2023年10月8日 主日礼拝「長老たち、自分たちの言い伝え。それって大丈夫?」

礼拝式順序

前奏(黙祷)
賛  美  新聖歌343「罪に満てる世界」
      讃美歌504「実れる田の面は」
招  詞  詩篇1篇1〜3節
讃  美  讃美歌7「主のみいつと」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌333「主よわれをば」
聖書朗読  マタイの福音書15章1〜20節
説  教  「長老たち、自分たちの言い伝え。それって大丈夫?」佐藤隆司牧師
讃  美  讃美歌511「みゆるしあらずば」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書15章3節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書15章1〜20節

説教題

「長老たち、自分たちの言い伝え。それって大丈夫?」

今週の聖句

そこでイエスは彼らに答えられた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。

マタイの福音書15章3節

説教「長老たち、自分たちの言い伝え。それって大丈夫?」

マタイの福音書15章1〜20節

「夜に爪を切ってはいけない」と、昔の人は言いました。ほとんどの方も聞いていると思います。私も誰からともなく聞いて、いつの間にか自分の中に当たり前のように定着しています。どれくらい前から言い伝えられてきたのでしょうか。夜に爪を切ることがどうして駄目なのかというと、「夜に爪を切ると親の死に目に会えない」からと言い伝えられています。つまり、親よりも早く死んでしまうと言うことです。夜に爪を切るということを「夜爪(よづめ)」と言い、寿命を短くすることを意味する「世詰め」との語呂合わせから早死にしてしまう、親よりも早く死んでしまうと言われているのだそうです。この言い伝えの真意は皆さんもご存知だと思いますが、かつて日本では爪切りに小刀を使っていたことが関係しています。夜の暗い部屋の中で、小さくて見えにくい爪を切るのは間違えて肉を切ってしまいそうで危ない、という警告からこの迷信が生まれたそうです。言い伝えというのは、生活に密着した命を守るための教訓、習慣、法則の一つと言えるのでしょう。神から与えられた大切ないのちを守るための言い伝え。なのでとても良いものと言えるでしょう。ところがその良いはずの言い伝えに強い拘束力と言いますか、人間的な権威が与えられると、事情は少し変わってきてしまいます。夜に爪を切ってこっぴどく叱られ、人間失格とまで責められてしまったら「なんだかなぁ」と思ってしまわないでしょうか。その代表的なものが、パリサイ人たちや律法学者たちが旧約の律法から作り、言い伝えて来たものである「口伝律法」です。彼らは律法の本来の意味から外れた多くの規定まで作り、それを守る者をきよい者と見なし、守らない者を汚れた者と見なして厳しく責めたり、排斥(好ましくないとして退けること)しました。口伝律法を守ることが宗教そのものとなってしまったのです。それは結局、罪ある人間が作ったもの。そこには人間的な自己中心的な思惑がどうしても見え隠れしているのです。私たちも自分が決めたルールに従って生きて行こうとする部分があるのではないでしょうか。自分を律してより良く生きて行こうとする。それはとても良いことです。しかし、それって本当に大丈夫ですか? パリサイ人たちや律法学者たちのように、それを守ることが宗教そのものになってしまってはいないでしょうか。またそのルールは神のルールにピッタリ合っているでしょうか。神を愛し、イエス様を愛し、また隣人を自分自身のように愛するものとなっていますか? 自分自身を愛するものとなっていますか? 今朝の箇所でイエス様はそのように私たちに問われているように思います。

15章1節      そのころ、パリサイ人たちや律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て言った。
15章2節      「なぜ、あなたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか。パンを食べるとき、手を洗っていません。」

