2023年2月26日 主日礼拝「心配しなくてよい」

礼拝式順序

礼拝前賛美
報 告

開 祷
讃美歌  14番「わがたまさめて」
主の祈り 564番「天にまします」(参照
使徒信条 566番「我は天地の」(参照
讃美歌  75番「ものみなこぞりて」
聖 書  マタイの福音書6章25〜34節
説 教  「心配しなくてよい」佐藤伝道師
讃美歌  90番「ここもかみの」
献 金  547番「いまささぐる」
頌 栄  541番「父、み子、みたまの」
祝 祷

本日の聖書箇所

マタイの福音書6章25〜34節

説教題

「心配しなくてよい」

今週の聖句

まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えられます。

マタイの福音書6章33節

今週の祈り

わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは 私の心のうちにあります。
(詩篇40:8)

与え主なる神よ、到来したチャンスが、聖書の教えに沿ったものかを見分ける洞察力を与えてください。神に喜ばれる選択を、常にできるよう助けてください。

説教「心配しなくてよい」

マタイの福音書6章25〜34節

先日、すぐそこの大きな交差点でこのような光景を目にしました。私が先頭で信号待ちをしていると、お母さんと小さな女の子が自転車に乗って目の前の自転車横断帯を横切っていきました。女の子はまだ自転車に乗れるようになって間もないくらいだったのでしょう。危なげな様子にお母さんはとても心配そうな顔で娘さんを見つめていました。そして渡りきった所で一旦停車して、今度はまた反対側に渡る信号待ちをしていました。女の子は心配そうなお母さんをよそに、満面の笑みでお母さんの顔を真っ直ぐに見つめて、自転車に乗ってお母さんと一緒にお出かけするのが嬉しくて楽しくて仕方がないといった様子でした。女の子のお母さんに対する信頼はすごいなぁと思わされました。

さて、今朝与えられましたみことばは、マタイの福音書6章25〜34節です。先週から続く同じ文脈の中で語られます。25節からは「心配」という言葉が7回も用いられています。「心配するな」のオンパレードです。新改訳では「心配するな」ですが、共同訳と口語訳では「思い煩うな」、新共同訳では「思い悩むな」と訳されています。

前回の振り返りですが、弟子はふたりの主人に仕えることはできない(624)。すなわち神と富との両者に仕えようとするなら、結局は富に支配されてしまうだろう。神に仕える姿勢は中途半端であっては本当に危険であり、危険回避のためには富に対する心づかいから解放されることが必要であるということが語られました。人間というのは裕福であれ、貧しさであれ、どちらの富の問題に対しても心囚われてしまうものです。そこで富に対する心づかいから解放されることが必要である。今、あなたはどのような状態にあるか? イエス様は富という非常に身につまされる問題を通して問うてくださいました。富への執着の度合い、神さまへの信仰を量るものとして、「地上に宝を蓄えるのはやめなさい。天に宝を蓄えなさい」(619-20)、具体的に「自分の財産を売って施しをしなさい」(ルカ1233)というみことばを投げかけられました。

私たちは物質的な必要を満たすことがすべてであるかのように、それにとらわれて生きてはならないのです。しかし実際、経済生活の問題は私たちにとって身近で、しかも重要で切実な問題です。富に関して、神さまに頼っていれば本当に大丈夫なのかという疑問は、正直、誰の心にも湧き起こってくるものなのではないでしょうか。

イエス様はそのような問題を25節から論じておられます。ここでイエス様が強調しておられるのは、「心配するな」ということです。「心配」というのは、私たちの体の明かり・灯である目(心の目)があちらこちらの方面に分かれて混乱することを意味しています。また「関心を払いすぎる」とも訳されます。確かに富に対する心配は取り乱した行動となって表れるでしょう。富に支配された心は思い煩いに支配されてしまうものでしょう。神さまを本当に信じないと、あれもこれもと次から次へと心が分散して精神が統一できなくなり、ますます混乱してしまうでしょう。そしてついには病んでしまう場合さえあるのです。

