2021年12月19日 クリスマス礼拝「布にくるまれた救い主」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

【ここからライブ配信】10時50分頃〜↑↑↑
開 祷
讃美歌  98番「あめにはさかえ」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  106番「あらののはてに」
聖 書  ルカの福音書2章1〜7節
説 教  「布にくるまれた救い主」佐藤伝道師
讃美歌  102番「もろびとこえあげ」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

ルカの福音書2章1〜7節

説教題

「布にくるまれた救い主」

今週の聖句

男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

ルカの福音書2章7節

訳してみましょう

2156 Then God remembered Rachel; he listened to her.(Genesis30:22)

2157 Dear heavenly Father, grow my understanding of Your remembrance of me. Then, where I need You to act, please remember me.

説教「布にくるまれた救い主」

ルカの福音書2章1〜7節

 クリスマスの装飾が施された講壇を見つめていてふと思ったのですが、こうして綺麗なお花で飾られて、キャンドルが灯されて、祭壇の中央でこの透明のプレート越しに皆さんに向かって笑っている自分の姿を想像して、まるで自分が葬儀の主人公のようになっているような、そんな思いがしてきました。

 「主人公」と言って思い出したのですが、私は先日ある方とお話しをしている中で、なるほどと思わされるお話しを聞きました。「事実は小説よりも奇なり」とは有名な言葉ですが、その方は「売れている小説は、作家の実体験が絶対に入っているはずだ」と、そう言われました。また、有名な作家が後輩の作家にこう言ったそうです。「事実を書くことに恐れてはならない」。そのアドバイスの後に書き上げた小説がもの凄く売れて、映画やテレビドラマにもなったそうです。「事実であればあるほど、人の心を揺さぶるものではないかなぁ」。そう言われましたが、私も本当にその通りだと思いました。

 聖書はこれまでどれほどの人に影響を与えたでしょうか。クリスマスの出来事が、そしてイエス・キリストの地上での生涯、その中で人々に語られたことば。そして十字架の死と、死からのよみがえり、復活の出来事が、これまでどれほど多くの人々の心を揺さぶり、生き方に影響を与え、永遠のいのちを与え、生きる勇気、慰めを与えてきたことでしょう。人々の心に、希望、平和、喜び、愛の火を灯し続けてきたでしょうか。それはやはり「事実」だからです。イエス様が来てくださらなければ、私たちはどんな人生を歩んでいたのかと思わされます。それよりも、一体どのような世の中になっていたのかと思わされます。聖書が事実でなければ、それはそれは悲惨な世の中になっていたのではないでしょうか。みんな自己中心に、家族の中であってさえも、憎み合って、争いあって、本当の愛など知らない、誰も顧みられない、そのような悲惨な世の中になっていたのではないでしょうか。本当の愛とは「自己犠牲」です。聖書の事実の中に、神さまの真実の愛を見出して、それが私自身に向けられたものであることを知って、心揺さぶられた人がこの世の中に起こされてきたからこそ、神さまにこれほどまでに愛されて、赦されて、大切にされている私も、家族を愛し、誰かを愛して赦して、自分を犠牲にしても平和を求めようとする人がいた。そのような人たちが色々な所で用いられて、地の塩、世の光となって、例えばある人は為政者となり、またある人はとりなし祈る者となり(Ⅰテモ21-4)、愛を実際にこの世に対して表し示し、影響を与え、世界を悲惨さから守り、不完全ながらもなんとか平和を保ち、貧しい者、弱い者が顧みられる、愛とか優しさが見られる世の中になっているのではないかと思います。クリスチャン、残された者の影響はとても大きいのです。神さまがクリスチャンを用いてこの世を保ってくださっていると言っても良いのではないでしょうか。ですから私たちは神さまの真実の愛から目を離さずに、もっと真実の愛を日々知っていき、その愛を他の人々に注いで行きたいと思うのです。

