2020年10月25日 主日礼拝「ユダヤ人の罪」

本日の聖書箇所

ローマ人への手紙2章17〜29節

説教題

「ユダヤ人の罪」

今週の聖句

かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。

ローマ人への手紙2章29節

訳してみましょう。

2040 Rest your assurance on God’s love in your heart — not on the fear in your mind.
2041 God gave you a message to share. Don’t keep it to yourself.

礼拝式順序

開 祷
讃美歌  8番「きよきみつかいよ」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  333番「主われをば」
聖 書  ローマ人への手紙2章17〜29節
説 教  「ユダヤ人の罪」
讃美歌  355番「主をあおぎみれば」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷


動画はこちら 

https://youtu.be/FZcdOjTPpNE

説教「ユダヤ人の罪」

ローマ人への手紙2章17〜29節

佐藤伝道師

 私は反省しています。悔い改めなければならないです。少し前にNHKの朝ドラについてお話ししました。覚えておられるでしょうか、主人公の妻の音さんの実家がクリスチャンの設定のようだけれども、ちっともキリスト教っぽくないなどと安易に批判してしまいました。しかし最近の朝ドラはすごいですね。すごい証しをしてくれています。ちゃんと牧師か司祭の考証が入っているようですね。ちゃんと調べもせずに、知りもしないでさばいてしまったことを、私はお詫びして、悔い改めたいと思います。

 批判といいますか、間違っていることを間違っているのではないかと、きちんと声を上げて、それが良い結果になった大きな歴史的な出来事もあります。今週の土曜日、10月31日は「宗教改革記念日」です。私たちプロテスタント教会にとってはとても大切な日です。1517年10月31日。マルティン・ルターはヴィッテンベルク城の教会の扉に「95ヶ条の提題」を張り出しました。このことがきっかけとなって宗教改革となりました。その動機は【神さまと隣人とを心から愛して】、それだったのではないかと思います。罪の赦し、永遠のいのちにお金が関わってくるなど、神さまの救いの恵みが恵みでなくなっていました。また誰もが自由に神さまのみことばである聖書を読めなかった。色々な事情があったようです。宗教改革のスローガンは「ソラ・スクリプトゥラ (Sola scriptura)/聖書のみ」、「ソラ・フィデ (Sola fide)/信仰のみ」、「ソラ・グラティア (Sola gratia)/恵みのみ」。ルターの心を捉えて放さなかったのは、パウロの「ローマ人への手紙」に出てくる「神の義」そして「信仰義認」ということでした。まさに私たちはその「ローマ人への手紙」を見ているのです。それを覚えながら、改めてローマ人への手紙の主題である1章16〜17節をお読みします。

1章16節      私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
1章17節      なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 宗教改革によって私たちの信仰の土台となった「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ」。きょう、多くのプロテスタント教会では「宗教改革記念礼拝」がささげられるところが多くあるようです。私は特にこのことを念頭に置いて準備はしてきませんでしたが、心に覚えつつ、今日もローマ書から神さまのみことばをいただき、礼拝をささげてまいりたいと思います。お祈りを致します。

 愛する天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。今朝も恵みによって御前に私たちを集めてくださり感謝致します。どうぞこの場に、お一人お一人の上に聖霊様が臨んでくださり、あなたのみことばをそれぞれにお語りくださいますようにお願いを致します。みことばによってあなたを礼拝し、みことばによって整えられ、身も霊をもあなたにお献げするにふさわしいものとして、私たちを聖めてくださいますようお願いを致します。主の御名が崇められますように。主キリスト・イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。

 ルターと言えば宗教改革、宗教改革と言えばルター。

 それとは少し違うかもしれませんが、人にはそれぞれ名前があります。皆さんは、ご自分の名前の意味を考えたことがあるでしょうか。その名前には色々な期待、名づけた方が親ならば、わが子、そしてわが子の人生に対する祈り、願い、深い愛、慈しみの思いが込められているのではないかと思います。その名前の意味が、あることをきっかけに変化する、あるいは意味が加えられることがあります。それは変わってしまう、加えられてしまうというようなものではなく、恵みによって変えていただく、加えていただく。そのようなものです。それは私たちが救われた時、主に招かれた時。真の天の父であられる神さまによって、それまでの名前に恵みによって新たな意味が加えられることもあるのではないかと思います。

