2026年7月5日 主日礼拝「御霊に導かれるか、欲望に支配されるか」
前 奏 黙祷
招 詞 詩篇100篇
讃 美 讃美歌24「父の神よ」
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
交読文 出エジプト記20章(新聖歌 交読文47)
讃 美 讃美歌187「主よ、いのちの」
プレイズ「神さま感謝します」
聖書朗読 民数記11章24〜35節
説 教 「御霊に導かれるか、欲望に支配されるか」
応答賛美 讃美歌507「ふかきみむねを」
献 金 プレイズ「明日を守られるイエス様」
感謝祈祷 讃美歌547「いまささぐる」
報 告
今週の聖句 コリント人への手紙 第一 10章6節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
民数記11章24〜35節
説教題
「御霊に導かれるか、欲望に支配されるか」
今週の聖句
これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。
コリント人への手紙 第一 10章6節
説教「御霊に導かれるか、欲望に支配されるか」
民数記11章24〜35節
主は御霊によって民の重荷を担わせてくださる
先ほどは、とても久しぶりに皆さんとともに十戒を声に出して読みました。
十戒は、読んで字のごとく神が与えられた十の戒めです。しかし、その十の戒めを与えられる前に、神はまずこう仰せられました。
「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。」
(出エジプト20章2節)
そして、その後に、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。あなたは自分のために偶像を造ってはならない。あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。」と続いていくのです。
これも何度か申し上げたことですが、「~してはならない」という言葉は、ヘブル語の文法では「~しないであろう」と訳すこともできます。
つまり、主はこう言っておられるようにも聞こえるのです。
「わたしはあなたを奴隷の家から導き出した主である。その偉大なみわざと救いの恵みを覚えるならば、あなたには、わたし以外の神はないであろう。偶像を造らないであろう。主の名を空しく口にしないであろう。」
そして、その後に一つだけ積極的な命令が与えられます。
「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」
これはまるで、「仕事の手を止めなさい。心も体もわたしに向けなさい。わたしが誰であるか、またわたしが与えた恵みを思い起こしなさい。数えなさい。」と主が言っておられるようではないでしょうか。
もし私たちが主の偉大な御力と、恵みを思い起こし、さらにそれを一つ一つ感謝するならば、隣人を傷つけることも、貪ることも、神から離れることも少なくなるでしょう。反対に、主の恵みを忘れる時、感謝を忘れる時、人は不満を抱きます。つぶやきます。そして欲望に支配されていきます。
実は、民数記11章はまさにそのことを描いています。
先週私たちは、イスラエルの民がマナに飽き、「肉を食べたい」と泣き叫んだ場面を見ました。
しかし、恵みを忘れていたのは民だけではありませんでした。モーセ自身もまた、主が毎朝与えてくださるマナの恵み、主が導いてくださっている恵みを見失いかけていました。
民のつぶやきはモーセを疲れ果てさせました。モーセは主にこう訴えます。「私一人で、この民全体を負うことはできません。私には重すぎます。」そして、「どうか私を殺してください。」とまで言いました。ここまで追い詰められていたのです。
しかし主は、そのようなモーセを見捨てられませんでした。主は、「イスラエルの長老たちのうちから七十人を集めよ」と命じられます。そして、「あなたの上にある霊から一部を取って彼らの上に置く」と言われました。
モーセは主の命令に従い、70人の長老たちを会見の天幕の周りに立たせました。すると主は雲の中にあって降りて来られ、モーセと語られました。何を語られたのかは記されていません。しかし主は、以前モーセに語られた約束を改めて確認し、その約束どおりに働かれたのでしょう。
そして主はモーセの上にある霊を70人の長老たちにも授けられました。すると彼らは預言し始めたのです。
ここで誤解してはならないことがあります。
主はモーセから霊を取り上げて、70人に分け与えたのではありません。ロウソクの火を他のロウソクに移しても、元の火は弱くなりません。むしろ火は広がります。神の恵みも同じです。神の霊も同じです。主はモーセから何かを取り上げたのではなく、モーセを支えていた同じ霊によって、70人をも支えられたのです。
教会の奉仕も同じではないでしょうか。誰かが用いられることによって、自分の働きが小さくなるわけではありません。誰かに賜物が与えられることによって、自分の賜物が減るわけでもありません。主はご自身の働きを、多くの人々に広げてくださるのです。
70人の長老たちは預言しました。
