2026年1月11日 主日礼拝「神が喜ばれるのは真実の愛」
賛 美 新聖歌166「威光 尊厳 栄誉」
新聖歌355「主と共に歩む」
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇8篇1〜4節
讃 美 讃美歌58「かみよ、みまえに」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌332「主はいのちを」
聖書朗読 コリント人への手紙 第一 16章1〜12節
説 教 「神が喜ばれるのは真実の愛」
讃 美 讃美歌391「ナルドの壺」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 コリント人への手紙 第二 9章7節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
コリント人への手紙 第一 16章1〜12節
説教題
「神が喜ばれるのは真実の愛」
今週の聖句
一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。
コリント人への手紙 第二 9章7節
「神が喜ばれるのは真実の愛」
コリント人への手紙 第一 16章1〜12節
「主の御心なら」と言うけれど…
今日の聖書箇所の7節に「主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています」とありますが、ここで思い出したことがあります。先日、色々な国の人たちが出演するテレビ番組を見たのですが、海外には「神が望まれるなら」という言い方があるそうです。例えば、誰かからパーティーに誘われた時に「神が望まれるなら」と言うそうです。この「神が望まれるなら」という言い回しは日本だとこうなるのでしょう。「行かれたら行きます」とか「やれたらやります」と。これは最終的に行くのか行かないのか、やるのかやらないのか、どちらなのでしょうか。実は海外の人(特に英語圏)と日本人の間にはとらえ方にギャップがあるそうです。海外の方々の場合、本当に行く気があることが多いらしいです。日本人は大抵の場合、社交辞令寄りで「ほぼ行かない、やらない」というこが多いのではないでしょうか。角が立たないように、体の良い断りです。日本人に「行かれたら行きます」と答えられた海外の人は、当然「じゃあ来る前提で準備していい?」と聞くと、日本人は大体慌てて本音を言うそうです。「やれたらやるね」も同じ。納得するやら、笑ってしまうやら。
ところで、私たち信仰者が、それはもうしょっちゅう使うフレーズがありますね。それは「みこころなら」です。聖書は言います。「あなたがたはむしろ、『主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう』と言うべきです」(ヤコ415)。これは角が立たないように体良く断るべきだと教えているのでしょうか。そうではないでしょう。神を心から信じ信頼して「計画はある。行こう、しようと考えている。けれども、最終的には人知を超えた方に委ねます」と言うような積極的な態度。そして御霊が結んだ実です。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制に基づく決意。これらはもちろん、神が喜んで受け入れてくださるものです。しかし「主のみこころなら」と言いつつ、ただの「体良く断る姿勢」であるなら、そこに信仰はなく、御霊によるのではなく肉の思いによるものであり、そこに神が喜ばれる要素は何もないでしょう。さらには主の御名をみだらに唱えること、主の存在を自己中心的に取り扱うこと、自分の都合の良いように「主」を持ち出すことは罪だと言われているのです。「主のみこころなら」。角が立たないように、体の良い断り方が身に染みついている私たち日本人信仰者は、本当に気をつけなければならないと思います。神はご自身のいのちをかけてまで、全身全霊で、霊とまことをもって熱心に、真っ正面から、いや上下、前後、左右、全方向から私たちを愛してくださり、全知全能なる神は、過去においても未来においても私たち一人ひとりに対して、また教会に対して最善のご配慮をしてくださっているのに、私たちの方は角が立たないように、体良くという表面上の姿勢で向き合ってはならないなと、そのようなことを考えさせられました。
16章はおまけ?