 先ほど「恵みによって」と申しましたけれども、「恵さん」という名前はどうでしょう。R姉の娘さんの恵さんは聖書からとられたのでしょうか。一般的に「恵」という名に込められた思いというのは、漢字の意味から「思いやりがある子になってほしい」などではないかと思います。しかし救われて、神さまの愛を知り、また経験すると、恵の意味はまさに「神さまの恵」、受けるに相応しくないこの私に、神さまの慈愛が注がれているという心からの感謝の意味になるのではないでしょうか。そしてその感謝に応えて生きる者、生きたいと願わされる者へと変えられるのではないかと思うのです。

 そんな経験をした一人に、モーセがいます。

 有名な話しなので説明はいらないと思いますが、モーセはエジプトで奴隷となっていたイスラエル人、レビ族の家に生まれました。当時のイスラエル人の男の新生児は、エジプトの王様の命令で生まれて直ぐに全員殺される運命にありました。しかし男の子の両親は、その子があまりにもかわいいのを見て、−−−この「かわいい」には言語的に深い意味が込められていて、ただ単に可愛いというだけではなく、神さまの御心、ご計画が男の子の中に見て取れたのでという意味が隠されているのですが−−− 殺されないように隠しておきました。3ヶ月ほど隠して、いよいよ隠しきれなくなり、男の子をかごにいれてナイル川の岸に置きました。どうなるかと見守っていたところ、エジプトの王様の娘がナイル川に水浴びに来ました。そしてかごに入っている男の子を見つけて拾って、自分の息子、王女の息子として育てたのです。王女はその子を「モーセ」と名づけました。その意味は「引き出す」という意味の語から来ているのですが、王女が「『水の中から、私がこの子を引き出したのです』と言ったから」(出エジプト110)です。

 それから長い年月が経ち、モーセが80歳の時、モーセは神さまからイスラエルの民をエジプトの奴隷から解放するというご自分のみわざをなさるために召し出されました。その時、モーセの名前の意味が変化した、新たな意味が加えられました。もともとエジプトの王様の娘が「水の中から引き出された者」という意味で付けた名前が、「イスラエルの民をエジプトから引き出す者」、また、モーセは葦の海を割って、追い迫る敵の手からイスラエル人を救いました。その光景は「水の中から民を引き出した」ものでした。「名は体を表す」とは良く言ったもので、名前はその人の性質や実体をよく表すものだと思います。

 失礼ですけれども、北村先生のお名前なんて素晴らしいと思います。「喜ぶ」「彦」さんですが、名づけてくださった方がどんな思いを込められたのかは私は分かりませんが、しかし主に召されてからの「喜彦」という名前の意味を考えてみるとこうなるのかもしれません。「喜ぶ」について、イエス様は言われました。「ただあなたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい」(ルカ1020)と。「彦」というのは「才能の優れた男子」という意味があるそうです。なにか、天国の福音を語られる北村先生を表現するのにぴったりの名前だと思うのは私だけでしょうか。そのように、ご自分の名前に、神さまによって新たに加えられた意味というものに思いを巡らせてみるのも良いかもしれません。

 さて、前置きが長くなりましたが、本日のテキストから見てまいりましょう。

2章17節      もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ(名乗り)、律法を持つことに安んじ、神を誇り、
2章18節      みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、
2章19節      また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自認しているのなら、

