2026年5月31日 主日礼拝「主の命によってとどまり、立ち上がる力」
前 奏 黙祷
讃 美 新聖歌208「イエスは愛で満たす」
新聖歌382「心から願うのは」
招 詞 詩篇23篇
讃 美 讃美歌3「あめつちの」
使徒信条 讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
交読文 詩篇116篇(新聖歌 交読文36)
讃 美 讃美歌365「わが主イエス・キリストよ」
新聖歌332「主はまことのぶどうの木です」
聖書朗読 民数記9章
説 教 「主の命によってとどまり、立ち上がる力」
讃 美 讃美歌270「信仰こそ旅路を」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 民数記9章23節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
民数記9章
説教題
「主の命によってとどまり、立ち上がる力」
今週の聖句
彼らは主の命により宿営し、主の命により旅立った。彼らはモーセを通して示された主の命により、主への務めを守った。
民数記9章23節
説教「主の命によってとどまり、立ち上がる力」
民数記9章
主のナビゲーションに従う信仰
皆さんも、車で遠出をした経験がおありだと思います。その時、カーナビを使われたこともあるのではないでしょうか。
私も先日、車で京都まで行ってきました。カーナビを使ったおかげで、行きも帰りもとてもスムーズでした。なぜなら今回は、ちゃんとカーナビの言うことを聞いたからです。
実は私は以前、新婚旅行で伊豆へ車で行った時に、大失敗をしたことがあります。あの時は、カーナビの案内を信じませんでした。「いや、この道じゃない。自分の勘の方が正しい」と思ってしまったのです。これまでの経験や感覚を頼りに、自分で道を選んで進みました。その結果、どうなったでしょうか。何とか家には帰れたものの、しばらく運転したくなくなるほど疲れ果ててしまいました。その経験以来、遠出をする時には、カーナビやスマホの地図の音声に、素直に従うようになりました。
私たち人間は、地上に生きています。自分の目線では、知らない道の曲がり角の先に何があるのかさえ分かりません。知らない道を進む時、つい自分の勘や経験から、「こういう時はこっちだろう」と判断してしまうことがあります。しかし、それは時に危険です。一方でカーナビは、はるか上空から全体を見ています。どこで渋滞が起きているのか、どの道が安全なのか、どこを通れば目的地に着けるのかを把握し、「こちらへ進んでください」と導いてくれます。もちろん、従えばの話ですが。
これは、私たちの人生の歩みにもよく似ているのではないでしょうか。私たちは、自分の一秒先に何が待っているのかさえ分からない者です。しかし、全知全能の神は、天からすべてをご覧になり、私たちの人生の道筋をご存じです。そして、最善へと導いてくださるお方です。それなのに私たちは、主の導きを待たず、自分の勘や経験、感情で突き進んでしまうことがあります。では、私たちはどうしたら、主の「その道を行きなさい」「その道は避けなさい」「今は待ちなさい」「さあ、進みなさい」「右へ行け」という御声に、従順に従うことができるのでしょうか。
過越の祭り―神の恵みを忘れないために
イスラエルの民は、出エジプトの時、エジプトを出る直前に神が命じられた、「過越の祭り」を守りました。彼らは、傷のない子羊をほふり、その血を家の門柱とかもいに塗りました。その血によって、神のさばきは過ぎ越され、彼らはいのちを守られたのです。神はこう言われました。「この日は、あなたがたにとって記念となる。あなたがたはその日を主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟として、これを祝わなければならない」(出1214)。イスラエルの民にとって過越の祭りとは、「神が救ってくださった恵みを忘れないための日」でした。神は、その救いの恵みを毎年覚えるように命じられたのです。
それから一年後。出エジプト第二年の第一の月、イスラエルの民はシナイ山のふもとにいました。これからいよいよ、約束の地カナンへ向かおうとする時です。その時、神は改めて命じられました。「過越のいけにえを献げなさい。」なぜ、このタイミングだったのでしょうか。
神は、これから始まる荒野の旅、そしてカナンへの歩みが、決して簡単なものではないことをご存じでした。偶像に満ちた地、敵との戦い、恐れ、不安、誘惑――そのような現実が待っていました。だからこそ神は、出発する前にまず、「救いの恵みを思い出しなさい」と言われたのです。「あなたがたは、自分の力でここまで来たのではない。わたしが救ったのだ。わたしが導いたのだ。その恵みを忘れてはならない。」そう語っておられるかのようです。