さて、先ほど皆さんと拝読しました今日の箇所ですが、コリント人への手紙第一も残すところあと1章、本朝はその最後の1章の前半となります。ここには聖徒への献金のことと、テモテやアポロのことが記されています。
この記事は、手紙の終わりにパウロが付け足したような、あってもなくても良いような小さなテーマなのではありません。
パウロは直前の15章で長々とからだの復活に対する長い説明をし、最終的な神の報いがあること。救いの完成を信じ、心から期待して、それを力にして、地上の人生を神のみこころにかなった幸いなより良いものとすべきことを勧めました。またその前の12〜14章では長々と「教会はキリストのからだ」であることを教えました。互いの賜物を認め合い、尊重し合い、互いの愛をもって、党派心など肉の思いによるのではなく御霊によって一致すべきことを教えました。しかし振り返ってみると、パウロはこの手紙の1章から、教会の兄弟姉妹の信仰の成長を助けるための相互性、つまり支え、支えられる関係。あるいは連帯性、つまり見返りがなくても助け合うこと。真の愛によって兄弟姉妹が苦しみや困難を共有することで生まれる結びつきについて述べてきました。その最後に、まとめのようにして、その具体的、実践的、現実的な方法として、聖徒のための献金を提案しているのです。献金というのは、教会の姿、信仰を左右する、まことに重要なテーマなのです。
聖徒への献金について
16章1節 さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたとおりに、あなたがたも行いなさい。
この箇所は、エルサレム教会への献金についての指示です。パウロは各地で宣教する際に、迫害による貧しさに加え、凶作まで重なってしまったエルサレムの教会のために献金を集めました。そしてそれを届けたのです。この働きに積極的に参加した教会が、マケドニアとガラテヤの諸教会でした。実はマケドニアとガラテヤの教会にもエルサレム教会と似通った苦難がありました。コリント人への手紙第二8章に記されていますが、彼らは「極度の貧しさ、苦しみによる激しい試練の中にある」とあります。それでも彼らは惜しまずにエルサレム教会のために献金したのです。しかも、彼らとエルサレム教会との間の空気は、必ずしもあたたかなものだったとは言えませんでした。なぜならば、エルサレムの教会はペテロはじめイエス様の直弟子によって建てられ、ユダヤ人たちに「旧約で預言されていた救い主こそイエスだ」と伝道していたのに対し、パウロたちの異邦人教会は、パウロのように主の直弟子ではないと“思われていた”者たちが伝道し、ユダヤ人の伝道的な考え(神の選びの民)からすれば、必ずしも神に祝福されたとは言えない人々の集まりだったからです。しかしパウロは、自分たちはエルサレム教会から霊的な賜物(永遠のいのちに至るイエス・キリストの十字架の福音。素晴らしく、喜ばしい信仰)を与えられたのだから、何とかその感謝を表そうではないか。そうだ、献金によって私たちの感謝を表そうではないか。お返ししようではないか。そのようにして異邦人諸教会に献金を呼びかけ、それに積極的に参加したのが、極度の貧しさ、苦しみによる激しい試練の中にあったマケドニアとガラテヤの諸教会でした。
この事実に、私たちは考えさせられることがあると思います。イエス様はご自分の足に香油を塗り、涙でその足をぬらし、足に口づけしてやめなかった女性を批判するパリサイ人に対して言われました。「ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです」(ルカ747)と。これは「あなたは少ししか赦されていない」と言われているのではありません。赦しの大きさと、感謝また主に対する愛の深さが比例することをイエス様が教えてくださったところです。彼女の場合、罪の赦しという霊的な恵みに対して、何とかその感謝を表したいと一生懸命考え、そうだ、私が今持っている最も良い物。大切にしていた高価な香油を献げることをもって感謝をあらわそう。そのような行動でした。イエス様はそれを喜んで受け入れてくださいました。そのように、マケドニアとガラテヤの諸教会は霊的な大きな恵みに対して、この世的な献金をもって感謝をあらわしたのです。
実は1・2節で「献金」と訳されたギリシャ語(λογία)は、「純粋な心」という意味を持つ語です。「献金を集める」というのは、私たちの純粋な心を集めることなのです。またパウロは3節でこの献金を「贈り物」と言っていますが、ここで贈り物と訳されているギリシャ語は皆さん良くご存知の「χάρις」です。意味はもちろん「恵み」です。他に「贈り物、好意、喜び、寛大さ、楽しみ、感謝」などの意味があります。
