2025年12月7日 主日礼拝「クリスマスの主は、よみがえりの主」
賛 美
前奏(黙祷)
招 詞 イザヤ書9章6〜7節
讃 美 讃美歌94「久しく待ちにし」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌95「わが心は」
聖書朗読 コリント人への手紙第一 15章12〜19節
説 教 「クリスマスの主は、よみがえりの主」
讃 美 讃美歌153「わがたまよきけ」
聖餐式 信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
讃 美 讃美歌206「主のきよきつくえより」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 コリント人への手紙 第一 15章19節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
コリント人への手紙第一 15章12〜19節
説教題
「クリスマスの主は、よみがえりの主」
今週の聖句
もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。
コリント人への手紙 第一 15章19節
説教「クリスマスの主は、よみがえりの主」
コリント人への手紙第一 15章12〜19節
使徒信条(私たちの信仰)は地上のいのちを生かす力——
2025年のアドベントは2週目を迎えました。毎年確認していることですが、アドベントとは「到来、到着」、「やって来る、近づいて来る」という意味を持つラテン語から来ています。争いや憎しみ、汚れや罪に満ち、暗闇に覆われたようなこの世に、神のひとり子がまことの光、すべてを治めるまことの王として来てくださる。その出来事を待ち望む時が「アドベント、待降節」です。ここには4本のキャンドルが立てられていますが、救い主の到来、到着を、1本、また1本とキャンドルを灯しながら光の到来、救い主の到来を心待ちに待ち望む。そして私たちが今待ち望むのは、イエス様の第二の到来、再臨です。
今朝も私たちは、私たちの信仰、信じていること、この地上での“いのち”を生かす力としていることと言っても良いでしょう。それらを使徒信条を通して告白しました。そこには天地の造り主、全能なる父なる神がおられ、イエス・キリストが神のひとり子であられ、私たちの主、また救い主であることが告白されています。その救い主イエス様が聖霊によって処女マリアの胎に宿り、処女マリアからお生まれになったクリスマスの出来事が告白され、私たちはこのクリスマスの時、クリスマスに起こった奇跡的な実際の出来事、神のみわざを振り返り、思い起こしてお祝いしています。そしてクリスマスにお生まれになった救い主が、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで確かに墓に葬られ、すべて死んだ者が行く所とされている陰府にまで降られ、しかし3日目に死人の内よりよみがえられたことが告白され、私たちはイースターにおいて、イースターの朝に起こった奇跡的な実際の出来事、神によるみわざを振り返り、思い起こしてお祝いしています。そして確かに神の力によってよみがえられた救い主イエス・キリストは今も生きておられ、天にのぼり、全能の父なる神の右の座におられ、私たち信じる者たちの救いの完成のために、日々釘跡の残る手を上げてとりなし祈ってくださっています。このこともまた、私たちのこの地上での“いのち”を生かす力となっていることでしょう。そして私たちの救い主イエス・キリストは、やがてこの世に再び来られ、生きている者と死んだ者、つまりすべての人をさばかれる。その時、神がこの世に遣わされた救い主イエス・キリストを信じる者は天の御国に入れられ、そこで大祝宴が開かれる。盛大なお祝いがされることになるのです。今朝、私たちは聖餐式に招かれていますが、聖餐式はこの天の御国での祝宴の先取りであり保証です。信仰をもって感謝してこの恵みに与りましょう。そしてこの地上での“いのち”を生かす力とさせていただきたいと思います。
さて、私は何度か「この地上での“いのち”を生かす力」と申し上げました。今日の箇所でパウロも19節で「この地上のいのち」と言っておりますが、この「いのち」というのは、一般的ないのちのことだけを言っているのではありません。聖書のギリシャ語では2通りの「いのち」が記されています。1つは「Ψυχή・プシュケー」。これは神から与えられた肉体と魂の両方を含む一般的ないのちのことです。このいのちは、信者にも未信者にも等しく与えられているものです。もう1つは「ζωή・ゾーエー」。これは神との関係にある「真のいのち」「永遠のいのち」を意味しています。神から見て生きているいのちのことです。このいのち、より深く、根源的ないのち、神から与えられている賜物=カリスマ(恵みの受け身形)を神の御心通りに活かし、活き活きと生きるいのち(ゾーエー)を本当に活き活きと生かす力、勇気となる力、恐れや困難や不安、あるいは恥ずかしさを感じながらも、自分の信念や目標のために恐れず立ち向かうことができる力となるもの、それが使徒信条で告白されるすべてのことがら、つまり私たちが本当に信じていることがら、信仰です。
