2026年1月1日 元旦礼拝「年を重ねても、なお」

前  奏
*讃  美 讃美歌546「聖なるかな」
*信仰告白 讃美歌566「使徒信条」
 主の祈り 讃美歌564「天にまします」
 祈  祷 
 讃  美 讃美歌411「すべしらす神よ」
 聖書朗読 詩篇92篇1〜15節
 説  教 「年を重ねても、なお」
*讃  美 讃美歌413「父のみかみよ」
*献  金 讃美歌547「いまささぐる」
*感謝祈祷
*頌  栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
*祝  祷
*後  奏

本日の聖書箇所

詩篇92篇1〜15節

説教題

「年を重ねても、なお」

「年を重ねても、なお」

詩篇92篇

改めまして、新年あけましておめでとうございます。今日から始まる新しい1年も、神に愛され、そして神を愛する皆さんおひとりひとりの上に、主イエス・キリストの豊かな祝福がありますようにお祈りします。

皆さん、幸いな「お年取り」をされたでしょうか。

このように今朝のメッセージを始めようと、「お年取り」とパソコンで入力したのですが、何だかうまく変換されませんでした。1つの単語として登録されていないのです。おかしいなと思い調べて見ると、「お年取り」というのは信州(長野県)独特の文化・風習なのだそうです。皆さんご存知でしたか? 私は「お年取り」が共通語ではないことに驚愕してしまったのですが。それでうまく変換できなかったのですね。「年取り」という語は共通語で、パソコンも一発変換されるのですが、「お年取り」と入力すると変な感じになってしまう。長野県に移住してこられた方は、年末のクリスマスムードが漂うスーパーなどで、突如として大量の立派な魚の切り身が並べられる光景に驚いたそうです。また、東北出身の方にうかがったところ、そちらでは大晦日の夜に皆で年越しそばをすすり、新しい年も細く長く元気でいられるように願うだけの簡単なものだそうです。それで納得しました。テレビのカップ麺のそばのCMでは、こたつの上にはご馳走など並んでおらず、ただ鐘の音を聞きながら(教会の鐘でないのが残念ですが)そばをすすっているシーンが流れますが、あれが大晦日の一般的な光景なのですね。

しかし、この信州の「お年取り」。大晦日に一年の無事を感謝するとともに、数え年で1つ年を取ることを祝い、また新しい年への祈りを込めて、縁起の良い料理やおせち、郷土料理などのご馳走を用意して、豪華にその年の最後の食事を楽しむのが一般的とされています。皆さん、信州に生まれて、あるいは暮らしていて良かったですね。私たちはこのようにして1年の終わりに愛餐会をもって神に感謝し、そして神に祈ることができるのです。もちろん、私たちが感謝し祈る対象は、イエス・キリストを通して私たちのまことの父となってくださった神です。そして私たちの主イエス・キリストは言われます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみことに行くことはできません」(ヨハ146)と。私たちはこのイエス・キリストという救いの道を通って神に近付くことができ、感謝し、祈ることができるのです。皆さんも昨晩は幸いな「お年取り」をされたのではないかと思います。そしてご馳走を食べた後、一人静かに過ぎ行く2025年の数々の恵みを数え、まことの神の私たちに対する真実、あわれみに感謝されたことと思います。除夜の鐘ではなく、教会の鐘の音を聞きながらであるなら実に最高なのですが。いつか長野聖書教会も、大晦日の夜にはこの地に教会の鐘を鳴り響かせるようになれれば良いなと思います。

ところで、私たちは年を重ねるごとに見えてくるものがあります。そして信仰によって年を重ねて行けば行くほどに、経験を重ねて行けば行くほど、見えてくるものがあります。それは神の恵み、神の真実の素晴らしさです。神の恵み、神の真実に対する感謝もますます高められて行くでしょう。神の恵み、神の真実の素晴らしさは、幾重にも積み重なって山のように高くなって行く。今の時点で、山の頂上に立って、これまでの人生を振り返ってみていかがでしょうか。十数年の人生を過ごして来た方と、80年の人生を過ごして来た方と、見える景色は随分違うと思います。山が高くなればなるほど、はるか遠くまで見渡せます。あそこにイエス・キリストの十字架が立てられていた、あそこに神の守りがあった、ここに神の導きがあった、満たしがあったなどと、たくさんの神の恵みの数々が数えられ、同時に神の真実に恐れさえ抱かれるのではないでしょうか。時には自分の思いが満たされず、神を疑い、恨むようなことさえしてしまったこんな私さえ、神は見放さず、変わらずに愛し、守り、満たし、導いてくださった。まことに「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝311)のだと。

「お年取り」をし、今朝、私たちに与えられましたみことばは、詩篇92篇です。この詩篇は、辛く苦しく、みじめな捕囚時代が終わり、神の恵みと神の真実によってイスラエルの民が故郷に戻ることができ、建て直された第2神殿において新たに礼拝が献げられ、そして毎朝、そこで全焼のいけにえを献げる時に歌われた詩篇です。全焼のいけにえというのは、それを献げる人自身を神に献げる、いわゆる「献身」の思いを表すものです。「私のこの身を、すべてあなたにお献げします」というものです。

そこでまず、何が歌われたかと言いますと、

92篇1節      主に感謝することは 良いことです。
いと高き方よ あなたの御名をほめ歌うことは。
92篇2節      朝に あなたの恵みを
夜ごとに あなたの真実を告げることは。

