2017年7月30日 主日礼拝「アテネ宣教」
本日の聖書箇所
使徒の働き17章16〜34節
説教題
「アテネ宣教」
今週の聖句
この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
使徒の働き17章24節
訳してみましょう。
1915 Suffering is the fire that God uses to purify and strengthen us.
(苦しみは、神が私たちをきよめ強化するために用いる火です。)
1916 It is better to bite your tongue than to make a biting remark.
(噛みつく批判をするよりも、あなたの舌を噛む方が良いです。)
説教メモ
しばらく続いてますパウロの伝道旅行の続きです。本日はアテネ地方の伝道です。
「さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。」
(使徒17:16)
この二人とはシラスとテモテのことです。
パウロは会堂でユダヤ人や神を敬う人たちと、また広場では居合わせた人々と論じ合っていました。
エピクロス派とストア派の哲学者たちも幾人かいて、パウロと論じ合っていたが、その中のある者たちは、「このおしゃべりは、何を言うつもりなのか。」と言い、ほかの者たちは、「彼は外国の神々を伝えているらしい。」と言った。パウロがイエスと復活とを宣べ伝えたからである。
そこで彼らは、パウロをアレオパゴスに連れて行ってこう言った。「あなたの語っているその新しい教えがどんなものであるか、知らせていただけませんか。
私たちにとっては珍しいことを聞かせてくださるので、それがいったいどんなものか、私たちは知りたいのです。」
(使徒17:18〜20)
アテネ人々も、またそこに住んでいた外国人もみな、耳新しいことを話したり、聞いたりすることをして日を過ごしていました。
そこでパウロは、アレオパゴスの真中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。
私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。
この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。
(使徒17:22〜25)
当時のアテネは人間の言葉によっての構築された世界観や神観との衝突がありました。
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。
そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。
神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。
(使徒17:28〜30)
ここに今日、私たちが直面している福音宣教と同じ現実があるわけです。
パウロはアテネの市民に神様のメッセージ、十字架と復活のメッセージを語りました。
「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」
(使徒17:31)
アテネの人々は最初この話を聞いたとき、パウロたちをあざ笑いました。
「キリスト」という言葉は男性名詞であり、「よみがえり」という言葉はギリシア語でアナスタシスという女性名詞であるため、パウロは男の神様と女の神様のことを語っているのだと、当時のアテネの人々は受け止めていたようです。ですから熱心に聞かない人々もいました。
しかしパウロはここで主の十字架と復活をしっかり語ったのです。これがパウロの説教の主題でした。
私たちは聖書を見る度に、アテネに教会が出来たことの記事はどこにも見当たりません。コリント人への手紙でわかるように、コリントには教会が出来ましたがアテネについては書かれていません。しかし、それらしいものが出来たのだと想像します。
宗教的には熱心なアテネの人々ではありましたが、しかし彼らが信じている神様は真実の神様ではなく、彼らが信仰していたのは自分たちの手で作った偶像であり、ギリシャ神話に出てくる神々でした。しかし、そうではないのだ、神様というのはこの天地万物を創られた想像の神様であり、この世を支配しておられる神様であると、パウロは教えています。
「その神様が、この世に「ひとり子」を送ってくださり、一人ひとりの罪の身代わりとして十字架に架けられご自身を捧げてくださった。そして3日目によびがえってくださった唯一の神様である。神々のうちの一つでは無い、唯一の神様である。」パウロはそのことを宣べ伝えたのです。ただパウロは決してくどく伝えたのではなく、淡々と伝えています。そして、あとは聖霊に委ねたのです。
パウロがメッセージを語り、結果はどうなったでしょうか。
最後の2つの節をみてみましょう。
「死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑いほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう。と言った。こうして、パウロは彼らの中から出て行った」
(使徒17:32〜33)
ある者はあざ笑い、ある者は後で聞くことにしよう、と言っています。彼らは男の神様と女の神様の馴れ合いの話しを聞いているかのように受け止めていたようでした。したがって、パウロの話を信じようとはしませんでした。こうしてパウロは彼らの中を出て行ったとあります。
「しかし、彼につき従って信仰にはいった人たちもいた。それは、アレオパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々であった。」
(使徒17:34)
教会が出来たという記述はありませんが、当時の有力な議員のひとりアレオパゴスが信じたということは素晴らしいことではないでしょうか。パウロがイエス様の十字架と復活を宣べ伝えたとき、人々の関心は一気に冷えてしまいました。多くの人々はあざ笑いながら去って行ってしまいましたが、町の有力者を含め幾人かの者がイエス様を信じたのです。
教会ができた記述が聖書の中に無いとしても、幾人かの人々が信じたのであればクリスチャンの群れがそこにはあったのではないでしょうか。たとえ一人でも、存在しない偶像の神々から、真の愛の神様の元へ戻るなら、天で大きな喜びが起こるでしょう。
このようにしてパウロの働きにさらに聖霊の豊かな導きがあって、ごく少数の人々ではあったけれど救われたということは、これは聖霊のみわざでありました。
私たちもまた落胆せず祈りつつ福音を伝えていきたいものです。私たちも証をするとき、イエス様の十字架をある人々は「それはそうだ」と分かっているかもしれません。しかし3日目によみがえったという点について、ある人々にはばかげた話しに聞こえるでしょう。「イエス様がよみがえった」と言ってもほとんどの人が信じないでしょう。
皆さんがクリスチャンになったときはどうだったでしょうか。
私はこの点が引っかかりました。神様は愛である。そのことは理解できました。聖書を読めばイエス様が十字架に架かってくださったことも書かれている。神様の深い愛があったことはよくわかる。しかし3日目によみがえった、ということがどうしても自分の理性では受け入れられない。ということがありました。わたしは大きなクエスチョンマークを抱きつつ、「よみがえり」について学びました。学ぼうとしました。
本当によみがえったのか?