実はこの一年の間に、イスラエルの民は大きな失敗を犯していました。皆さんもよくご存じの、「金の子牛事件」です。モーセがシナイ山に登り、なかなか戻って来ませんでした。民は待つことができなくなりました。不安になったのです。そして、「目に見える神を作ってほしい」と願い出て、金の子牛を作り、それを神として拝み始めてしまいました。これは、神に対する重大な裏切りでした。
では、彼らはなぜ、そのような失敗をしてしまったのでしょうか。理由の一つは、「待つことができなかったこと」です。神を信じて待つことができませんでした。彼らはエジプトで生まれ育ち、動物などを神格化する多神教や偶像崇拝の文化に慣れていました。そのため、目に見えない神を信頼し続けるよりも、目に見える安心を求めてしまったのです。
そしてもう一つ、私はこう考えます。それは、神の救いの恵みを、しっかり覚えておくことができなかったことです。
神は出エジプトを前に、「過越の祭りは、第1の月の14日。その翌日の15日から1週間、種なしパンの祭りを守るように」と定めらました。今日のところでは過越の祭りだけが記されていますが、種なしパンの祭りを合わせて「過越の祭り」と呼ぶ場合もあり、今日のところはそのパターンだったようです。
しかし、出エジプト直後の最初の過越の祭りは、非常に慌ただしい状況でした。エジプト軍に追われる中で、すべてを守ることは難しかったでしょう。しかし一年後、シナイ山のふもとで、初めて落ち着いて過越を守る時が与えられました。神はここで、礼拝を立て直そうとしておられたのです。失敗した民を、もう一度、ご自身の恵みに立ち返らせようとしておられたのです。そして彼らは、その必要を学んだのでしょう。9章5節には、こうあります。「イスラエルの子らは、すべて主がモーセに命じられたとおりに行った。」かつては自分たちの不安や思いに流されてしまった民が、今度は自らすすんで「すべて主の命じられたとおりに」従ったのです。
ところが、ここで一つ問題が起こります。イスラエルの民の中に、どうしても過越の祭りを守れない人たちがいたのです。それは、人の死体に触れて汚れてしまった人たちでした。恐らく家族の葬儀など、避けることのできない事情があったのでしょう。彼らはモーセのところへ来て言いました。「私たちも過越の祭りを守りたい。しかし守れません。どうしたら良いでしょうか。」彼らは何とかして主を礼拝したい、何とかして恵みにあずかりたい――そう願ったのです。
主に尋ね、主に従う
しかしモーセには答えがありませんでした。分からなかったのです。そこでモーセは、自分の経験や判断で決めませんでした。「こうすればいい」と、自分の考えを押し通しませんでした。こう言ったのです。「待っていなさい。私は主があなたがたについてどのように命じられるかを聞こう」(98)。
これは、私たちにとって非常に大切な信仰の姿勢ではないでしょうか。分からない時、まず主に尋ねる。それが信仰です。自分の勘や経験、自分なりの考えだけで決めるなら、それは神への信仰ではなく、自分への信頼になってしまいます。しかし、主に尋ね、主の導きを待つならば、私たちは自分の不完全な思いではなく、神の完全なみこころに導かれていくのです。その先にだけ、神の民の生きる世界、活き活きと生きられる世界があるのです。
すると神は、モーセの問いに答えてくださいました。しかも神は、尋ねられたことだけではなく、その先に起こり得る問題に対しても、あらかじめ答えを備えてくださったのです。
神は言われました。「死体によって身を汚した人、また遠い旅にいて過越を守れない人は、一か月後に過越のいけにえを献げることができる」と。
ここに、神の深いあわれみを見ることができます。神は、「守れなかったのだから仕方がない」と切り捨てられませんでした。また、「ルールだから絶対だ」と、恵みを閉ざされるお方でもありませんでした。むしろ、「どうしたらこの人も礼拝にあずかれるだろうか」「どうしたらこの人も救いの恵みを覚えることができるだろうか」と道を備えてくださったのです。ここで神が例外規定まで設けられたということは、それほどまでに過越の祭りを重要なものとしておられた、ということです。
神は、「できれば守りなさい」と言われたのではありません。「わたしの救いの恵みを、あなたがたは忘れてはならない」と願われたのです。なぜでしょうか。
神の恵みを忘れる時、人は弱くなるからです。神の救いを忘れる時、人は自分の知恵、自分の力、自分の不安に支配されていくからです。金の子牛事件が、まさにそうでした。だから神は、神の民が恵みを忘れないように、礼拝を守らせようとされたのです。
