2026年6月14日 主日礼拝「主の声に聞き従って歩む」

前  奏  黙祷
讃  美  新聖歌251「主イエスの御側に」
      新聖歌354「迷える時光を」
招  詞  イザヤ書41章9〜10節
讃  美  讃美歌1「神のちからを」
使徒信条  讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
交読文   詩篇23篇(新聖歌 交読文7)
讃  美  讃美歌354「かいぬしわが主よ」
      新聖歌38「わが目を開きて」
聖書朗読  民数記10章11〜36節
説  教  「主の声に聞き従って歩む」
讃  美  讃美歌303「めぐみのみちかい」
      新聖歌403「いずくまでも」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告  
今週の聖句 民数記10章35-36節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

民数記10章11〜36節

説教題

「主の声に聞き従って歩む」

今週の聖句

「主よ、立ち上がってください。あなたの敵が散らされ、あなたを憎む者が、御前から逃げ去りますように。」「主よ、お帰りください。イスラエルの幾千幾万もの民のもとに。

民数記10章35-36節(抜粋)

説教「主の声に聞き従って歩む」

民数記10章11〜36節

曇ったメガネと神の御声

昨日、説教準備をしていた時のことです。何だかメガネが合わないのです。文字がぼやける。見えにくい。「もしかしたら視力が落ちたのだろうか」と思いました。ところが、メガネを外して見てみると驚きました。レンズがもの凄く汚れて、曇っていたのです。自分でかけている時には気付きませんでした。外して初めて分かったのです。「外から見ないと気付かないことがある。」そんなことを思わされました。

私たちも、思いがけない人から指摘されて、「ハッ」とさせられた経験があるのではないでしょうか。自分では当然だと思っていたことが、別の人から見ると当然ではなかった。正しいと思っていたことが、実は思い込みだった。そんなことがあります。
聖書は、神のみことばです。これは普遍的な真理です。時代が変わっても、社会が変わっても、決して変わることがありません。しかし、私たちの「常識」は違います。国が違えば変わります。地域によっても違います。属するコミュニティによっても違います。時代によっても変わります。「昔からそうだから。」その言葉によって、私たちは知らないうちに思考停止してしまうことがあります。アインシュタインは、「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない」と言ったそうです。

もちろん、私たちの信仰と生活の唯一絶対の基準は聖書です。しかし気を付けなければならないことがあります。それは、聖書を読んでいるつもりでも、実は自分の思い込みで読んでしまう危険があるということです。「神のみこころ」ではなく、「自分の常識」で理解してしまう。「昔からそうだから」で判断してしまう。そして知らず知らずのうちに、周りの人に良い証しではなくなっていることもある。だからこそ私たちは、いつも神のみこころを求め、神の御声を聞き分けながら歩まなければなりません。

今日の説教のタイトルは、「主の声に聞き従って歩む」です。

主の命によって旅立つ神の民(11–13節)

さて、民数記はいよいよ10章11節から、本格的な荒野の旅が始まります。
前回、神は銀のラッパによる合図を定められました。長く吹けば集まる。短く吹けば出発する。神の民が混乱せず、一つ心で進むための秩序が整えられたのです。

そして、いよいよその時が来ました。11節です。

10章11節    二年目の第二の月の二十日に、雲があかしの幕屋の上から離れて上った。

出エジプトから二年目。イスラエルの民は、およそ10か月と20日間、シナイ山のふもとに滞在しました。神は、その間ただ待たせておられたのではありません。律法を与えられました。幕屋を造られました。礼拝を整えられました。宿営の秩序を整えられました。つまり神は、荒野へ送り出す前に、ご自分の民を整えられたのです。

私たちは、早く前に進みたくなります。すぐ答えが欲しい。すぐ結果が欲しい。しかし神は時に、「待ちなさい」と言われます。なぜでしょうか。整えるためです。信仰を整えるため。共同体を整えるため。礼拝を整えるため。神は、準備なしに送り出されるお方ではありません。

そしてついに、雲が動きました。銀のラッパが短く吹き鳴らされたことでしょう。神の民は期待に胸を膨らませて旅立ったはずです。「いよいよ約束の地へ向かう。」しかし、最初の目的地はどこだったでしょうか。パランの荒野でした。

荒野に放り出されるのではない(12–13節)

パランの荒野は、決して楽な場所ではありません。岩だらけの山地。砂利の荒れ地。泉も少ない。植物もほとんどない。非常に過酷な場所でした。「神に従ったのに、なぜこんな場所なのか。」そう思った人もいたかもしれません。

