2025年11月9日 主日礼拝「1万のことばより5つのことば」
賛 美 新聖歌281「疑い憂いに」
新聖歌282「見ゆるところによらず」
前奏(黙祷)
招 詞 詩篇148篇
讃 美 讃美歌75「ものみなこぞりて」
罪の告白・赦しの宣言
信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
讃 美 讃美歌187「主よいのちの」
聖書朗読 コリント人への手紙 第一 14章13〜25節
説 教 「1万のことばより5つのことば」
讃 美 讃美歌224「勝利の主」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 コリント人への手紙第一 14章19節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
コリント人への手紙 第一 14章13〜25節
説教題
「1万のことばより5つのことば」
今週の聖句
しかし教会では、異言で一万のことばを語るよりむしろ、ほかの人たちにも教えるために、私の知性で五つのことばを語りたいと思います。
コリント人への手紙第一13章13節
「1万のことばより5つのことば」
コリント人への手紙 第一 14章13〜25節
信仰とは基本的に理性的である——
皆さんはどのような順序を踏んで信仰を持つに至ったでしょうか。キリストの教えとか聖書とか教会とかとはまるで無縁であった自分が、ある朝突然、一瞬にして訳も分からずに自分は成熟したクリスチャンになっていた。そんなことはないですよね。ところが、もしかしたら私たちは、自分がそのような経験をしていないのにもかかわらず、世の隣人やまだ信仰に至っていない家族等にそのような奇跡的な変貌を期待したり求めたりしてはいないでしょうか。
私たちの信仰を持つに至った経緯を改めて振り返ってみるならば、このような順序があったのではないでしょうか。
①情報を得る
②見聞きして得た情報や内容を元に物事を理解し、考え、判断し、納得をした。
③そこに聖霊が働かれた
ルカの福音書14章28〜30節を開いてください。これは教会不動産取得のためのアンケートにも引用したみことばですが、「あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。計算しないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人たちはみなその人を嘲って、『この人は建て始めたのに、完成できなかった』と言うでしょう」(ルカ1428-30)。イエス様はなぜこのような信仰とは真逆とも思われる現実的なことを言われたのでしょうか。実はこのみことばは、このような文脈の中で言われたことなのです。14章25節からです。「さて、大勢の群衆がイエスと一緒に歩いていたが、イエスは振り向いて彼らに言われた。『わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません』」。そしてこの有名なみことばです。「『自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません』」(ルカ1425-27)。これに続いての28節からです。
イエス様はご自分の教えを聞き、また癒やしの奇跡などを見たり聞いたりして、ある意味熱狂的に、感情のままにご自分についてきていた大勢の群衆に向かって言われました。イエス様はご自分に聞き従う信仰を求められます。しかしそれは一時の感情的な信仰によるのではなく、見聞きして得た情報や内容を元に物事を理解し、考え、判断し、そして十分に納得してから、ご自分を信じて聞き従うようにと求められるのです。そこに聖霊が働かれるのです。神は箴言19章2節(第3版)を通してこのように言われています。「熱心だけで知識のないのは良くない」(箴言192)と。
イエス様が求められる本物の信仰。それは基本的に理性的であるということです。主観的なものでも、またただ感情的なものではなく、まことに客観的、理性的なものであるということです。実は人は感情から信仰に入るのではなく、知的な納得から信仰に入るのです。それはどうかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、しかし私たちは何かを感じる、その前に何かを理解しているはずではないでしょうか。本当だと思えた、知的な納得ができた。だから信じることができた。そこに聖霊が働かれたのです。「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」(Ⅰコリ123)。イエス様はそのようなただ感情的なだけではない、成熟した大人な信仰を求められるのです。