その私たちのいのち(ゾーエー)を生かす力である使徒信条の中に、「からだのよみがえり」も告白されていることに、どれだけ注意を向けている人がいるでしょうか。重要視している人がいるでしょうか。「からだのよみがえり」を、私たちはどれだけ信じ、どれだけワクワクしながら期待し、告白しているでしょうか。地上でのいのちを生かす力、勇気としているでしょうか。「からだのよみがえり」を心から信じて、そして告白するなら、私たちは救われるのです。恐れや困難や不安、あるいは恥ずかしさの中で「あぁ、救われた」と深く息を吐いて、また息を大きく吸って、力を得ることができるのです。
やがてイエス様は必ず再びこの地上に来られます。その時には、死んだ者はすべてからだ(肉体)の復活をするのです。その目的というのは、イエス・キリストを信じない者の肉体の復活は、残念ながら永遠の刑罰を受けるためです。しかしイエス・キリストを信じる者の肉体の復活は、永遠の“いのち”(Ψυχή・プシュケー、ζωή・ゾーエー)にあずかるためです。イエス・キリストを信じる者が与えられる復活の肉体は、キリストのように栄光あるかたちであり、時間と空間を超越し、死や苦しみ、病気や痛みに苦しむことはないからだです。若くて力に溢れ、死や苦しみ、病気や痛みの苦しみを知らない人には分からないかもしれませんが、そうではない弱さや病や痛みを知る人にとっては、これがどれほど素晴らしく、喜ばしく、心から求める、求めたいものではないでしょうか。クリスマスを信じて祝っている。イースターも信じて祝っている。イエス・キリストの再臨を信じて待ち望み、聖餐式を通して祝宴の先取りをしている。しかし、からだのよみがえり、肉体の復活を、私たちはどれだけ信じて、ワクワクしながら期待し、求めているか。それを問われているのが、今日の箇所ではないかと思うのです。
復活に対する質問
15章12節 ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。
直前の15章11節を見ると、コリントの聖徒たちはイエス・キリストの復活は信じていたのでしょう。ところが、聖徒の復活、からだのよみがえりを信じていませんでした。死者の復活を信じていない人たちが、何を根拠にしてこのような主張をしたかについては記されていません。この世に影響されてでしょうか。愚かな者と見られたくなかったからでしょうか。当時のギリシア人の間では、物質は滅びるが魂は不滅だと信じられていました。だから人間のからだも死後に復活するとは普通に信じなかったのです。どこかでその必要性を感じられなかったのです。あるいは、少し皮肉めいて言いますが、コリントの教会は元気で健康で、御霊の賜物が豊かだったので、肉体に関することを軽視して、何事も霊的に解釈したのかもしれません。これらは現代の私たちにも無関係ではない考えではないでしょうか。知らずの内に私たち信仰者の中にも潜んでいる考えかもしれません。しかしパウロは、そのようなことは正しくなく、魂とからだの両方が復活するのだと説明します。それが神の目的であると。そして、からだの復活を信じないことの虚しさとともに、それがキリストを信じる信仰、いのちに及ぼす害についても説明します。
死者の復活とキリスト
15章13節 もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
ちなみに復活、よみがえりと出て来て少しややこしく思ってしまいますが、その違いは「復活」が名詞であるのに対して、「よみがえる」は動詞です。そして「よみがえる・ἐγείρω」というギリシア語は、「立ち上がる、死者の中から生き返る」というもので、そのイメージとしては「物をつかんで、上に上げる」という物理的な動作を表しています。つまり、「よみがえる」と訳されるところはすべて、それが神のみわざ、神の御手によってつかまれ、上に上げられるということを表しているのです。よみがえる、神の力によって立ち上がる、神の力によって死者の中から生き返る、神の力によって陰府(すべて死んだ者が行く場所)から引き上げられるというものです。
パウロはパウロらしい議論を述べます。キリストの復活を信じると言いながら、聖徒のからだ、キリストを信じる者のからだの復活を信じないのならば、結果的にキリストの復活も否定することになると言います。自分のからだがよみがえることを信じないならば、それはそのままキリストのよみがえりも否定することになるのだと言います。全能の父なる神を否定することになる。私たちの“いのち” (Ψυχή・プシュケー、ζωή・ゾーエー)を、深くて真っ暗な陰府、泥沼から引き上げ、救い出してくださる神のみわざを否定することになる。だとしたら、どこに救いがあるのでしょうか。「からだのよみがえり」を信じる信仰には、実はそれだけの大きな意味や、この地上のいのちを生かす力があるのです。
キリストの復活と福音
続いてパウロは、キリストの復活と聖徒との関係を説明します。
15章14節 そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。