今日のところでイエス様は、前回語られたことと同じことを繰り返しておられます。イエス様の関心は心の優先順位にあるのです。「第一のものを第一にしなさい」、「神を第一にせよ」「あなたの目(心の目)を神に向けなさい」ということです。

6章25節      ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。

神さまは私たちに「いのち」と「からだ」を与えてくださったお方です。創世記では、私たち人間は「神さまが大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった」(創27)と記されています。人間は神さまによって鼻からからだにいのち、霊、魂、息が吹き込まれ、生き生きと生きるものとされているのです。ところが罪(神に背を向け自分勝手な道を歩んでいく)によって心配、思い煩いが入り込み、病気が入り込み、いのち、からだを損じて生き生きと生きられなくなってしまいました。

私たちの心配の対象となる食べ物、飲み物、衣服は、「いのち」と「からだ」を支えてくれるものですが、しかしそうしたものは「いのち」と「からだ」よりも重要ではないと見なされるべきです。それはそうでしょう。いのち、からだを失ってしまえば、食べ物、飲み物、衣服などいらないのですから。いのちとからだはそれら以上のものであると神さまが言われる意味はお分かりになると思います。私たちに衣食よりももっと大切な「いのち」「からだ」そのものを与えてくださった神さまは、当然私たちの「いのち」「生き生きと生きるいのち」「からだ」「生き生きと生きるからだ」を支えるのに必要な物をすべてご存じで、それを与えてくださるはずです。ペテロの手紙第一5章7節にはこう記されているではありませんか。「あなたがたの思い煩いを、“いっさい”神にゆだねさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」と。だからあなたがたは神さまに信頼することができるでしょう、神さまを信頼しなさいという意味が、この25節のみことばには含まれています。そして「空の鳥」「野の花」の例をあげて、「あなたがたは鳥や野の花よりもすぐれたものであるから、神が養ってくださるのは当然だ」と述べておられます。

6章26節      空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。

私たちは空の鳥よりもずっと価値があるのでしょうか。あるのです。神さまがそう言われるからです。私たちは鳥よりもすぐれたものであるから、鳥を養っておられる神さまが私たちを養ってくださるのは当然だと述べておられます。神さまは「獣に、また烏の子に食べ物を与える方」であると詩篇の記者は歌います(詩1479)。「食べる物がなくて泣き叫ぶ烏の子に、餌を備えられるのは神である」と、ヨブ記では言われています(ヨブ3841)。買い物に出掛けると、焼き鳥1本100円くらいで売っています。イエス様は言われました。「二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の赦しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです」と(マタ1029-30)。ほとんどの鳥は、今、目の前にある食べ物を全部食べてしまったら、明日食べるのに困ってしまうと考えて、餌(富)をため込むことなど考えていないでしょう。雀の一団を見ると、餌を求めて多くのエネルギーを使って探します。餌を見つけたならば餌の取り合いをするわけでもなく、一心に目の前の餌を食べています。鳥はその日その日を一生懸命に生きるために働いているのです。しかしその餌を備えてくださり、餌が見つかるようにしてくださるのは神さまです。餌は「あなたがたの天の父」が備えてくださる。ずっと前からその日のために太陽を昇らせ、雨を降らせ、そこに植物を育て、実らせ、一羽の鳥のために取り計らってそこに備えてくださる、計り知れない英知、愛、全知全能なる神さま。鳥にでさえ神さまは価値を認め、目を留められ、心配られておられる。「だから空の鳥をみなさい」。ここで言われていることは、決して弟子たちに労働を禁じているのではありません。その日その日を一生懸命生きるために働くことが禁じられているのではありません。その逆でしょう。禁じられているのは心配することです。神を信頼しないことです。確かに生きて行くためには日常的に必要なものがあります。「日ごとの糧を必ず今日もお与えください」と祈りなさいとイエス様は教えてくださいました。そのような必要不可欠なものだからこそ、神さまが神を愛する者、イエス・キリストの血の価をもって贖い、ご自身のものとされた人を顧みて食べさせてくださるのは当たり前なのです。主は私の羊飼い(詩231)、私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊(詩1003)。主は私たちを草がある所に連れて行ってくださるお方。それなのに、富に関心を払いすぎていたり、富のための心配によって心が色々な方向に分かれて混乱していたり、心が分散しているとしたら、迷い出た羊のように滅びてしまいます(ルカ1812-14)。それは私たちの人生、私たちが神さまの恵みによって生かされている時間の無駄遣いだとさえ言えるのではないでしょうか。もったいないです。