覚えておられるでしょうか、すでに12章のところでイエス様は、ガリラヤ地方のパリサイ人と安息日について厳しい議論をかわし、その結果、彼らはイエス様をどうやって殺そうかと相談し始めました(1214)。それ以来、彼らはイエス様を監視し続けていましたが、イエス様の名声はいよいよ高まるばかり。そこにエルサレムからわざわざパリサイ人と律法学者たちが、宗教指導者を代表して田舎のガリラヤにおられたイエス様のところまで尋ねて来ました。律法学者のほとんどがパリサイ人で、彼らは旧約聖書を筆写したり、律法を解釈して教えたり、律法の実践について研究して様々な項目、注意事項を作っていました。その彼らは、はなからイエス様を排斥するために来たのです。神が与えられた律法に反しているならともなく(もちろんイエス様は律法が成就したお方ですからそんなことはありません)、彼らは神の律法をもとに自分たちが作り上げたルールに合致していないからといって、イエス様を排斥しようとしたのです。排斥です。“自分たちにとって”好ましくない(好き嫌い)として退けるのです。マルコの福音書には「イエスのもとに集まった」(マコ71)とあります。宗教的権力の中心部に絶えず聞こえて来る田舎のラビに関する報告が、彼らは気に入らなかった。それでわざわざ、はるばる田舎に集まってきたのです。多くの人々を癒やし、貧しい人に天の御国の福音を伝え、数千人を食べさせた素晴らしい栄光の主、偉大なメシアであられるイエス様に彼らが投げかけた質問は、なんと「手を洗うこと」でした。彼らの関心は神の国にはなかったのです。自分たちの注意事項を無視し、自分たちの立場を危うくする、気に入らないイエス様を攻撃し、取り除くことだけを考えていたのです。

彼らはイエス様の弟子たちが「パンを食べるとき、手を洗っていない」と指摘し、「長老たちの言い伝え」に背いていると言いました。これは衛生的な意味においてではなく、口伝律法に従った儀式的な意味においてのことです。儀式を行わないイエス一行を、彼らの伝統、正統から逸脱していると批判したのです。正統の反対語は「異端」です。長老たちの言い伝え、自分たちの口伝律法、自分ルールに背いていると、律法の主であるイエス様を攻撃し、なんと異端扱いまでして攻撃してしまうのです。

そもそも「食事の前に手を洗う」という「儀式」は、神が定められたものではありません。彼らが作り上げた儀式はこうです。食前の洗いに使う水の最小の量は、卵の殻に入るだけの水量の1.5倍。それをまず両手にかけ、指先を上に向けて、水を手首から下に落とす。次に指先を下にして反対の方向から水をかけ、最後に片手ずつ、反対の手のこぶしでこすってきよくするというもの。汚れを取り除くためにこれほどまでに複雑な儀式が定められていました。聖書のどこに定められていますか。その行為自体を神が命じられたことはないのに、彼らはそれを守らない人を厳しく罪に定めたのです。

しかし、彼らの攻撃はすぐに論破されます。

15章3節      そこでイエスは彼らに答えられた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。

イエス様は彼らの質問に返答する代わりに、なぜ「自分たちの言い伝え」のために、「神の戒め」を破るのかと問い返されます。「長老たちの言い伝え」が「自分たちの言い伝え」と言い直されているところが何か意味ありげに感じます。マルコの福音書では「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています」(マコ79)と言われています。「自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしている」。イエス様の皮肉でしょうか。

冒頭でも申しました通り、「自分たちの言い伝え」は、旧約の律法をもとに彼らによって練られ作り上げられたものです。彼らは律法の本来の意味から外れた多くの規定まで作り、それこそ「背負いきれない重荷」を負わせ、それを守る者をきよい者と見なすようになりました。このことに関してもイエス様は言われています。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない」(ルカ1146)。彼らは神のみことばに従って人々を愛するよりも、自分たちの決めたことを守ることで自らの優越性を示し、自分たちの権力維持と利益のために利用しました。それを危うくするイエス様を、彼らは攻撃し、異端扱いまでする。彼らの最大の問題は、彼らの心と生き方が律法から、神のみことばから、神から完全に逸れてしまっていたことでした。

