2023年5月14日 主日礼拝「主イエスの力を経験するために」

礼拝式順序

賛  美  新聖歌264「われ贖われて」
      新聖歌435「罪に沈むなが友に」
      新聖歌415「恵み深き御神よ」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇100篇1〜5節
讃  美  讃美歌4「よろずのくにびと」
信仰告白  使徒信条 讃美歌566
主の祈り  讃美歌564
祈  祷  
讃  美  讃美歌249「われつみびとの」
聖書朗読  マタイの福音書9章27〜34節
説  教  「主イエスの力を経験するために」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌270「信仰こそ旅路を」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書9章28b節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書9章27〜34節

説教題

「主イエスの力を経験するために」

今週の聖句

イエスが、「わたしにそれができると信じるのか」と言われると、彼らは「はい、主よ」と言った。

マタイの福音書9章28b節

説教「主イエスの力を経験するために」

マタイの福音書9章27〜34節

少し小難しいお話しをしますが、私たちが属している日本同盟基督教団の信仰告白の序文にはこのように記されています。「我らは、聖書において啓示され、使徒信条をはじめとする公同の信条が言い表し、宗教改革において鮮明にされた信仰にもとづいて、次のように信じ、告白する」。この序文に続いて8項目の信仰告白がなされます。そして最後に「アーメン。」と告白し、信仰告白は閉じられます。使徒信条はもちろん皆さん良くご存知です。他に公同の信条とありますが、これはニケア信条、ニケア・コンスタンティノポリス信条、カルケドン信条、アタナシウス信条等の正統的な基本信条のことです。「信条」というのは、信仰の箇条(一つ一つの条項)、また堅く信じて守る事柄のことを言うのですが、使徒信条をはじめとするこれら公同の信条というのは、キリスト教会の長い歴史の中で起こった異端との戦いから生まれたものなのです。間違った教えがはびこるごとに、これが正統な教え、信条であるとして公布、掲げられたものです。いずれの信条も最後に「アーメン。」と告白し閉じられます。「アーメン。」、これは「そうです。そのとおりです」と言う意味であることは良くご存知かと思います。一番短い信仰告白と言っても良いでしょう。その一番短い信仰告白「アーメン。」の語源というのはヘブル語の「アーマン(אָמַן)」で、〈確固とした、しっかりした、信頼できる〉という意味を持つ語です。私たちが「アーメン。そうです。そのとおりです」と信仰告白する時、その確固とした、信頼できる信仰の上に自分自身をしっかりと立たせるという役割があるのです。創世記では「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた」(創156)というキリスト教を代表するような有名なみことばがありますが、この「信じた」が「アーマン・アーメン」です。アブラムは主を信じ、主を信じる信仰の上に自分自身をしっかりと立たせました。それで、主はアブラムを義と認められたのです。イエス様は何度も言われました。「しっかりしなさい(=安心しなさい。元気を出しなさい。勇気を出しなさい)。あなたの信仰があなたを救ったのです」。私たちが主を信じ、主への信仰を告白し、主に励まされてその上にしっかりと立たせられる時、主は力強いみわざをなさるのです。

今日の箇所には2つの奇跡物語が記されていますが、1つ目の奇跡物語では、信仰問答的色彩が濃いところだと思います。また2つ目の奇跡物語では、イエス様のなさった奇跡というよりも、奇跡に対する人々の反応の方に目が向けられています。信仰によって病を癒やされた人と、それを見てもイエス様を信じようとしない人たちが対照的に描かれています。それらを通して、イエス様の力を経験するために必要なものとはどのようなものかということを学べるのではないかと思います。

9章27節      イエスがそこから進んで行くと、目の見えない二人の人が、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。

イエス様が会堂司の家で彼の娘を生き返らせた後、そこから進んで行くと、目の見えない二人の人がついて来て、イエス様に叫びました。彼らは目が見えないので叫ぶしかありませんでした。イエス様がどこにおられるのか分かりませんでしたが、イエス様の声のする方に向かって、気配のする方に向かって叫びました。信仰とはこのようなものなのではないでしょうか。聖書はこのように言います。「信仰がなければ、神に喜ばれる(受け入れていただく)ことはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」(ヘブ116)と。