私たちも同じではないでしょうか。主に従えば、すぐ順風満帆になると思ってしまう。しかし、現実には荒野があります。試練があります。苦しみがあります。
けれども、ここで大切なのは、神は荒野を通されるお方ではあっても、荒野に放り出されるお方ではないということです。
13節にはこうあります。

10章13節    彼らは、モーセを通して示された主の命により初めて旅立った。

彼らは、自分勝手に進みませんでした。主が命じられたから進んだ。主が導かれるから歩んだ。ここに、神の民の姿があります。自分のタイミングではなく、主の時。自分の考えではなく、主の御声。それに従って歩むのです。

礼拝を中心に進む神の民(14–28節)

14節から28節には、「軍団」「軍団長」という言葉が繰り返されます。
神の民は、ただの難民集団ではありませんでした。整えられた軍隊として進んだのです。秩序があり、役割があり、配置がありました。
しかし、その中心にあったものは何でしょうか。

幕屋です。神の臨在です。神の聖さです。

イスラエルの民は、自分たち中心ではなく、神中心に歩んだのです。
興味深いことに、レビ人たちは幕屋の運搬を任されて進みました。神が留まられる所にゲルション族とメラリ族が先に到着し、幕屋の柱や幕を組み立てる。その後、ケハテ族が「聖なるもの」を運んで来る。つまり、礼拝の場所が最優先で整えられていたのです。
先に快適さではありません。先に生活でもありません。先に自分たちの安心でもありません。まず神の臨在でした。まず礼拝でした。神のみことばが宿る場所が整えられる。その中心に、神の民の生活が築かれて行く。

これは今日の教会にも通じる姿ではないでしょうか。教会とは、ただ人が集まる場所ではありません。神のみことばが語られる場所です。礼拝が献げられる場所です。そこで力を受け、また遣わされる場所です。

ある先生は著書の中で、教会を「旅する民としての教会」と表現しました。教会は神の民のコミュニティとして、荒野のような試練や困難に満ちた世界を、そこに住む人々に神の救いを証しし、旅を続けながら、神の守りと勝利を堅く信じて、希望を掲げて前進し続ける群れであると。
私たちもまた、この世という荒野を旅する民です。苦しみがあります。戦いがあります。誘惑があります。しかし私たちは、礼拝を中心に歩む群れなのです。神の民のコミュニティとして整えられ、荒野のような試練や困難に満ちた世界を、そこに住む人々に神の救いを証しし、旅を続けながら、神の守りと勝利を堅く信じて、希望を掲げて前進し続ける群れです。そして、この軍隊のように整えられた群れの先頭を行き、また中心にあったものこそ、「契約の箱」でした。

その「契約の箱」の中には何が入っていたでしょうか。神と神の民との間で結ばれた契約の証、かたく守るべき約束、契約書である十戒が刻まれた2枚の石板でした。神のみことばでした。
そして、後の33節を見ると、この契約の箱が先頭になって進んでいたことが分かります。

私たちは、契約の箱こそ、先頭に置くべきではなく、真ん中に置いて、私たちが悪天候や敵の攻撃から一生懸命守らなければならないのでは、と考えます。しかし、本当は逆なのです。神は私たちが守らなければならないようなお方ではありません。私たちを守られるお方です。また、私たちは神との契約、神のみことばを守らなければと考えます。しかし、本当は逆なのです。神との契約、神のみことばが、私たちを守るのです。

神のみことばが、私たちの前を進んでくださる。まるで羊飼いと羊のようです。羊飼いが先に立つ。羊はその声を聞いて従う。羊は自分で道を決めません。羊飼いを信頼するのです。私たちも同じです。主が先立ってくださるから従える。だからこそ、私たちは主の声に聞き従って歩むのです。

神は時に「外からの目」を用いられる(29–32節)

さて、ここで少し不思議な話が差し込まれます。29節からです。
モーセは、しゅうとのホバブに言いました。「私たちは、主が与えると言われた場所へ旅立つところです。私たちと一緒に行きましょう。」しかしホバブは断ります。「私は行きません。自分の国に帰ります。」ところがモーセは、なおも願いました。
31節です。

10章31節    するとモーセは言った。「どうか私たちを見捨てないでください。というのは、あなたは、私たちが荒野のどこで宿営したらよいかご存じで、私たちにとっては目なのですから。