イエス様は、そのような彼らの最大の問題について、神が与えられた真の律法の一つを取り上げ、是非(善悪)を問われます。

15章4節      神は『父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言われました。

これは神が人間に与えられた戒め、十戒の中で、人と人との間に関する戒めの最初(第5誡)に出て来る大切なものです。神の律法は「あなたの父と母を敬え」(出2117、申516)、また「父や母をののしる者は、死刑に処せられる」(出2117、レビ209)と教えています。ご承知の通りこれは、両親を心で敬うだけでなく、実質的に養いなさいという神の戒めです。

ここで思い起こされるのが、有名な千曲市に伝わる言い伝え、「姨捨伝説」ではないでしょうか。貧しさゆえの口減らしとして、制度として老人を姥捨山(冠着山)に捨てなければならなかったという言い伝えです。ある夜、若者が老いた母親を背負って山に捨てに行きました。すると後ろで枝を折る音が聞こえました。それは母親が帰り道、わが子が道に迷わないよう、目印として枝を折っていたものでした。若者は母を捨てることができず、家に連れ帰り、床下に隠したというお話し。子を思う親。その親を敬い、そして実質的に養いなさい。決して捨ててはならない。目に見える親を敬えないで、どうして目に見えない親である神を本当に、真実に敬えるでしょうか。目に見えないお方だからこそ敬えるのではないか。そう思われるなら偽善者です。偽善者とは仮面を被って演技をする者のことです。私たちの肉の親に対する態度が、そのまま私たちの神に対する態度であると今、主に問われるならば、私たちは大いに反省させられるのではないでしょうか。

15章5節      それなのに、あなたがたは言っています。『だれでも父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は神へのささげ物になります、と言う人は、
15章6節      その物をもって父を敬ってはならない』と。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまいました。

パリサイ人たちの言い伝えの規則は、「両親を敬わないことで神に仕える」と言っているのです。しかし神は、両親を敬うことと、神に仕えることを、同時に要求しているのです。

ここに示されるパリサイ人の問題は2つです。偽善、そして神のことばを勝手に解釈すること。彼らの言い伝えの規則によると「供え物」、つまり「これは神に、神殿に献げました」と言うことによって、両親への義務を逃れることができました。「供え物になった」と一度誓ったならば、それが両親を養うために必要なものであっても、その取り下げは認められませんでした。誰が認めなかったのでしょうか。結局このルールは誰のためのルールでしょうか。神のためでしょうか。そうではないでしょう。ルールを決めた人たち、神殿と神殿に仕える権力者のためのルールです。しかも、神に供え物としてささげるというのは、いかにも敬虔そうに聞こえ、立派に見えるかもしれませんが、それに隠れて両親を養う義務を怠るという不届き者さえいたのです。イエス様は、この言い伝えが「あなたの両親を心で敬うだけでなく、実質的に養いなさい」という神の戒めを破っている、また破らせていると指摘されます。

結局は、彼らの言い伝えというものは、イザヤが預言したように「口先では神を敬いながら、心は神から遠く離れていること」を示すものでした。

15章7節      偽善者たちよ、イザヤはあなたがたについて見事に預言しています。
15章8節      『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
15章9節      彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』」

本当に権威ある神の律法を無にして、偽りの権威しかない「人間の教え」である彼らの言い伝えを権威あるものとする。神と隣人とを愛するという律法を無にして、自分たちルールをもって神に逆らい、人を裁き排斥する。「口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを礼拝しても、むなしい」。神さまの悲しみが滲み出いているのではないでしょうか。神との関係は、神のみことばに忠実に応答することであって、それは私たちの心の問題なのです。心とは、自分の考えや思いや感情がとどまる所です。私たちは神のみことばを心の中でゆがめたりせず、御心を聖書から正しく読み取ってそれに従い、神に正しく仕えていかなければなりません。

15章10節    イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。
15章11節    口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。」