彼らは盲人でした。私たちもかつては神を知らない霊的盲人でした。そして彼らもまた中風の人や長血をわずらう女性と同じく、人々から蔑まれる人たちでした。実際この地域では厳しい暑さや砂埃、不衛生な生活環境などから失明する人が多かったようですが、盲人を取り囲む人々は、かつて神が「律法を破ってご自身に従わないなら盲人にする」というさばきをイスラエルに告げられた(申2828-29)ことを持ち出して攻撃したのです。しかしこれは文脈の中で告げられたことであり、そこだけ切り取って人を裁くものとしてはならないのです。これはみことばに対する本当の信仰でしょうか。人間とはこういうことをするのです。

盲人の二人はそのような中でイエス様に叫びました。恥ずかしくて、他人からは図々しいと思われることかもしれません。しかし、主の御前ではそうあるべきなのです。主は信じる者の求めに報いてくださる方であると信じて、切実に主に求めるべきなのです。

盲人の二人はイエス様を「ダビデの子よ」と呼んでいますが、これはイエス様がダビデの家のメシアだと考えている彼らの信仰を表しています。彼らもまたかつて神が告げられたみことばに依り頼んでいました。神がメシア救い主を世に送られること、そしてそれはダビデの子孫であること。「そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる」(イザ355)という神のみことば、約束にずっと望みを置いて来たのです。その時を信じて切実に待ち続けていたのです。彼らはパリサイ人や律法学者、祭司たちのように聖書を学んだことはありませんでした。それなのにどうしてそのような信仰に至ることができたのでしょうか。彼らは神を恐れ、伝え聞いたわずかな神のみことば、先ほどの神の約束を真実に信じたのだと思われます。それで、人々の間で噂になっていたイエス様とそのわざのことを聞いて、幼子のように「この方こそダビデの子、メシア救い主である」と受け入れたのでしょう。「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです」(ロマ1017)。他人を裁くためのみことば信仰ではなく、切実にメシアを待ち望み、救いを求め、切実に信じようとする、そのようなみことば信仰であるならば、主は喜んで受け入れてくださるのではないでしょうか。彼らは神の約束に基づいて、それを「アーメン、その通り」として、その信仰の上に自分自身をしっかりと立たせて、あきらめずイエス様についてきたのでしょう。彼らのような信仰が、イエス様の力を経験する鍵なのです。

彼らはイエス様に会わないかぎり、自分たちの病は癒やされないという切実な思いで、イエス様を「ダビデの子」と呼び、「私たちをあわれんでください」と叫びました。しかしイエス様は力あるみわざをなさる前に、それを求める人の信仰を確認されます。イエス様は求める人の信仰を見抜いておられましたが、その人自身に信仰によってみわざにあずかれることを確信させるために、その人の信仰を確認されるのです。イエス様にとって「信じる、信頼する、信仰」とはそれほど重要なものなのです。

9章28節      イエスが家に入られると、その人たちがみもとに来た。イエスが、「わたしにそれができると信じるのか」と言われると、彼らは「はい、主よ」と言った。

ちなみにイエス様が入られた家は、罪人たちと食事をしたマタイの家でした。盲人の二人はずっとイエス様について来て、主に招かれたマタイはじめ罪人が集まり飲み食いをしている家にまで入って来ました。目が見えなかったのですから、騒ぎ声を聞いて、また目が見えない故に敏感に感じ取る様々な雰囲気、注がれる視線が怖かったのではないでしょうか。しかし私は思うのです。主のあわれみを受けたマタイや罪人たちの、同じ罪人のように扱われて来た盲人に注ぐ視線は、きっとあたたかなものだったのではないだろうかと。今の教会と重なる部分があると思います。

そこでようやく、イエス様は彼らに「わたしにそれができると信じるのか」と質問されました。イエス様は盲人たちの最初の求めにはお応えにならなかったようです。しかしイエス様が何もされなくても、彼らはあきらめずにイエス様について来て、自分たちの信仰を明らかにしました。イエス様はあえて尋ねられました。あえて尋ねられたのは、彼らに信仰の重要性を認識させるためでした。イエス様は問答によって盲人たちの信仰の中身を確かめられました。イエス様の質問は、彼らから明白な信仰を引き出すためのものでもありました。そして盲人たちは明白に自分の信仰を告白しなければならなくなったのです。