神は人間を理性的な存在として創られた
神は私たち人間を理性的な存在として創られました。「理性的」と何度も申し上げていますが、理性的というのは、「感情に流されずに論理的に整理して物事を考え判断する能力、性質」のことです。神はご自身と同じく理性的なものとして私たち人間を創られました。神が理性的なお方でなかったら、大変なことになってしまうと思います。そしてご自身の知性(物事を理解・判断する全般的な能力)を分け与えられました。ですから神に似せて創られた人間は、常に何をするにも理性的、合理的に考え行動しているものです。特に意識していないのかもしれませんが、いつも「果たしてこれは間違っていないか?」などと、いつも客観的、理性的に考えているものです。聖書のみことばに対しても同じでしょう。神は私たちを知的な人間とみなすことによって、みことばと聖霊を通して私たちの理性に向かって真理を示しているのです。神は理性的に考える人に、つまり求める人に真理を示してくださるお方です。そこに「イエスは主です」と告白させる聖霊が働かれるのです。
そして私たちの伝道にも同じことが言えるのです。私たちは世の人々に聖書の真理を整理して理性的に相手に示し提供しなければなりません。本物の、永続する、永遠のいのちにまで続く信仰は、イエス様も言われたとおり、感情ではなく知的な納得によるのです。そして聖書はまたこのようにも命じています。「あなたがたのうちにある希望(信仰、楽しみ、喜び)について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい」(Ⅰペテ315)。
解き明かしの必要性
さて、コリント人への手紙第一の講解を進めてまいります。本朝は14章13節からです。
14章13節 そういうわけで、異言で語る人は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。
これまでパウロは、異言の賜物について、解き明かしがなければその賜物を持つ個人にのみ有益で、教会には何の益にもならないと説明しました。ここで言われる異言というのは、礼拝の中での公の祈りにおいて、御使いの舌(天使のことば、人には理解できないことば)によって、神に向かって個人的に語られるもので、その内容は溢れんばかりの祈り、感謝、賛美という素晴らしい賜物のことです。そのような素晴らしい賜物を持っている人は、それを解き明かすことができるように祈り求めるようにと命じられています。教会を成長させるために与えられたその賜物を、礼拝の中で間違って人々に見せびらかすようにして、自らを愛し、自らを高めるために用いるのではなく、教会を愛し、教会の成長のために用いなさい。異言の賜物をより優れた賜物である預言(説教とも言える)へと高めて用いることができるように求めなさいと命じられています。ですから私たちもまた、神から恵みによって信仰、そして溢れんばかりの神への祈り、感謝、賛美を賜っているのですから、その内容を整理して説明し、もし他人が聞いたとしてもそれを理解し、そして神を知り、そこに聖霊が働かれ、それを聞くすべての人が本物の信仰に至り、永遠のいのちを持つに至ることができるように祈るのです。もし異言だけで祈るならば、つまり聞く人々がまるで理解できない言葉や内容、整理されていないめちゃくちゃな言葉で祈るならば、その祈る人は確かに感謝と賛美に溢れているわけですから感情も溢れるでしょう。しかし知性は実を結ばないと聖書は教えるのです。主が求められる本物の信仰に至ることができない。
祈りと賛美
14章15節 それでは、どうすればよいのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。
霊で祈り、知性でも祈る。霊で賛美し、知性でも賛美する。福音、イエス・キリストを通してあらわされる神の愛、神のあわれみ、神の恵み、罪の赦し、永遠のいのちなどを知り、理解し、納得し、それらに対して心から感動し、感謝と賛美へと導かれ、聖霊に満たされて祈り、賛美するのです。しかし同時に、知性をもって祈り賛美するのです。理性によってただ感情に流されずに、物事を考え判断し、神に祈り、神を賛美するのです。これは前回の弟子養育の学びに参加された方にはお分かりかと思いますが、公の祈りと密室の祈りの違いに通じるものでもありますね。密室での祈りは感情的でも良いし、何を祈っても良い。しかし礼拝等での公の祈りはそうではないのです。公の祈り、賛美は、教会とお互いの成長に役立てることを意識しなければなりません。