 実はこれは、ユダヤ人によるユダヤ人の自己理解というものです。ユダヤ人とはこういう者であるという、ユダヤ人自身の考えでした。私はユダヤ人であると自ら名乗り、律法から教えられて、律法を熱心に調べて、勉強して、大切なことや優れたことをわきまえ知っていました。自分たちが信じている神さまを誇り、自慢としていました。律法を知っている自分たちは、世の光、地の塩であると自任していた、それが自分の任務としてふさわしい、それに相当する値打ちが自分たちにはあるのだと自負していました。

 そして続く21〜23節は、パウロから見たユダヤ人についての理解です。

2章21節      どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。
2章22節      姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿のものをかすめるのですか。
2章23節      律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。

 パウロがユダヤ人をこのように見ている。これはパウロ独自の目線、ユダヤ人に対する印象なのでしょうか。恐らくユダヤ人以外の人たち、異邦人から見たユダヤ人の一般的な見方、印象だったのでしょう。「姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿のものをかすめるのですか。盗むのですか」。私はパウロが何となく抽象的に言っているのかと思っていましたが、どうやら注解書によると、この通りのことが当時ユダヤ教を代表するラビ(教師)たちの間で行われていたと言うのです。

 そして私が特に目が留まったのは、「偶像を忌みきらいながら、自分は神殿のものをかすめるのですか」というみことばです。神殿とは偶像の神殿を指しているのですが、偶像を忌みきらって神殿にある何か価値のあるものをこっそり盗むということなのでしょうか。クリスチャンが善光寺に行って金ピカの何かを盗んで来るということなのでしょうか。

 「かすめる」と訳されている原語を調べてみますと、そこには「冒涜する」という意味があります。

 私が神学校時代、学校の近くに民宿を営んでおられたおばあちゃんがいました。神学生にとても親切にしてくれたおばあちゃんでした。そのおばあちゃんは近くの教会に通うクリスチャンでした。たびたびお宅で交わりを持たせていただいていました。その方のお宅には立派な仏壇が置いてあって、いつもロウソクが灯され、時にはお線香も焚かれていました。それを指さしてクリスチャンのおばあちゃんが言ったのです。「私は仏壇の前でロウソクの灯りを見つめながら、お父さんのことや神さまのことや、色んなことを考えているの」。そう言うおばあちゃんの姿を見て、私は「あぁ、おばあちゃんにとってこの行いは、決して偶像礼拝を許容しているわけではないんだ。亡くなられたご主人を本当に大切に思われて、そしておばあちゃんにとって慰めでもあり、生きる力でもあるんだなぁ」と、そう思わされたのです。また、私の母も同じです。母も一度はイエス様を信じると告白しました。けれども実家に行くとたびたびロウソクを灯した仏壇の前で静まっている姿を見かけます。私はそれを「無意味だから」と取り上げること、奪うこともできるかもしれません。しかしそれは、民宿のおばあちゃんや私の母が大事にしているもの、大切にしているもの、生きるために必要としている大切なもの、また心の思い、祈りが献げられている霊的な神殿を冒涜する行為ではないでしょうか。本当の心の内、どのような考えでそのことをしているか私には分かりません。見えている行為の表面的なものだけで判断してさばいてしまってはいけないのではないでしょうか。それは私が朝ドラを浅はかにもさばいてしまった失敗と同じです。

 あるクリスチャンのご婦人が、ご主人の救いのために家にある仏壇をいきなり目の前で焼き払ってしまったという激しいお話しを聞いたことがあります。それが本当に夫への愛から出た行為、同時に神さまを愛する本物の愛から出た行為であるなら赦されるでしょう。幸いにもそのご主人は救われたということで、そのご婦人の行為は正しかったのでしょう。しかし多くの場合、そのような冒涜的な行為は、ただ敵対関係を生むのではないでしょうか。偶像自体を憎むべきものとするのは間違いではありません。しかし23節のみことばを心に留めるべきではないでしょうか。

2章23節      律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。

 イエス・キリストがこの世に来られ、律法を完全に成し遂げられました。そのイエス様が言われたことです。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです」(マタイ2234−40)。