6章27節      あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。

心配したからといって、私たちのいのち(寿命)が少しも延びることはない。それどころか、心配とかストレスはいのち(寿命)を縮めてしまうかもしれません。

「いのち」という語ですが、普通「年齢、生涯、寿命」を意味するのですが、実は「身長(背の高さ)」という意味をも持つ語です。そして「少しも」という語は直訳ですと「1時間、1キュビト」となります。そこで27節の原文を直訳してみますとこうなります。「あなたが心配している今、誰がその寿命を1時間延ばすことができますか」。そして「あなたが心配している今、誰がその身長を1キュビト伸ばすことができますか」。イエス様はおもしろいお方です。寿命、そして身長をかけて28節では「野の花」を例に挙げられるのです。

6章28節      なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。

野の花が育ち、背丈が伸びるのはどうしてでしょう。空の鳥と同じです。やはり神のご配慮によってです。神は太陽を昇らせ、雨を降らせ、ミミズや微生物を送り土を耕し肥やしたり。光合成、細胞分裂などの仕組み。それらもすべて神が備えられたものです。イエス様は「よく考えなさい。よく学びなさい。注意して見なさい」と言われるのです。私たちが目を凝らし学ぶべきは、野の花1本にさえあわれみ深い創造主なる神さまのみわざ、恵みです。

そしてここから、着る物に対する心配について取り上げられます。ここの「着る物」は「贅沢な柔らかな衣服」という意味の語が用いられています。その語の意味から、貪欲は自分の持っているものでは満足できなくさせるのだとして、イエス様はあのソロモンさえ手に入れられなかった野の花の美しさを取り上げて説明されます。

6章29節      しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
6章30節      今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。

イエス様が生きられた場所では、東からの熱風が吹き付けるとたちまち野の花は枯れてしまいました。枯れ草となった野の花は燃料として炉に投げ込まれてしまうのです。そのような野の花ですが、注意深く見ると本当に知恵あるお方によって美しく造られていることに驚きます。野の花は自分を飾るもののためにグルグルと糸巻きを回して働いてはいませんが、それでも美しく柔らかな花びらで装われています。「装われている」という語には、「線を引く、設計する」という意味もあります。まさに創造主の御心によって造られたことが分かります。イエス様はここでも、私たちは野の花よりもすぐれたもの、野の花にまさった神さまの御心が私たちにはあるのだから、神が私たちを養ってくださるのは当然だと繰り返し述べておられます。そしてここでも繰り返し怠惰になれと勧めているのではなく、これもまた神さまがご自身の子らの面倒を必ずみてくださるのだから、あなたは心を定めて日ごとの務めを、御心をなしていきなさいということを教えておられるのです。

イエス様はここで問われます。「わたしはあなたがたに言います。野の草にさえ神の御心があり、神が装い養ってくださっておられるのだから、神はあなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。〈信仰の薄い人たちよ〉」。

信仰の薄い人たちとは、心配する人たちのことです。そしてイエス様は御生涯の中で「信仰の薄い人たちよ」と何度か弟子たちに対して言われました。そこでは肉体的な必要に迫られた弟子たちが、イエス様を信頼できなかった時に用いられているのです。例えば湖が大荒れとなって、乗っていた舟が転覆しそうになった時、「イエスは言われた。『どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。』」(マタ823-27)。また、ペテロが水の上を歩いてイエスの方に行った時、強風を見て怖くなり、沈みかけた時に「主よ、助けてください」と叫びました。イエスはペテロをつかんで言われました。『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。』」(マタ1429-31)。また弟子たちがパンがないと論じ合っていた時には「信仰の薄い人たち。…まだ分からないのですか。五つのパンを五千人に分けて何かご集めたか。七つのパンを四千人にわけて何かご集めたか、覚えていないのですか」(マタ168-10)といった具合にです。