「わたしにそれができると信じるのか」。イエス様が奇跡をなさる相手にどうしても求められること。イエス様の力が奇跡として個人に行われるのにどうしても必要な条件は「信仰」です。二人の盲人の「はい、主よ」。「アーメン」。単純で率直な信仰が見られます。幼子のような信仰が見られます。幼子のような信仰。それは単純で率直、けれども決して完全な信仰ではありませんでした。彼らの目は見えなかったのですが、イエス様を見上げる彼らの目(霊的な目)は、純粋で完全なものだったのではないでしょうか。彼らのイエス様を見上げる姿を想像してみてください。目が見えないのに、必死にイエス様を見ようとして、探して、耳とか全身全霊でイエス様を見上げている。私は涙がでそうなくらい感動します。ここにおられますよと言って、抱きしめたくなります。

信仰というのはイエス様の力に実際に信頼することです。信仰も、イエス様への信頼もないのでは、何かをかなえていただくことはできません。信仰がどのようなものであるかで、どう求めるかも異なってくるでしょう。「できるならば」なのか「必ずおできになります」なのか。そして、与えられるものも違ってくるのです。なぜならイエス様は「あなたの信じたとおりになれ」と命じられるのですから。私たちは神の全能の御力、しかもその全能の神が父の心をお持ちの方であることを信じているでしょうか。

9章29節      そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。

実は、信仰のないところでイエス様は力ある働きをすることがおできにならないのです。ですからイエス様にとって私たちの信仰、信頼が重要なのです。同じマタイの福音書13章58節には、イエス様が唯一お出来になれないことが記されています。それは不信仰のところでは多くの奇跡、力あるわざをなさることが出来ないということです。

「あなたがたの信仰のとおりになれ」。これはイエス様が癒しの働きをなさるために必要不可欠な条件は、その人の内の「信仰」であると強調しているのです。イエス様は彼らの目にさわり、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と告げられました。彼らが信仰によって癒やされたことが明らかに示されているところです。「わたしにそれができると信じるのか」、「はい、主よ。アーメン」。「あなたの信じるところにしっかりと立ちなさい。しっかりしなさい。安心しなさい。元気を出しなさい。勇気を出しなさい。あなたの信仰のとおりになれ。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとその時、彼らは癒やされたのです。

「信仰のとおりになれ」。「とおりに」は、「信仰に応じて」という意味です。たとえからし種ほどの信仰であっても、主はその信仰に応じてみわざをなしてくださるのです。前回も触れましたが、主はご自分に近づいて来る者たちを皆ご存知です。主は今も私たちの信仰による祈りをご存知でいてくださっています。人に明かすのもはばかれることや、理解を得られにくい苦しみも、罪の呵責も、イエス様は覚えてその思いをすべて知っていてくださる。そこで敢えて私たちに問われるのです。「わたしにそれができると信じるのか」。そして待っておられます。「はい、主よ。アーメン」という私たちの信仰告白、生きた信仰告白を。そして告げられるのです。「あなたの信じるところにしっかりと立ちなさい。しっかりしなさい。安心しなさい。元気を出しなさい。勇気を出しなさい。あなたの信仰のとおりになれ。あなたの信仰があなたを救ったのです」と。イエス様の癒やし、救い、力あるみわざには常に力あることばが発せられます。幸いなことに、今の私たちには聖書が与えられ、聖書を通して力ある主のみことばを聞くことができるのです。しかし、みことばの力は知識として知るだけでなく、二人の盲人のように人生と生活の道しるべとして、人生と生活の中で重要なところでこそ信じて、信頼して、そこにしっかりと自分自身を立たせ、従うところで経験できるのです。主の力あるみことばを信仰をもって受け入れ、今も生きておられる主の力とそのみわざを盲人たちのように経験させていただきましょう。

9章30節      すると、彼らの目が開いた。イエスは彼らに厳しく命じて、「だれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。

