2020年9月20日 主日礼拝「デウスの御大切」

本日の聖書箇所

ルカの福音書15章1〜10節

説教題

「デウスの御大切」

今週の聖句

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。

ルカの福音書15章10節

訳してみましょう。

2031 Children of the King have no reason to live like paupers.
2032 To do the work of God, we must trust God to work through us.

礼拝式順序

開 祷
讃美歌  5番「こよなくかしこし」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  354番「かいぬしわが主よ」
聖 書  ルカの福音書15章1〜10節
説 教  「デウスの御大切」佐藤伝道師
讃美歌  511番「みゆるしあらずば」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷


動画はこちら

説教「デウスの御大切」

ルカの福音書15章1〜10節

佐藤伝道師

 私が教会に来始めたはじめの頃、当時の私にとってはかなり衝撃的なことがこの講壇から語られました。それは「皆さんが礼拝に行ってみようかと思われたよりも先に、神さまが皆さんを招かれたのですよ」ということでした。ヨハネの福音書15章16節のイエス様のお言葉から「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを任命したのだ」と。さらに「神さまは人間に選んでもらわなければならないお方ではないのだ」と語られた時、私は驚いたと同時に、神さまの選びというものを確信して本当に嬉しくなったのです。

 その時の私は、神さまはどんなお方なのか、罪というものの存在も知らずに、ただ自分の悲しくて惨めな現状から救われたいと願うだけの者でした。真の神さまのことも知らなかったですし、神さまに背いてばかりの私でした。そんな私が神さまに選ばれた。そして招かれて、さらにその招きに応える者とまでしてくださったのだと語られた時、私は本当に嬉しかったのです。

 その思いは今も変わることがありません。過ぐる一週間、私は神さまのために何をしただろうか。かえって神さまを悩ませるだけの者でした。そんな私が今朝も神さまによって御前に招かれているのは、ただ恵みによるもの、神さまの招きなくして何でしょうか。

 今朝もこうして教会に集っている方々、またインターネットや週報をご覧になって礼拝を献げておられる方、様々なかたちで礼拝に招かれていますが、皆さん嬉しくなりませんか? その恵みに心から感謝して、今朝も私たちの感謝と賛美を主にお献げしてまいりましょう。

 先週まででローマ書1章を見終わりました。

 そのローマ書1章の冒頭でも、パウロは先ほどのイエス様のお言葉と同じことをあいさつの中で述べています。「キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。ローマにいるすべての、神に愛され、召された聖徒たちへ」。「異邦人たち、異教徒たちの中にあって、あなたがたも召されてイエス・キリストのものとなりました」。ローマという皇帝崇拝、また異教の習慣が盛んな地のど真ん中に住みながら、イエス・キリストの福音に触れ、それを信じて救われたあなたがたは、神さまに愛され、神さまの恵みによって召された人たちなのですよ、聖徒とされている者なのですよとパウロは励ましました。

 本朝は1章を見終わったところで、少し寄り道をしたいと思います。

 今朝与えられましたみことばは、ルカの福音書15章1〜10節のみことばです。ここはイエス様ご自身が語られた一つのたとえ話ですが、先週私たちが見たパウロが述べてきたことと同じことを、神さまの側から語られているのではないかと思います。神さまの御心が示されているのではないかと思います。とても有名な箇所で、またかと思われるかもしれませんが、何度も語られるほどに神さまの愛、招きが示される箇所だと思います。

 先週を少し振り返りますが、ローマ書1章18節から、パウロはまず「異教徒の罪」について言及しました。それは元異教徒である彼らが今からも、そしてこれからも、さらに整えられ、さらに成長するためであったのだというところは先週見た通りです。

 先週はまた、罪の本質、罪とは何なのだろうかというところにも触れました。イザヤ書53章6節「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った」。このみことばは人間の罪を表現する代表的なみことばであると紹介しましたが、聖書が言う人間の罪とは、羊のようにさまよい、神さまに背を向けて、それぞれ自分勝手な道に向かって進み出て行ってしまうことです。自分の欲望のままに、したいように生きる。欲望の方に目が行ってしまい神さまから目をそらしてしまう。神さまに背を向けて、神さまとの関係からさっさと出て行ってしまう。これを聖書は罪と言うのだというところを見ました。