また主は「あなたがたが神を愛しているかどうかは、あなたがたが兄弟姉妹を愛しているかどうかによって分かる」と言われたのではないでしょうか。ヨハネが伝えています。「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています」(Ⅰヨハ419-21)と。同じように、神への感謝は兄弟姉妹への感謝、ここでは迫害や貧困の中で苦しんでいるエルサレム教会を実際的に助けることによって、彼らへの感謝として表すのが主のみこころだということです。このことに対して、私たちは「主のみこころなら」と答えるでしょうか。それは断言を避ける意味でしょうか。それとも信仰をもって喜んでやり遂げようという意味でしょうか。
献金(純粋な心)は、どのような形のものであっても、神の救いの恵みに感謝して、惜しまずに心から進んでささげるべきものです。また自分を神に献げるという献身の姿勢をもってささげなければなりません。パウロは私たちの献金がそのような献金となるための具体的な指針を聖徒に与えます。
献金の方法
16章2節 私がそちらに行ってから献金を集めることがないように、あなたがたはそれぞれ、いつも週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手もとに蓄えておきなさい。
先ほど「献金」と訳されたギリシャ語(λογία)は、「純粋な心」という意味を持つ語であること。「献金を集める」というのは、私たちの純粋な心を集めることであると申し上げました。私たちの神に対する好意、愛、喜び、楽しみ、感謝の心を集めること。また「心」に関してイエス様が言われたことを思い起こします。「天に宝を蓄えなさい。…あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです」(マタ620-21)。
パウロは「週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手もとに蓄えておきなさい」と言っています。つまり、献金はその場で深い考えもなしにするものではないということです。献金の時になってはじめて自分の財布にいくら入っているかを確認して、「主のみこころならば」とつぶやきながらサッと献げれば良いというものではないということです。常日頃から献金のために蓄えておくのです。献金を覚えて蓄えておくのです。私たちの心を常日頃から主に向けて、恵みを覚えて、祈って、主への私の純粋な心、感謝を蓄えておくのです。「蓄えておく」というのは、英語で「コレクション」だそうです。空や雲、星や月、鳥や動物などの自然を見て、主の素晴らしいみわざ、大きな愛、ぬかりないご配慮を覚えて感謝の心が溢れてきたなら、それをコレクションしておく。自分の身の上に起こる様々な出来事、それが良いことであっても、悪いことであったとしても、そこに主の素晴らしいみわざ、大きな愛、ぬかりないご配慮を覚えて感謝の心が溢れてきたなら、それをコレクションしておく。その純粋な心を、感謝の気持ちを何とか表そう、お返ししようとして、実際の献金として別に取っておく。取り分けて用意しておく。聖別しておく。つまり神のために取り分けておく。その神のために取り分けておくというのは実際的にどのようなものでしょうか。不足を覚えている教会や兄弟姉妹の必要のために蓄えておくことです。積んでおくことです。そしてそれを週ごとに、6日間のわざを終え、7日目の安息日、イエス様の復活を覚える週の初めの日に献げるのです。
また、パウロは「各自の収入に応じて」積み立て、各自の力に応じて献げるように命じます。一人ひとりの状況は違うけれども、豊かな人たちは、けちけちすることなくふんだんに献げ、貧しい人たちは、いやいやながらでなく、喜んで自分から進んで献げるべきであると。喜んで自分から進んで献げることができるために、「各自の収入に応じて」と命じるのです。神は持っていないものまでも要求されるお方ではありません。そうではなく、献げるものをも備えてくださるお方です。それはお金ばかりではなく、私たちの心に対してもそうです。神は私たちが持っていない心までも要求されるお方ではありません。いやいやながら献げる心は、もはや純粋な心ではありません。そして神は私たちが献げることができる心、喜び、感謝をも備えてくださるお方です。たとえその週に、私たちの心に喜びや感謝が少ないと感じていたなら、献金に感謝と喜びがないなら、神がなしてくださったことを数えてみましょう。ちょっとずつコレクションしておいたものを数えてみましょう。何よりもイエス・キリストの十字架の福音を覚えましょう。神への感謝は尽きないはずです。そこに神への感謝や喜びさえも神によって私たちのために備えられていたことを知るのではないでしょうか。私たちがそれに応じて、その中で精一杯の喜びと感謝、神への心を献げるならば、神は喜んで受け入れてくださいます。イエス様はひとりの貧しいやもめが献げたレプタ銅貨2枚のわずかな献金を、精一杯の献金を「だれよりも多くを投げ入れた」と褒められたではありませんか。神に対する感謝と愛が誰よりもまさっていたからです。私たちは自分の状況に合わせ、喜びの中で精一杯の純粋な心を、祈りに覚えた献金を主にささげているかどうかを確認してみましょう。神の愛と恵みに対する感謝は、献金を通しても表れるものです。