目が開かれた彼らに、イエス様は「癒やされたことを誰にも言ってはならない」と厳しく命じられます。このギリシヤ語は、強い感情を込めた警告を意味しています。ご自分が有名になるとメシアとしての働きに支障を来すという危機感を、イエス様は抱いておられました。しかしそんなイエス様の思いを理解できずに、彼らはイエス様のことを言い広めました。

9章31節      しかし、彼らは出て行って、その地方全体にイエスのことを言い広めた。

イエス様はこの奇跡で人々の熱狂的な期待が高まるのを避けるために、二人に沈黙を命じましたが、彼らは従いませんでした。実際、以前には盲目であった人が、自分がいやされたことを隠しておくことは困難でした。多くの人々が至るところからイエス様のもとにやって来たことでしょう。それは宣教の成功に見えます。しかし、多くの人のイエス様に対する期待が間違っていたために、宣教に悪い影響を及ぼすことになってしまい、最終的には自分たちの期待を裏切ったとして、イエス様に反対する立場に立ち、十字架に付けろと叫んだのでした。私たちは癒やされた喜び、救われた喜びを証しするべきでしょう。証しは良いことです。信仰は聞くことから始まるのですから。しかしイエス様は間違った証しを言い広めて欲しくないのです。正しくイエス様の力あるみわざ、権威、みことばを宣べ伝えることが必要なのです。正しく宣べ伝える弟子を必要としておられるのです。

9章32節      その人たちが出て行くと、見よ、人々はイエスのもとに、悪霊につかれて口のきけない人を連れて来た。

癒やされた盲人たちが家から出て行くとすぐに、人々が悪霊につかれて口のきけない人を連れて来ました。

9章33節      悪霊が追い出されると、口のきけない人がものを言うようになった。群衆は驚いて、「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」と言った。

イエス様がどのように悪霊を追い出されたのかについては何も記されていませんが、ただ「悪霊が追い出されると、口のきけない人がものを言うようになった」とだけ語られています。この出来事では、癒やしよりもそれに対する人々の反応に注目させているのでしょう。群衆の目の前でなされた盲人と口のきけない人の癒やしに対して「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」と言いました。モーセ、エリヤ、エリシャらも奇跡を行いましたが、盲人や口のきけない人を癒やしてはいません。実は盲人や口のきけない人のいやしはメシアのしるしとして旧約聖書で預言されていました。「その日、耳の聞こえない人が、書物のことばを聞き、目の見えない人の目が、暗黒と闇から物を見る」(イザ2918)。「そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ」(イザ355-6)。その日、その時と聞いて何を思い起こしますか。「その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです」(マタ2436-37)。その日、その時とはメシヤ救い主、イエス・キリストの到来の日、時です。そのメシア救い主であるイエス・キリストが今目の前に現れたと言うのです。このことを前にして反応は全く2つに分かれました。そしてやがて再び現れる日、時が来ます。終わりの時、再臨です。その日、その時もまた、人々の反応は全く2つに分かれてしまうのかもしれません。

一方の人々は、イエス様の権威、力に感心してほめたたえました。

9章34節      しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。

パリサイ人たちは目の前の事実は否定できないために、悪魔の力だと言いがかりをつけたのです。イエス様を信じて進み出ようとする人に疑いを起こさせ、その道を妨害するのです。同じ出来事を見ても、人々はイエス様の権威、力を認めて感心してほめたたえますが、パリサイ人たちは不信仰によって、イエス様の働きを悪魔的だと言ってまで否定するのです。

パリサイ人たちは癒やされた人とともにその恵み、神の救いの約束の実現を喜ぼうとしませんでした。彼らは口のきけない人を連れて来た人々よりもイエス様のことばを多く聞き、みわざを見聞きしていたはずです。それなのにイエス様に敵対して攻撃しました。彼らはずっと肉の思い、肉の目でイエス様を見ていました。肉の思い、それはガラテヤ書に列挙されている通り、敵意、争い、そねみ、党派心などです。パリサイ人たちは常にそのようなフィルターを通してイエス様を見ていた、と言いますか、フィルターを通してイエス様を上から目線で評価していたのです。「どんな罪でも赦していただけます。どれほど神を冒涜することを言っても、赦していただけます。しかし聖霊を冒涜する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます」(マコ328-29)。イエス・キリスト、聖霊を通してなされる神のわざを、気のせいだとか、思い込みだとか、悪魔のせいにしてしまうならば、神に繋がることはなくなってしまいます。救っていただくことはできません。信じずに自分から拒むのですから。私たちは決して彼らパリサイ人のようになってはならないのです。

