2024年8月4日 主日礼拝「イエスによる最後の審判の基準とは」

礼拝式順序

賛  美  
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇23篇1〜5節
讃  美  讃美歌58「かみよみまえに」
罪の告白・赦しの宣言
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌303「めぐみのみちかい」
聖書朗読  マタイの福音書25章31〜46節
説  教  「イエスによる最後の審判の基準とは」
讃  美  讃美歌321「わが主イエスよ」
聖餐式   信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
讃  美  讃美歌207「主イエスよ、こころ」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書25章40節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書25章31〜46節

説教題

「イエスによる最後の審判の基準とは」

今週の聖句

『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』

マタイの福音書25章40節

説教「イエスによる最後の審判の基準とは」

マタイの福音書25章31〜46節

パリオリンピックが始まって1週間ほど経ちました。様々な競技で熱戦が繰り広げられています。賜物(恵まれた才能)が与えられた選手たちの活躍に皆さん感動を覚えておられることでしょう。メダルを獲得して涙する選手たち。そして惜しくもメダルを逃して涙する選手たち。私たちがその姿に感動を覚えるのは、やはり彼らの普段からの、それこそ人生をかけた涙ぐましい努力、鍛錬があったことを思ってのことではないでしょうか。彼らの健闘を称え、心から拍手を送りたいところではありますが、そこでふと思いました。オリンピックの選手に選ばれた方々というのはほんのわずかな一部の人たちで、オリンピックだけではないかもしれませんが目標を持って、上を目指し、人生をかけて努力してこられた私たちのまったく知らない実に多くの方々がおられるということ。彼らもまた同じように涙ぐましい努力、鍛錬、汗や悔し涙を流したり、多くのものを犠牲にしたりしてきたりことでしょう。それらすべて誰からも認められない、努力が足りなかったのだなどと言われることなんてあってはならないと思いますし、何らかの形で必ず報われて欲しいと、そう思わされるのです。そう思わされるのだとしたら、やはり私たちも同じように、誰からも認められないところで結構一生懸命頑張っているという思いがどこかにあるからなのかもしれません。

選手の皆さんは、与えられた賜物を用いて日々努力、鍛錬してきたわけですが、私たちも実は彼らに負けず劣らず、日々与えられている賜物を用いて努力、鍛錬しているのです。まったく目立たない、人目につかないところで、誰にも気づいてもらえないかもしれませんが、これが自分に与えられている賜物であると信じて、結構毎日頑張っているのです。クリスチャン、信仰者としてとか、性格、健康な身体、仕事、時間など、それが私に与えられている賜物なのではないかと信じて、その賜物を用いて、時には心にも身体にも鞭打ったりなどして様々に頑張っているです。正直なところ、自分の中で、また人間関係の中で色々な思いや戦いがあるでしょう。その戦いを立派に戦っている私たちこそ讃えられるべき存在です。何よりも、私たちに与えられている信仰こそ神からの賜物(賜り物)です。その信仰を働かせて日々頑張っている。そして一つ一つ小さなものかもしれませんが、信仰的勝利を積み重ねているのです。天に宝を積んでいるのです。それらすべて、天の父なる神はご存知です。私たちのこの世での健闘を、神こそご存知です。パリオリンピックでは審判による不可解な判定や誤審が多いと問題になっていますが、安心してください。イエス・キリストの審判は正しくなされ、決して不可解なところや誤審などありませんから。私たちは与えられている賜物、信仰を働かせて毎日喜んで、安心して目の前にある私が今すべきと思うことを普通にして行けば良いのです。

さて、今朝与えられておりますみことばは、良く「羊とやぎのたとえ」と言われますが、決してたとえ話ではありません。最初の部分に羊とやぎがたとえとして用いられているだけで、必ず来るイエス・キリストの再臨とさばきの場面がそのまま記されているところです。

25章31節    人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。

「人の子」であるイエス・キリストは、終わりの時に栄光を帯びて再臨されます。すべての御使いたちの賞賛、栄光、輝きの中、イエス・キリストは彼のために用意されていた栄光の王座に座ります。それは、すべての者を、それぞれの行いに応じてさばき(ジャッジ、審判、判定し)、報いられるためです。

父なる神は、御子イエス・キリストにさばきの権威を与えられます。私たちのためにいのちを捨ててまで愛し、赦し、そして私たちの人生すべてを守り導いてくださった羊飼いなるイエス様がその座に着いておられる。イエス・キリストを信じ、イエス・キリストを救い主と告白し、主を待ち望む私たちにとって、それは何と待ちに待った素晴らしい光景となるでしょうか。しかし、主に逆らう者にとっては、まったく同じ光景を見ながらも、まさにこの世の終わり、恐ろしさ半端ない光景となります。辛いことです。そしてイエス様ご自身、その日はまるで盗人が夜、突然襲ってくるように訪れると言われています。その日、その時は誰も知らないと言われています。だからあなたがたは目を覚ましていなさいと言われています。

