2020年6月28日 主日礼拝「天のエルサレム」
本日の聖書箇所
ヘブル人への手紙12章18〜29節
説教題
「天のエルサレム」
今週の聖句
しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。
ヘブル人への手紙12章22節
訳してみましょう
2207 When we trust God, His power is not a danger but a comfort.
2208 To be a channel of blessing, let Christ’s love flow through you.
礼拝式順序
開 祷
讃美歌 4番「よろずのくにびと」
主の祈り 564番「天にまします」
使徒信条 566番「我は天地の」
讃美歌 227番「みそらたかく」
聖 書 ヘブル人への手紙12章18〜29節
説 教 「天のエルサレム」佐藤伝道師
讃美歌 355番「主を仰ぎ見れば」
献 金 547番「いまささぐる」
頌 栄 541番「父、み子、みたまの」
祝 祷
音声はこちら
動画はこちら
説教「天のエルサレム」
佐藤伝道師
私は先週の木曜日に、約3ヶ月ぶりに母校の新潟聖書学院に行って来ました。
そこで思い出したのは、学生時代、私は行き帰りの車の中で携帯のYouTubeから賛美を流しながら新潟に戻っていたなぁということ。賛美を聞きながら、時に一緒に口ずさみながらだと、2時間30分の時間も短く感じました。でも、途中から携帯が使えなくなってしまって、車の中から賛美が消えた時は、シーンとしていて、つい気持ちを暗くさせることばかり考えてしまい、気分も重く、とても時間が長く感じたことを思い出しました。
新潟から長野に帰ってくる時は大体お昼前後に新潟を出ていたので、「家に帰れる」という嬉しさもあって、晴れた日なんかはもう晴れ晴れとした気持ちで、目に飛び込んでくる景色も美しく見えて、時もあっという間に過ぎ、家に着いた思いがしましたが、逆に新潟に戻る時は大変で、夜の9時くらいに家を出ていたのですが、その時間になるとあまり走っている車もなくて、街頭もないような山道ではそれこそ真っ暗でした。どこでカーブしているのかも見えず、それは怖かったです。私は車のライトを常にハイビーム(上向き)にして、何とかできる限り先の方を照らそうとしていました。でもひどい雨や雪の日は最悪で、ハイビームにするとなおさら見えなくなってしまって、ライトの向きを下に落として、その灯りの中で見えるできるだけ先の方を何とか目を凝らすように見つめて、恐る恐る運転していました。
人間は、その時の気持ちの持ちようであったり、先が見えないとかの状況の中では、本当に不安になったり、恐ろしさを感じてしまうものだなぁと思います。それは道中のことばかりでなく、私たちの地上の人生においても同じなのではないでしょうか。だから世の人たちは、不安定で先の見えないそんな不安の中で、占いとかに頼ってしまうのでしょうね。
しかし詩篇の記者はこう歌います。「あなたのみことばは、私の足のともしび 私の道の光です。」(詩119105)
このみことばが身に迫ります。私たちの目の前に置かれている信仰の道ですが、その道を照らして安全に、確実に導いてくれるのは、やはり「みことば」でしょう。みことばの光は、私たちの足もとが暗く感じる時にはその足もとを照らし、また先の見えない不安な時も、遠くを照らして平安を与えてくれるものではないでしょうか。
今朝も主の前に静まって、みことばに期待してまいりましょう。
お祈り致します。
天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。今朝もこうして主の声に招かれて、御前に呼び集められた私たちです。過ぐる一週間も、神さまの時の中で、私たちの信仰の道を守り導いてくださり、今朝に至っていることをも覚えて感謝致します。今朝もまた、みことばを祝福してお与えください。聖霊様がそれぞれに満ちていてくださり、それぞれにお語り下さいますようにお願いを致します。語るこの者を聖めて用いてくださいますように。感謝して、私たちの救い主、キリスト・イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。
6月は、神の民の誕生。教会の誕生。上からの招きの声、福音に呼び集められ召し出された者たち。私たちは一人ひとりが恵みによって神の民の一員とされているということ。そして、神の民とされた私たちは、天の御国を目指して、終わりの時と言われている今、信仰の道を歩んでいる。その途上にあって、私たちを招いてくださった御声、守り導いてくださっている羊飼いなる主イエス様の御声をしっかり聞き分けて、初めの信仰に留まり続けて信仰の道の歩みを進めて行くことを見てまいりました。