ここを読むと、少し驚きます。なぜモーセは、異教の民であるホバブを「私たちの目」と呼んだのでしょうか。神の民を導くのは神です。昼は雲の柱。夜は火の柱。契約の箱が先立ち、神ご自身が導かれる。だったらホバブなど必要ないのではないか、と思ってしまいます。
しかし、ここに神の民の大切な姿勢が示されています。それは、神に導かれる者ほど、謙遜であるということです。

最初にお話ししたメガネのことを思い出してください。私は、自分の視力が落ちたと思いました。しかし実際には、メガネが曇っていた。しかも、自分では気付かなかったのです。外して初めて分かった。あるいは、誰かが「メガネ、曇っていますよ」と言ってくれたら、もっと早く気付けたかもしれません。
私たちの信仰も同じではないでしょうか。熱心に祈っている。聖書を読んでいる。一生懸命仕えている。「自分は神に従っている」と思っている。しかし、実は自分のメガネが曇っていることに気付かないことがある。「神の御声」だと思っていたものが、実は「自分の思い込み」だった。「聖書的」だと思っていたものが、実は「昔からそうだから」に過ぎなかった。そんなこともあるのです。

イスラエルの民もそうだったでしょう。約束の地を目指していた。信仰に燃えていた。神の軍隊として進んでいた。しかしだからこそ、「勇む足」が「勇み足」になる危険もあった。勢いが、盲目的な信仰とか、独善に変わる危険です。
そこでモーセは、ホバブの「目」を必要としました。もちろん、ホバブが神の代わりではありません。従うべきは、あくまでも神のみことばです。しかし、神は時に「外からの目」を用いて、私たちを守られることがあるのです。

何度もお話ししていますが、京都へ車で行った時のナビの話です。もしナビが、「この先、一時停止があります。」と言っているのに、「神がともにおられるから大丈夫。」と言って、一時停止を無視して突っ切ったらどうでしょうか。事故になるかもしれません。人を傷つけるかもしれません。証しにもなりません。その時、助手席の未信者の方が、「それは本当に聖書の信仰なのですか。」と言ってくれたなら、どうでしょうか。私たちは、「あなたは未信者だから分からない。」と言って退けるでしょうか。むしろ、その言葉によって命拾いすることもあるのではないでしょうか。

私たちの信じる全知全能なる神は、時に未信者の目や口を用いても、私たちを守られるお方です。私たちの曇ったメガネに気付かせてくださる。勇み足を止めてくださる。そして私たちだけではなく、周りの人々の命をも守られる。
だから私たちは、いつも問いたいのです。
「これは本当に神の御声なのだろうか。」
「私は自分の思い込みを、信仰だと思っていないだろうか。」
そのように、主の前にへりくだる者でありたいのです。

しかし、ここにはもう一つ大切なことがあります。
モーセはホバブに言いました。
「私たちと一緒に来てください。」
「主が与えてくださる良きものを、あなたにも分かち合いたい。」
これは、教会の姿ではないでしょうか。

私たちもまた、この世という荒野を旅する民です。そして周りの人々を招くのです。「一緒に来ませんか。」「主の祝福を共に受けませんか。」もちろん、断られることもあります。「私は自分の世界に帰ります。」そう言われることもあるでしょう。しかし、本当に愛しているなら、私たちは諦めないのではないでしょうか。モーセのように願うのです。「どうか一緒に来てください。」なぜなら私たちは、「悪に悪を返さず、侮辱に侮辱を返さず、かえって祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです」(Ⅰペテ39)という主の声を聞いているからです。

そして恐らくホバブは、この旅に同行しました。後に士師記を見ると、その一族ケニ人がイスラエルと共に住んだからです。
さらに興味深いことに、後の時代、イスラエルが偶像礼拝へ流れて行った時、ホバブの子孫とされるレカブ人たちは、真の神への信仰を守り通しました。
ここに、一つの真理を見るのです。
私たちは、「罪は伝染する」と考えます。悪い影響は受けやすい。それは確かです。しかし、実は、聖さも伝染するのです。主を愛する群れの中にいるなら、その影響を受ける。礼拝する共同体の中にいるなら、変えられて行く。
だからこそ、私たちは問われます。今、自分に最も近い人は誰でしょうか。自分は誰から影響を受けているでしょうか。そして、自分は誰にどんな影響を与えているでしょうか。

私たちが、主の声に聞き従って歩む時、その歩みは必ず周りの人に良い影響を与えて行くのです。

主が先立ってくださる旅(33–34節)

さて、33節から、神の民の旅が本格的に始まります。

10章33節    こうして、彼らは主の山を旅立ち、三日の道のりを進んだ。主の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先に立って進み、彼らが休息する場所を探した。