そして、その「さばき」というのは、すべての人々を御前に集め、「より分ける」ことです。「羊を自分の右に、やぎを左に」置くものだということです。

25章32節    そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、
25章33節    羊を自分の右に、やぎを左に置きます。

その時、全世界の人々を御前に集めさばかれるのですが、ここでは羊とやぎを区別する羊飼いがたとえとして使われています。出エジプト記12章を見ると、過越の時に屠る動物は羊でもやぎでも良いと書かれています。また普段、羊は主に毛、やぎは主に乳をとるための家畜として飼われていました。それで羊とやぎは同じ群れの中に混じり合って飼われていました。しかし、何か必要な場合には、例えば正確に数を数えなければならないとか、大切な命を屠らなければならないとか、そのような時は絶対に間違いがあってはならないと、羊飼いは羊とやぎをより分けることをしていたようです。

このように聖書の世界では羊とやぎは良く似たものとされているのですが、少し疑問に思い調べて見ました。するとやはり大人になると羊とやぎは見た目も性格もまるで違ってきますが、赤ちゃんの時は本当に注意して見なければ見分けがつかないほどによく似ているのです。そして羊飼いが羊とやぎを分ける場合、羊を右に置き、やぎは左に置きました。皆さんご存知のとおり、右は左よりも貴い、価値が高い、大切、貴重な場所であると考えられていました。羊はやぎよりも価値があるとされていたのでしょうか。しかしここではそれはあまり重要ではありません。それらがきちんと区別されて、右か左かに分けられるということが重要なポイントです。このように、最後のさばきの時には、イエス様がさばきの座について、ある者を右に、ある者を左により分けるのだということが重要なポイントなのです。イエス様が再臨してさばかれる時までは、だれが再臨のためにしっかり備え、だれがそうでないのかは区別がつかない。人の目には救われたと思われる人や、自分は救われたと思って高ぶっている人も、さばきの時にイエス様の前で羊とやぎのように分けられるのだと、その中間はないのだということが、ここで言われていることなのです。これはすでにイエス様が語っておられた「麦と毒麦のたとえ」に通じるものがあります。

25章34節    それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。

右に置かれた者には、神の国(神が完全に治められる王国)に入る特権が与えられます。私たちは右に置かれる者とされていますが、是非とも最後まで右に置かれる者でありたいです。右に置かれる者とされる大前提は、イエス・キリストを救い主と信じた者であるということです。父なる神はあわれみによって、どうしても罪を犯してしまう弱い私たちの性質をご存知の上で、恵みによる救いを備えてくださいました。そのご計画、御心は天地創造のはじめからのものであり、決して変更されることも取り消されることもない神の真実の約束です。イエス・キリストを信じた者に、父なる神はすべての背きの罪を赦し、喜んで御国を与えてくださるのです。しかし、本当にイエス・キリストを信じているか否か。それが分かるのは、何とこの世でイエス・キリストに対して具体的な愛のわざをなしたか否かによって分かるのだと言われるのです。

25章35節    あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
25章36節    わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』

神の国に入れられ、御国を受け継ぐ者として選ばれたのは、イエス様が空腹であった時に食べ物を与え、渇いた時に飲ませ、旅人であった時に宿を貸し、裸の時に着る物を与え、病気であった時に案じて訪ね、牢にいた時に訪問した人でした。

25章37節    すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。
25章38節    いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。
25章39節    いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』

しかし、イエス様にそう言われても、選ばれた当の本人は少しもそれに気づきませんでした。どうして気づかなかったのでしょうか。何よりも、この場面は最後のさばきの場面ですから、彼らが恵み深い愛のわざを行ったというのは、すでにイエス様が天に昇られた後の出来事です。ですから当然、彼らはイエス様にして差し上げたなどとは微塵も思っていなかったのでしょう。彼らは主のためにしたつもりでは全くなかったのです。それはつまり、直接主に認められるために、自分が救われるために特別にした行為ではなかったということ。計算してする行いではなく、当たり前の愛の行為として彼らの世話をしたということです。また、彼らの言葉から、自分がいつ誰にどのようなあわれみを施したのかも覚えていないほどに、彼らにとっては当たり前の愛の行為であったともとれます。計算なしの偽善的てはない善い行い、日常的、当たり前の愛の行為。これこそ彼らが罪赦され、神との平和をいただき、神に愛され、日々神に満たされ養われていることを知る、救われた真の弟子であることの表れでしょう。ですから彼らは6つの恵み深い行為を行ったことで正しい人になったのではありません。善い行いは、イエス様の弟子のアイデンティティであり、ライフスタイルだということです。