14章16節 そうでないと、あなたが霊において賛美しても、初心者の席に着いている人は、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。あなたが言っていることが分からないのですから。
「初心者の席に着いている人」というのは、神を求めて教会の礼拝に来始めたばかりの人ということでしょう。また、別訳では「異言に心得のない人(知識がない人)」となっています。そのような人たちが、もし私たちがただ感情に流されて、言い方は悪いですが、礼拝の中で皆が狂ったように神に祈り、狂ったように神を賛美し踊りまくっていたりしたらどうでしょう。したくなる気持ちは十分分かりますよね。私たちにはそれだけ神の愛と恵みに満たされていますし、霊に満たされた祈りや賛美があるのですから。しかしまだ礼拝に来始めた人にとって、そのような光景を目の当たりにするのはどうなのでしょうか。もしかしたら礼拝で、あるいは伝道集会やキャンプなどでも、「初心者の席に着いている人」、そのようなことに対する知識がない人が疎外感を覚えてしまうことにならないでしょうか。理解できない、「アーメン」などとは言えない。神の愛や恵みが伝わってこない。クリスチャンは危ない人たち、危険な集団認定され、もうその人たちは2度と教会の礼拝には来られないでしょう。
14章17節 あなたが感謝するのはけっこうですが、そのことでほかの人が育てられるわけではありません。
神からいただいた恵み、良い物に感謝することは大いに結構なことです。素晴らしいことです。しかしそのことでほかの人が育てられるわけではないことも、私たちは理性的に覚えていなければなりません。例えば、病気が癒やされたことを大いに感謝し、神の恵み、みわざに感謝しほめたたえることは大いに結構なことです。しかし、もし礼拝の中で同じ病気に苦しんでいる人、特に未信者や求道者であるそのような人のことをまるで顧みずに、自己中心的に喜びの感情に流され、そのようなことをしてしまったらどうでしょうか。その人をつまずかせてしまうなど、様々な危険があるでしょう。しかし、その神に向かう感謝、賛美を、人にも向かう預言、説教にしたらどうでしょうか。自分の信仰、受けた神の恵みに対する感謝などを順序立てて、整理して、解き明かしたらどうなるでしょうか。その人の励ましや慰め、希望にもなるでしょうし、霊的成長にもつながるでしょう。信仰の上に立たせることになるのではないでしょうか。私たちは常に霊に燃やされながらも知性をも働かせ、理性をもって教会を愛し、平和に役立つことと、互いの霊的成長に役立つことを追い求めて行かなくてはなりません(ロマ1419)。私たちは信仰という霊的な事柄において、とかく知性であるとか、理性であるとか、合理性などという思考を排除したり軽視したりしがちです。それではまるで自由主義ではないかと思われるかもしれませんが、しかし信仰、伝道、霊的成長においてはどれも重要なものであることを覚える必要があります。良いバランスで、ということです。
パウロの例示
18節からは、パウロは自らを例として示しています。
14章18節 私は、あなたがたのだれよりも多くの異言で語っていることを、神に感謝しています。
14章19節 しかし教会では、異言で一万のことばを語るよりむしろ、ほかの人たちにも教えるために、私の知性で五つのことばを語りたいと思います。
コリントの聖徒たちの中には、パウロが異言の賜物を持っていないために、この賜物を評価しないのだと誤解する人たちもいたようですが、しかしパウロは、だれよりも多くの異言を語っていたようです。自らを「罪人のかしら」と自覚するパウロは、イエス・キリストを通してその罪の一切が赦され、今の自分があることに対する神への溢れんばかりの感謝、賛美に満ち、密室の祈りでは多くの異言を神に向かって語っていたのでしょう。しかし教会の働きにおいては、パウロは理性を働かせて異言を謹んでいました。
そしてパウロの祈り、感謝、賛美は、パウロらしい、しっかりと知識に基づいた十分な理解と、イエス様と出会ってからすぐ後の荒野での3年間や、16年間にも及ぶ挫折(パウロほど挫折した人はいない)、それは主との親密な交わりの時ともなりましたが、その時間、経験を通して得た十分な納得の後に与えられたまことに知性的、理性的なものだったのでしょう。それは預言であり、説教となったのでしょう。そしてパウロは教会のためには、「私の知性で」5つのことばを語ることのほうが、異言で1万のことばを語るよりまさると説明しています。なぜなら、相手に教え、相手の徳を高め、相手の霊的成長、救いを目指すためには、語っていることの意味が相手に伝わる必要があるからです。そして伝えられる相手もまた神によって理性的に創られた人です。