ここに、神の民の旅の本質があります。契約の箱が、彼らの先に立って進んだ。
しかも、「休息する場所を探した」とあるのです。何という慰めでしょうか。
荒野です。危険があります。敵がいます。先は見えません。しかし神は、「自分で何とかしなさい」とは言われませんでした。主ご自身が先に立たれたのです。しかも、彼らの休息の場所を探してくださった。ここに、主の深い愛があります。

私たちもまた、人生という荒野を歩いています。すべてが順調な時ばかりではありません。先が見えない時があります。思い描いていた道とは違うことがあります。「なぜこんな場所なのか。」そう思うことがあります。神に従ったのに、荒野にいるように感じることもあります。
しかし今日のみことばは語ります。主は、あなたを荒野に置き去りにはされない。主が先に立っておられる。主があなたに必要な休息の場所を探しておられる。だから私たちは、全部分かってから従うのではありません。先が見えるから従うのでもありません。主が先立ってくださるから歩むのです。

ここで、もう一度、ナビの話を思い出したいのです。ナビは、目的地までの全部を一度に見せません。目的地を入れると、最初に大まかなスタートからゴールまでの道筋を、高い所から見下ろすように示します。しかし、出発したならば、次の道だけを教えます。「300メートル先、右折です。」「この先、一時停止があります。」すると、その通りに進む。また次が示される。もし私たちが、「全部詳しく分からなければ進みません。」と言ったら、いつまで経っても出発できません。

信仰も同じです。神は初めに、人生の幸いな終着点を示されます。約束を示されます。しかしその旅を始めてみると、神は人生の全部を見せられることは少ないのです。次の一歩を示される。そしてそれに私たちが従う。また次が示される。その繰り返しです。
けれども私たちは時々、ナビの声を無視したくなる。「自分の方が分かっている。」「昔からこうしてきた。」「こっちの近道の方が良い。」そして気付けば道に迷う。危険な場所に入り込む。
だからこそ今日、私たちはもう一度問いたいのです。「私は本当に主の声を聞いているだろうか。」「私のメガネは曇っていないだろうか。」「自分の思い込みを、信仰だと勘違いしていないだろうか。」そのように、主が備えてくださる休息の場で、主の前に静まる者でありたいのです。

34節にはこうあります。

10章34節    彼らが宿営から出発する際、昼間は主の雲が彼らの上にあった。

進む時も、主がおられる。留まる時も、主がおられる。戦う時も、主がおられる。待つ時も、主がおられる。

私たちは、前進している時だけ主が共におられると思いがちです。しかし違います。立ち止まっている時も、主は共におられる。答えが見える時だけではありません。答えが見えず苦しい時にも、主は共にいてくださるのです。

神の民は、道を進む時、神の契約の箱を先に進め、その後から従いました。3日の道のりを進みました。3日の道のりの間、神の契約の箱、つまり神のみことばが彼らの先に立って進み、彼らを導き、そして彼らが休息する場所を探しました。彼らは契約の箱が進む場所を忠実について行き、契約の箱がとどまる場所には宿営し、それによって安息を得ることができました。神の民は、神の戒め、神のみことばに従うことによって、神の導きと守り、そして安息と自由を経験することができました。

多くの人は、神のみことばに従うことを「不自由」だと思っています。「あれをしてはいけない。」「これをしてはいけない。」窮屈だと思っている。神のみことばは、自分が願うことを思い通りにできないように、自由を奪い取るものだと考えているのです。
しかし、それは誤解です。信号を守ることが不自由でしょうか。一時停止を守ることが不自由でしょうか。違います。それによって命が守られるのです。
真の自由とは、自分勝手に生きることではありません。命を守られながら、安心して進めることです。主は、みことばに従う者だけが、人生の重荷をおろし、真の自由と喜びを得ることができると語っておられます。私たちが考えたり行動したりする前に、まず神のみことばと、神のみこころを尋ね求め、そのみこころに従って生きる。そのような人生には、真の自由と喜びがあるのです。
神は、ご自身のみことば、ご自身の声に耳を傾け、いつもご自身に依り頼む者に、溢れるばかりの祝福をもって私たちの人生を満たすと約束しておられます。私たちは、その約束を信じるのです。神の御声を信じるのです。そして神の御声に聞き従うのです。

進む時も、主がおられる。留まる時も、主がおられる。戦う時も、主がおられる。待つ時も、主がおられる。
私たちは、前進している時だけ主が共におられると思いがちです。しかし違います。立ち止まっている時も、主は共におられる。答えが見える時だけではありません。答えが見えず苦しい時にも、主は共にいてくださるのです。

