2024年8月11日 主日礼拝「最後まで主に仕え、いのちの道を行こう」

礼拝式順序

賛  美  新聖歌196「祈れ物事」
      新聖歌21「輝く日を仰ぐとき」
前奏(黙祷)
招  詞  詩篇50篇1〜15節
讃  美  讃美歌66「聖なる、聖なる」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白  讃美歌566「使徒信条」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
祈  祷  
讃  美  讃美歌391「ナルドの壺」
聖書朗読  マタイの福音書26章1〜16節
説  教  「最後まで主に仕え、いのちの道を行こう」
讃  美  讃美歌338「主よ、おわりまで」
献  金  讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報  告
今週の聖句 マタイの福音書26章13節
頌  栄  讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

マタイの福音書26章1〜16節

説教題

「最後まで主に仕え、いのちの道を行こう」

今週の聖句

「まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

マタイの福音書26章13節

説教「最後まで主に仕え、いのちの道を行こう」

マタイの福音書26章1〜16節

もし、私たちがこの地上における生涯があと2日であると分かっていたら、その2日間をどのような思いで過ごすでしょうか。感謝、喜び、悲しみ、後悔、もしかしたら怒り、それも主に対する怒りかもしれません。「主よ、どうして」と。色々な思いがこみ上げてくることでしょう。しかし最後には、そういったことを超えて、イエス・キリストを信じて罪の解決がなされ、永遠のいのちをいただいている信仰者にしか得られない心の平安があって、その真の平安の中で主の御許へと召されて行くという生きた証しを、私たちは幾度となく目にしてきました。終わりまで主を信じ仕える人生。本当に幸いなことと思います。そしてそのいのちは永遠となるのです。私たちが永遠を過ごす場所を決めるのは、この世での生き方です。この世での人生が終わるその時、どのように生きているかで決まるのです。

マタイの福音書はいよいよ26章に入り、イエス様の地上における生涯の終わりが近づいてきました。残りあと2日です。イエス様はこの章で取り扱われている2日間をどのような思いで過ごしたのでしょうか。

26章1節      イエスはこれらのことばをすべて語り終えると、弟子たちに言われた。

愛し期待する弟子たちを世に残して行くという様々な思いがあったのでしょう。イエス様はすべてを語られました。愛を語られました。直前の25章では、その愛をもって弟子たちに終末についての教えを語り終えました。終わりの日と、その日のさばきが何によって決められるのかも説明されました。イエス様は、そのさばきは何によって決められると説明されたでしょうか。それはイエス・キリストを信じているか信じていないかです。そして本当に信じているか信じていないかが分かるのは、実際に神を愛し、兄弟や隣人を愛する自発的な良い行いによって分かるのだと。神を愛し、兄弟隣人を愛する自発的な良い行いがないのは偽善者であると。その自発的な行いも自分が救われるために計算されて行われるようなものであるならば、それは偽善であると。イエス様は偽善者に対する厳しいさばきがあることを何度も繰り返して語られました。わたしの愛するあなたがたは、何としてもこの世の栄光ではなく、天の御国を受け継ぐようにと、そのために必要なことすべてを語り終えたのです。そして人が天の御国を受け継ぐための最も重要な、ご自身の十字架の苦難と死についても語られます。

26章2節      「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」

イエス様は、いよいよあと2日するとご自分は捕らえられ、十字架につけられて殺されると予告しました。このいわゆる「受難予告」は、今回4回目であり、また最後となる受難予告でした。そして「人の子は十字架につけられるために『引き渡されます』」と。「引き渡される」という語は、他に「売り渡される、裏切られる」という意味をも持つ語です。そしてその語の持つ意味の通りのことがこれから実際に起こっていきます。

そして聖書はここから、イエス様のそばにいた人々の思いが、イエス様の苦難と死を前にして恐ろしいほどに明らかになっていく姿を記すのです。その姿を、弟子の中の1人であるイスカリオテのユダをその代表的な人物として描くのです。世にはうわべでは聖く良い行いをしていても、内側では貪欲を求めている偽善的な人がいる。イエス様は弟子たちはじめご自身のそばにいる人々すべてを愛するがゆえに、遠慮なくそう言われるのです。1人1人の心に切り込むのです。そして今日の箇所には、彼らとは全く対照的なある女の人も登場します。私たちは今日の箇所に登場する全く対照的な彼らの人生から教えを得て、偽善や貪欲を徹底的に捨て、いのちの道を歩めるように祈り求めつつ、みことばに聞きたいと思います。