15章15節 私たちは神についての偽証人ということにさえなります。なぜなら、かりに死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、私たちは神がキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。
キリストの復活、からだのよみがえりは、聖徒の信仰生活と別物ではないということを説明するために、パウロはまず、キリストの復活を否定する場合に聖徒に起こり得ることを語ります。
第1に、宣教が空しくなる。キリストがよみがえらなかったとしたら、パウロの宣教、コリント教会の宣教、そして私たちの宣教のすべてが愚かなもので、無益なもの、無駄になるのです。
第2に、あなたがたの信仰も空しいもの、愚かなもの、無益なものになる。15章に入って、パウロは私たちの信仰の土台は、キリストが聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、3日目に(同じからだをもって、しかし栄光のからだに変えられて)よみがえられたことであると述べてきました。コリントの聖徒はパウロが宣べ伝えたその福音をそのように聞いて、信じて救われたのです。それなのに、その信仰の土台の1つが実は損なわれていた、あるいはいつの間にか世の影響を受けて奪われたり失われたりしてしまえば、その上に建つ信仰は見事に崩れてしまうでしょう。神のみことばである聖書を全否定することになってしまう。
そして「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中から(そのからだをもって)よみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」(ロマ109)のであると、聖書は宣言しています。死者の復活、からだのよみがえりを信じられないならば、キリストの復活、からだのよみがえりも本当には信じていないのではないか。実際には信じられていないのではないかと問われるのです。そのような信仰であるならば、それは空しく、愚かで、無益である。神を信じる、聖書を信じる、何だったのかと。あなたを本当に救うものにはなっていない、ならないのだと。
第3に、キリストの復活がなければ、パウロとその同労者たちは、神の偽証人になる。事実とは異なる証言をしているわけですから。証人とか証言というのは裁判用語です。証人がする証言というのは命がけでした。嘘をついたら死刑だったからです。
死者の復活とキリスト
15章16節 もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
パウロは13節で説明したことを、ここで繰り返して記します。パウロはキリストの復活、からだのよみがえりが神のみわざであり、それは確かに起こったことで、本当なのだということを信じさせるために、その根拠や理由を挙げて説明しました。そうすることで聖徒の復活、からだのよみがえりをも神の力によって確かに起こることであり、それを心から信じるようにと促すのです。それがこの地上でのいのちを生かす力、神の御前でのいのちを活き活きと生きて行くための力や勇気になるからです。
キリストの復活と聖徒
17節からは、14〜15節と同様に、パウロは再びキリストの復活がない場合を仮定して、聖徒に起こり得ることを語ります。そしてキリストの復活、からだのよみがえりが確かなことであることを論証し、ですからあなたがたのからだの復活も確かに起こる事なのだと信じるように、復活、からだのよみがえりに対する確かな信仰へと励まし、促します。
15章17節 そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。
15章18節 そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。
15章19節 もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。
では、キリストの復活がない場合を仮定したら、聖徒に何が起こりうるのでしょうか。
第1に、14節と同様に、キリストの復活がないとしたら、聖徒の信仰は空しくなる。
第2に、キリストがよみがえらたことを信じないなら、聖徒は未だ罪の中にいることになる。キリストの十字架の死、そして復活の目的は何だったでしょうか。それは私たちの罪を解決することにありました。キリストは聖書(イザヤ書53章など)に書いてあるとおり、私たちの罪のために死なれたのです。そして罪に完全勝利するために、よみがえられました。キリストが死んで葬られ、陰府にくだって終わってしまい、復活がないとしたら、罪が勝利したことになり、私たちの罪はいまだ残ったままであり、私たちはなおも罪の支配の下にいるということになります。
第3に、キリストの復活がなければ、キリストを信じる者たちの死に、まったく希望がないことになります。私たちは親しい方たちの死に対し、何に慰めを得ることができるでしょう。ただ悲しみに暮れるばかりでしょう。また、復活、からだのよみがえりがあるからこそ、聖徒は死を恐れず、いつか死の時が来ることを認めながらも希望を抱いて、その時に備えることができる幸いな者となれるのです。また、すでに先に召された信仰者たちは、死への恐れはあったかもしれませんが、しかし信仰による確かな希望を抱いて死の時を迎えられたのではないでしょうか。ある方は死の間際に「ハレルヤ!」と叫んで主の御許に召されたと聞いたことがあります。慰めがあります。また皆さんもそのような幸いな者とされているのではないでしょうか。