パウロは裕福な者から奴隷までがいるコリントの教会の聖徒たちに、それぞれ置かれている所で、それぞれに応じて、無理矢理ではなく、欲や二心によるのでもなく、真実な神への感謝の心をもって献金し、献金を通しても神と教会に仕えて行くようにと命じます。そして、すべての聖徒がこれに加わることを期待しています。
パウロはマケドニアとガラテヤ教会が行ったように、コリント教会も行うように命じます。迫害と貧困の中にあるエルサレム教会のために献げなさい。自分たちが受けた霊的な恵みを覚えて献げなさい。そう命じるのです。パウロはそのような献金を勧めながら、それは「恵みのわざ」なのだと次の手紙(コリント人への手紙第二、8章)で繰り返し語っています。そしてコリントの聖徒が恵みのわざに加わることができるのは、あなたがたが主イエス・キリストの恵みを知っているからだと説明しています。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」(Ⅱコリ89)。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」(ピリ26-8)。それによって私たちに何がもたらされたでしょうか。罪の赦し、神の怒りの宥め、神との関係の回復、永遠のいのちという何物にも代えがたい宝。天の御国に至るまでの完全なる神のご配慮。神のお心をいただいた。天の御国という莫大で何物にも代えがたい相続財産が、イエス・キリストを信じるというだけで、ただ恵みによって与えられた。このような神の恵みがあなたがたに注がれているのだから、この恵みのわざに加わって下さいと勧めているのです。互いの賜物を比較し、誇り、対立、分裂や分派があり、貧しい者、弱い者たちがなおざりにされ、不道徳があり、服装や髪型を乱し、礼拝に偶像礼拝を持ち込むようなコリント教会。それでもイエス・キリストのゆえに、神の真実の愛のゆえに恵みが注がれている。建てられている。その恵みを覚えて、恵みに応えて、この恵みのわざ、献金、純粋な心をコレクションすることに皆が加わることによって、教会が御霊による一致となるように。また教会の御霊による一致の「しるし」「証拠」としてこれを行いなさいと、そう命じるのです。
献金を届ける
3〜4節でパウロは、集められたコリントの聖徒の献金を、どのようにエルサレムの教会に届けるかについて具体的に説明しています。ここで1つ言えることは、実際は、パウロはエルサレム行きを決意していました。しかし献金を持って行くのにパウロが同行するかは、コリント教会の判断次第だと言うのです。パウロはこの献金によって、自分を推薦しよう、自分の手柄にしようとしているのではないということです。パウロにそのような疑いの目が向けられていたのでしょうか。
コリント訪問の予告
5節から、パウロはコリント訪問の予定を伝えます。
パウロはこの手紙を書いた時、エペソにいました。エペソでの3年間の滞在の終わりに、この手紙が書き送られました。
16章9節 実り多い働きをもたらす門が私のために広く開かれて(直訳「広い門と働きが私のために開かれて」)いますが、反対者も大勢いるからです。
ここはパウロに、エペソで伝道する機会が生じたということでしょう。詳しくは使徒の働き19章を見ていただけると分かります。主はパウロとともにおられ、エペソにおいて力あるわざを行われました。同時に大勢の反対者、敵対する勢力もありました。
実り多い働きをもたらす広く開かれた門があり、敵対する者があり。これが現実でしょう。私たちが光に近づくとどうなるでしょうか。近づけば近づくほど影が濃くなるのです。しかし光から遠ざかると影も薄くなる。ちょうどそれと同じように、私たちが神に近付き、祝福を受けるようになると、それに比例するように、反対したり敵対する力が強くなり出すのです。逆も然り。しかもこれが外部からだけではなく、自分の内面、心にも起こってくるので厄介です。先のテーマである献金にも言えることでしょう。私たちは常日頃から神の愛と恵みに対する感謝の心をコレクションしていくことを勧められました。それに励み、感謝と恵みが日々増し加わり、ますます神に近付くとどうなるか。それに比例するように、反対したり敵対する力、サタンの力が強くなり出すのです。外部から、そして内面にも。そのことを私たちは知っておかなければならないでしょう。そこでパウロは、次回の箇所になるのですが、13節で言うのです。「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。一切のことを、愛をもって行いなさい」と(1613-14)。
テモテとアポロに関して