イエス様は、パリサイ人との論争を見ていた群衆(私たち読者?)を呼び寄せて、「聞いて悟りなさい」、つまり「わたしのことばを聞いて真理を正しく理解し、真の弟子となりなさい」と言われ、11節のみことばをもって、彼らの言い伝えを遠回しに、しかし明白に否定されました。

15章12節    そのとき、弟子たちが近寄って来てイエスに言った。「パリサイ人たちがおことばを聞いて腹を立てたのをご存じですか。」

11節のみことばを語られたところで、弟子たちが来てイエス様の話しを中断しました。パリサイ人がイエス様のことばを聞いて腹を立てているとのことでした。イエス様による「偽善者たち」という評価と「長老たちの言い伝え」に対する教えを聞いたパリサイ人たちは、悔い改めるどころが憤ったのです。ますますイエス様が気に入らなくなったのです。

イエス様は心配のあまり話しを中断する弟子たちに2つのたとえを通して、ご自身によって訪れる天の御国に彼らは入れないと言われます。

15章13節    イエスは答えられた。「わたしの天の父が植えなかった木は、すべて根こそぎにされます。

ここでは招きのことばでもお読みいただいた、詩篇1篇3節を思い起こします。「その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える」(詩13)。流れのほとりに植えられた木、これは整備された神の庭園に移植された木のことを表しています。神が選び、神がご自身の御手で神の庭園の中でその木、その人の最適な場所に移植された。庭園を流れる水。それは黙示録によると神の御座から流れでているもので、きらきらと水晶のように光輝く「いのちの水」であると言われています。そしてイエス様はこの「いのちの水」が具体的に何であるのかをヨハネの福音書で説明されています。それは「御霊」です(ヨハ738-39)。いのちの水、御霊のそばで、御霊に根を伸ばし栄養をいただく木は、豊かな御霊の実、愛の実を結ぶのです。また新改訳聖書ではイザヤ書61章3節が引かれています。そこにはこう記されています。「彼らは、義の樫の木、栄光を現す、主の植木と呼ばれる」(イザ613)。神がお選びになり、神が植えられた木というのは、置かれた場所で神のみことばに従順して、神に依り頼んで御霊の実を結び、神の栄光を表す、神を証しする者ということです。しかしそうではない木は「天の父が植えられなかった木」です。その木は、神に根を伸ばさないので、良い栄養が摂れず、良い実がならないどころか、枯れに枯れて根こそぎにされる、やがて完全に余すところなく滅んでいってしまう。イエス様は何度も、父のみことば、父のみこころを行う者だけが天の御国に入れると教えられました。パリサイ人たちは神が植えられなかった木である、人の教えに頼っていて、神の教え、神のことばによる信仰のない者たちであるとイエス様は断言しているのです。

15章14節    彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」

「彼らのことは放っておきなさい」。彼らに深く関わり、彼らのことばに従うならば、彼らもあなたも穴に落ちます。滅びに至ります。彼らのことばとは、「自分たちの言い伝えを守ることによって聖くなり、救われる」ということ。そんなことはないのです。私たちが聖くなり、救われるのは、自分の中にある罪を認めて神の前に砕かれ、悔い改め、ただイエス・キリストを信じ、すがることによって聖くされ、そして賜物として、恵みによって、受けるに値しない者にただ神の恵みによって与えられる罪の赦しと永遠のいのちをいただくことによるのです。手や足を洗う行為だけで安心と慰めを得ても、罪は一向に解決されないのです。

イエス様は言われました。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マコ115)。しかしパリサイ人たちはイザヤの時代の偽善者のように、自分たちの言い伝えだけに固執して、意図的に、しかも何度も何度も天の御国の福音、イエス・キリストによる天の御国の新しい契約を認めようとしませんでした。このように心が頑なな者たちを、神もまた、そのまま放っておかれるのです。これが神のなさる本当に厳しいさばきなのです。関わりを持たないと言われるのですから。痛い目に遭う方がまだ望みがあります。神がかかわってくださっているのですから。しかし神がもう一切関わってくださらない。その先は「穴に落ち込む」と旧約が表現する「破滅」へと至るのです。