本朝与えられましたみことば、ヘブル人への手紙12章18〜29節は、私たち神の民が信仰によって目指して辿り着こうとしているところはどこなのか、そういったところなのかというところを、はっきりと示しているところだと思います。そこから12章の始めで言っているように、「私たちの前に置かれている競争を、イエス様から目を離さずに忍耐をもって走り続けようではありませんか」と私たちを励ますところでもあると思います。
まずこの手紙の著者は、信仰者が目指しているところは、このようなところではないのだというところから始めています。
18〜21節は、イスラエルの民がシナイ山で神さまから律法を授けられた時の光景です。一言も加えてもらいたくないと願ったのは、イスラエルの民が神さまから与えられた十戒を聞いた時の反応です。神さまはエジプトを脱出した後にシナイ山まで導き、そこでイスラエルの民に命令をお与えになりました。彼らは「もうやめてください」と、途中で耐えられなくなってしまったほどに、十戒を厳しいものだと感じ、受け止めて、そして神さまをひどく恐れてしまいました。なぜ恐れたのでしょうか。
神さまはシナイ山で、十戒をはじめとする律法を契約書として、イスラエルの民がご自身のものとされる、神の民とされる契約を結ばれました。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」(出202)。そのように最初にご自身を示されてから十戒を与えられました。命令形で訳されていますが、文法上次のようにも訳せるところです。「あなたがたはこれほどまでの恵みを受けたのだから、これほどまでの奇跡的な体験をしたのだから、わたしのほかに、ほかの神々など持つはずはないでしょう。必要はないでしょう…」。十戒は神さまから神の民とされる者たちに対して、愛と信頼を込めて語られ、結ばれた契約だったはずです。十戒をはじめとする律法は、神さまの恵み、奇跡的な救いを経験し、そして約束の地を目指して歩き出した神の民が、その道の途上において、神さまの愛と信頼に応えて神さまを愛し、従い、罪を犯さないために与えられたものでした。罪を犯して滅びてしまうことのないように、途中で滅びることなく、必ず約束の地へ辿り着くようにと与えられた、愛に基づく指針、手引きとも言えるものだったはずです。考えてみると、神さまの私たちに対するご命令とはすべてそのような性格のものではないでしょうか。
「罪」とは先週も申し上げましたが、人が自分の欲望のままに歩き出し、神さまに背を向けて出て行ってしまうことが罪の本質です。その結果は滅び。人は自分の選択によって、自分の足で滅びへと向かって行ってしまう。神さまはそのことを決して望まれていません。神の民が神さまの愛の内にとどまって、最終的に祝福を得るように、滅びではなく永遠のいのちを得るようにと願われて与えられた律法。民を罪に定めて永遠の死に至らせるためのものでは決してありませんでした。しかし民はそれを恐れたのです。原因はやはり人間に潜む「罪」。神さまに対する「負い目」だったのではないでしょうか。
イスラエルの民は400年もの間、エジプトでの苦しい寄留生活の中で偶像礼拝に染まって行き、割礼の儀式もどうやら廃れていたようです。神さまの声を聞いた時、そんなこととかが示されて恐れてしまった。モーセもずっと前に自分が犯した殺人を思い出して恐れた。そんなこともあったのではないかと思います。私たちも同じ状況だったらどうでしょう。今も、同じような状況の中にいるようなものかもしれません。この日本という国で、八百万(やおよろず)の神をはじめとする様々な偶像に囲まれ生きてきた私たちです。今、神さまの声を聞いたらきっと恐れてしまう自分がどこかにいるのではないでしょうか。
人は相手に負い目があると、「こうした方が良いのでは?」と勧められたとしても、まるで自分が責められていると感じてしまう。たとえそれが「愛しているよ」という言葉であったとしても、何か恐怖を感じてしまうものではないでしょうか。そのような神さまとの関係は不幸です。本当に残念なことです。
イスラエルの民が神を恐れてしまった原因は、罪の解決、神さまに対して抱く負い目の解決が完全にされていなかったことによるのでしょう。
しかし今や私たちは、恐れる必要はありません。
