2023年12月17日 主日礼拝「その日が来る前に」
礼拝式順序
賛 美 「見よ、わたしは新しいことを」
「神の国に生きる」
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇24篇7〜10節
讃 美 讃美歌21「あさ日のごとくに」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌100「いけるものすべて」
聖書朗読 マラキ書4章1〜6節
説 教 「その日が来る前に」佐藤隆司牧師
讃 美 讃美歌506「たえなる愛かな」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 マラキ書4章2節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
マラキ書4章1〜6節
説教題
「その日が来る前に」
今週の聖句
しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。
マラキ書4章2節
説教「その日が来る前に」
マラキ書4章1〜6節
アドベントも3週目を迎えました。来週はいよいよ4本目のキャンドルが灯され「その日」を迎えます。今年の残されたアドベントを味わいつつ過ごしたいと思います。
先週はマタイの福音書の前半から、私たちが本当に慰められるのは、「このような私でも主に愛されているのだ」ということを実感できる時ではないだろうか、というところを見ました。主は不信仰のゆえに恐れてひれ伏す私たちに自ら近づき、私たちに触れるために、抱きかかえて身を起こすために、抱き起こすためにはどうするでしょうか。ご自身の身を低くし、主自らひざまずいてくださるのでしょう。また、そっぽを向いて抱き起こすことはないと思います。主は私たちの顔をのぞき込むようにして、私たちを立たせてくださるお方。ここに主の深い愛を覚えるのです。その主の愛によって私たちは慰められるのです。「慰め」とはどのようなものであるか、覚えておられるでしょうか。慰めとは、大変な状況だったり、悲しんだり苦しんだりしている中で、大きく息をさせる、落ち着かせる、心の波立ちを静まらせる、大変だったねなどと労をねぎらう、大丈夫だよといたわる、そして励ますというものです。その時に私たちの目に映る主の御顔は、どのような表情をされていると思われますか。そのようなところを覚えました。
しかし、その主の深い愛を疑ってしまうのも私たちなのではないでしょうか。
また、マタイの福音書17章10節からでは、旧約聖書のマラキ書4章5〜6節の預言が引かれていました。
【マタイの福音書】
17章10節 すると、弟子たちはイエスに尋ねた。「そうすると、まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが言っているのは、どういうことなのですか。」
17章11節 イエス・キリストは答えられた。「エリヤが来て、すべてを建て直します。
17章12節 しかし、わたしはあなたがたに言います。エリヤはすでに北野です。ところが人々はエリヤを認めず、彼に対して好き勝手なことをしました。同じように人の子も、人々から苦しみを受けることになります。」
17章13節 そのとき弟子たちは、イエスが自分たちに言われたのは、バプテスマのヨハネのことだと気づいた。
ということで、本朝はマラキ書4章を見てまいりたいと思います。
このマラキ書が書かれたのは、紀元前440〜400年頃と言われています。マラキはイスラエル人がバビロン捕囚から帰還してから100年後くらいの預言者で、エルサレムに住んでだいぶ時間が経った民に対して神からのメッセージを語りました。
皆さんもすでにご承知のとおり、イスラエルの国(南ユダ王国)はバビロニアという大きな国に滅ぼされ、住んでいたイスラエルの民は無理矢理バビロンに連れて行かれ、そこで囚われの身となって70年間住まわされました。「バビロン捕囚」です。列王記の中で預言者は、国民の悲惨や王国の滅亡は、イスラエルの民が神から離れ、神の命令に背き、神以外の神を信じて生きようとしたことに対する神のさばきであると繰り返し主張しています。神のさばきというのは、人のなすがままに任せる、黙って見ている、放っておかられるというものです。しかし真実の愛と憐れみに満ちておられる神は、そのような民をいつまでも放ってはおかれませんでした。70年という長い年月はかかりましたが、しかしそれは、70年という長い間、神はずっとご自身の民を心に留めておられたということです。それでも愛しておられたということです。そしてイスラエルの民はついに故郷に帰ることが赦されたのです。