 罪を犯して自己中心な者となってしまった人間のうちに、本来ならば愛などありません。けれども世界中のすべての人が愛を知っていますし、自分たちが失ってしまった愛を求めています。また何らかの形で現された愛に心から感動しています。例えばマザー・テレサであったり、アフガニスタンの中村哲医師であったり。それで私も愛を実践しようと思う。それは神さまが人に愛する心を与えておられ、世界中にご自身の真実の愛を表し示してくださっているからです。クリスマスという祭日もまたその一つでしょう。クリスマスには世界中の人たちが愛を喜び楽しんでいます。ところが、この愛の内の多くは「恋人たちの愛」のようなものにすり替えられてしまっています。本当の愛とは「自己犠牲」であることを、恋人たちは本当に知っているのでしょうか。本当の愛とは「自己犠牲」、そのことを知っている所でのクリスマスでは、実にまことの愛に満ちたものとなるでしょう。悲しんでいる人、苦しんでいる人、病気や貧しさ、そのような中にある人たちに手が差し伸べられる、そのようなクリスマスが実際に見られるではないでしょうか。私たち教会のクリスマスも、そのようなものでありたいと願っています。

 今朝は最後の4本目のロウソクに火が灯されました。それぞれの意味は先週お話ししましたが、1本目から「希望」「平和」「喜び」「愛」です。先週は3本目のキャンドル「喜び」に火が灯されましたが、皆さん、喜んでいますか。アドベント、救い主の到来、近づいてこられていることを待ち望み、喜んでおられるでしょうか。イエス様は言われました。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ1020)。

 この世にお生まれになったイエス・キリストを救い主と信じ受け入れた者は、すべての罪が赦されて、神の子とされ、永遠に活き活きと生きるいのちを得て、その名が天に記され、天の御国、神の御国に入れられることが確実な約束とされています。本当に恵みです。そのことを今、心から喜び、将来必ずやって来る約束の日、イエス様の二度目の来臨の時まで、いつも喜んで待ち望むことができるのです。それはただ、神さまの私たちを愛してくださる愛によるのです。

 4本目のキャンドルは「ベツレヘムのキャンドル」と呼ばれ、神さまの愛は、ベツレヘムにおいてイエス様のご降誕によって、この地上に実現したことを私たちに思い起こさせるものです。この出来事が記されている今朝与えられているみことばを通して、私たちに注がれている神さまの偉大な「愛」について見て行きたいと思います。

 今朝与えられているみことばは、ルカの福音書2章1節から。いよいよ幼子が誕生というところです。

2章1節 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
2章2節 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
2章3節 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。

 当時世界を支配していたローマ帝国が、税金集めのための新しいシステム構築のために、「全世界の住民登録をせよ」との勅令(命令・法令)を発布しました。「住民登録をせよ」というのは、人口調査をし続けよ、すなわち人口調査【制度を設けよ】という意味です。ローマの圧政の中、重い税金が課せられ、その確実な徴税を目的に行われたこの住民登録に人々は絶望しながらも、ただ従うしかなく、ユダヤの人々に対してはそれぞれの家系に沿ってなされるように設定されました。マリヤとヨセフもその例外ではありませんでした。

2章4節 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
2章5節 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。

 神さまのご計画、御心は粛々と、厳かに、静かに、確実に、全世界を巻き込んで進められていました。

 住民登録の対象は成人男子に限られていたようで、ヨセフはわざわざ身重のマリヤを連れて、ナザレからベツレヘムまでの約140㎞の道のりを旅する必要はありませんでした。ヨセフにはマリヤを連れて行こうとする理由があったのでしょう。たとえば、二人が一緒になる前に懐妊したマリヤに向けられる周囲の疑惑と中傷の目から守るために。たとえば、出産の日が近づきつつあったマリヤに付き添い、出産時にはマリヤの側にいることをヨセフが希望していたとか。あるいはまた、二人ともそれぞれマリヤの宿している子について御使いの告知を受けていたので、旧約聖書の預言(ミカ52)によって救い主はベツレヘムで生まれることをすでに知っていたのではないか。マタイの福音書では、祭司長たち、学者たち、律法の専門家であり教師である人たちを全員集めて、キリストはどこで生まれるのかを問いただされ「ユダヤのベツレヘムです。預言者によって書かれているからです」と、すぐに答えることができました。ヨハネの福音書では、「キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っている」と、救い主を待ち望んでいた多くの人は、そのことを承知していたことが分かります。ですからマリヤもヨセフも救い主はベツレヘムで生まれさせなければならないと考えていた可能性もあるかもしれません。けれども、神さまのご計画、御心は、人を介してなされるものではありますが、人の努力とか尽力、知恵によって成就するものではないと、聖書はすべてのところでそう証ししているのではないでしょうか。たまたまとか、図らずもということはありますが、それらはやはり全知全能なる神さまがなさるみわざで、「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」のです(ロマ1136)。それは世の多くの人は偶然と呼び、救いを待ち望む人は神さまの摂理、恵みと呼びます。
 いずれにしても、神さまは救いのご計画、御心を必ず成し遂げられるお方です。その原動力は「主の熱心」のみ。「神は愛なり」、愛を基にした人間に対する熱い心、思いによるものです。「主の熱心がこれを成し遂げる」(イザ97)のです。