「預言」とは単に未来を語ることではありません。神から与えられた言葉を、神に代わって語ることです。その内容は記されていません。また、この後も彼らが預言し続けたとも書かれていません。恐らく、自分自身の栄光をあらわすために、貪りによって預言を繰り返したということではないということでしょう。
しかし、彼らに与えられた霊は留まりました。彼らはモーセとともに民の重荷を負う者とされたのです。
では、その霊とは何でしょうか。もちろん聖霊です。
そして聖霊によって与えられる力とは何でしょうか。
私たちはガラテヤ書から学んでいます。御霊の実です。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制。それらはすべて聖霊によって罪が変えられ、聖められた姿です。
モーセについて聖書は、「地の上のだれにもまさって柔和であった」と証言しています。しかしモーセは、生まれながらに柔和な人だったのでしょうか。そうではありません。彼はかつて殺人の罪を犯しました。怒りに支配された人でした。私たちと同じ罪人でした。
しかし、そのモーセを変えたのは聖霊です。主がモーセを砕き、練り上げ、柔和な指導者へと変えてくださったのです。
そして今度は、その同じ霊が70人の長老たちにも与えられました。
主は、御霊によって民を導くリーダーを立てられたのです。ここに、主の恵みを見ることができます。民はつぶやいていました。モーセも限界でした。しかし主は、その状況を放置されませんでした。主は御霊を注ぎ、必要な助けを指導者であるモーセに備えてくださったのです。
主の霊は人の枠を超えて注がれる
ところが、その最中にもう一つの出来事が起こっていました。
エルダデとメダデという二人の老人が、宿営に残っていたのです。70人の長老たちが会見の天幕の周りに集まっている時、2人はそこにいませんでした。自分の幕屋(自分がいるべき家)にいたのです。彼らが選ばれた70人の長老ではなく、イスラエルの民の長老として名前が記録された者たちだったからです。
その2人にも聖霊が臨みました。そして彼らもまた預言したのです。
聖書はわざわざ二人の名前を記しています。
もちろん名前だけで人物像を断定することはできません。しかし、聖書がわざわざ2人の名前を残しているところに、神の目はこの2人にも向けられていたという慰めを見ることができるのではないでしょうか。
エルダデ。彼の名前の意味は「神は愛した」でした。自分は神に特別に愛されているという自負や期待があったのかもしれません。
またメダデ。彼の名前の意味は「愛情のこもった」でした。愛情のこもった人というのは、とかく他人を思いやるあまり、自分の心や体を犠牲にしがちでしょう。
もしかすると彼らは、「自分たちは選ばれなかった」と思っていたかもしれません。あるいは、「選ばれなくてよかった」と思っていたかもしれません。
しかし主は、そのような人間の思いを超えて働かれました。主の霊は会見の天幕だけに臨んだのではありません。宿営の中にも臨みました。神の働きは、人間の形式や期待や枠組みに縛られないのです。主が用いようとされるなら、どこにいても、誰にでも、主の霊は臨みます。
そしてこれは、私たちにとっても大きな慰めです。
私たちは時に、「あの人は特別だから」、「あの人は指導者だから」、「あの人は賜物があるから」と思ってしまいます。しかし主は、エルダデとメダデにも霊を注がれました。それは、神の召しと神の力が、自分や他人の評価によって決まるのではなく、神の何ものにも制限されない、神の自由によって臨むことを示しています。
私たちもまた、キリストの十字架によって罪赦され、聖霊を与えられています。そして神の言葉を証しする者として、神に選ばれて遣わされています。
ある人は口で語ります。ある人はトラクトを配ります。ある人は生き方によって証しします。方法は違っても、主はそれぞれを用いてくださいます。
そして私たちは、御霊の実によって人々を導く者とされているのです。権威を振りかざすリーダーではなく、愛によって導く者。柔和によって導く者。自制によって導く者。そのような霊的リーダーとして、主は私たち一人ひとりを自由に選び、人々の間に遣わしておられるのです。
御霊を求めるか、肉を求めるか
さて、エルダデとメダデが宿営の中で預言していることを見た一人の若者が、そのことをモーセに知らせました。
すると、若い時からモーセの従者であったヨシュアが言いました。
「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」
なぜヨシュアは、そのように言ったのでしょうか。聖書は理由を詳しく記していません。ですから断定はできません。しかし聖書は、わざわざ「若いときからモーセの従者であった」と記しています。
ヨシュアはモーセを守ろうとしたのでしょう。モーセの権威が損なわれることを心配したのかもしれません。また、自分が若い時から長年仕えてきたモーセだけが特別に主に用いられるべきだと考えたのかもしれません。あるいは、若いときから仕えている自分には与えられないのにと言う、残念な思いからでしょうか。これは、後にモーセに代わってイスラエルの民のリーダーとして立てられる、ヨシュアに対する訓練でもあったのではないでしょうか。
しかしモーセは言いました。