26章3節      そのころ、祭司長たちや民の長老たちはカヤパという大祭司の邸宅に集まり、
26章4節      イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。

イエス様が4回目にして最後の受難予告をされていた時を同じくして、なんと最高法院の中でも影響力を持つ者たちが大祭司の家の庭に集まり、半ば公式の小委員会を開き、イエス様を騙して捕らえ、殺そうと相談していました。しかしこんなことも話し合っていました。

26章5節      彼らは、「祭りの間はやめておこう。民の間に騒ぎが起こるといけない」と話していた。

イエス様がエルサレムにいる今がチャンスだと考える一方で、祭りで大勢の人々で賑わうエルサレムで暴動がおこってしまうかもしれない。なぜなら大勢の者がイエス様をメシアと期待してエルサレムに迎えているのだから。暴動が起こってしまうとローマ人がやって来て、自分たちの土地も国民も取り上げてしまうだろう。自分たちが握りしめている権力や富が奪われてしまっては困る。自分の利権に捕らわれている腐った政治です。結局祭司長たちや民の長老たちは、イエス様を祭りの日に取り除くことは決して簡単ではないことを確認し合い「祭りの間はやめておこう」という結論を出しました。神の御心を祈り求めるべき民の代表者たちが、皮肉にも神の御心に反した結論を出してしまった。この時点ではイエス様の予告(神の御心)と指導者たちの計画は違っていたのです。つまりイエス・キリストの十字架の死は、人の思いや計画、策略などによるものではなく、神による、完全に神の御心、神の天地創造の初めからのご計画によるものであったということです。そしてそれは必ずその通りに成就するのです。人の心には思いつかないような方法、人の目には不思議と思われる方法によってです。完全に人間の知恵や力によるものではないということを分からせるためです。

26章6節      さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、
26章7節      ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。

イエス様は過越の週に、ベタニアというエルサレムから約3.2㎞ほど離れた町にある、ツァラアトに冒された人シモンの家に泊まりました。そこはイエス様を排除しようとする殺気立ったエルサレムとは打って変わって、イエス様にとっては本当に心の安まる憩いの場であったことでしょう。そしてそこで、美しい光景が1人の女性によって展開します。イエス様への香油注ぎ、イエス様に献身する光景です。

シモンという人が患ったツァラアトは、恐らくすでにイエス様によって癒やされており、イエス様とシモンとはその時から知り合いだったのかもしれません。また、ヨハネはあのマルタとマリア、それとイエス様によってよみがえらされたラザロの家が「ベタニア」にあったと記しており、このシモンは彼女たちの父親で、この家がマルタとマリアが住んでいた家だとする見方もあるようです。もしそうだとするなら、自分はツァラアトが癒やされ、息子ラザロはよみがえらされ、それはもう一家揃って、何よりもイエス様を最優先して大歓迎することは当然のように思います。すると「ある女の人」というのは、ヨハネが記しているマリアとなります。しかしマタイとマルコは「ある女の人がイエスの頭に香油を注いだ」と記し、ヨハネは「マリアがイエス様の足に香油を塗り、自分の髪の毛で拭った」と記しています。実際はどうなのでしょう。頭のてっぺんから足のつま先まで香油を塗ったということかもしれません。いずれにしても、香油を塗るというのは客に対するもてなしとしては珍しいことではなかったようです。しかしとても高価な物を注いだという彼女の行為は、それはそれは特別な献身、イエス様に対する最大限の愛の表現と言えるでしょう。