2章6節 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
2章7節 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 「ところが(Ἐγένετο / γίνομαι)」と訳されているこのルカが記した一言が実はすごいのです。その語の意味は、ついに、まさにその時、事が起こった、成就した。この一語を味わうと、実はルカはここで驚き、恐れをもってそのように記しているように思えてきます。
 「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」。ついにこの時、まさにその時、神さまのご計画、御心の成就でした。すべての人間を愛する神さまの愛が、ついに現れた、実現した時でした。

【ヨハネの福音書】
3章16節 神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 聖書の中でも引用される機会が多い箇所で、多くの人々を救うみことば、また預言です。聖書全体を一文で要約するとこの文章になると言われるぐらい重要な言葉です。福音の中の福音です。クリスマスはイエス・キリストの降誕を記念する祭日と位置づけられていますが、なぜ私たちがクリスマスを祭日として祝い喜ぶのか。それは旧約聖書に約束されていた救いが、神さまの愛がついに成就したからです。神さまの愛は、「世を愛され、ひとり子を世に与える」ことで成就したのです。それが私たち人間に対する福音、天使たちが告げた喜びの良い知らせです。

 ところで、原福音というものもご存知だと思います。それは聖書のはじめ、創世記にあります。伝統的な聖書解釈において聖書最初のメシア預言であるとされている創世記3章15節の聖書の一節です。

【創世記】
3章15節 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。

 アダムとエバが蛇にそそのかされ、罪を犯してしまった直後に蛇(サタン)に語られた神さまのおことばです。「お前の頭を踏み砕く者が現れるぞ。それは『女の子孫』だぞ」と。そして罪を犯した二人に対して神さまは、ただひとこと、叱りつけて終わりにはされませんでした。これは先日の祈祷会で教えられたところですが、「神さまは罪を犯した人間を一喝(大声で叱りつける)してそれで終わりにするお方ではなく、とことんつき合い、ことばを尽くして語ろうとされる、ことばを尽くして人間を養い育て、成長させてくださるお方」です。そしてここで神さまは、すでにことばをもって救いを約束してくださいました。「あなた(人間)を必ず救うから」と。

 罪を犯したアダム(人間という意味、人間)は、死ぬ者となってしまいました。霊である神さまとの関係が壊れてしまったことによって人は霊的に死に、同時に肉体も次第に滅びて行って、確実に死に行く運命を背負ってしまったすべての私たち人間。罪という血統書付きの私たち。罪とは自分の欲望のままに神さまから離れようとする性質です。けれども神さまは、人間が最初に罪を犯した時にすでに将来の赦しと救いを約束してくださっていました。罪を犯した直後に福音が、つまり、イエス・キリストを信じる者が罪赦されて、神さまと仲直りをして、イエス・キリストを通して永遠のいのちが与えられ、天の御国、神の国に入れられる確かな約束を、この時にすでに与えておられました。

 それから何年経ったのでしょうか。神さまは長い長い年月の間、ずっと罪ばかり繰り返す人間を、それでも見放さず、とことんつき合い、常にことばを尽くして赦しと救いの約束、福音を語りかけてくださっていました。人間を愛し、神さまの約束の成就の時まで、決して見捨てることなく教え、養い、この世を守り存続させてくださいました。そしてついに、この時、神さまの愛、約束は幼子となってこの世に成就したのです。女の子孫、つまり男との関係なしに生まれた幼子、神さまが親である男子。神のひとり子。同じ神さまが親であるアダムが犯した罪を赦すために、その罪を引き継いでしまったすべての人間の罪を赦すために、同じ神さまが親であるイエス・キリストがこの世にお生まれになった。「いのちには、いのちを」。神の子アダムが失ったいのちは、同じ神の子イエス・キリストのいのちによってのみ贖われなければなりませんでした。贖われるのです。それしかないのです。罪を赦すために神さまが定めてくださった方法、そして約束です。その神さまが定めて約束してくださっていたまことの救い主がこの世にお生まれになった。