 私たちは隣人の表面的な行為だけを見て浅はかに判断してしまうのではなく、神さまを愛し、同時に隣人を愛し、何が御心にかなった行いであるのか、個人的な感情からの行いであるのかを、しっかりと見極めるべきなのではないでしょうか。

2章24節      これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」と書いてあるとおりです。

 イエス様が二つに要約されたこの律法「神と隣人とを愛する」という律法にに違反する私たちの行為。それが神さまを侮ることになる。神さまに恥をかかせることになるのです。世の人々は、私たちクリスチャンの行いを見て、神さまというお方がどのようなお方であるのかを判断するのです。

2章25節      もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。

 ユダヤ人は割礼を非常に重んじました。神さまとアブラハムが結んだ契約のしるしである割礼が、自分たちこそ契約の民であることを保証してくれるものだと考えたからです。しかし申命記において確認された神さまの契約とは、「律法を守り行うなら祝福を。守り行わないならのろいを」。律法に背くならば、神さまとの関係が破綻する、割礼も無意味なものになるというものでした。

 このことは何に喩えられるでしょう。それは「十字架のネックレス」かなぁと思います。クリスチャンが十字架のネックレスをする時、それは自分がクリスチャンであることを証しするものとなるでしょう。しかし今の時代、あまりにも十字架というモチーフが多用されていて、十字架がデザインされたアクセサリーが、「私はクリスチャンです」という決定的な証しにはなりません。

 また、本物のクリスチャンが、神さまと隣人とを愛する生き方、行いが見られる人が十字架のアクセサリーを身に着けるなら、その十字架のアクセサリーは人々に愛の神さまを証しするものとなるでしょう。しかし、神さまと隣人とを愛する生き方がまるで認められないクリスチャンが十字架のアクセサリーを通して神さまを証しをしてしまう場合には、世の人々はその人を通して、その人が身に着けている十字架のアクセサリーを通して間違った神さまのイメージを抱いてしまう、神さまのお名前を汚してしまう、神さまのお名前を貶めることになってしまうというところにも、私たちは心を留めなければならないでしょう。

2章26節      もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。
2章27節      また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。

 まさにパウロが言うとおりです。2章に入ってからずっと「神は人の行いに対する報いに、えこひいきはなさらない」という真理をパウロから聞かされている私たちであるなら、誰も反対できる人はいないでしょう。核心的なことは、割礼と律法の有無ではなく、律法を守るかどうかにかかっているのです。そしてその律法とは、イエス様がギュッと要約された「神と隣人とを愛する」ということを改めて確認したいところです。

2章28節      外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
2章29節      かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。

 御霊による、心の割礼こそ割礼です。

 罪の世のど真ん中に生きている私たち。また聖書は私たち人間の心をこのように表現します。開かなくても結構ですが、エレミヤ書17章9節です。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれがそれを知ることができよう」(エレ179)。このような私たちの心が神さまに喜ばれるものに変わるためには、御霊による新生、御霊によってまったく新しく創造されることが必要です。パウロが「御霊による、心の割礼」と言っているのはこの意味なのでしょう。

 申命記において神さまもこのように言われました。開かなくて結構ですが申命記10章16節です。「あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者であってはならない」。また、同じく申命記30章6節「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる」。

 私たちは御霊による心の割礼を受けなければ、神さまの律法を完全に守り行うことができません。神さまに従順でいることはできません。

 身体に施される外見上の割礼は、選民に与えられた外見的なしるしにすぎませんでした。それに対して御霊による心の割礼は、神の民の真のしるしとなります。結局、聖霊による割礼を心に受けている人こそ、心に割礼を受け、聖められ、従順に変えられた心、神さまを愛する心を持つ人が、真の神の民であるということになるのでしょう。

 パウロがユダヤ人の割礼について語ったことは、ことばを変えるならばキリスト者にも当てはまるのではないでしょうか。「外見上のキリスト者がキリスト者なのではなく、外見上のからだのバプテスマがバプテスマなのではありません。かえって人目に隠れたキリスト者がキリスト者であり、文字ではなく、御霊による、心のバプテスマこそがバプテスマです」。