もう少し申し上げますと、ヨハネはこの香油は「ナルドの香油」で、非常に貴重で高価なものであったと言っています。そして注がれたのは1リトラ(約300㎖)であり、マルコによるとそれは300デナリ以上で売れる高価なものでした。イエス様に対する献身、また愛の表現というのは、決して有り余った物の中から献げるものではなく、彼女のように本当に痛みを覚えるものであるべきことを教えられます。そこに偽善はありません。そしてイエス様はそれを本当に喜ばれるのです。ところが、弟子たちはイエス様に対するその行為を見て憤慨するのです。無駄なことだと言うのです。相手の言動に過剰に反応して怒るというのは、大体自分自身に何か負い目のようなものを感じている時です。責められたくないという思いが隠れているものです。自分こそが正しい、偉いのだとしたい思いがあるのです。

26章8節      弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんな無駄なことをするのか。
26章9節      この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」

ほとんどが貧しい家の出身で、質素な生活をしてきた弟子たち。イエス様に従っていけば、そのような生活から抜け出せる。そんな計算がどこかにあったのかもしれません。そのようなメシア観を持っていた彼らでしたから。

「憤慨して」というのは、文法的には「憤慨してきて」となっています。弟子たちは彼女のその行為を見ているうちに、だんだんと腹が立ってきたのです。その弟子たちの目には彼女の行為は無駄と映ってしまいました。そしてそこに込められた深い意味を悟れなかったのです。

ヨハネは、その憤慨する弟子たちの中心がイスカリオテのユダであったことを明らかにしています。このように記しています。「弟子の1人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。『どうして、この香油を300デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。』彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった」(ヨハ124-6)。ユダは一行の金入れを預かっていました。人々の献金、イエス様に従って来た人たちの中には裕福な家の主人や婦人がいたようで、そういった人たちからの献金はじめ、貧しい人たちからも献げられた献金で活動が支えられていたというところがあったようですが、それらは1度ユダにすべて預けられていたのでしょう。ユダは「盗人であった」とヨハネは言っていますが、盗人という語は「したたか、くせ者」という意味もあります。ユダの計算高い一面が見え隠れしています。そしてユダは女の人の惜しみない献身に敏感に反応しました。だんだんとむかっ腹が立ってきました。ユダが女の人を責めたのは、貧しい人たちのことを思ってではありませんでした。女の人の愛する主イエス様に対する惜しみない献身は、イエス様を通して高い地位や利益を得ようとする弟子たち、特にユダとは実に対照的だったのです。それでむかっ腹が立ってきたのです。うわべではもっともな理由を言って義人のふりをし、心では自分の欲を追求するという偽善。密かに感じる純粋で美しい献身、奉仕に対する負い目のようなもの。それで過剰反応してしまう。私たちもユダのような貪欲を追求する偽善的な信仰に警戒しなければなりません。貪欲、偽善、怒り。そこにサタンはこっそり忍び込んでくるのです。進むべき道を誤らせ、滅びに至らせようとするのです。

26章10節    イエスはこれを知って彼らに言われた。「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。

彼らのことばは、女の人の心をえぐったことでしょう。言いようもない悲しみ、恐怖、色々な思いが湧いてきたのではないでしょうか。弟子たちはイエス様の弟子であることを理由に高ぶっていたのか、人の心が傷つくことに対して鈍感になっていたのか。しかしイエス様はそれを察知して女の人をかばい、守り、彼らに言われました。「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました」と。

女の人は、愛する主イエス様が十字架につけられて死ぬことを信じ、その時を前にしていた愛する主イエス様のために今自分にできることを考え、そして最大限の、考えられる、行える最善の献身をしたのです。イエス様は女の人のその行為と心を「良いこと」と言われました。この「良い」というのは、神が天地を創造され、そのすべてをご覧になって「良い」と言われた「良い」です。また「すべて時にかなって美しい」の「美しい」と同じ語です。神の目に、御心にかなったというものです。イエス様は女の人の行動と奉仕に大きな慰めを受け、女の人が良いこと、美しいこと、御心にかなったことをしてくれた、わたしが喜ぶことをしてくれたと称賛されました。

26章11節    貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。
26章12節    この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。

イエス様は貧しい人々を心にかけていなかったわけではありません。これは貧しい人々に施しをしないでも良いという意味ではありません。施しは律法でも定められている必要なこと、価値あること、神を愛するならば自発的に計算なしで守るであろうものです。神を愛する者であるならば、いつでも施す機会があるのです。