そして私はここに、信仰的な情熱を見るのです。汚れた人々は、「守れないから仕方がない」と諦めませんでした。「どうしたら私たちも過越を守れるでしょうか」と願い出ました。何とかして神の恵みにあずかりたい。何とかして主を礼拝したい。その願いがありました。主に仕えたいという願いを持つ者に、主は必ず道を備えてくださるお方です。私たちも、この姿勢を持ちたいのです。「できない理由」を探すのではなく、「どうしたら主のみこころに従えるだろうか」と願い求める者でありたいのです。
しかし一方で、神は厳しい警告も与えられました。13節です。「身がきよく、また旅にも出ていない者が、過越のいけにえを献げることをしないなら、その人は自分の民から断ち切られる」。これは非常に厳しい言葉です。守れる状況にあるのに守らない。神は、それを軽く扱われません。なぜなら、これは単なる宗教行事ではないからです。神の救いを軽んじることだからです。神との関係を軽んじることだからです。
さらに神は、一人の不従順が、共同体全体に影響することをご存じでした。聖書は教会を「キリストのからだ」と呼びます。歯が一本痛めば、全身が苦しくなるように、神の民もまた互いにつながっています。だから神は、「断ち切られる」とまで言われたのです。けれども、神が本当に願っておられることは、誰かを切り捨てることではありません。誰一人失われることなく、すべての者がともに約束の地へ入ることです。
実は、その中にはイスラエル人だけではなく、「寄留者」も含まれていました。異国人であっても、まことの神を信じるなら、過越の祭りに加わることが許されたのです。ここに、神の心があります。神は、人種的な純潔よりも、信仰による結びつきを大切にされます。これはまさに、イエス様のお心です。神の救いは、一部の人だけのものではありません。救いを求めるすべての人に開かれています。
そして私たちは忘れてはなりません。神は、私たちだけを救うためではなく、私たちを通して、まだ救いを知らない人々を招くために、先に私たちを救ってくださったのです。だから私たちは、福音を分かち合うのです。神の恵みを証しするのです。そして、主の食卓へ、人々を招いていくのです。
雲の柱に導かれる荒野の旅
改めて、なぜ神は、カナンの地へ向かう直前に、あえてイスラエルの民を立ち止まらせ、過越の祭りを守るように命じられたのでしょうか。
それは、これから始まる荒野の旅が、決して容易なものではなかったからです。偶像に満ちた地。異教の民との戦い。恐れ、不安、誘惑。そして時には命の危険。神は、彼らがこれから直面する現実をご存じでした。だからこそ神は、出発する前に、まず礼拝へと導かれたのです。「まず、わたしの恵みを思い出しなさい。味わい見つめなさい」と、そう命じられたのです。
神はご存じでした。人は、恵みを忘れる時に弱くなることを。神の愛を忘れる時、自分の知恵、自分の力、不安や恐れに支配されてしまうことを。しかし、神の恵みを深く覚える人は強いのです。「神がここまで導いてくださった。」「神が救ってくださった。」「神が共にいてくださる。」その確信がある人は、困難の中でも立ち続けることができます。だから神はイスラエルの民に、約束の地へ向かう前に、また激しい戦いの前に、まず過越の祭りを守らせたのです。
そしてこれは、今を生きる私たちにも深く関係しています。今、私たちは過越のいけにえを献げることは求められていません。なぜなら、イエス・キリストが、ただ一度、完全な過越の子羊として献げられたからです。主は十字架で血を流され、私たちの罪を負い、罪の奴隷状態から贖い出してくださいました。私たちは、自分の努力ではなく、ただ恵みによって神の子とされたのです。そしてイエス様は、十字架にかかられる前夜、弟子たちと過越の食事をされました。その席で主は、新しい恵みのしるしとして、聖餐を定められたのです。
主は言われました。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」また杯についても、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約です。」と言われました。ですから、私たちにとっての「過越」とは、まさにキリストの十字架を覚えることなのです。
そしてキリストの十字架を覚える聖餐は、単なる形式ではありません。「主の恵みを忘れないための時」です。私たちは時に疲れます。信仰が弱ることもあります。戦う力がなくなる時もあります。主に従うことが苦しくなることもあります。だからこそ、立ち止まり、十字架を見上げるのです。「こんな私のために、主はいのちを与えてくださった。」「私がまだ罪人であった時に、主は愛してくださった。」その恵みをもう一度深く覚える時、私たちは再び立ち上がる力をいただくのです。
そして、その後に記されているのが、雲の柱、火の柱による導きです。9章15節から16節です。