 新約の聖礼典に定められているほど、バプテスマには新しい契約のしるしとしての大切な意味があります。ですからバプテスマを受けても受けなくても良いなどと言うものではありません。そもそもバプテスマというのは、救われるために受けるものではなく、救われた証しとして、公の告白として受けるものです。「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリ123)。ですからイエス・キリストを私の主と告白し、バプテスマを受けた者はすでに御霊が心に注がれた者です。そして御霊の実を結んだ者、結びつつある者とされました。

 人々が私たちのうちに実る御霊の実を見て、「あの人は素晴らしい人だ」、「あの人は愛に満ちた人だ」、「あの人が信じている神さまはどんなお方なのだろうか」、「あの人が信じている神さまは、素晴らしい神さまに違いない」。そんな生き方ができるならば本当に幸いです。何よりも陰険で、それは直らない。そんな私たちの心に御霊が注がれ、御霊によって割礼を受けた私たち。私たちは神さまに喜ばれる生き方を望むもの、生き方ができる者に変えられているのです。「その誉れは、人からではなく、神から来るものです」。

 冒頭に名前のお話しをしました。劇的に名前が変化した人に、あのアブラハムとサラがいるのではないでしょうか。神さまの召命によって、アブラム(日本語にすると「父は高い」というようなニュアンスで、これ自体は生まれの良さを指しています)という名がアブラハム(多くの国民の父)になった。サライ(日本語にすると「私の女王」という意味で、おそらくサライは生まれた時から美しく、他とは異なった気品を感じさせる子だったのかもしれません)という名前がサラ(「多くの国民の母」)になった。そして二人とも、その名にふさわしい生涯を生かされました。興味深いことに、アブラムには「息」の音「ハ」が神さまによって加えられてアブラハムになりました。またサライにも同じく「息」の音「ハ」が加えられてサラ(ヘブル語的にはサラハ)となりました。聖書では「息」は「霊」と同じ語です。新約聖書においても聖霊は「風」や「息」というシンボルで表されていて、それは「神のいのち」そのものなのです。

 アブラムもサライも、神さまのいのち、聖霊が注がれて名前が変わりました。アブラハム、サラハ。その意味も変わりました。そして生き方も、生涯全体もその名にふさわしいものへと変えられたといって良いのではないかと思います。そして御霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)も、すべてイエス・キリストの十字架の恵みによって、私たちの内の罪が変えられたものであることも覚えておきたいところです。

 「名は体を表す」と冒頭でも申し上げましたが、その人の名はその人の人となり、また生き方を表すものともなります。私たちもこの心に御霊が注がれて、神さまによって生まれつきの名前に新しい意味が加えられた、変えられた。御霊が注がれて、新しい意味を帯びた自分の名にふさわしく生きたいと願わされる者となるのではないでしょうか。そして実際にふさわしく生きることを可能にするのも、私自身の力ではない、ただ聖霊によるのです。その聖霊が、すでに主を信じる信仰によって、天から私たちに注がれているのです。

 この恵みに依り頼み、イエス・キリストを通して与えられている神さまの律法「神と隣人とを愛する」、それに従って生涯を歩む者とさせていただきましょう。主を信じ、主を仰ぎ、日々聖霊に満たされ、御霊の実を結ばせていただきながら歩んでまいりましょう。

 お祈りを致します。

 天の父なる神さま、御名を崇め心から賛美致します。みことばを感謝致します。主を信じる私たちに聖霊を注いでくださり、全く新しくしてくださり、真に生きるものとしてくださっていることを覚えて感謝致します。私たちの日々の歩みが、聖霊に満たされ、神と隣人とを愛し、神さまによろこばれる歩み、素晴らしい愛と憐れみの神さまを証しするものとなりますようにお守りください。主キリスト・イエス様のお名前によってお祈り致します。アーメン。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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