イエス様はつい先ほど、4度目にして最後の「受難予告」をされました。弟子たちがそれをしっかりと受けとめていたら、女の人の行為が良い、美しい、御心にかなったものであったことが分かったはずです。それがイエス様の十字架の死の備えであることが悟れたはずです。イエス様が十字架で死なれ、この世を去る時が2日後に迫り、今しかない、この時を逃したら2度とその機会はない、イエス様に油を注ぎ、イエス様を御国の王、そして救い主と認め告白し、イエス様に献身を表す機会はこの時を逃したら2度と来ない。しかし彼らの目は貪欲で曇り、それが分からなかった。目の前にそのお方がいるというのに、機会を逸してしまった。本当に残念なことです。

しかし皆さん、悲しむことはありません。イエス様はよみがえってくださいました。今も生きておられます。そして何度も悔い改めと献身の機会をペテロに、また弟子たちに与えてくださいましたし、私たちに与えてくださっています。本当に感謝なことです。だからと言って決心を先延ばしにして良いということではありません。イエス様が再び来られる、それがいつかは分からない。盗人のように来られる。人の死もいつ訪れるか分からない。その時が来てしまってからでは遅いのですから。

26章13節    まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

イエス様はご自身の死によってすべてが終わるのではなく、その死によってなされる救いの福音が世界中に宣べ伝えられ始めることを、この中で告げておられます。イエス様は弟子たちに対し、世界中のどこででも、福音が語られる所では、この女の人のしたことが語られるようになると言われました。なんと幸いなことでしょうか。私たちもこの女の人のような素晴らしい記念となる人生を歩みたいと思われないでしょうか。しかし、福音とともに全世界に不名誉が語られてしまうことになる者が、イエス様の弟子たちの中にいました。

26章14節    そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、

イスカリオテのユダ。「イスカリオテ」とは「ケリオテの人」という意味です。ケリオテというのは地名で、その地はユダヤにありました。イエス様の時代には、ガリラヤには異邦人もユダヤ人も混在していました。その上、そこに住むユダヤ人は、エルサレムとは異なる風習があるとして、ユダヤ人からは「ガリラヤのユダヤ人」として軽くと言いますか、馬鹿にされたように扱われていました。そしてイスカリオテのユダ以外の弟子たちはそのガリラヤの出身でした。他の弟子たちをどこかで見下し、それなのにガリラヤ出身の弟子たちばかりがイエス様に重い地位に取り立てられていて用いられ活躍しているではないか。自分は認めてもらえない。そのような不満や嫉妬があり、イエス様と弟子たちとともに歩む中でその不満が益々大きくなっていってしまったのでしょう。他にも、ユダは、イエス様がその大きな力でこの世の権力と富を手に入れた場合には、自分もそれに与って自分の欲を満たせると思い、イエス様に従っていました。しかしイエス様の受難予告と女の人の行動、そして、その女の人に対するイエス様の反応を見ながら、「その時」が近づきつつあると感じたようです。もはやイエス様には利益も権力も期待できないと決断するその時。貪欲に囚われている人というのは、そういうところには敏感なのです。

またユダは熱心党員でしたから、なかなか軍事的・政治的メシアとして旗揚げしないイエス様に嫌気が差したのか、懐疑心を抱いたのか。彼は偽メシアだ、だから当局に渡さなければならないと考えたか。単純に自分にとって損か得かで考え裏切ったのか。聖書にはユダがイエス様を裏切った理由がはっきりと記されていませんが、なおのこと私たちにも自分のことのように考えさせられるところがあるのではないかと思わされます。私たちの心の内にも、自分を正当化し、イエス様を裏切ろうとする色々な理由があるのかもしれません。「その時」が近づきつつあるのかもしれません。目を覚ましていないといけません。