幕屋が完成した時、主の臨在のしるしとして、雲が幕屋をおおいました。夜には火のように見えました。昼は雲、夜は火。それは、「神が共におられる」というしるしでした。そして民は、この雲に従って旅をしました。雲が上がれば進む。雲がとどまれば、とどまる。ただ、それだけです。
18節にはこうあります。
「主の命によりイスラエルの子らは旅立ち、主の命により宿営した。」ここで使われている「主の命」という言葉は、直訳すると「主の口」です。つまり、雲の動きは、主の口から出る命令だったのです。「今は進みなさい。」「今は待ちなさい。」「ここにとどまりなさい。」イスラエルの民は、自分の判断では動きませんでした。荒野に詳しい人がいたかもしれません。人生経験豊かな人もいたでしょう。けれども、それは決定的ではありませんでした。必要だったのは、主の導きだけでした。
彼らには地図もありません。コンパスもありません。もちろんスマホの地図もありません。ただ必要だったのは、主のナビゲーションでした。そして、その導きに従う信仰でした。
ここで最初の話を思い出してください。カーナビが正しくても、従わなければ意味がありません。「いや、自分の方が分かっている。」「こっちの方が近道だ。」そう思って進めば、迷うのです。疲れ果てるのです。それは信仰生活も同じではないでしょうか。
神は、私たちの一秒先だけではなく、生涯をご存じです。私たちには見えない危険もご存じです。遠回りに見える道が、実は守りの道であることもご存じです。だから主は言われるのです。「今は進みなさい。」「今は待ちなさい。」「ここにとどまりなさい。」問題は、私たちがそれに従うかどうかなのです。
「とどまれ」と言われる試練
ところで、イスラエルの民にとって、荒野の旅で最も難しかったことは、もしかすると「進むこと」ではなく、「とどまること」だったかもしれません。雲が動けば進めます。けれども、雲が動かなければ、そこにとどまらなければなりませんでした。しかも、それがどのくらい続くのか分からないのです。一日なのか。一か月なのか。一年なのか。それは民には分かりませんでした。
良い場所ならまだよいでしょう。しかし、居心地の悪い場所、厳しい環境や状況、不安になるようなところで、「ここにとどまりなさい」と言われることもあったのです。けれども、民はそこで勝手に動いてはいけませんでした。雲が上がる時を待たなければなりませんでした。
そして私は、信仰生活の危機というのは、案外この「待つ時間」にやって来るのではないかと思うのです。私たちもまた、「とどまる期間」を経験します。家族の救いを祈りながら、長い間答えを待つことがあります。問題がなかなか解決しないことがあります。病、仕事、人間関係――苦しい状況が長く続くことがあります。「主よ、いつですか。」「もう十分ではありませんか。」そう叫びたくなる時があります。そして長く待たされると、私たちは焦ります。不安になります。神を信じ切れなくなることがあります。すると、自分の判断で動きたくなるのです。感情に任せて決めたくなるのです。「もう待てない。」「自分で何とかしよう。」そう思ってしまうのです。けれども、そこで主の時と指示を待たず、人間的な判断だけで進んでしまうなら、その先に最善の道はありません。
では、私たちはどうしたらよいのでしょうか。
19節にはこうあります。「雲が長い間、幕屋の上にとどまるときには、イスラエルの子らは主への務めを守って、旅立たなかった。」
ここで「主への務め」と訳されている言葉には、「守ること」「礼拝」「見張る」という意味があります。つまりイスラエルの民は、ただぼんやり待っていたのではありません。礼拝を守ったのです。主を見上げ続けたのです。主の恵みを思い返し、見つめ続けたのです。そのようにして主が動かれる時を待ちながら、神との交わりの中にとどまり続けたのです。
これは、私たちにとって大切な姿勢ではないでしょうか。待つ期間は、決して無駄ではありません。神が何もしておられない時間でもありません。むしろ神は、その時間を通して私たちを整えておられるのです。神のみこころに、神のみことばに従順に従うことのできる者へと整えておられるのです。正しい道へ進む者、正しく神のみこころにかなった方法で敵と戦うことができる者へと整えておられるのです。
聖書を見ると、ダビデもそうでした。神が王として立てられると約束されたにもかかわらず、長い逃亡生活がありました。苦しみがありました。しかしダビデは、その期間に主を求め続けました。主との交わりの中にとどまりました。そして神は、その時間を通して、ダビデを「主に従う王」として整えられたのです。
ですから、待つ時間は空しい時間ではありません。主の訓練の時間なのです。
主との関係が深められる時間なのです。
