも祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら」と言っており、もともと女性にも祈りや預言の自由というものはありました。ところが34節では「女の人(別訳「妻たち」)は教会では黙っていなさい。彼女たちは語ることを許されていません」という制止がされています。これは、婦人たちが公の集会で他にふさわしい男の人がいるのに、その人を出し抜いて教えることを禁じたものと思われます。パウロは女の人(妻たち)が男性の上に立って権威を振り回そうとする傾向を戒めたのでしょう。
コリントの教会では、女の人たちが集会で語られることに対して勝手気ままに質問を浴びせかけて、集会の秩序を乱していたと思われます。時には集会で語る自分の夫の預言(説教)に対して、集会中にもかかわらず自分の権威や自由を振り回すようにして質問を放ったり、私語をしたりして集会の秩序を乱してひんしゅくをかっていたようです。それは他の教会では見られないことでした。また、当時は男尊女卑の文化にありましたから、男女問わず不信者が神を信じる教会の女の人たちの無秩序なおしゃべりを見て、教会を悪く思ってしまうのは当然の結果でした。しかし無条件にいつでもどこでも決して教会で話してはならないという意味ではありません。福音はその時代のその社会の中で伝えられて行くものです。ですからその点でも吟味を怠ってはならないのです。
ところで、一般的に男性の会話はおもに「情報交換と問題解決」であるのに対し、女性の会話は「共感と感情の共有」だと言われています。女性のおしゃべりによるコミュニケーション能力は、女性に与えられた賜物でもあるでしょう。その賜物を、集会の秩序を乱すのではなく、成長に役立てるため、教会を造り上げるために積極的に用いるならばどうでしょうか。男性から見たら「無駄話し」のように見えてしまう「おしゃべり」も良いのでしょう。礼拝中にという意味ではなく、礼拝において、また教会生活において、自分に与えられている賜物を積極的に用いるのだけれども、それをすべて成長に役立てるためにする。教会を造り上げるためにするならば、自分も相手も、そして教会も本当に大きく祝福されることと思います。もちろん、男性の会話における「情報交換と問題解決」という賜物も同じことが言えます。
結論
37節からは、14章の結びの部分となります。
パウロは14章全体を通して異言問題を扱い、同時に神に与えられた賜物の用い方と目的について扱いました。さらにコリントの聖徒が礼拝の際に無秩序と混乱を引き起こしていた様々な行動について扱い、それを正すために具体的に教えてきました。その目的というのはすべて、コリント教会の信徒間の和解と、御霊による一致を図ることにあったことを覚えたいと思います。そしてそれによって礼拝が整えられ、教会が教会としての機能を十分に発揮し、成長し、健全に建て上げられて行くのだということです。
14章37節 だれかが自分を預言者、あるいは御霊の人と思っているなら、その人は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。
聖書は決して私たちに耳ざわりの良いことばかりを語ってはくれません。耳の痛い、厳しいことをも語るものです。しかし主の命令はどれも私たちと私たち教会に対する愛に満ちているものであり、非常に良いものです。それに聞き従うすべての人を、永遠のいのちへと導くものです。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」(ヨハ173)。主の命令に聞き従う時、聞き従ってこなかった、あるいは聞き従えない頑なな自分の罪をも示されることでしょう。しかし罪が示されたところに、永遠のいのちがあるのです。そこにイエス・キリストが両手を力いっぱい広げて待っておられるのです。イエス・キリストの十字架と、そこにある神の真実の愛とあわれみ、赦しがはっきりと示されるのです。
14章38節 それを無視する人がいるなら、その人は無視されます。
もし主の命じられることを無視する人がいるなら、その人は無視されます。もしそれを認めないなら、その人は神からも神の民として認められない、救いから漏れるのであると、これもまた厳しいことを言われますが、やはり真理であり、愛です。主の命令を無視せず、しかし鵜呑みにせず、吟味して、理解して、納得して、そして信仰をもって聞き従って行く。そこに成長があるのです。
14章39節 ですから、私の兄弟たち、預言することを熱心に求めなさい。また、異言で語ることを禁じてはいけません。
14章40節 ただ、すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい。
パウロは再び命じます。14章1節で命じたことを、もう一度締めくくりとして命じます。「あなたがたは愛を追い求めなさい。全力で愛を追い続け、限りなく愛を追求し続けなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。あなたがたは自分に与えられている賜物を神の愛によって「御霊的」なものとし続け、それを積極的に神と教会と礼拝のために用い、神の栄光を、神の愛とあわれみを、神の赦しを、神のすばらしいみわざを、イエス・キリストの福音を宣べ伝えることができるように、熱心に求め続けなさい。ただ、すべてのことを適切に、きちんと、正直に、秩序正しく、正しい順序で、秩序ある態度で、健全なやり方で行いなさい」。これは教会の礼拝をはじめとする様々な集会、また教会生活における愛の原則です。私たちはそれぞれが、今一度肝に銘じなければならないでしょう。
私たちの礼拝、また私たちの教会生活は、教会を造り上げるもの、人を造り上げるもの、すべての人を神のみもとに導き、イエス・キリストに出会わせ、永遠のいのちを得させ、そこから成長させて行くものとなっているでしょうか。私たちの奉仕は本当にすべての人を自分ではなく、神のみもとに導くものとなっているでしょうか。すべての人を、真実の愛をもってイエス・キリストの十字架の御前に立たせるものとなっているでしょうか。自分に与えられている賜物を用いる時の態度を省みてみましょう。コリントの教会の姿から学ばされたとおり、賜物は自己アピールのために与えられているのではありません。教会に対立をもたらすために与えられているのではありません。賜物を教会の益のために用いましょう。
また、すべてのことが許されています。しかしすべてのことが人を救うことにはなりません。礼拝や教会生活の中で、何をするのも許されている。しかしすべてのことが人を救うことにはなりません。
私たちに与えられている賜物も、私たちに与えられている自由も、教会の混乱や無秩序、対立の原因にしては決してしてはいけません。賜物も自由も、神からの恵みです。すべてのことを吟味し、神のために、神の目的のために、教会の成長のために、教会の御霊による一致のために用いてまいりましょう。秩序ある、整えられた礼拝、集会、教会生活を通して福音を宣べ伝え、教会と人を造り上げて、建て上げて、成長させ、ますます教会を通して神の栄光をあらわしてまいりましょう。