「あなたは私のためを思って、ねたみを起こしているのか。(自分のためを思って、ねたみを起こしているのか。)主の民がみな預言者となり、主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」
何と広い心でしょうか。何と御霊に満たされた言葉でしょうか。
モーセは、自分だけが用いられることを願いませんでした。自分だけが特別な存在であり続けることを求めませんでした。むしろ、主の民すべてが主に用いられることを願いました。
ここで興味深いのは、民とモーセが求めているものが正反対であることです。
民は、「肉が欲しい。」と言いました。
しかしモーセは、「主の民がみな預言者になるように。」と願いました。
民は肉を求めました。モーセは御霊を求めました。
民は欲望を求めました。モーセは神のみこころが広がることを求めました。
これこそ、今日の箇所の大きな対比ではないでしょうか。
御霊を求めるのか。肉を求めるのか。
神を求めるのか。自分の欲望を求めるのか。
私たちはどちらの道を歩むのでしょうか。
そしてモーセのこの願いは、単なる願望では終わりませんでした。これは預言でもありました。後に、ヨエル書において主はこう約束されます。「その後、わたしは、すべての人にわたしの霊を注ぐ。
そして、その約束はペンテコステの日に実現しました。使徒の働き2章17~18節です。
「神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。」
70人の長老たちに起こったこと。エルダデとメダデに起こったこと。モーセが願ったこと。それらはすべて、ペンテコステの日を指し示していました。
そして今、私たちはその恵みの中に生かされています。だから私たちは、誰かが主に用いられるのを見て妬む必要はありません。誰かに賜物が与えられるのを見て焦る必要もありません。主の火が、一つのロウソクから別のロウソクへ、さらに別のロウソクへと灯されていくように、主の恵みは広がっていくのです。主の栄光はさらに明るく、広い範囲で輝いていくのです。私たちはそのことを喜びたいと思います。
そして私たち自身も火が灯され、御霊に満たされ、主に用いられ、主に輝かされ、それぞれのところで私たちを通して主の恵みが広がって行き、私たちが主の祝福を受け継ぐ者とされることを願いたいと思います。そのための知恵も力も環境も、その他必要のすべては主が恵みによって備えてくださっています。
その後、モーセと長老たちは宿営に戻りました。彼らは預言者として、また霊的リーダーとして、民の間へ遣わされていったのです。
ここで私たちは、モーセの祝祷を思い起こします。「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」また私たちは、毎週の礼拝での祝祷を思い起こします。「仰ぎ請い願わくば、主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の親しき交わりが、あなたがた一同の上に、今も後も世々限りなく、豊かに在らんことを。アーメン」。私たちも毎週、この祝福を受けて世へ遣わされています。礼拝は終わりではありません。遣わしの始まりです。御霊によって満たされ、家庭へ、職場へ、学校へ、地域へと遣わされていくのです。
恵みを忘れる時、人は欲望に支配される
ところで、主が約束された肉はどうなったのでしょうか。
主は約束どおり、風を吹かせ、海の方からうずらを運んで来られました。宿営の近くに大量のうずらが落ちたのです。
これは明らかに主の奇跡でした。
しかし同時に、神の奇跡とは何かを教えてくれる出来事でもあります。
ここの「海」は、パランの荒野に向かうイスラエルの民の経路から推測すると、シナイ半島の反対側のアカバ湾であると考えられます。そこから東南の風に乗って、シナイ半島にうずらの大群がいくつもやって来たのでしょう。実際に今でも、うずらの群れは、春には南風に乗ってアフリカから地中海を渡り、秋には北風に乗って地中海を通ってアフリカに向かうそうです。特に南風に乗って北上するうずらの群れは、餌をたっぷりと食べて上って来るため、体が肥えているのだとか。
うずらは、渡りの季節には長距離を移動しますが、普段は地面を歩き回ることを好む鳥です。飛ぶことはあまり得意ではありません。そのようなうずらの群れが、移動中に極度に疲れて飛べなくなり、休んでいく場所が、なんとシナイ半島あたりなのだそうです。そして、風とともに海からうずらが飛んでくるのは、春の訪れを知らせる頃です。これは、2年目の第2の月の20日にイスラエルの民が出発した後の3月頃。今で言うところの5月頃と合致するのです。
私は神の奇跡を合理化するわけではありません。神の奇跡とは、そのようなものであるということを言いたいのです。神はご自身が創造されたすべてのものを、風も、鳥も、季節も、時も、今も統べ治めておられ、すべてを用いることがお出来になり、すべてを働かせて益としてくださる。すべてを用いて私たちの必要を満たすことがおできになります。また満たしておられます。
ローマ人への手紙8章31~32節はこう語ります。