常に何をするにも理性的、合理的に考え行動しているものです。特に意識していないのかもしれませんが、いつも「果たしてこれは間違っていないか?」などと、いつも客観的、理性的に考えて、また観察しているものです。ですからパウロは、コリントの聖徒の中で異言の賜物を持っている人たちが、個人的な場合においてのみ異言で語り、礼拝では異言ではなく一般的なことばによって祈り賛美するように勧めています。それは礼拝に参加する人たちが疎外感を感じることなく、祈りや賛美をもって語られる内容、祈りや賛美に込められる福音に対して「アーメン」と言いながら心から理解し、そして従うことができるようにするためです。「アーメン」の語源は、「私はその上にしっかりと立つ。それによって立つ」というものです。つまり礼拝の中で異言の賜物を用いるならば、その目的は、信仰の成長にあるということです。そしてそれは、異言の賜物に限らず、すべての賜物に対しても言われているのです。私たちそれぞれに分け与えられている賜物を、お互いの信仰の成長のため、教会の成長のために用いていくのです。
大人になる
ところで、「成長」と言われていますが、成長には時間また経験が必要です。0才がいきなり3才にはなれません。同じように、信仰の成長にも時間や様々な経験が必要となってきます。しかし、自分はまだ幼いからと諦めたり妥協してはいけないのです。成長途上にあって、悪事に対しては幼子のように疎(うと)くあるべきで、しかし考え方、知性や理性においては大人にならなければなりません。実際に、私たちはもはや子どもではないのです。私たちは皆、神の御子イエス・キリストに対する信仰と知識が与えられ、それによって1つの群れ、教会となっており、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達することを目指し、これまでの時間を費やしてきて、様々な経験をもしてきているからです。あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長しているのです。
パウロは、コリントの聖徒が礼拝の中で自らの益だけを追求し、兄弟姉妹や未信者、求道者に配慮しようとせずに異言に執着することを、「子ども」のようだと表現しました。私たちはどうでしょうか。恵みによって自分に与えられている賜物を、自分のためだけに用いるのではなく、お互いや教会のために気遣って、きちんと考えて賢く用いられているでしょうか。そのためには上からの知恵や洞察力というものが必要です。愛も必要です。これらが私たちに不足しているならば、惜しみなく与えてくださる神に祈りましょう。
しるしとしての異言と預言
21節からは少し難しいところです。パウロなりの解釈が加えられているところだと思います。
21節の頭に「律法にこう書かれている」とありますが、この律法とは旧約聖書を指すもので、続く「『わたしは、異国の舌で、異なる唇でこの民に語る。それでも彼らは、わたしの言うことを聞こうとはしない』と主は言われる。」というのは、調べて見るとイザヤ書28章に記されているみことばです。そこによると、神はご自身を頑なに信じようとせず、神のみことばに聞こうとしなかったイスラエルの民に異言を用いられました。主は異国のことばで民に語られました。「ツァウにツァウ、ツァウにツァウ、カウにカウ、カウにカウ、あっちにゼエル、こっちにゼエル」。しかしイスラエルの民はなおも聞き従いませんでした。やっぱりダメだったのです。
このイザヤの預言をパウロは22節のように解釈しました。「信じていない人たちにとって必要なのは、意味の分からない異言ではなく、やはり明確に認識できることばによって宣べ伝えられる福音なのだ」ということです。
異言と預言の効果
14章23節 ですから、教会全体が一緒に集まって、皆が異言で語るなら、初心の人か信じていない人が入って来たとき、あなたがたは気が変になっていると言われることにならないでしょうか。
14章24節 しかし、皆が預言をするなら、信じていない人や初心の人が入って来たとき、その人は皆に誤りを指摘され、皆に問いただされ、
14章25節 心の秘密があらわにされます。こうして、「神が確かにあなたがたの中におられる」と言い、ひれ伏して神を拝むでしょう。