律法は私たちが神さまの目から見て義、全く正しい、聖いものとされて、間違いなく約束の地、天の御国へと導くという契約に対する契約書。イエス・キリストがその律法を完全に成し遂げてくださいました。そしてイエス・キリストの十字架のみわざによる新しい契約がなされた。その契約を信じて受け入れた私たちは、信仰を告白し洗礼を通して聖霊が注がれて、聖霊が証印として押されているのです。ですから私たちはもう何も恐れることはないし、心配することもありません。
22節からは、そのイエス様による新しい契約が結ばれた、その前後を比較しているところです。
12章22節 しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。
イエス・キリストの十字架により義とされた私たち、救われた私たちは、何か恐ろしいところに向かって信仰の道を進んでいるのではありません。手でさわれる地上のシナイ山ではなく、天上のシオンを目指しているのです。現実的な「地上」に対して「天」というのは、霊的な領域。精神的な、信仰的な領域、神さまの領域です。神さまはそこに生ける神の都、天のエルサレムを持っておられます。またそこでは、無数の御使いたちの喜びの集いが催されます。
「一人の人がイエス・キリストを信じ、罪を悔い改めて救われるなら、天では御使いたちの間に大きな喜びが沸き起こる」とイエス様は言われました。私という一人が救われた時、天では御使いたちの間に大きな喜びが沸き起こったのです。終わりの時、その御使いたちの喜びの内に迎えられて「良かったね、嬉しいね、あなた、あの時はこうだったんだよ」などと、共に喜ぶ輪の中に迎えられた時、私たちの喜びはさらに引き上げられるのではないでしょうか。すべての労苦が報われる。そんな喜びに満ちた天のエルサレムに私たちは日々、一歩一歩確実に近づいているのです。
「近づいている」と言う時、それは、私たちはすでにその「神の都の一員とされている」その上で確実に近づいていけるのだということを忘れてはなりません。キリスト者は霊的にはすでに神の都の市民なのです。神の都の市民としての特権はすでに与えられているのです。その約束・契約に、聖霊が証印として与えられています。
12章23節 また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、
12章24節 さらに、新しい契約の仲介者イエス・キリスト、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。
天のエルサレムには他に、救われて共に神の民、神の家族とされている兄弟姉妹がいる。完全なさばきをされる神さまがおられる。「神の裁き」と聞いて私たちは恐れることはありません。イエス・キリストによって義とされ、救われた私たちにとって神さまの裁き、ジャッジメントとは、天のエルサレムで永遠に住むのだという喜びの判決だからです。そしてその判決の場には、新しい契約の仲介者、私たちの救いを成し遂げてくださったイエス様がおられるので、全くもって安心です。そのような素晴らしい天のエルサレムに、私たちは確実に近づいているのです。また、すでにその一部に与っているのです。
「アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血」。アダムの子、カインに殺され地に流されたアベルの血は何を語っているのでしょうか。それは「正しい者が悪いものによって殺された」ことを告げ知らせる声です。しかしアベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血。それはつまりイエス・キリストが流された血のこと。イエス様が流された血は、ただ正しい者が悪い者によって殺されてしまったところで終わりません。その先を、その先のさらに優れたことを語るのです。
イエス・キリストはいばらの冠を被られ、手と足に釘を刺し通され、鞭打たれ、槍で刺され、血を流されました。イエス・キリストの流された血は、私たちに罪、のろい、罪の刑罰、そして死からの完全な勝利と解放を私たちに語り、そして告げるのです。
私たちはそんなイエス・キリストの流された血が語り告げる、完全な解放に近づいている、またすでに与っている者たちです。
そこで聖書は薦めます。
12章25節 語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。