ここで2つに分かれた反応を見たわけです。一方はイエス様の権威、力に感心してほめたたえた人々。もう一方はイエス様の権威、力を否定する人々。どちらが救われたのでしょうか。それは明らかです。両者とも救われませんでした。イエス様を否定する人はもちろんのこと、イエス様のみわざに驚き、感心し、ほめたたえた人々であっても、イエス・キリストを信じ、またイエス様の信仰問答に正しく応答できなければ救われないのです。そしてイエス様は、イエス様を信じ、たとえイエス様が何もされなくても、それでもあきらめずにイエス様について行く私たちになおも問われるのです。私たちに信仰の重要性を認識させるため、私たちの信仰の中身を確かめられるため、私たちから明白な信仰を引き出すために、信仰を問われるのです。イエス様に対する信仰、信頼がなければ、何かをかなえていただくことはできないからです。私たちのイエス様に対する信仰がどのようなものであるかによって、どう求めるかも異なってくるからです。「できるならば」「必ずおできになります」。主は常に私たちに最高で最善の恵みを与えたいと願われているからです。何よりも、すべての問題の根本である神に対する罪の赦し、それも完全な赦し、イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰による罪の赦し、神の怒りのなだめ、それによって神との幸いな関係が完全に回復するという最高最善の恵みを与えたいと願われているのです。神に対して罪を犯した者が、神の愛とあわれみ、そして信じる信仰によってのみ、恵みによって一方的に赦される。永遠のいのちが与えられ、天の御国に至るまで守られる。これほどの奇跡はあるでしょうか。その道筋にあっても、主は私たちとともにおられ、私たちの祈りをお聞きくださり、様々な奇跡をなさるのです。

「わたしにそれができると信じるのか」。イエス様が奇跡をなさる相手にどうしても求められること。イエス様の力が奇跡として個人に行われるのにどうしても必要な条件は「信仰」です。「はい、主よ」。「アーメン」。単純で率直な信仰。幼子のような信仰。それは単純で率直、けれども決して完全な信仰ではないかもしれない信仰。しかし主は、幼子のように、幼子が1ミリの疑いもなく親を信頼し親を見上げるように、イエス様を見上げるならば、主はその信仰に応じてみわざをなしてくださいます。

私たちは目の見えない者、口のきけない者かもしれません。霊的に完全に目が開かれていないでしょうし、うまく主に語ること、祈ることもできない者かもしれません。しかし主を求め、主がここにおられることを信じ、また報いてくださる方であることを信じて叫び求め続け、従い続けて行くならば、主はそこで「わたしにそれができると信じるのか」と問うてくださるでしょう。その時私たちは「はい、主よ。アーメン」と素直に応答できる者でありたいと願います。「あなたの信じるところにしっかりと立ちなさい。しっかりしなさい。安心しなさい。元気を出しなさい。勇気を出しなさい。あなたの信仰のとおりになれ。あなたの信仰があなたを救ったのです」。その時私たちは、イエス様の力を経験することになります。イエス・キリストの力を経験したいと願っても、私たちのうちに不信仰と高慢があるのでは経験できません。もしそのような罪が私たちの内にあるのならば、それらの罪を悔い改め、神のみことばに信頼してすがろうではありませんか。そして神の助けを求める者に、神はすばらしい御力をみさせてくださいます。イエス様の力は信仰を通して働くからです。主によって信仰を確かめていただき、信仰を通してなされる主の力強いみわざに与り、喜びを増し加えていただき、また信仰を強めていただいて、主の御心を正しく悟り、その御心とは「すべての人が救われて、真理を知るようになること」ですけれども、私たちはそのようにイエス様を世の人々に正しく紹介する者でありたいと思います。続く35節からは、イエス様の弟子に対する御心、また世の人々に対する御心が示されていきます。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

コメントを残す