私たちには様々な賜物が与えられています。皆さんが与えられている賜物は何でしょうか。その与えられている自分の賜物を隠したまま用いないことはもってのほかですが、しかし用いる時に、特に礼拝で用いる時、異言のように自己中心で自分にしか理解ができない祈りや感謝、賛美をもって、たとえ求道者や未信者のためを思って用いたとしても、それはかえってさばきのしるしとなってしまうことがあるのです。なぜなら先ほども申し上げたとおり、その意味が分からずに「あの人たちは気が変になっている」と教会を嘲り、悔い改めへとは進めずに、もう教会に来なくなってしまうからです。神に立ち返らせることができないばかりか、彼らに教会を馬鹿にするという罪を犯させることにまでなってしまうのです。しかし預言の賜物のように、特に礼拝の中で自分に与えられている賜物を用いる際に、相手に福音が分かるように、あなたに救われて欲しいのだという真実の神の愛が伝わるようにして用いるならば、それは求道者や未信者に自らの罪を悟らせ、悔い改めへと導き、ついには神を礼拝するようにまで助け導くのです。礼拝など教会の集会に参加して、私たちの姿と言いますか、生き様と言いますが、私たちの内なる人の中に、奉仕の中に、神と神への信仰を見て、信仰に関することを自然と学び取り、影響を受けることでそうなるのです。異言と違って、意味の明確な言葉や奉仕で伝えられる福音は、未信者、求道者、そして信じているお互いの心を、不思議と真の悔い改めへと導き、心を新たにする良い機会を与えることになります。聖霊がそこに働かれるからです。
冒頭で、主は人が見聞きして得た情報や内容を元に物事を理解し、考え、判断し、そして十分に納得してから、本物の信仰によってご自分についてくるようにと求められると申しました。そこに聖霊が働かれるのだと。本物の信仰。それは基本的に理性的であるということ。主観的なものでも、またただただ感情的なものではなく、まことに客観的、理性的なものであるということ。人は感情から信仰に入るのではなく、知的な納得から信仰に入るのだという、重要な真理も覚えたいと思います。私たちは見聞きし、それが本当だと思えた、知的な納得ができた。だから信じることができたのでしょう。そしてそこに聖霊が働かれたのでしょう。同じように、これから主を信じる人たちも同じ筋道を通りるのです。0才の者がいきなり大人になることを求めてはいけません。少しだけ先に大人になりつつある私たちが、生まれたばかりの彼らを愛をもって育んで行くのです。自分に与えられている賜物をもって。
パウロは今日のところで、特に礼拝において、自分の賜物を用いることを通して、人々に神のみことば、福音を確実に語ることのできる知恵を備え、世の人々、未信者、求道者を神に導く、成熟した大人になるように勧めています。それぞれに分け与えられている賜物を特に公の礼拝の中で、神と隣人のために用いて、イエス・キリストの福音を宣べ伝え、教会が一致してそれぞれの信仰が成熟していくようにお互いを助け合い、また教会を訪れる未信者や求道者を助けることが私たち教会が目指すべきことです。重要なのは、福音を宣べ伝える私たち自身が、神に対する真実な信仰を持つことです。そのために、私たちはさらに預言の賜物を求めるべきなのです。神のみことばを解き明かし、福音を人に教えることができる賜物を、教会の皆が熱心に追い求め続けるべきなのです。ですから、今日のみことばが与えられた私たちは、霊的に生まれたばかりの乳飲み子であった私たちが、霊の乳をいただき、時間と経験を積み、少しずつ大人になって来た。その信仰を、今一度振り返って、そして信仰を正しく整理する時なのではないでしょうか。皆が預言者、説教者、また真のイエス様の弟子になる。伝道師になる。そのためにもどうぞ弟子養育の学びを有効に用いてください。学びの中で膨大な教えが語られ、そろそろ弟子養育の学びの意義が分からなくなっている頃かもしれません。弟子養育の学びの意義、目指すところは、私たちの信仰を今一度整理することです。正しく福音と信仰を整理し直し、人々に整理して正しく簡潔に伝えることができる、真の弟子となるための幸いな学びです。整理されていないこちゃごちゃの1万のことばより、整理された5つのことばによって伝道できるようになる。それは隣人に、そして私たち自身にも真の幸いをもたらす学びです。
今一度、私たちが信仰を持つに至った経緯を思い起こしてみてください。そして、弟子である私たちに主が求めておられる信仰は何でしょうか。一時の感情的な信仰によるのではなく、見聞きして得た情報や内容を元に物事を理解し、考え、判断し、そして十分に納得してから、本物の信仰によってご自分の真の弟子となるように求められるのです。そこに聖霊が働かれるのです。私たち教会はもう一度ここに立ち返りましょう。そしてそこからまた大人へと成長し、建て上げられて行き、隣人に正しく分かるように福音を宣べ伝えて行くのです。礼拝で自分の賜物を主に献げて用いて行くのです。そこに聖霊が働かれるのです。ますます私たち教会は霊的に成長し、教勢的にも成長して行くでしょう。今朝 名の礼拝が、これからどう変えられて行くでしょうか。