祈りながら進み、祈りながら留まる(35–36節)

そして35節、36節で、モーセは祈ります。
契約の箱が出発する時には、「主よ、立ち上がってください。あなたの敵が散らされますように。」
また、箱がとどまる時には、「主よ、お帰りください。イスラエルの幾千幾万もの民のもとに。」
進む時にも祈り。留まる時にも祈り。戦う時にも祈り。休む時にも祈り。始まりにも祈り。終わりにも祈り。それが神の民の姿でした。

私たちはどうでしょうか。忙しくなると、祈らずに走り出してしまうことがあります。経験や常識だけで判断してしまうことがあります。気付けば、メガネが曇っている。主の声より、自分の声の方が大きくなっている。
だからこそ私たちは、もう一度主の前に静まりたいのです。祈りとは神との対話です。「主よ、この道で良いのでしょうか。」「主よ、これは本当にあなたの御声でしょうか。」「主よ、私の心の曇りを示してください。」そのように祈り、確かに主の御声を聞きながら歩みたいのです。

主は間違えない

最後に、ぜひ覚えたいことがあります。それは、主は間違えないということです。私たちは間違えることがあります。思い込むことがあります。勇み足になることがあります。けれども、主は間違えられません。

詩篇121篇にはこうあります。

「主は、すべてのわざわいからあなたを守り、あなたのたましいを守られる。主は、あなたを行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」

何という慰めでしょうか。主は、私たちを見捨てられません。主は先に立ちます。主はしんがりともなって守られます。主は私たちの休息の場所を備えられます。そして主は、ご自身のみことばに聞き従う者に、必ず最善を与えてくださいます。

主は、私たちの旅の始まりから終わりまで守られる。礼拝の場から、それぞれの生活の場へ遣わされる時も守られる。職場でも。家庭でも。病の中でも。不安の中でも。主は共にいてくださる。主は、私たちの羊飼いだからです。羊飼いは、羊の前を歩きます。羊を置き去りにしません。杖と鞭をもって守ります。羊は、いつでもどこでも、その声を聞いて従います。私たちもまた、羊飼いなる主の声に、いつでもどこでも聞き従う群れでありたいのです。

信仰の旅路は、確かに荒野です。良いことばかりではありません。しかし、主のみことばに聞き従うところには、必ず祝福があります。私たちの周りの人々をも巻き込んで、祝福してくださいます。
そして、主が先立ってくださる。必要ならば主が休息の場所を備えてくださる。主が守ってくださる。だから私たちは、安心して従うことができるのです。

今日も主の前に静まり、力を受け、それぞれの場所へ遣わされてまいりましょう。主が先立ってくださることを信じて、勝利と喜びの声を上げつつ、心1つに一致して歩んでまいりましょう。

【祈り】
今日もあなたのみことばを通して、私たちに語りかけてくださり、心から感謝いたします。
あなたがご自分の民を荒野の旅へ送り出される前に、丁寧に整え、そして契約の箱を先立たせて導かれたことを覚えます。
私たちもまた、この世という荒野を旅する者です。先が見えず、不安になることがあります。「なぜこんな場所なのか」と戸惑うこともあります。
しかし主よ、あなたは私たちを荒野に放り出されるお方ではなく、先立って歩み、休息の場所を備えてくださるお方であることを感謝いたします。
どうか主よ、私たちの心の曇りを示してください。自分の思い込みを、あなたの御声だと勘違いしてしまう弱さがあります。自分の経験や常識を優先し、「昔からこうだから」と、あなたのみこころを求めなくなってしまうことがあります。どうか私たちを赦してください。そして、聖霊によって、あなたの御声を聞き分ける耳を与えてください。主の声に聞き従う、柔らかな心を与えてください。時には、周りの人の言葉を通しても、私たちを整えようとされるあなたの導きに、へりくだって耳を傾けることができますように。
また私たちを、祝福を運ぶ者としてください。家族へ、友人へ、職場へ、地域へ。あなたの愛と真実を携え、周りの人々を主の祝福へ招く者としてください。
どうか今週も、私たちの前を歩んでください。行くにも帰るにも、私たちを守ってください。迷う時には道を示し、疲れた時には休ませ、不安の中には平安を与えてください。羊飼いなる主イエス・キリストの御声に聞き従いながら、安心して歩ませてください。
感謝し、期待し、私たちの救い主、主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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