「信仰の薄い人たち」とイエス様が言われるのは、すべての必要を知っておられる天の父を信じているはずなのに、実際に困難に出会うとその信仰が機能しなくなってしまう人のことです。身につまされます。ですから私たちは、問題や困難の方を「よくよく考え、学び、注意して見る」のではなく、創造主なる神のみわざ、御心、恵みの方を「よくよく考え、学び、注意して見」なければなりません。私たちの目は体の灯です。目で何を見るかで体、全人格が向かう方向が決まるのです。どのように生き、どのように歩んでいくのかが決まるのです。

6章31節      ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。

共同訳、口語訳では「思い煩ってはならない」。新共同訳では「思い悩むな」。ギリシヤ語の直訳では「その世話をしてはならない、気にしてはならない、心を乱してはならない」です。

6章32節      これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。

異邦人とは真の神を知らない人々のことです。そのような人は物質的な必要を気にかけ、貪欲に追い求めるのです。偶像礼拝の特徴です。これとは対照的に、弟子は神さまが父なる神であることを知り、父なる神が「それがみなあなたがたに必要であることを知っておられる」ことを知っています。そして真の弟子は、神さまは必要なものを与えてくださることができるし、また与えてくださると確信しています。心配、思い煩い、心を乱し、心が分散し定まらない。それはその人の性格の問題ではなく、信仰の問題ということです。神を知らない異邦人なら思い煩うのも不思議ではありません。しかし、弟子が思い煩うなら、それは天の父を信頼していない証拠となってしまうのです。本当に身につまされる思いがしないでしょうか。しかしイエス様はすべての人に「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです。すべての人が真理を知り、すべての人が確実に救われ、確実に天の御国へと行くことを願われているのです。

神が天地を造り、そのすべてを愛し、助け、養い守り、すべての必要を満たしてくださることを知ったなら、それを知識とするだけではなく、信じて、心を定めて、一点を見つめて行動すべきです。ここで私たちは、私たちが本当に心配るべきところが別のところにあると気づかされます。

6章33節      まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

良く知られているみことばではないでしょうか。知っているだけではなく、信じて従っているでしょうか。求めなさいとは、継続的な義務、私たちが継続して求めるべきことを意味しています。私たちがいつも「天にます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。私たちの日ごとの糧を、今日も必ずお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちを試みの時に決して見放さず、ともにいて、私たちを悪から必ずお救いください」と求め続けているならば、私たちは心配の虜になることはありません。そしてその祈りは必ず聞かれるのです。

父なる神は衣服や食物が私たちに必要であることをすでに知っておられ、そのために配慮していてくださるお方です。そのお方は決して物質的な必要を軽視したり、無視したりはなさいません。父なる神は「あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられる」(68)お方です。神さまは必ずそれらを与えてくださるお方です。だから、心配するよりまず神さまを信じることが大切なのです。聖書には、「私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない(詩3725)と証言しています。神さまを信頼して一生懸命働くなら、必ず神さまは必要な物を与えてくださるのだから、心配して右往左往するのでなく、神さまを信じてなすべきことをしたいものです。天の父なる神のみわざを信じて、何よりも神の国と神の義を求めるのです。神の国と神の義とは、私たちが神さまの完全なるご支配、神の愛による支えと配慮を信じて喜んで従い、なすべきことをし、神さまに義(神さまに喜ばれる。心地よく感じられ、受け入れられる)とされることです。それは神と隣人とを偽善ではなく“真実に”愛することによって実現するのです。神に愛され、神を愛し。隣人を愛し、隣人に愛され。そのようにして神の国と神の義とは実現するのです。

イエス様の関心は、あくまでも優先順位にあるのです。「第一のものを第一にせよ」、すなわち「神を第一にせよ」ということです。心配しなくてよいと繰り返され、「あなたは神を第一にせよ」が強調されています。しかし、弟子たちの興味の中では物質的な関心が余りにもしばしば第一の場所を占めてしまっていたのです。前にも申しましたが、弟子たちは主の祈りを真剣に祈っていなかったからです。私たちは絶えず「神の国と神の義」とに関心を向けなければなりません。心の目、体の灯をそちらに向けなければなりません。もし神さまを第一とするならば、物質的な必要「これらのものはすべて」備えられると、私たちは今、確信しなければなりません。神さまと正しい関係にあるならば、また私たちの目が神さまだけを一心に見つめているなら、本当に必要なものは私たちの目の前に備えられていくのです。ずっと前から神がご配慮くださっていた恵みが、私たちの目の前に備えられていることをこの目で見るのです。