 そしてどこまでも正義である神さまは、そのような罪に対してはきっちりさばきをもって怒りを下されます。そのさばきとは「彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡される」、「神は彼らを無価値な思いに引き渡される」こと。そしてその罪の結果、「人はその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けるのだ」と、大変厳しいことを神さまのみことばである聖書は語っています。

 私たちがすぐに思いつく大きな罪のひとつと言えば殺人ではないかと思います。その殺人というのも、結局は自分の欲望を最優先にした結果、具体的に罪が殺人という形となって表れたと言って良いのではないかと思います。大きな罪も、また小さな罪も、突き詰めれば自分の欲望を成し遂げるために、自分の欲望を最優先にした結果、具体的に現れ出た形なのではないかと思います。ですからそれらは神さまが厳しい御手をもって直接に下された苦しみだと、果たして私たちは言えるでしょうか。神さまのせいにできるでしょうか。できないと思います。ですから神さまは愛のないお方だとは、決して言えないはずです。逆に、神さまは「愛なるお方だ」と言えるのではないでしょうか。なぜなら、人が罪ゆえに、罪の結果ゆえに苦しんでいる姿を、神さまは決して平気でおられるわけではないからです。罪ゆえに苦しみ、悲しみ、どうしようもなくなっている者を、いつまでも放っておくことはされない、できないお方。そのことが良く分かるのが、イエス様ご自身がたとえ話をもってお語りくださった今朝の箇所です。罪の本質を羊の姿をもって示された神さまは、ここでもまた、人間を羊に、そしてご自身を羊飼いとして分かりやすく私たちに示してくださっています。人間の罪が招く悲惨さ、そして罪の悲惨からの救いについて、救い主であられるイエス様ご自身が分かりやすく語ってくださっています。

【ルカの福音書】

15章1節        さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄ってきた。

 この時、イエス様のたとえ話を実際に聞いていたのは、取税人、罪人たちでした。

 取税人、いわゆる税金を集める職業に携わっていた人たちです。当時のユダヤ地方は、ローマという大きな国に支配されていて、ローマはユダヤの人たちに重い税金を課して生活を苦しめていました。そしてローマに代わって税金を集めていたのは同じユダヤ人。仲間であるはずの同じユダヤ人が、ローマの側について厳しく税金を取り立てている。そればかりか、その立場を利用して不正に私腹を肥やしていた者までいたのです。そんな彼らを人々は嫌っていました。取税人は人々に嫌われていることを十分承知していたのでしょう。そして人々から罪人と呼ばれていた人たち。この罪人とは、病気とか貧しさとか、それはあなたたちが悪いことをしたから神から裁かれているのだと人々から勝手な言いがかりをつけられ、人々に非難され、軽蔑されていた存在でした。いずれにしても、取税人も罪人と呼ばれていた人も、自分が人々から嫌われ非難され軽蔑されている存在だと自覚していたのでしょう。もしかしたら自分自身が一番そんな自分を嫌い、非難し、軽蔑していたのかもしれません。

 考えてみると、誰も好んで人々に嫌われたい、非難されたいなども思う人はいないでしょう。人には決して理解してもらえない色んな事情が複雑に重なって、それで今の自分になってしまっている。一生懸命生きてきて、こんなはずではなかった、なんでこんなことになってしまったのだろうかと思わず嘆いてしまう状況に陥ってしまった。たとえ威勢を張っていたとしても、自分はこんなに幸せなんだと振る舞っていても、心では自分の貧しさ、弱さ、足りなさ、罪深さを思って、孤独で寂しい思いをしていたのではないだろうかと、私は過去の自分を思い出して想像してしまうのです。

 イエス様はそんな人々を前にたとえ話を始めました。

15章4節        「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。

 これはたとえ話です。ここで語られる行方不明となった羊は取税人や罪人たちの姿そのものとして、羊の真の持ち主は天におられる父なる神さま、見つけ出すまで捜し歩く羊飼いとは、父なる神さまに遣わされた神さまのひとり子であると同時に、真の神さまでもあるイエス・キリストご自身の姿として語られています。

 きっと迷い出た羊は、目の前に広がるおいしそうな牧草に気を取られて、草だけを見つめているうちに群れから離れてしまい、羊飼いの声の届かない所まで行ってしまったのでしょう。目の前にある草を次から次へと夢中で食べているうちに、いつの間にか自分のいるべき所にいないことにも気付かず、羊飼いからどんどん離れてしまって、そのことに気付いた時にはもう自力では帰ることができなくなっていたのでしょう。