そして時に、待たされた果てに、主のみことばは、私たちの常識では受け入れ難いことを命じられるかもしれません。「敵を愛しなさい。」「迫害する者のために祈りなさい。」「悪に負けず、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」苦しんでいる時、そのような言葉に従うことは簡単ではありません。自分の力では到底できません。しかし、主の前にとどまり、恵みを深く覚える人には、従う力が与えられるのです。だから私たちは、待つ時間を祈りとみことばで満たしたいのです。神との親しい交わりの時間としたいのです。そして主が、「さあ、今立ち上がりなさい。」と言われる時には、私たちは主によって整えられ、みことばに従順に従うことができる力が着せられている時ですから、喜んで従う者でありたいのです。
最初にお話ししたカーナビの話を思い出してください。私たちは、自分の勘や経験が正しいと思ってしまうことがあります。しかし神は、私たちの見えない未来までご存じです。私たちに見えない危険も、備えも、最善の道もご存じです。だからこそ主は、「進みなさい。」と言われる時には進み、「とどまりなさい。」と言われる時には、とどまるよう求められるのです。
そして、その主の導きに従う力は、主の恵みを深く覚えるところから生まれます。イスラエルの民は、過越の祭りを通して神の救いを思い起こしました。私たちは、礼拝を通して、そして聖餐を通して、キリストの十字架の恵みを覚えるのです。聖餐は決して形式ではありません。「わたしを覚えて、これを行いなさい」と主が命じられた、恵みを思い起こす大切な時です。主との関係を深める時です。そのようにして、主に従う力を新たにいただく時です。
もし今、「とどまりなさい」という主の時の中にいる方がおられるなら、どうか落胆しないでください。主は、あなたを見放しておられるのではありません。整えておられるのです。主の恵みを覚えながら、主の前にとどまりましょう。今こそ主の前にとどまり、主の恵みを覚え、力をいただく時なのです。
そして、主が「さあ行きなさい」「右に行け」「左に行け」と、私たちが行くべき道、生きるべき道を示される時、そこに向かって従順に歩み出すことができる者とされていこうではありませんか。
そして私たちは忘れてはなりません。今の私たちには、荒野を導いた雲の柱も火の柱もありません。では、誰が私たちを導いてくださるのでしょうか。
主は、聖霊を遣わしてくださいました。聖霊が、みことばを通して、祈りを通して、私たちを導いてくださるのです。しかし問題は、私たちが主のみこころを求めず、聞こうとせず、従わないことにあります。だからこそ私たちは、とどまらされるのです。主の前に静まることを求められるのです。祈らされるのです。みことばを求めさせられるのです。そして私たちはとどまる、静まる、祈る、みことばを慕い求めるのです。そして、天から力を着せられるまで待つのです。
弟子たちもそうでした。主イエスが天に昇られた後、彼らは自分たちの力で動き出しませんでした。一つ心になって祈りながら、とどまりました。そして聖霊が注がれた時、彼らは立ち上がったのです。その時から、福音は力強く広がっていきました。
私たちも同じです。自分の力で進もうとしても限界があります。感情や勢いで動けば失敗してしまいます。疲れ果ててしまうことがあります。けれども、主の前にとどまり、恵みを覚え、聖霊によって力を着せられるなら、私たちは主のみこころに従って歩むことができるのです。
主の恵みを覚え、主の導きに従う
私たちは、自分の勘や経験ではなく、主の導きに従って歩む者でありたいのです。そのために必要なのは、主の恵みを忘れないことです。イスラエルの民が過越を通して神の救いを覚えたように、私たちも礼拝と聖餐を通して、キリストの十字架の恵みを深く覚えたいのです。
来週、私たちは聖餐の時を持ちます。どうか喜んで、主の食卓に招かれてください。義務としてでもなく、形式としてでもなく、「主よ、あなたの恵みをもう一度深く覚えたい。」「あなたに従う力を新しくいただきたい。」そのような願いをもって、主の前に出たいのです。主は、恵みを求める者を決して退けられません。
私たちはもう一度、十字架の恵みを深く覚えましょう。そして、主が「進みなさい」と言われるなら進み、「とどまりなさい」と言われるなら、とどまりましょう。また、「右に行きなさい」「左に行きなさい」と、主が私たちの進むべき道、成すべきこと、生きるべき道を示されるなら、主の完璧な導きを信じ、従順に歩む者でありたいのです。
来週の聖餐の恵みをとおして、今一度改めて主の恵みを味わい、主の恵みを見つめ、その恵みに満たされながら歩む者とされましょう。そして、私たちの歩みの先に、神の国が現されることを祈り求めていこうではありませんか。