日常の中で無意識に、周囲の人々に対して愛の行為、偽善的ではない計算なしの善い行いをすること。私たちはそれを当たり前のようにして行きたいものですが、しかしここから、イエス様はもっと緊迫感をもって弟子たちに迫っておられるようです。ご自身がこの世を去られる日が数日後に迫り、弟子たちに福音宣教のわざを委ねられる主が緊迫感をもって弟子たちに語られるのです。そして終わりの時、イエス様の再臨の時が間近に迫り、福音宣教のわざが委ねられている私たちに語っておられるのです。

25章40節    すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』

彼らがあわれみを施した対象は、ただかわいそうな人ではなく、イエス様の弟子たちでした。イエス様は「最も小さい者」とご自分を同一視されています。使徒の働きの中でイエス様は、当時サウロと呼ばれたパウロに言いました。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」。サウロが「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えられました(使94-5)。イエス様が言われる「これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人」というのは、信仰のゆえに、また福音宣教のわざの中で迫害を受けている兄弟たちのことです。福音宣教が委ねられているイエス様の真の弟子であるならば、特に終わりの時には多くの苦難に直面するのです。しているのです。空腹であったり、喉ばかりでなく「魂」もカラカラに渇いていたり。また家がない、着る物がない、孤独、牢に入れられる。そういったことは日本ではあまり考えられないかもしれませんが、迫害の激しい国では実際に起こっていることです。それどころか命さえ奪われています。

もしかしたら私たちは、イエス様が私たちの目の前に現れて、空腹なので何か食べさせて欲しいと言われたら、自分が食べずともイエス様に差し上げるのかもしれません。しかしイエス様が迫害され目の前で牢に入れられたらどうでしょう。目の前で不当な裁判を受けておられたら。むち打たれ、殺されそうになっていたらどうでしょう。あの一番弟子のペテロでさえ、ここからわずか数日後に「イエス? そんな者は知らない」と人々の前で否んでしまったのです。裏切ったのです。自分も同じように迫害されては困ると。ならばなおのこと、同じ信仰と、福音宣教のわざの中で、私たちの目の前で迫害されている兄弟であったらどうでしょう。「目を覚ましていなさい」と言われるイエス様のみことばに、私たちは本当に考えさせられるのではないでしょうか。

しかし、何度か申し上げているとおり、迫害というのは命を落とすほどの迫害のことばかりを言うのではありません。信仰があるゆえの生き難さ。それもまた迫害です。信仰があるゆえの生き難さ、苦難を覚える主にある兄弟姉妹を真実に愛し、実際に手を差し伸べたり言葉で励ましたり。それも何かを期待してではなく、自分が救われるためではなく、ただ真実に主を愛し、主を愛するがゆえに兄弟を愛し、純粋な愛による善い行い、あわれみを施す。大小関係なく。この世の日常生活において、大小関係なく、すべてイエス様に対してするのと同じ気持ちで、当たり前のこととしてできる人は本当に幸いです。そしてどんなことでもイエス様に対してするのと同じ気持ちで、当たり前のこととしてしなさいと主は言われるのです。「人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい」(エペ67)と。「ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい」(コロ317)と言われるのです。

25章41節    それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。
25章42節    おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、
25章43節    わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』
25章44節    すると、彼らも答えます。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
25章45節    すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』
25章46節    こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」

王であり、さばき主であるイエス様の左側にいる者たちは、イエス様から離れて、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入る、のろわれた者どもとされます。その理由は、右側にいる者たち、正しい人たちが行った6つの行為をしなかったからです。彼らも正しい人たちと同じように、「いつ私たちは」主をお世話しなかったのかと質問しました。彼らも日常の中で無意識にあわれみを施さなかったということです。彼らに憐れみの心がなかったということです。神に愛され、罪赦され、日々必要が満たされ、守られ導かれ、神のあわれみによって生かされている彼らが、他人にはあわれみを施さなかった。主に愛されていると言いながら、主を信じていると言いながら、愛の実践がない者たち。兄弟をないがしろにしたり、淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類いのものに日常的に、無意識にふける者たち。つまり偽善者たち。このような者たちは神の国を相続できないと、聖書ははっきりと言います(ガラ519-21)。イエス様は最後まで偽善者(うわべだけの信仰、人に見せる演技のような信仰)には本当に厳しい態度をとられます。