 聖書は私たちに「喜べ」と言います。喜べと何度も勧めます。どうして喜ぶのか。「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため」(ヨハ316)にこの世に降られた神の御子、「この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ている(得る)のです」(コロ114)。そして何を喜ぶのか。「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ1020)。私たちはこの世にお生まれになったイエス様を通して救われて、永遠のいのちをいただいて、天の御国、神の国に迎え入れられることが約束されている。イエス・キリストを信じた瞬間に、天にその人の名が記される。それは神さまの真実な愛のゆえに、私たちを思う熱心さのゆえに、何があろうと取り消されることはない。必ず成し遂げられる。本当に恵みです。私たちはその神さまの愛を心から喜び、将来必ずやって来る約束の日、イエス様の二度目の来臨を待ち望み、そしていつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝していることができるのです。

 救い主は家畜小屋の飼い葉桶の中に寝かされました。救い主は何の力もない幼子というかたちで、しかも貧しさの底辺のような所でお生まれになりました。このことをも「喜べ」と言います。これまで何度も語られているところですが、それはすべての人が、どのような人であっても、富んだ人ばかりでなくとことん貧しい人であっても、強い人ばかりでなく、どんなに弱い人であったとしても、この救い主のもとに来ることができるためです。受け入れてくださるためにです。そのために、主は栄光をお捨てになりました。栄光とは光です。非常に重いものです。人間であれば恐れを抱いてしまうものでしょう。栄光に満ちた神さまのひとり子はその栄光を放棄され、謙遜の限りを尽くされ、幼子のかたちをとり、貧しさの底辺のような所にお生まれになったのです。誰であってもこの救い主のもとに来ることができるためにです。讃美歌に「あるに甲斐なき我をも召し、あまつ世嗣ぎとなしたまえば、たれか洩るべき主の救いに」(讃美歌502番)と歌われますが、私たち自身のことを覚えるならば、本当に主がこのような形でお生まれくださったことに、ただただ感謝であり、そして喜びとなるのではないでしょうか。

 そして救い主は「布にくるまれ」、飼い葉桶に寝かされました。このことをも「喜べ」と言います。

 讃美歌ではよく「馬小屋」と歌われますが、これは西洋の文化の中で出来上がったイメージのようなものです。実際は家畜小屋です。
 当時のユダヤは99%が貧しい人たちでした。馬など飼えませんでした。小さな家を建てて住んでいた人もいましたが、ほとんどの人たちが洞窟に住んでいました。その中で、羊飼いというのは、寒い日には羊を中にいれてあげることができる大きな洞窟に住んでいたのです。その脇に自分たちが住んでいました。
 イエス様がお生まれになった夜、暖かかったのでしょうか。羊たちを野原に残し、自分たちも野原で羊たちを見守っていました。ですから、大きな羊を入れるための家畜小屋、洞窟は空いていたのです。マリヤとヨセフは入れてもらえる家がどこにもなかった。「ところが」、ついに、まさにその時、事が起こった、神さまの愛が成就したのです。

 幼子は布に巻かれました。この「布」は長い包帯のような布を指しています。マリヤは洞窟の中に置かれていた長い布で幼子イエス・キリストを包んだのです。この布は何だったのか。それは死体を包む布だったのではないかと言われています。当時、人が死ぬと包帯のような長い布で包みました。その作業は狭い小屋や人の住む狭い洞窟ではできずに、広い洞窟、羊を入れるような大きな家畜小屋で行われたようです。そこに保管されていたその布に、救い主は包まれ、そして飼い葉桶に寝かされました。
 救い主イエス・キリストの誕生は昔からの約束の成就でした。神さまの預言の成就でした。神さまは人間を愛し抜き、罪と死の束縛から解放するために、救うために、約束通りご自分のひとり子をこの世に降らせ、そして死体を包む布でくるまれた。ここにも神さまの計り知れない愛、犠牲が伴う真実の愛のメッセージが込められているのです。