本当によみがえったのなら大変なことです。天地がひっくり返るような出来事です。人生観が変わるようなことです。ですから、イエスのよみがえりは本当だったのだろうか? ということを、いろいろなクリスチャンに質問しましたし、また聖書の中にそのことを調べました。そのように考える人は多勢います。アメリカの州知事の中にも「よみがえりは嘘だ。」と宣言し、彼は自分自身の私財を全部はたいて知事職も辞めて、イスラエルへ行き、図書館に3ヶ月通いイエス・キリストが死からよみがえったことは真っ赤なウソだということを証明しようとしました。彼はその数ヶ月のあいだ図書館で、あらゆる文献を調べこのような結果を出しました。
「やはり聖書の言っている通り、イエス・キリストは3日目によみがえったのだ。」
こうして彼はクリスチャンになりました。
よみがえりという事実を相手に信じてもらうのは非常に愛の祈りが必要であり、そしてその人を信仰に導くのは神様の聖霊によるのであり、理屈ではないのです。もし理屈で信じたのであれば、その人の信仰は長続きはしないのです。しかし聖霊によって、自分の罪の代わりにイエスが十字架にかかって死んでくださったんだ。そして3日目によみがえってくださったんだと、聖霊によって導かれた人の信仰はいつまでも残るでしょう。本当の信仰が与えられるのです。
先日の水曜日(7/26)の祈祷会での学びで使用している「みことばの光」の中で、
「知ってから信じるのではなく、信じれば知ることになる」
信じると聖書の世界が見え、信じ従っていく時にわかってくる世界がある。そして、主への信頼は裏切られることがない。
ここにそのような一文がありました。これは非常に私たちに必要なことではないでしょうか。これだけ聖書が言っていることがある。そのことは、「信じてみよう」という思い。そのような思いで聖書を読むときに、その人は真理に突き当たるのです。イエスが私の罪の身代わりに死んで下さったのだ。そして3日目によみがえってくださった。まぎれもない、私を愛してやまない神様だということがわかるのです。そして私たちはそのような信仰を持って確信が与えられるのです。ですから多くの人々に証をすることができるのです。これは私たちの努力ではありません。これは神様の聖霊にゆだねていかなければなりません。神様、どうか導いて下さいと。
皆様の中には証をして、まだ救われていないご家族がいるでしょう。その方々が救われるためにはどうしたらいいのでしょう。一番は祈る事です。飽くことなく祈る事です。神様の聖霊がその人に働いてくださることを祈る事です。と同時に私たちは福音を語っていかなければなりません。福音を語ったならば、神様の聖霊が働いて下さるように祈っていかなければなりません。
私たちもまだまだ聖書を読んでいても分からないところがあります。聖書を100%理解できる人はいないでしょう。わからないところはわからないままでいいのです。そのうちわかるようになる、と前向きな姿勢でとらえていましょう。聖書学者にもわからないところはあります。断片的に書かれた聖書をひとつにまとめているので、章や節なども繋がりがおかしいところもあります。そのことを理解して読んでみて下さい。深く考えすぎないようにしてください。読んでいてもどうしても分からないときは、神様あとでわかるように示して下さいという思いが大切でしょう。祈りつついればいつかわかるようになってきます。心の目が開かれる場合があります。ですから途中で行き詰まったりしないで、いつか分かる日がくるであろうから、とぜひ聖書を読み進めてください。