第4に、キリストの復活がないとしたら、永遠のいのちの希望がなくなります。この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者、惨めな者だとパウロは言います。しかし裏を返すと、キリストの復活を信じ、また死人の復活を本当に信じるならば、私たちはすべての人の中で最も幸いな者であるということではないでしょうか。私たちはみな、この地上において、悩みや苦しみの中から救いを求め、イエス・キリストを信じ、十字架と復活の福音にすがりつき、それを信じ、ただ恵みによって罪が赦された。たとえこの地上でのいのちに悩みや苦しみが多くとも、貧しくとも、たとえこの地上の体に病や痛みがあろうとも、やがてイエス様が再臨され神の国が完成するならば、イエス・キリストを信じる私たちは栄光のからだによみがえらされ、天の御国、神の国に入れられ、そこにおいて、涙も、死も、悲しみも、叫び声も、苦しみもない、病も痛みもない、魂もからだも永遠に神とともに幸せに暮らすことが約束されている。それを心から願っている。そこに希望がある。それを励みに頑張っている。だからこそキリストを信じている。それは何も恥じることではありません。神が私たちに求めておられる生き方だからです。そのように、この地上のいのちにおいて、キリストに望みを抱いていることは本当に幸いなことです。この地上のいのちにおいて、キリストに望みを抱いていられることは、本当に大きな恵みです。キリストの復活を信じ、また死人の復活を本当に信じる私たちは、すべての人の中で最も幸いな者たちです。しかしもし、キリストの復活、からだのよみがえり、死者の復活、からだのよみがえりを愚かだと考えたり、恥じて否定するならば、結果として聖徒が信じ、希望をもっているすべてのものを否定する、拒否する、自ら手放すことになってしまいます。
死人の復活の否定は重大問題
パウロはキリストの復活を信じてはいても、実は死人の復活を信じずに否定していたコリントの聖徒に向けて、死人の復活、聖徒のからだのよみがえりを否定することが自らの信仰と将来に対してどれほど重大な問題であることに気付かせ、その考えを変えるようにと促しています。パウロ自身、この希望をもって、どんな迫害や困難にも耐えて福音を伝え続けました。人々に誤解され、蔑まれ、迫害されて何度も死にそうになり、貧困や病にも苦しみました。しかしパウロ自身、こられすべてよりも、復活に対する希望がもっと大きいと告白しているのです。そして、後の日に自分もよみがえらされて、新しいからだが与えられ、神が永遠の報いを与えて慰めてくださることを確信していました。
私たちはどうでしょうか。私たちもコリントの聖徒たちのように、確かにキリストの復活は信じていることでしょう。しかし自分の復活、からだのよみがえりに対してはどのような信仰をお持ちでしょうか。どれだけ重要なものであると考えておられるでしょうか。使徒信条をもって自分の信仰を告白するとき、「からだのよみがえりを信ず」というところだけ、何となくさらっと告白しているだけということはないでしょうか。そこにどれだけの信仰と確信をもって、噛みしめて、感謝して告白されているでしょうか。使徒信条を通しての信仰告白全体はもちろんのこと、今日は特に「からだのよみがえりを信ず」という信仰告白には、本当に私たちのこの地上のいのちを生かす力があるのだということを、今一度、改めて心に覚えたいと思います。
争いや憎しみ、汚れや罪に満ち、暗闇に覆われたようなこの世に、神のひとり子がまことの光、すべてを治めるまことの王として来てくださった。依然として争いや憎しみ、汚れや罪に満ち、暗闇に覆われたようなこの世に、神のひとり子がよみがえられたからだをもって、まことの光、平和、さばき、正義をもってすべてを治めるまことの王として来てくださる。私たちは今年もアドベントを通して、相変わらず悩み、試練、苦難の多い日常の中にあっても、イエス様の再臨に備えて待ち望む信仰を深めてまいりましょう。救い主は確実に近づいて来られている。その時、私たちの魂ばかりでなく、この肉体もよみがえらされるのだという信仰を深めてまいりましょう。そして希望、平安、喜び、愛をますます深めて行き、この地上での“いのち”、神から与えられた肉体と魂の両方を含む一般的ないのち(Ψυχή・プシュケー)ばかりでなく、イエス・キリストを信じることによって与えられている神との関係における真のいのち、永遠のいのち(ζωή・ゾーエー)を、からだのよみがえりに対する真の信仰によって励まされ、力づけられ、それを勇気(恐れや困難や不安、あるいは恥ずかしさ、情けなさを感じながらも、恐れず立ち向かうことができる力)として、神から与えられている賜物を神の御心通りに惜しみなく活かして、神を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合い、赦し合い、活き活きと生きて行く者でありたいと、そう願うものであります。