「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子さえ惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。」
私たちが信じている神は、御子さえ惜しまれなかったお方です。であるならば、私たちに必要なものを与えることがおできにならないはずがありません。
すべては恵みなのです。だから本来、すべては感謝なのです。
しかし問題がありました。民はうずらを集め始めたのです。しかも必要な分だけではありませんでした。少なく集めた人でも10ホメルとあります。家庭用の風呂なら約12杯分にもなるような量です。
彼らは昼も夜も集め続けました。宿営の周りいっぱいに広げました。干し肉にして保存しようとしたのでしょう。
ここで私たちは大切なことに気付かなければなりません。
問題は肉ではありません。うずらでもありません。うずらは主が与えてくださった恵みです。
問題は欲望です。問題は貪欲です。
神よりも神が与えるものを愛したことです。
神よりも自分の欲望を優先したことです。
毎朝マナが与えられていたにもかかわらず、「主は明日も与えてくださる。」と信じることができませんでした。だから集められるだけ集めたのです。
つまり彼らの問題は、不信仰でした。神への信頼の欠如でした。神を完全な供給者として見なくなっていたのです。
先週見たように、彼らはマナを見ても恵みを見ることができませんでした。そして今度は、うずらを見ても神を見ることができませんでした。見ていたのは肉だけでした。欲望だけでした。
神の恵みを忘れる時、人は必ず欲望に支配されます。だから十戒は、「安息日を覚えよ。」と命じるのです。礼拝しなさい。立ち止まりなさい。恵みを思い起こしなさい。感謝しなさい。そうでなければ、私たちの心は欲望に支配されるからです。主を見失ってしまうからです。
欲望の墓に何を埋めるのか
うずらは主の恵みでした。しかし、その恵みはある人々にとって祝福とはなりませんでした。肉がまだ歯の間にあり、噛み終わらないうちに、主の怒りが彼らに向かって燃え上がったのです。そして激しい疫病によって多くの者が倒れました。
ここで聖書は、「欲望にかられた民」と言っています。すべての人ではありません。あくまでも、欲望に支配された者たちです。私たちは、私たちにとっての本当の必要。平安や、必要の満たしや、困難な問題解決など、それを主に求めることは決して罪ではありません。逆に主に褒められる信仰です。しかしそこに貪欲があるならば、主はそれを懲らしめのためにさばかれます。
主は必要を満たされました。しかし同時に、その貪欲を裁かれました。
主は愛のお方です。しかし同時に義のお方でもあります。
主は私たちの弱さに同情してくださるお方です。しかし罪をそのまま放置されるお方ではありません。
懲らしめとは何でしょうか。滅ぼすためではありません。滅びから救うための訓練です。だからⅠコリント10章は語ります。
「これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。」
私たちの内にも、もっと、もっとという貪欲があります。もっと欲しい。もっと認められたい。もっと持っていたい。もっと安心したい。もっと思い通りにしたい。その欲望は私たちを神から遠ざけます。感謝を奪います。信仰を奪います。だから私たちは御霊を必要とするのです。御霊によって、私たちの内にある肉の思いを、愛へ、喜びへ、平安へ、寛容へ、親切へ、善意へ、誠実へ、柔和へ、自制へと、変えられていかなければなりません。
裁きを受けて死んだ者たちは、その地に埋められました。そのため、その場所は「キブロテ・ハ・タアワ」すなわち、「欲望の墓」と呼ばれました。何と重い名前でしょうか。
しかし私たちにとっては、同時に恵みの名前でもあります。そこに欲望を埋めることができるからです。そこに貪欲を葬ることができるからです。そこからもう一度歩き始めることができるからです。
恵みを覚える者として歩む
今朝、私たちは十戒を読みました。
十戒は、「してはならない。」から始まるのではありません。「わたしはあなたを奴隷の家から導き出した主である。」という恵みを思い出させることから始まります。
民数記11章も同じです。イスラエルの民は恵みを忘れました。マナを見ても恵みが見えませんでした。うずらを見ても神が見えませんでした。そして欲望に支配されました。
しかし同じ章の中で、主は御霊を注ぎ、民を支える長老たちを立てられました。主は民を見捨てられなかったのです。主は御霊による助けを備えられたのです。
私たちも同じです。
主は私たちに聖霊を与えてくださいました。私たちを感謝する者へと変え、柔和な者へと変え、自制する者へと変え、主の証人へと変えてくださいます。
私たちはキブロテ・ハ・タアワ、「欲望の墓」に貪欲を葬りたいと思います。
そして礼拝によって恵みを思い起こし、御霊に満たされ、神のことばを証しする者として、それぞれの場所へ遣わされていきたいのです。
ともに感謝の歌を歌いましょう。ともに勝利の歌を歌いましょう。主と主の恵みを賛美しながら、一人ひとりが預言者(主の代わりにみことばを述べる者)となり、一人ひとりがそれぞれの遣わされた場所において、人々を主の御許に導く真のリーダーとなり、約束の地を目指して歩んでまいりましょう。