それも神の不思議な導きによって。ペルシアのキュロス王が立てられ、紀元前539年、バビロニア帝国は倒されました。そしてキュロス王は、それまでの覇者のような強制移住(捕囚)などの強硬な占領政策を廃し、むしろ捕囚になっていた諸民族を帰国させ、それぞれの宗教を尊重することによって国の平穏を図る政策を採用しました。キュロス王はユダヤ人に対しては神殿の再建を許可し、バビロンの王ネブカデネザルによって奪われていた神殿の宝物も返還するように命じました。さらには、神殿再建に対して経済的な援助も約束したのです。ユダヤ人は驚いたでしょうね。「何と言うことでしょう」と。驚くばかりの恵みです。ここに全世界をご支配なさる神の、特別な愛とあわれみの御手がのべられたことは確かなのではないでしょうか。しかし何と、故郷に帰ったのはごく一部の人たちで、大部分はそのまま残留したのです。彼らは外国での生活に慣れ、生活も安定し、いまさら故国に帰りたいと願わなかったのです。神はどのように思われたのでしょうか。ここでも神の御顔の表情を想像してみると良いと思います。
故郷に帰還した人たちによって神殿は再建されました。その時の民の期待は大きく、彼らは自分たちの生活も建て直されて、かつての預言者たちが語った約束の成就(いわゆる繁栄)をみることができると思っていました。そしてメシアが来て、すべての国々の上に神の王国を建て、義と平和がもたらされるだろうと思っていました。しかし、そうはなりませんでした。神殿再建からおよそ100年、イスラエルの民は自分たちが望んでいたような結果をもたらさなかったことで失望していました。干ばつやイナゴによる被害による凶作が続き、民はとても貧しくなりました。そのような中でも一部に富む人たちはいるのです。彼らを見ると自分の利益を追求し、富むために神の律法を無視しているではありませんか。そのような人たちがますます富んでいく。神の律法を守る者が貧しくなる。おかしいではないかと。それでも神を愛し、神に期待する人たち、自らを主を恐れ主に忠実であると“自認”する人たちは、富む人たちに反感を抱きつつも、かえって神に背くような人たちの方が栄えて、人生を謳歌している結果をみていらだちを感じ、どうして自分たちは報われないのかと神を疑い、そしてどんどん無気力になっていってしまったようです。そしてそれは神への不信仰になりました。神への愛が失われてしまいました。神への礼拝は喜びでも感謝でもなくなり、形式的なものになってしまいました。形式的に礼拝はささげられていても、その心はこのようなものでした。(マラ314-15)「あなたがたは言う。『神に仕えるのは無駄だ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の得になろう。今、私たちは高ぶる者を幸せ者と言おう。悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる』と」。
神にいけにえをささげることに対しては、「見よ、なんと煩わしいことか(なんという退屈なことか、ささげることはささげるけれども、もう飽き飽きしているという意味)」と言って面倒くさがったのです。「面倒くさい、そんなことをして何になるのか」と実は思っていたのです。また、ささげものに関しては、神への愛ゆえに最上のものをお献げするはずのものが、目の見えない動物や、足がなえた物や病気の物、いらない物、余った物を神に献げたのです。
そのような人たちに、マラキは正しい答えを神から受けました。その答えとは何だったと思いますか。それは何と、(マラ12)「わたしはあなたがたを愛している」でした。礼拝もささげものも「面倒くさい、そんなことをして何になるのか」と言う者に対して、主は「わたしはあなたがたを愛している」と語られるのです。この愛を本当に信じることができるなら、彼らは慰められたことでしょう。直面している悩みや苦しみ、悲しみや苛立ちの中で一息つかせられ、「大変だったね、大丈夫だよ」との労いと励ましの御声を聞くことができたことでしょう。そこから抱きかかえられるようにして立ち上がることができたのではないでしょうか。
しかし、彼らの答えはこうでした。「どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか」(マラ12)。彼らは目の前の物質的な貧しさ、苦しい、悲しい状況を見て、神の愛を疑ったのです。「私たちは、神の愛を経験していない。あなたはあなたに忠実な私たちに対して無関心だったでしょう」と言うのです。しかし神は、無関心であるどころか、すさまじいほどの関心を持たれ、気遣っておられたのです。(イザ639)「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、担ってくださった(前訳:抱いて来られた)」。