 私たちであれば、生まれたばかりの我が子に対しては、喜びに満ちた幸せな生涯を祈り、その幼子の中に明るい希望を見るのではないでしょうか。しかし神のひとり子は、やがて苦難の生涯を送られる。そして人間の罪のために死ぬことが神さまによって定められていました。救い主がお生まれになった時は、そのことは神さまだけが知っていることでした。けれども神さまは私たちに「喜べ」と言われたのです。神さまは死体を包む布にくるまれ、飼い葉桶に寝かされたひとり子の姿を見て、どれほど悲しまれたことでしょうか。時々フニャッと微笑む汚れない可愛く愛おしい幼子の笑みをご覧になって、ひとり子の将来を思ってどれほど心を痛められたでしょうか。まさに断腸の思いでしょう。このヘブル語での「断腸の思い」を、新改訳では「深いあわれみ」と訳されています。もちろん約30年後、ひとり子は死からよみがえられることも神さまは定められご存知でした。だからといって、ひとり子の死に対して平気でいられるでしょうか。皆さんはどうですか。この世で大切な人と死別して、やがて再会できることを知っていても、心が引き裂かれんばかりに悲しいのではないでしょうか。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」(イザ4915)、そのような父なる神さまが、ご自分のひとり子の死を悲しまないわけがありません。どれほどご自身が悲しまれようと、何としても人間を救いたい。神さまの私たちに対する真実の愛が、布に包まれた救い主の姿に込められて、表されているのです。

 真実の愛は自己犠牲であると申し上げました。真実の愛には自分を犠牲にしてまでも相手を愛するという、その愛があるのです。神さまの愛は、まさにご自身を犠牲にされてまでも現されたものです。ご自身の深い嘆き、悲しみを隠し、私たち罪人を救うために「喜べ」と言われる。「悲しめ、わたしの悲しみを、あなたたち罪人は知るべきだ、与るべきだ」とは言われませんでした。私たち罪人にもともとまことの愛はありません。わざわざ悲しめ、苦しめと言われる所に、自分を犠牲にして進み出る者は一人もいないでしょう。そうであるならば、もし神さまが悲しめと言われたなら、誰一人として救われる者はいません。神さまは「すべての人が救われることを願っておられます」(Ⅰコリ24)。だからご自身を犠牲にしてまでも「喜べ」と、「わたしの喜びに与れ」と招いてくださるのです。それで私たちは、栄光をお捨てになった幼子のもとに、死体を包む布にくるまれ、飼い葉桶に寝かされた幼子、救い主のもとに行くことができるのです。貧しい者も、弱い者も、罪人も、すべての人が駆け寄ることができるのです。

 私たちのこの喜びの背後に、神さまのまことの愛、犠牲、悲しみを覚えたいと思います。ひとり子に対する断腸の思い、深い憐れみを犠牲にして、神さまに対して罪を犯してしまった私たちにその思いが注がれたのです。私たちの名が天に記されていることを喜べるその背後に、貧しくなられた神のひとり子の姿、長い布にくるまれ、飼い葉桶に寝かされた神のひとり子、救い主の姿を覚えたいと思います。そして神さまが「喜べ」と仰ってくださるのですから、私たちは喜ぼうではありませんか。心から感謝して、神さまを崇めて、喜び称えようではありませんか。イエス・キリストのもとに大胆に近づこうではありませんか。

 神さまのこれほどまでの愛、神さまの犠牲、悲しみを覚えるとき、私たちはどのような反応をするでしょう。悲しみますか。打ちひしがれますか。やはり私たちは喜ぶでしょう。神さまへの感謝、賛美に心揺さぶられるのではないでしょうか。
 神さまの愛は、布に包まれ、飼い葉桶に寝かされたイエス・キリストにおいて現されました。それが事実であるからこそ、人間は心揺さぶられるのです。

 神さまの愛の成就を喜び祝うクリスマス。喜びを存分に味わわせていただき、信仰を新たに、聖霊に満たされて、希望、平和、喜び、愛の火を灯し続けてまいりましょう。私たちは今、人生のすべてにおいてアドベントを過ごしています。やがて神さまの愛が完全なかたちで成就することが約束されている、希望、平和、喜び、愛が満たされることが約束されている将来の出来事を信じ、感謝し、喜び、そして待ち望んでまいりましょう。

 「クリスマスおめでとうございます」。「おめでとう、恵まれた方」。「喜べ、恵まれたあなた」。私たちは互いに挨拶をかわし、救い主イエス・キリストにあって愛し合い、励まし合い、これからも歩んでまいりたいと思います。

 今日は、神さまのまことの愛を心に深く覚えつつ、クリスマスの賛美をもって主をたたえたいと思います。

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