「天から語っておられる方に背を向ける」。神さまに背を向けて、自分の欲望のままに恵みの中から、神さまの守りと導きの中から自ら出て行ってしまう。何度も申しますが、これが人間の罪です。すべての悪の束縛から解放されて、真の自由を手にしたはずの人間が、その自由の権利を自分の欲望のままに間違った方法で用いてしまうのです。
ここに「処罰」と出てきますが、興味深いことに、ヘブル語には「処罰」、日本人が良く使う「神さまのバチが当たる」とか言う、何か神さまが「直接手を下して痛い目にあわせる」といった意味の「処罰」あるいは「刑罰」という言葉は存在しません。私たちは「罪」と「罰」を分けて考え、罪とは自分が犯した悪い行為のことで、罰とは他人が下す罪への懲らしめのことだと考えるでしょう。しかしヘブル語の「罰」を表す語は、ブーメランが投げた人のもとに戻って来るように、罪は罰となって罪人のところに戻って来るというものなのです。「彼らは落とし穴を掘り、しかけたその穴に自分が落ちますように」(詩715)と詩篇では歌われていますが、そのような考えなのです。
では、免れることができない処罰とは何でしょう。それは「その成すに任せよ」(ホセ417)であり、また、「神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され」ることです(ロマ124)。「『そのさばきとは』、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである」(ヨハ319)と聖書にはさばきについて明言しています。それがさばきなのです。
しかし神さまは強引にご自身のもとに引き寄せようとはなさらない。ここでも人間の自由の権利を尊重される、私たちを愛し信頼する神さまがおられるのです。
神さまは、人間が一人として滅びることを願われていない、すべての人が救われることを願われている神さまです。神さまに背を向けて迷い出てしまった者を、あるいは迷い出ようとしている者に、機会を与えてご自身に立ち返るようにとしてくださる、どこまでも愛と恵みに満ちた神さまです。
12章26節 あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」
12章27節 この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。
先ほども申しましたが、天とは霊的な領域。精神的な、信仰的な、そのような無形なものの領域、神さまの領域です。その領域において、揺り動かすと言われます。その目的はこうです。「決して揺り動かされることのないものだけが残るために」。
私たちは今、霊的な領域で、揺さぶられ、攪拌され、混乱させられている世に生きています。
旧約時代の神の民が、祖国を失い、捕囚の憂き目に遭い、その後も何度も辛い目にあって、そんな彼らが心から望むようになったのは、なにものにも決して揺り動かされることのない神がご支配される国でした。私たちも揺さぶられるほどに、決して揺さぶられることのない平安、神の国を求めるようになるのは必然ではないでしょうか。
そのように、神さまはご自身に立ち返る恵みの機会を私たちに与えて下さり、私たちに与えられている自由によって、恵みの機会を自分のものにするようにと願っておられるのです。時にそれが、私たちにとっては神さまから受ける鞭のように感じることがあるかもしれません。しかしそれは一時であって、そこから神さまを仰ぎ見るなら、神の国、天のエルサレムが照らし出されるようにはっきりと見えてくることでしょう。
私は今回の準備の中で、ある一人のクリスチャンが信仰の友に送ったメールの一文を思い起こしました。その方は、後藤健二さんです。後藤さんは2014年の秋にシリアで過激派武装勢力ISに捕らえられて、2015年に殺害されてしまったジャーナリストです。ジャーナリストである後藤さんは、現地で様々な出来事を直接目の当たりにして、カメラにおさめ、その現実を発信していました。しかし、あまりにも悲しく、あまりにも悲惨な現実に、カメラを向けることができなかった、あえてカメラに収めなかったという体験も語っておられました。それほどの経験をされた後藤さんが信仰の友に送ったメールはこうでした。
「目の前の暗い現実に目を奪われて、既に東の空に射し始めている神の国の光を見逃してはならない」。
とても重みのある言葉です。