10節でパウロは、コリント教会にテモテについてお願いをしています。パウロがこの手紙を書いていた頃、テモテとエラストという人が、パウロよりも先にマケドニアへと旅をしていました。テモテは年の若いパウロの同労者でした。そのテモテが間もなくコリントに来ようとしていました。そこでパウロはお願いをします。年が若いからといって軽く見ないように。テモテもまた神の働き人であり、あなたがたの心、そして心の具体的なあらわれとしての献金によって励まされ、支えられるべき者であると。テモテは繊細な青年だったようですから。パウロはコリントの聖徒に、そのようにしてテモテを励まし、平安のうちに送り出して自分のところに来させるようにと頼んでいます。それはテモテのみならず、コリント教会の信仰の成長を助けるものになるからです。支え、支えられる関係。あるいは見返りがなくても助け合うこと。それは真の愛によって兄弟姉妹が苦しみや困難を共有することで生まれる結びつきが確かなものとされ、そして教会の御霊による一致に役立つものになるからです。
12節ではアポロについて記されています。12節の「兄弟アポロのことですが」は、コリントの聖徒がアポロに対してパウロに質問したことを示しています。覚えておられるでしょうか。コリント教会には「アポロ派」という派閥がありました。コリントの聖徒の多くがアポロを尊敬し、アポロを求めて、彼がコリントを再び訪れることを願っていたようです。そしてパウロに「早く送ってくれ。どうして送ってくれないのか」と言っていたのかもしれません。実際は、パウロはアポロにコリント行きを強く勧めていました。しかしアポロは、どんな理由からなのか分かりませんが、今すぐにはコリントに行こうとしませんでした。アポロが断っていたのは、おそらくコリント教会の分争の影響だったのかもしれません。自分はコリントに行かなくてはならない。しかし今、自分が行ってはいけない。コリント教会のためにならない。アポロは主の御心を尋ね求め、そのような主の答えの確信を得ていたのではないでしょうか。そしてパウロに答えたのでしょう。「主のみこころならば」と。それは角が立たないように、体の良い断りではなく、神を心から信じ信頼して「行く計画はある。行こう、しようと考えている。けれども、最終的には人知を超えた方に委ねます」と言う積極的な態度による答え。そしてパウロは「主のみこころならば」と受け入れました。神とアポロを信頼していたからです。パウロの心には、同労者に対する愛と信頼がありました。パウロとアポロ、2人の同労者の互いに信頼し合い、尊敬し合い、尊重し合う姿は、パウロ派、アポロ派に分かれて対立していたコリントの教会にとってまさにお手本だったことでしょう。それを示しながら、パウロはコリントの聖徒もそれに加わる者たちとなることを願っています。お互いに愛し合い、尊重し合い、助け合う。
救済と仕えることは、神の恵みを分かち合うこと
このように救済と仕えることは、神から受けた恵みを分かち合うことです。そして恵みを分かち合う献金に、パウロは一人ひとりが積極的に参加することを勧めるのです。
エルサレムの教会のための献金には、実は貧しい者を助けること以上の意味がありました。それにアジア、マケドニア、アカヤなど多くの諸教会が加わりました。パウロは、すべての諸教会が、苦しみの中にある聖徒を助けるために献金することほど、私たちの神に対する愛、感謝の心を示す実際的な例はないと明らかにしています。また、キリストのからだなる教会が一つであることを示す実際的な例はないと明らかにしています。
今一度覚えましょう。「献金」と訳されたギリシャ語(λογία)は、「純粋な心」という意味を持つ語であること。「献金を集める」というのは、私たちの純粋な心を週ごとに、6日間コレクションし、週の初めの日に献げることなのだということ。また献金は恵みであり、好意、贈り物、喜び、寛大さ、楽しみ、感謝のあらわれであること。そしてその献金というのは、教会の姿、信仰を左右する、まことに重要なテーマであることを、改めて私たちは覚えたいと思います。
「主のみこころなら」。献金、また私たちの心を日々コレクションして行く中で、それはどのように響いて聞こえて来るでしょうか。しぶしぶ、いやいやでしょうか。それとも喜んででしょうか。神に近付けば近付くほどに心の中に落とす影が濃くなる。サタンの力が増してくる。それに負けてしまうことがないように、イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の親しい交わりから離れない。私たちの救いの完成、イエス様の再臨、からだの復活に確かな希望を持ちつつ、純粋な心をもって主に仕え、教会に仕え、人々に仕えて歩んでまいりましょう。救済と仕えることは、神から受けた恵みを分かち合うことです。そして恵みを分かち合う献金に、一人ひとりが積極的に参加することを願われる神のみこころに応えてまいりましょう。