どうして私たちは、この主の真実の愛に救われ、そして疑い、また救われ、また疑うと繰り返すのでしょう。何と信仰の薄っぺらい者たちでしょうか。
しかし、主の愛は真実の愛です。決してかわることのない愛です。昔からずっと変わることのない愛です。ご自分を侮り、疑い、文句を言い、そして罪を繰り返すような者に対して、怒りの代わりに愛をもって答えてくださる。「わたしはあなたがたを愛している」。そしてこの愛は、救い主をこの世界に遣わされることによって実際に表されたのです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハ316)。その「しるし」として、イエス・キリストは飼い葉桶の中に寝かされたのです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです」(ルカ211-12)。
神はこのような不信仰の民を叱らずに、彼らに対する「選びの愛(一方的な愛)」を告げられました。神は父のように、母のように、あわれみ深い夫のように私たちを愛されますが、その理由は神の自由な選びによるのであり、私たちが正しいからではないのです。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる」(哀322)のです。
4章1節 「見よ、その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は藁となる。迫り来るその日は彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の主は言われる──
神は「その日」に目を留めるように、注目するように、待ち望むように言われます。「その日」とは、神がメシアをこの世に遣わされる日です。それはここから400〜430年後に実現しました。イエス・キリストの初臨、ご降誕です。神はこの間ずっとご自身の民を心に留めておられました。それでも愛しておられました。神は400年もの間、無関心であるどころか、すさまじいほどの関心を持たれ、気遣っておられました。そして信仰者に対して、その日、悪を行う者は神の義によって必ず裁かれるとの将来の約束をもって慰められます。しかし神の御心は、すべての人、悪を行う者が罪を悔い改めて救われることです。
4章2節 しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。
「義の太陽」は、聖書中にここだけに出る表現です。やがて来られるメシアを例えています。それまでは暗黒の時代。このマラキの時代はそのような時代でした。そしてマラキの時代の後400年もの間、イスラエルの民にとって苦難の歴史が続きました。ユダヤ人はいくつかの民族の支配下に置かれたり、一時的に独立したこともありましたが、いよいよ新約の時代が来ようとするこの時はローマ帝国の支配下におかれ、民は圧政に苦しんでいました。その間、神のみことばは語られず、まさに暗黒の時代を過ごしたのです。その暗黒の中に、義の太陽が上る。「これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、ひと高き所から私たちに訪れ、暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く」(ルカ178-79)とザカリヤが預言したとおり、これはメシアの来臨、イエス・キリストの降誕を預言したものです。
「その翼に癒しがある」の「その翼」とは、義の太陽の翼、メシアの翼、イエス・キリストの翼、両腕です。そして聖書で「翼・両腕」は、「覆うこと」に関係しており、その人を覆い、保護し、守って、可愛がって大切に育てるという、そのような関係をあらわすのに用いられる語です。詩篇では「主はご自分の羽であなたをおおい、あなたはその翼の下に身を避ける」(詩914)と歌われています。メシア、イエス・キリストの翼、両腕、保護、愛は、「神に仕えるのは無駄だ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の得になろう。今、私たちは高ぶる者を幸せ者と言おう。悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる」(マラ314-15)そのように考えてしまう不信仰、罪を、根っこから除き癒やすものです。罪によって引き起こされる様々な悲惨や苦しみから解放することができるものです。そして「牛舎の子牛のように跳ね回る」。ある聖書学者はここを「スキップする」と訳しました。そのようなことを可能にする主の愛を前に、私たちはマラキの時代の人々のように「どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか」(マラ12)と、たとえ目の前の物質的な貧しさ、苦しい、悲しい状況を見たとしても、神の愛を疑ってはならないのです。愛を信じて受け取り、軽快にスキップする人生を歩もうではありませんか。