 羊とは自分から羊飼いのもとに帰って来られない動物なのだそうです。羊飼いから離れてしまうこと、また本来いるべき囲いから迷い出ることは、すなわち「死」を意味しているのです。羊はふと立ち止まり、あたりを見回して自分の置かれた状況にはたと気付いたとき、怖かったでしょう。不安だったでしょう。孤独だったでしょう。迷い出た羊は、もう羊飼いを求めて鳴くばかりでした。迷子の状態です。悲しくて惨めで。この状態を人は「悲惨」と言います。悲惨という言葉の中には、その文字通り、悲しいまでに惨めな状態の他に、哀れとか、困り果てているとか、貧困、不幸などいった意味が含まれています。もう一つ、悲惨という言葉の中には「故郷を追われて、異教の地に暮らすこと」という意味が込められていることをご存じでしょうか。正にさまよい出てしまった人の姿、迷子の状態を言い当てているのではないでしょうか。故郷、自分の本来の居場所、帰るべき場所を失ってしまった。天の父である神さまからはぐれて、神さまとの関係が破綻してしまって、それによって自分本来の居場所を見失ってしまった人の状態。これを「悲惨さ」「みじめさ」と言うのです。

 「いなくなった一匹」。そうイエス様は仰いました。先ほども「悲惨」という言葉の意味を申し上げましたが、一言の日本語に色々な深い意味が込められているのと同じように、イエス様が話されていた言葉での「いなくなった」という一語にも色々な意味が込められています。失われた、行方不明になった、道に迷ってしまった。さらに深いところを見ていくと、なんと、殺される、完全に壊される、滅んでしまう。そんな恐ろしい意味が込められているのです。本来いるべき場所からいなくなってしまった羊は、行方不明であり、道に迷ってしまっている状態。そしてその状態は、その羊を最終的に滅ぼしてしまう、殺してしまうものであると、そのような危機的状況としてイエス様は見ておられるのです。それほどの危機的状況にあることを、当の羊は気付いているのでしょうか。

 私たちはどうでしょう。いつのまにか迷子となっていないでしょうか。いつの間にか「悲惨」な状況に陥ってしまっていないでしょうか。

 この羊のたとえを話された時、イエス様は父なる神さまの御心を教えてくださっています。並行箇所であるマタイの福音書18章14節です。

「この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父、父なる神さまのみこころではありません。」(マタイ1814

 情報が氾濫するいまの世の中です。嘘がまかり通り、いつしか嘘が真実のように扱われてしまう社会です。また先週も見ましたが、この世は秩序が乱れている。乱れているどころか、すべてがひっくり返ってしまっている。正しいとされていたことが間違っていることに、間違っていることが正しいこととされてしまっている。性の乱れが素晴らしいことのようにもてはやされる時代。そんな逆転現象が当たり前の世の中。そのような中に私たちは住んでいるのです。否が応でも、気付いていなくとも、罪の影響下にあるのです。

 私が住む辺りでは、毎朝5時30分になると山の上のお寺から鐘をつく音が聞こえてきます。お寺の鐘が罪だと言うつもりはないのですが、私はその音を聞くと「あぁ5時30分か」と思うのです。聞きたくなくても聞こえてきてしまう。そして聞こえてきた音で何か判断してしまうのです。朝の大体通勤前とか通学前の番組では天気予報と一緒に占いのコーナーがありますよね。昨日の私のラッキーアイテムは紫色の食べ物でした。馬鹿馬鹿しいと思いながらも、一日中どこかで紫色の食べ物の事が引っかかっていたり、そんな経験はないでしょうか。そのように私たちは異教の地に暮らして、異教の習慣に知らずして影響されてしまっているということです。

 また、私たちには悩みとか不安が絶えません。そこで何か答えが欲しくて捜してみれば、すぐに、簡単にたくさんの答えが出てきて、人はそれを自由に、自分の好みで選択することができてしまいます。私たちを楽しませる情報はいつも身近にあって、小さなスマホの中にもあって、私たちは目の前にある好きなものを選んで自分のものとすることができてしまいます。自分を幸せにしてくれる何か、それがまるで神さまであるかのように、いつも神さまを捜し求めている。今日はあっちの神さま。明日はこっちの神さま。その神さまというものは、光の御使いを装ったサタンであったなんてこともあるのです。