それとは対照的に、神の賜物である信仰を働かせ、御霊の実を結んで行く者。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実をどんどん結んで行って、その実をもって日常生活を送る者たちに、最終的で最大で最善の賜物、神の国が与えられます。神は喜んで与えてくださいます。神はすべてをご存知です。

イエス・キリストは、見返りなどまるで期待できない私たち一人ひとりのために、見返りなどまるで求めずに自らのいのちを献げてくださいました。本当の愛とはそのようなものです。本当の愛を受けた私たちは、本当の愛で応えなければなりません。しかし神を愛するとは、宗教的熱心なのではありません。自然と心の奥底からその愛に応えたいと願うものでしょう。私たちが礼拝に来る理由は何でしょうか。自分が救われるためですか。そうではないでしょう。私たちを愛してくださる神を愛しているからではないでしょうか。世の中の牧師や宣教師が、自分が救われるために献身したのだとしたらどうでしょう。最悪です。私たちのすべての献身は、やはり神の愛と赦しに応えたい、応えて神と人とに仕えたいという思いであるはずです。

イエス・キリストは終わりの日に再臨され、さばきの座につかれると、羊とやぎをより分けるようにすべての人を分けられます。さばきの座の前で、人はそれぞれ自分が人生で成してきた特別と思われる功績を並べ立てることでしょう。あんな凄いことをしたとか、こんな立派なことをしたとか、オリンピックで金メダルをとったとか。あるいは信仰者でさえも大きな教会を建てた、主の御名によって預言をした、悪霊を追い出したとか、そう言って自分は救われて当然だと主張するかもしれません。そのような人たちは、自分たちの特別な業績や宗教的熱心に主が報いてくださると思っているのです。しかしさばき主であるイエス様の考えと、彼らの考えは全く違っているのです。イエス様が目を留められるのは、本当に神を愛し、愛しているからこそ神のみことばに従って主にある兄弟を、さらには隣人を真実に愛しているかです。その具体的な表れが、日常生活における計算なしの善い行いとなるのです。その実を見て分かるのです。イエス様は私たちの神への愛は、兄弟愛、さらには隣人愛という実を結び、その愛の実践が神への愛の証しであるという霊的原理を語っておられます。そして神はその実をならせるすべての課程、どんなに小さなことであっても、私たちが私たちに与えられている賜物を働かせ、信仰を働かせ、どんなに小さなことであっても一つ一つ成して行くすべての行いをご存知です。計算なしの善い行い。簡単そうで難しいものでしょう。でも私たちは主の愛に応えようと、努力しているのではないでしょうか。頑張っていると言いたくはないですが、実際頑張っているのではないでしょうか。信仰を働かせている、賜物を働かせているのではないでしょうか。しかしあくまで計算によるものではない。神の愛に応えたいのだという御心にかなったそのすべての努力や行いに、人目につかないかもしれない私たちの健闘に、主は必ず報いてくださいます。誤審はありません。御使いとともに拍手喝采、健闘を称えてくださいます。そして金メダルどころではない、素晴らしい御国を受け継がせてくださいます。私たちは与えられている賜物、信仰を働かせて毎日喜んで、安心して目の前にある私がすべきことと思うことを、これからも続けてしていけば良いのです。そしてその戦いや奮闘の中で、さらに神の私たちに対する愛を知っていくということもあるのです。

イエス様が今日、しかも終わりの時である今、私たちに求められる信仰は、頭の中で考えるだけの信仰ではなく、日常生活において具体的に実践される信仰です。そしてそれは愛のわざ、計算なしの善い行いです。ヤコブは言います。「信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです」(ヤコ217)と。「ああ愚かな人よ。あなたは、行いのない信仰が無益なことを知りたいのですか」(ヤコ220)と。しかしその行いは、決して救われるための計算によってなされるものではなく、神に愛された者、神に愛されている者、神に罪赦され救われた者がする、その応答としての行いです。信仰は生き方に表れます。今日の35〜36節のような行いがないのは、信仰がないということです。私たちは今一度、本当に神を愛し、神のみことばに従って真実に兄弟を、隣人を愛しているか、神のみことばの前で自分自身を見つめ直してみたいと思います。そしてここからまた、主の愛を知り、主の愛に応える者とされてまいりましょう。イエス様が再臨される時まで、あるいは私たちが世を去る時まで、私たちは思いっ切り主に愛され、愛されていることを日々知って行き、励まされて、聖霊を通して力を与えられて、すべてをご存知で、すべてに報いてくださる主を信じる信仰によって、安心して、委ねて、真実に神を愛し、兄弟、隣人を愛して、その真実の愛を、計算なしの愛を実践して歩んでまいりましょう。すべてのことを見られご存知で、すべてのことに報いてくださる父なる神は、すでにもの凄いご褒美を用意して待っておられます。

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