4章3節 あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行う日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。──万軍の主は言われる。
これも信仰者の逆転完全大勝利を比喩的に言われているところです。「あなたがたの足の下で灰となる」。ヘブル語辞典によるとその意味は、「面目を失う、恥をかく」という意味だそうです。その時、不信仰な者、神の前に高ぶる者たちは、面目を失うのです。自分たちのしてきたことは本当に間違っていた、取り返しのつかないことをしてしまったと、自分たちの不敬虔、不信仰を嘆き、敬虔な信仰者を前に恥をかくのです。信仰の勝利です。
4節からは結びとなります。マラキ書は旧約聖書の最後の書です。ですから4節からは旧約聖書全体の結びと言っても良いでしょう。
4章4節 あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を覚えよ。それは、ホレブでイスラエル全体のために、わたしが彼に命じた掟と定めである。
モーセの律法を守るようにという、全イスラエルの民を招く言葉です。神を信じ、あなたがたを真に生かす、生き生きとしたいのちをもって生かすことのできる神が与えられた律法、みことばを、恐れずに守るようにと、私たちを招く言葉です。
また、「覚えよ」というのは、「記憶しなさい」ということですが、単に律法の規定を記憶してそれを厳密に守れという命令ではありません。罪の歴史ばかりの人生であったことを心に留めなさいということでもあります。罪は何によって知るのでしょうか。律法によってです。私たちは律法を完全に守って来られたでしょうか。礼拝のはじめに罪の告白をした通り、私たちは律法を完全に守ることなどできない罪人です。しかし神は、私たちを愛するがゆえに救い主イエス・キリストをこの世に降し、私たちにお与えくださり、イエス・キリストの十字架の身代わりの死とそこからの復活によって私たちを赦してくださった。また日々赦されている。どこまでも罪人である私たちを、どこまでも愛してくださる主の愛を、私たちは忘れてはならないし、疑ってはならないのです。神の愛は新約の時代になってはじめて啓示された(現された)ものではありません。旧約聖書の最初から神の愛は語られているのです。神は聖書全体を通してご自身の愛を証明されています。私たちはこれを認めなければならないのです。そして世の人々に、未だ暗黒の中に生きている人々に、この良い知らせを宣言しなければなりません。
4章5節 見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなた方に遣わす。
何気なく通り過ぎてしまいがちですが、この5節の「見よ」は、旧約聖書で最後に現れる「見よ」です。厳粛な命令です。見よ、見続けよ。わたしを信じ、わたしの愛を信じ、待ち望みなさい。
イエス様は前回のマタイの福音書17章12節で、エリヤをバプテスマのヨハネだと特定されました。最後に神が「見よ、見続けよ、待ち望め」と言われてから400年後、それは成就しました。何度も申しますが、その間、決して神は民に対して無関心であったのではなく、すさまじいほどの関心を持たれていたのです。父が愛をもって子を訓練するように、父なる神は断腸の思いをもって、はらわたが千切れるほどのあわれみをもって、子であるイスラエルの民を訓練されたと言って良いでしょう。「どうして、どうして」と神に問い続け、それでも神を信じよう、信じたい、信じるしかない。「主よ、来てください。お救いください」と心から叫び求める、飢え渇き、心からの信頼、信仰を神は待たれるのです。その間「どうして、どうして」という叫びを、神はどのように聞かれていたのでしょうか。
その日が来る前に、神は預言者エリヤを遣わされました。「さばきの神はどこにいるのか」と言って、神に対する信仰を全く失っていた民に、礼拝やささげものに対して無気力に、なおざりになっていた民に、神はその使者を遣わされて、来るべきさばきの日のために彼らを備えられたのです。もし、そのまま、主が罪に向かい合われたならば、イスラエルの罪人たちは滅びなければならなかったでしょう。