 私たちは幸せになりたくて、人生をより良いものにしたいと願い、あれこれと努力をします。それはとても素晴らしいことです。でも、自分の努力でこの世の中から捜し出した自分を幸せにしてくれるだろうと期待するものは、大抵は本当に自分を幸せにはしてくれない。励ましたり、慰めたりしてくれない。そう気付いてまた次の何かを捜し始める。その繰り返しではないかと思うのです。迷い出た羊のように、いつの間にか自分がどこにいるのかさえ分からなくなり、突然襲ってくる孤独、恐れや不安にすっかり支配されてしまっているかもしれません。神さまはそれを私たちが思っている以上の、危険な、危機的状況として見ておられるのです。

 羊飼いであるイエス様は、大切な九十九匹の羊をその場に残し、たった一匹の迷い出てしまった羊を捜しに自ら出掛けるのです。いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かれるのです。そして決して諦めずに、ついには見つけるのです。捜し出されてご自身の守りの中に連れ帰るのです。ご自身をそのような者であると仰っています。

15章5節        見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
15章6節        帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。
15章7節        あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」

 ここでの「ひとりの罪人」とは、一人の迷い出た人。神さまから目を背け、神さまに背を向けて出て行ってしまった人、そして悲惨な状況にある人のことです。その罪人が目線をまことの神さまに向け直し、神さまに向かって新しく生きようと願う。悔い改める。そうするならば、主はその人をかついで、赦して、ご自身のもとに連れ帰ってくださいます。まさに先週申し上げましたヘブル語の「נָשָׂאナーサー」です。覚えておられますか。おさらいしますが、「ナーサー」は、その主体が人間である場合には、手を、目を、頭を、声を、心を上げる、lift upという礼拝用語として使われ、主体が神さまとなる場合には、担う、負う、運ぶ、携える、ふところに抱く、かかえる、支える、赦すといった意味になるのです。私たちが神さまを心から信頼して再び仰ぐなら、神さまとともにそこからまた正しく行きようと思いを新たにするなら、主は私たちをふところに抱き、私たちの重荷を負ってくださり、赦し、ご自身のもとに連れ帰ってくださるのです。

 さらにイエス様は「そこで大きな喜びが天にわきおこるのだ」と仰いました。

 イエス様の例え話はもう少し続きます。

15章8節        また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。
15章9節        見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。
15章10節      あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」

 ある女の人が銀貨を十枚持っていました。それはドラクマ銀貨であったと聖書の欄外の注釈に説明されていますが、そのドラクマ銀貨一枚の価値というのは、当時一日一生懸命みっちり働いて得られる賃金の額でした。女の人はそれを十枚持っていました。それは貧しい女の人の蓄えだったのか、もしかしたら嫁入りの時の花嫁衣装か何かの装飾品として縫い付けられていたものだったのか、諸説あるようですけれども、いずれにしてもドラクマ銀貨一枚の価値は相当なものでした。それを失うということは、貧しい女にとって深刻なことで、何が何でも捜すべきものでした。最初のたとえ話の中の羊の場合、鳴き声を頼りにして捜すこともできましたが、銀貨の場合はそういうわけにもいきません。銀貨は声を出すことも、自ら動いて物音を立てることもできないからです。もし、銀貨の持ち主が捜そうとしなければ、恐らく一生見つけられることはないかもしれません。暗い所で埃を被り、人知れず古くなり、本来持っている価値を発揮することもできません。しかし神さまは、やはりそれを喜ばれないのです。本来の与えられた価値を本来の場所で十分に発揮することを望まれるのです。これもまた私たち人間にたとえられたお話しです。ですから、私たちの神さまは、私たちが不運にもどこかに落ちてしまい、転がって、隙間とかどこかに入り込んでしまい、そこで人知れず埃を被っていたり、古びて行くだけ、滅んで行くだけの人生を喜ばれないのです。そしてやっぱり、孤独、恐れや不安、悲惨な状態から救い出し、本来の価値を本来の場所で発揮させようと、私たち一人ひとりを諦めることなく捜し出してくださるのです。ここでも、一人の迷い出た人が、そこで目線を神さまにもう一度向け直し、新しく生き生きと生きたいと願う。思いを改める。悔い改める。そうするならば、喜びが天にわきおこるのだと仰いました。天の父なる神さまのまわりで、神さまと御使いたちの喜びの歓声が沸き上がる。迷い出た私が見つけられて、連れ戻されることが、これだけ大きな喜びに値するとは、私たちにとって何という光栄、喜びであることでしょう! そう思われませんか。