ユダは確信してイエス様の敵の所に行って取り引きを持ちかけました。1〜2節にあるように、そこでは祭司長たちが集まってイエス様を殺すための策を練っていました。

26章15節    こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。

つい先ほど、最高法院の主要メンバーが大祭司の家の庭に集まり、イエスを騙して捕らえ、殺そうと相談していました。しかしそんなことをしたら、祭りで大勢の人々で賑わうエルサレムで暴動がおこってしまうかもしれない。自分たちが握りしめている権力や富が奪われてしまっては困る。「祭りの間はやめておこう」という結論を出したその時、彼らの前に弟子の1人であるユダが現れました。彼の方から申し出るのです。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう」。先ほども申しましたが、「引き渡す」という語は、他に「売り渡す、裏切る」という意味をも持つ語です。彼らは絶好の機会が訪れたと思ったことでしょう。弟子のユダの手引きで、ひっそりと、密かに、そして素速くイエス様を処刑することができる。それは実際に、イエス様と弟子たちだけがいた夜の山中で成功することになるのです。

金の欲に目がくらんでいたユダは、イエス様を裏切って祭司長たちに売り渡す交渉をしました。「銀貨30枚」で祭司長たちに引き渡す(売り渡す、裏切る)ことに合意しました。これはシェケル銀貨で、1シェケルは4デナリということですから120デナリ、今で言うならざっくり120万円。人1人の命が120デナリとは、信じられない安さです。しかしユダはそれに合意してしまうのです。信じられないことをしてしまうのです。あの女の人が300デナリもする香油をイエス様に献げたのに対して、ユダはその半額にも満たない120デナリのためにイエス様を引き渡してしまった。どれだけイエス様に対して、密かに心に悪い思い、裏切られたという思い、恨み、憎しみ、嫌悪感などが満ちていたのかと考えさせられます。イエス様に対する誤解というのは本当に恐ろしい結果をもたらすのです。イエス様に対して誤解することのないようにするにはどうしたら良いのでしょうか。心を聖くしていただき、恵みを数え感謝し、神が私たちのうわべだけを見られないのと同じように、私たちも主のうわべだけを見るのではなく、本当の御心を訪ね求め、たとえ今は苦しい、悲しいとしても、それらを通しても神の栄光が現されるようにといつも信じて祈り求めるべきなのではないでしょうか。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられること、神が良し、美しい、御心にかなったこととして求めておられることです。…あらゆる形の悪から離れなさい」(Ⅰテサ516-22)。

26章16節    そのときから、ユダはイエスを引き渡す(裏切る)機会を狙っていた。

まさに、彼の心にはっきりと「サタンがはいった」としか考えられません。人間がサタンの思いのままに動かされるとは実に恐ろしいことです。信じられない、常識外れなことまでしてしまうのです。そしてユダに対してサタンは、いつからなのか、彼の貪欲、偽善、そしてイエス様に対する疑いや怒りを通して、アダムとエバの時のようにひっそりと、こっそりと忍び込み、そしてはびこって行ったのです。そして彼はそのときから、常にイエス様を引き渡す(売り渡す、裏切る)機会を狙っていました。それははじめからサタンが導く滅びに至る道でした。

パウロは貪りについて、口にすることさえしてはならないと言っています(エペ53)。また、貪欲が偶像礼拝だと罪に定めています(コロ35)。

弟子たちが貪欲で霊的な暗闇に陥っていたのとは対照的に、女の人はイエス様に献身しました。たくさんの受けた恵みを数え、覚え、感謝していたからでしょう。多くを得ようとした者は何も得ずに、自分を差し出して献身した者は全世界に仕えられる福音に付き添うという光栄に与りました。わたしたちはどのような人生を生き、どちらの側に立ちたいでしょうか。それが今日ここで問われていると思います。私たちは十字架で死なれ、そしてよみがえられた主の愛に応えるように、汚れた貪欲を捨て、ただ主を信じて従い、純粋で正しい信仰によって歩み、永遠のいのちに至る道を行かなければなりません。それが私たちがすべき「良い」「美しい」「神の御心にかなった」永遠のいのちの道を歩くこととなるのです。「あなたはいのちを選びなさい」。十字架に架けられ死なれよみがえられたイエス・キリストが、釘跡が残る両手を広げて今日も私たちに問いかけておられます。

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