4章6節 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」
来るべき預言者エリヤ、現れたバプテスマのヨハネの使命は、父と子という親子関係の断絶の橋渡しをすることでした。断絶というのはいわば「対話不可能」な状態ということではないでしょうか。父なる神が「愛している」と言われると、子である民は「どのようにして」と答える。マラキ書の中の人間側の発言は不信に満ちたものでした。それは神の怒りとのろいを招くようなものでさえありました。しかし、そのような者さえも愛するという神の御心。
「彼は、父の心を子に向けさせ、この心をその父に向けさせる」。仲が悪くにらみ合うのではなく、互いに相手の立場に心を向けること、つまり「愛し合う」ということでしょう。互いに愛し合うには、互いの間にある問題やわだかまりを根本から解決しなければなりません。その解決のためには、なにが原因なのか、なにがそうさせているのかを知らなければならない。知って悔い改めなければならないのです。
当時、王が来られる時には「王が来られる」と告げ知らせる使者が遣わされ、使者は同時に王が通る道の障害を取り除くのが役目でした。王が乗った馬や戦車が通れるように道を整備する。山があれば平らにし、石や岩があれば取り除く。王が通る道を作る。そのように、バプテスマのヨハネの使命は、「救い主が来られる」と世の人々に告げ知らせ、やがて来られる救い主を受け入れるように人々に心の準備をさせ、また人々の心にある障害を取り除くことでした。人々の心にある障害とは何でしょうか。それは神の愛を信じることができない、不信という罪です。大きな山、岩、つまずきの石です。バプテスマのヨハネは荒野に現れ、罪の赦しに「導く」悔い改めのバプテスマを宣べ伝えました。罪の赦しに導くのは、信仰です。神の愛を信じる信仰です。それが罪の赦しに導くのです。そして神と人との断絶を完全に回復してくださったのは、罪を赦されるのは神の愛の現れであるイエス・キリストです。神の愛、そして神の愛の表れであるイエス・キリストを信じ受け入れる者は、その足が強められ、勇気が与えられ、同じ道を通って父なる神が翼を広げるようにして両腕を力いっぱい広げ、赦しと恵みを施そうと待っておられる父のもとに行くことができるのです。
神と人、神と私たちとの間にある断絶、対話不可能が癒やされて、真の関係回復、真の対話が成立するようになるためには何が必要であるのか、教えられるのではないでしょうか。
4章1節 「見よ、その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は藁となる。迫り来るその日は彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。──万軍の主は言われる──
4章2節 しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。
「見よ、その日が来る」。悪を行う者にとってはさばきの日。神を愛する者にとっては義の太陽が上る日。「その日、主の日」。主の日はイエス・キリストの初臨(クリスマス)において成就しました。そして今、私たちはイエス・キリストの再臨を待ち望んでいます。「栄光の王が来られる。あなたがたは心の備えをしなさい。主の道の障害を取り除きなさい」。神が遣わされる使者の叫びは、今も聖書のみことばを通して私たちに届いています。私たちは主が再び来られる時を待ち望み、この声に聞き続けましょう。聖書が啓示する神の愛をどこまでも信じ、聖書が啓示する神の愛に慰められ、それでも恐れ疑ってしまう私たちを、みことばを通して私たちに触れ、抱きかかえ、しっかりと立たせてくださるイエス・キリストを見上げ続けてまいりましょう。主はどのようなお顔で皆さんを見つめておられますか。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Ⅰヨハ410)。「わたしはあなたがたを愛している」と言われる神に向かって、逆に問い返してしまうような罪深い私たちのところに、主は来てくださる。これほどの愛があるでしょうか。これが福音です。良い知らせです。神はバプテスマのヨハネを良い知らせを告げ知らせる者として遣わされたように、今、救われた罪人、日々悔い改めなければならないような私たちを遣わされます。私たちは遣わされる者としてどのような準備をし、私たちは遣わされた者として、そこで何を告げ知らせるのでしょうか。主の御顔を仰ぎ見つつ、主との対話を通して示していただきたいと思います。