 それほどまでして、どうして神さまは私たちを捜されるのでしょうか。私たちが何か良いことをしたからでしょうか。神さまのために何かしたからでしょうか。いいえ違います。全く逆です。私たちは神さまを無視し、別の神さまに視線を移し、別の神さまに向かって助けを求めているような者たちです。それでも神さまは私たちを捜してくださるのは何故なのでしょうか。神さまのもとに帰ったなら、それほどまでに天に大きな喜びがわき起こるのは何故でしょうか。

 それは、私たちを愛しているからです。それでも私たちを愛しているからです。そして私たちにそれぞれ価値があることを認め、価値にふさわしく生きて欲しい、その価値を失ったまま滅んでしまうことのないようにと願われているからです。そこで私たちは、「こんな私が」などと考えてはなりません。価値は私たちが決めるものではなく、神さまが決められる価値なのですから。そして実際に私たち一人ひとりに対する価値は、神さまが大切な御ひとり子、イエス・キリストをその人の罪の身代わりとして、イエス・キリストがその身に人の罪を負い、十字架に架けられともに死んでくださった。罪の解決をしてくださった。神の御子のいのちをかけてまで私たちを救おう、赦そうとされる、それほどの価値が私たちにあるのだと仰ってくださるのです。私たちの存在を大切なものとしてくださり、今のこの地上の生涯と、それに続く永遠の故郷、天の御国での永遠のいのちに至るまで、滅びることなく、わたしとともに幸いに生きるのだと常に招いてくださっている。何という神さまの愛でしょうか。

 今から400年以上も前のことです。この日本の地に初めてキリスト教の宣教師たちが渡って来た時のとこです。厚い言葉の壁に阻まれながら宣教師たちが伝えようとした一つのこと。それはこの「神の愛」でした。実に当時の宣教使たちはこの「神の愛」を「デウスの御大切(ごたいせつ)」と訳したのでした。ラテン語の神であるデウスは、八百万の神々との混同を避けるものであったのですが、ようは、「愛」を「御大切」と表現したのです。「神の御大切」。とても味わい深い、また深く考えさせられる表現ではないでしょうか。

 当時の民衆に向かって宣教師たちは語り聴かせました。「あなたがた一人ひとりは、性別、年齢、身分、財産と関わりなく、神の“御大切”なのですよ。その証拠にキリストは、あなたたちのために十字架上で死んでくださったではありませんか。聖書を読んでごらんなさい。いかに、小さな者、貧しい者、罪人、いわゆる“出来の悪い者”が、神の愛の対象であったかが書かれていますよ」。

 そして福音を聞いて救われる魂が起こされていきました。やがて厳しい迫害の時代がやってきます。その時、四万人とも五万人とも言われる大勢の人々が殉教していきました。その多くが貧しい民衆層の人たちだったという事実にもまた、私たちは色々と考えさせられるのではないでしょうか。自分の小ささ、貧しさを認め、また必死に生きてきた彼らの内にはきっと目に見える罪悪はなかったのかもしれません。それでも自分を罪人と認めた彼らが、最後まで信仰を守り通して殉教して行ったのです。「何ものも私たちをキリストの愛から引き離すことはできません」(ローマ835,37-39)と告白できるほどに、神さまの愛、神の御大切を自分のものとして受け取ったのです。

 今日のイエス様の例え話を聞いた人たちも、自らの弱さ、罪を認める人たちでした。自らの弱さ、罪を認めた人たちが、ここで悔い改め、天に喜びを湧き上がらせたのでしょう。それは先週の、ローマの教会の異邦人キリスト者の姿と重なるのではないでしょうか。日々自らを省みて、罪を認めるならばその都度悔い改め、神さまに目線を向け直し、神さまを仰いで歩んで行こうと心を変えるなら、その人は日々成長し、祝福された歩みをしていくことになるでしょう。神さまはそのことを心から望んでおられます。

 しかし、今日のところでイエス様の例え話を聞いていた人たちの中に、パリサイ人、律法学者たちも混じっていました。そして彼らはイエス様に対してつぶやいたと、文句を言ったと記されています。実はこの彼らの姿は、ローマ書2章からに登場してくる「あなた」とパウロが呼ぶ人たちに重なってくるのです。次回はそのところを見てまいりたいと思います。

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