15章15節    そこでペテロがイエスに答えた。「私たちに、そのたとえを説明してください。」

ペテロはいつものように弟子たちを代弁して言いました。弟子たちが11節のことばの意味を説明して欲しいと願ったので、イエス様は本論に戻って、真の汚れの意味について説明されます。

15章16節    イエスは言われた。「あなたがたも、まだ分からないのですか。
15章17節    口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。
15章18節    しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。
15章19節    悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。
15章20節    これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」

霊的理解力に欠けた弟子たち、また私たちは、イエス様のみことばにしっかりと聞かなければなりません。自分を知恵ある者と勘違いしてはならないのです。

パリサイ人は、イエス様の弟子たちが手を洗わないで食事をすると言ってとがめましたが、本当に汚れているのは手や食物ではなく、人間の心であるとイエス様は言われます。心が汚れているから、自分の考えや思いがとどまる所である心が汚れているから、人は殺人や姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしり、またねたみや高慢などの罪を犯すのです。真にその通りだと思わされるのではないでしょうか。心の罪を解決することで聖くなるのです。神のものとされるのです。罪に満ちたこの世にあって、罪に満ちたこの者であっても、イエス・キリストを信じ、依り頼むならば、私たちは聖なるものとされる、神のものとされる、天の御国に至るまで、神のものとして取り分けられ、守られ、養われ、導かれる幸いな者となれるのです。彼らの言い伝え、自分たちの言い伝えに従ってばかりで、イエス様を信じ従わないのでは、神の民にはなれず、故に天の御国、神の国に入れません。人間の内面的な汚れ、つまり罪を聖めることをおろそかにして、いかに宗教的な形式、儀式のようなものによるきよめを重んじても、それは無意味なのです。

人間はルールに従って生きて行こうとする存在ではないでしょうか。ルールに則って、自分自身を律してより良く生きて行こうとする。それはとても良いことです。もし自分の中に、神の律法を自分なりに解釈し、練り、作り上げ、いつの間にか自分の中に定着している言い伝え、自分ルールがあるとしたら、それ、大丈夫ですか? そう自分自身に問い直したいと思います。それは一番重要で最も良いルールである神の戒め(みことば、命令)に反するものではないですか? 神を愛し、イエス様を愛し、また隣人を自分自身のように愛するものであるかどうか。自分自身を本当に愛するものとなっているかどうか。神の栄光を表し、神を証しするものとなっているかどうか。私たちは今一度、本当は自分は何に従って生きているのかを確認してみたいと思います。自分の心を何が占領していて、何をなしているのかを、よく振り返ってみたいと思います。それは私たちの霊、魂の状態を示しており、それを通して神のみことばに対する従順が見分けられます。もしパリサイ人たちや律法学者たちのように、長老たちの言い伝え、自分たちの言い伝えのようなものを守るのことが信仰だと考えて、自己中心的な心から出る悪いものが生活ににじみでているなら、それは神ではなく自分に従っているということです。それならば直ちに悔い改めなければなりません。自分自身を引き裂いてしまうことになります。また、自分たちの言い伝えを守った彼らのもう一つの問題点は、それを守らない人々をさばいて批判し排斥したことです。たとえ良い意図で始めたことでも、本来の目的を忘れながらそれに固執すると、教会をも引き裂きかねません。自分自身と人々との関係を振り返ってみる必要があるのではないでしょうか。

自分たちの言い伝え、自分の言い伝え、それ、本当に大丈夫ですか? みせかけの偽善的な信仰、自己中心的な信仰とそこから来る様々な弊害を知り、私たちは聖霊の助けをいただきながら、神のみことば歪曲せずに、天の父のみこころを聖書から正しく読み取って、それにまっすぐ従い、神に正しく仕えてまいりましょう。神の証し人として、神に植えられた所で多くの良い実を結び、神の栄光を人々の間で表してまいりましょう。

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