後藤さんの最後は決して容易く受け入れられるものではありません。神さま何故ですかと私たちを問わせるものです。しかし、辛い現実の中で、既に遠く東の空に射し始めている神の国の光を見逃さなかった後藤さんは、最後にあの殉教者ステパノのように聖霊に満たされて、じっと天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエス・キリストを見たのではないでしょうか。そして地上での信仰の道を全うして、イエス様がおられる天のエルサレムに到達していることでしょう。天の御国の住民とされて、そこを目指してこの地上の生涯を信仰によって歩いている私たちであるなら、この辛く受け入れがたい秩序とか正義とか何もかもごちゃごちゃにかき回されてしまったような現実のはるか先に、霊的な、揺り動かされない御国、天のエルサレム、平安、希望、永遠のいのちを求め、そして見出すことができるのではないでしょうか。
12章28節 こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。
私たちは決して揺り動かされない御国、天のエルサレムをすでに受けているのですから、感謝しようではありませんかと勧められています。何の迷いも感じられません。聖書は確信に満ちて勧めています。
「感謝しよう」とは、「恵みを持とう」という意味のことばが用いられています。恵みを持つ。神さまからの恵みを自分の手で受け取って、それを信じて手放さないでいようではないか。聖書では「恵み」を、「理由、訳」とも訳しています。それはつまり、恵みとは私たち一人ひとりに注がれる出来事には神さまの理由、ご計画、御心があるのだということです。私たちの信仰の道の途上で起こる様々な出来事には、すべて神さまの理由があるのです。幸いにも、また試練にも神さまの理由があるのです。様々な出来事は、父の心をお持ちであり、すべてをご存じで、すべてがお出来になる神さまの理由があって与えられるもの。それが恵みなのです。ですから神さまからの恵みは「すべて」感謝して受け取ることができるのです。罪、負い目が解決されて、神さまとの関係が正しくされて、間違った恐れ、恐怖ではなくて、正しい恐れをもって恵みを受け入れる者だけが、神さまに感謝することができるのです。その感謝の思いから出る心からの応答、私たちの言葉とか行いが神さまに喜ばれる奉仕となるのです。新改訳2017年版の訳で「奉仕」は「礼拝」と訳されています。「このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか」となっています。神さまに喜ばれる礼拝。それは日々献げる礼拝、アブラハムが行く道の先々で祭壇を築いたように、私たちも信仰の道を行く先々で献げる礼拝です。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサ516−18)。
私たちは今、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされ、救われて、すでに天のエルサレムに住む者とされています。聖霊によって証印が押されています。そして天のエルサレムに近づこうと、信仰の道を一歩一歩確実に進んでいます。天のエルサレムを見つめて、賛美と祈り、感謝を絶やさずその道を進んでいくなら、私たちは祝福され、最後まで守られ、導かれ、そして日々聖められ、新しく造りかえられて行って、終わりの時、約束の地、天のエルサレムに辿り着いたときに、私たちは大きな喜びをもって恥じることなく主の前に立つことができます。
12章29節 私たちの神は焼き尽くす火です。
この最後の一行のみことばを、皆さんはどのように感じて受け取られるでしょうか。天のエルサレムに属する私たちであるなら、はるか先に見える天のエルサレムの光を見るなら、きっとただの恐怖ではなく、敬虔な恐れ、希望、感謝となって響いてくるのではないでしょうか。今一度、私たちはこのみことばの前に立って、自分自身の心、信仰に問うてみたいと思います。今、神さまとの関係は幸いな関係でしょうか。
お祈りを致します。
天の父なる神さま、御名を崇め賛美致します。6月はみことばより、神の民、信仰の道、天のエルサレムというところを見てまいりました。すべて神さまの恵みによるものであることを覚えて感謝致します。私たちの口、また行いから賛美と喜びを絶やさず、日々あなたに喜ばれる礼拝を献げつつ約束されている天の御国を仰いで歩んでまいります。その道をどうぞ主が共にいてくださり、最後まで道を照らし、守り、導いてくださいますようにお願いを致します。感謝して私たちの主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。