6章34節      ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

最後にもう一度、イエス様は心配しなくてよい、明日のことまで心配しなくてよいのだと語られます。イエス様はこれから先に起こる「労苦」を取り扱われます。

「苦労」。それは悪いこと、トラブルや労苦、骨折り、不幸や不運、厄介なこと、災難など。アダムが罪を犯して以来、世の人生からそういった苦労や苦しみがまったくなくなることはありません。しかし、父なる神さまを信じる者は神さまにそられを一切ゆだねることができるのです。一日の終わりに、ユダヤ人、またイエス様にとってはそれは日没です。日没に、寝る前に、一日の終わりであり、一日の始めである日没に、やはり私たちは主の祈りを大胆に祈るのです。そうするならば、眠ることもまどろむこともない神さまは、一日の始めに、私たちが寝ている間に、必要をすべて備え、満たしてくださいます。私たちは目覚めたならばイエス様の復活のいのちに与り、信仰、力に満たされて一日を動き出すのです。神はその日、ご自身を信じる者のために、約束されたとおりのことをなしてくださいます。信仰によって神さまを第一とするなら、それに加えて、これらのものはすべて与えられるとの、イエス様が語られた約束どおりにです。もし世の人々と同じ心配をするなら、実際には神を信じていないという証拠です。今日も苦労のあることを覚え、しかしそれも神さまの御手の中にあることを覚え、私たちは「ただ、この一事に励む」ことが大切なのです(ピリ313)。私たちにとって励むべき「この一事」とは何でしょうか。この一事に励んでいるでしょうか。私に対する神さまの御心、ご計画、任された働きとは何だろうか。今一度思い巡らせてみたいと思わされます。

ゴルフをなさるある先生がこのようなお話しをされていました。「ゴルフコースに出て、できる限り良いスコアを取って優勝を目指すという、そういうゴルフもあるでしょう。しかし一生懸命上手にやろうとしている割にはうまくいかない。一体自分はどうなっているのか。誰がこんな所にバンカーを作ったのか、誰がこんな所に森を作ったのか、何で目の前に木があるのかと、文句を言って絶望的な気持ちになるゴルフもあるかもしれません。しかし一球一球を楽しんで、自分が打ったボールが変な所に行ってしまったけれど、神さま、このボールをこう打ちますと、勝つことではなくゴルフを楽しむ、そのものを楽しむ、そういうのもひとつの生き方です。私たちの労苦はその日その日にある、明日のことを心配しないで、空の鳥をみなさい、花を見なさいとイエス様が言われる、この神さまの恵みに依り頼んで行く時に、私たちは神さまの永遠の恵みによって喜んで、安心して今日という一日を生きて行くことができるのです。そのような一日一日の繰り返し、それを人生と言いますが、私たちはそのような人生を天の御国に至るまで歩んで行くことができるのです」。

あなたは神の国と神の義をまず第一に求めなさい。いくら心配しても寿命は少しも延びない。むしろ心配することによって寿命が縮んでしまう可能性がある。心配は問題の解決には少しも役立たないから、無駄な心配は不要である。ただあなたは神を第一としなさい。神を信じ、神を信頼し、心と目を一点に定めて神のみを見つめなさい。そうイエス様は言われます。世のことで思い煩っているのでは、「この一事」に励むことができなくなります。ですから、神の御前に実を結んで勝利するために、世の思い煩いを主にゆだねきって、主が備えてくださっているもの、主が与えてくださるものに期待してまいりましょう。主が与えてくださっているもの、それがたとえ試練だとしても、主に心から信頼しているなら感謝できるのかもしれません。心配や思い煩いが押し寄せることがあっても、イエス様の言葉を思い出し、私たちは信仰によって勝利してまいりましょう。

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