「主に感謝することは良いことです。いと高き方、神よ、あなたの御名をほめ歌うことは良いことです。朝にあなたの恵みを、そして夜ごとにあなたの真実を宣言することは」と、そう歌われるのです。「○○せよ」ではないのです。自分の過去の経験などを客観的に振り返り、その善悪や問題点を深く考え、将来の行動を改善しようとする態度や考えによって、「主に感謝することは良いことです。いと高き方、神よ、あなたの御名をほめ歌うことは良いことです。朝にあなたの恵みを、そして夜ごとにあなたの真実を宣言することは良いことです」と、そう歌われるのです。おそらくこの詩篇の記者は、80年とか、かなり人生の様々な経験を積んでこられた方だと思います。苦しい捕囚も経験しました。そして様々な人生経験を積んで来られたこの詩篇の記者が、私たちに「主に感謝することは良いことです。いと高き方よ、あなたの御名をほめ歌うことは。朝にあなたの恵みを、夜ごとにあなたの真実を告げることは良いことです」と証し、私たちに教えるのです。

この「良いこと」というのは、皆さんよくご存知で大好きな(私だけ?)「ט֗וֹב(トーヴ)です。創世記1章において、神が天地万物を創造され、それをご覧になって「良し」と見られた。この「良し」が「トーヴ」です。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝311)、この「美しい」が「トーヴ」です。「トーヴ」というのは、喜ばしいというような意味です。そこに神の御心にかなった喜びがあるということです。また、神が喜んでそれを受け入れてくださるということです。神がそれを良い事だ、喜ばしいことだ、望ましいことだと心地よく感じてくださり、それを嬉しい事だとして受け入れてくださる。それこそ祝福です。神ご自身が膝を折られ、身を低くして私たちのところまで降ってくださる。考えただけで力が湧いてきます。安息日に神に感謝することは、神に創られた人間の神に対してしなければならないことであると同時に、神に創られた人間自身のためにも本当に良いことなのです。

主に感謝する。主の御名をほめ歌う。そこに神の御心にかなった喜びがある。その喜びとは、神の恵み、神の真実によって守り導かれてきたその人自身の人生を喜び、そして何より、このように私の人生を恵みによって、真実によって導いてくださった神を喜ぶことでしょう。

ウエストミンスター小教理問答、ジュネーブ教会信仰告白等の中で言われていますが、「人生の目的は神を喜ぶことである」とあります。皆さんは、昨晩の「お年取り」で、どれだけ神を喜ばれたでしょうか。新しい年を迎え、はじめに主に何を祈られたでしょうか。そこに神を喜ぶ祈りが、どれほどの割合であったでしょうか。先日はある記事で、朝15分祈る牧師がどれだけいるだろうかという調査結果と、朝15分祈る牧師がどれだけるだろうかという嘆きが書かれていました。15分も祈れないのだとしたら、その内の何分が神を喜ぶ祈りなのかと思わされます。実はこの記事を読んでから私自身反省し、15分は祈ろうと心に決めつつ、しかし今朝のメッセージを思い巡らせる中で、自分はどれだけ神の恵みを数え、それだけ神の真実に感謝しているだろうかと考えさせられました。そしていざ祈りの冒頭で神の恵みを数えよう、神の真実の一つ一つに感謝の信仰告白をしようとすると、何とそれが難しいことか。私自身の、そして皆さんの今日一日の守り、導き、満たし、癒やしを祈る祈りは余裕で10分以上のボリュームで出て来るのに対し、私自身、皆さん、教会に対する神の恵み、神の真実への感謝、賛美がなんと下手くそなことか。私にとって、最も欠けているもの。それは「神を喜ぶこと」ではないだろうかと、そう思わされるのです。そしておそらく80年の人生経験を積んでこられた詩篇92篇の記者が、自身の反省点と改善点をかえりみつつ私に証し、そして私に教えるこの「主に感謝することは良いことです。いと高き方よ、あなたの御名をほめ歌うことは。朝にあなたの恵みを、夜ごとにあなたの真実を告げることは」とのみことばが心に響いてくるのです。

朝と夜。一日の始めと終わり。そして一年の始めと終わり。ひいては事の始めと終わりというのは、神の恵みと神の真実を思い巡らせる時、神への祈りと賛美へと導かれるにふさわしい時です。常に慌ただしく動き、忙しさに追われる日々。いつも疲れて、目をつぶろうものならすぐに意識を失ってしまうような、そのような現代において、どれだけ神を喜ぶことができているでしょうか。

また、人は神の守り、導き、満たし、物の喜びはしきりに探し求めていますが、人間は物を喜ぶことでは満たされないのです。神を喜ぶところまで行かないと、本当に心も体も、霊も魂も満たされることはないのです。神を喜ぶなら、たとえ望んでいるものが与えられないことであっても、それは満足となり、感謝となり、喜びとなるのです。私たちにとってこれほど大きな幸せ、これほど大きな力や勇気、慰めとなるものはないのではないでしょうか。

静かな朝、静かな夜。始まりの時、終わりの時。私たちは心と目を天に向けるのです。

92篇3節      十弦の琴に合わせ竪琴の妙なる調べにのせて。

「妙なる調べ」というヘブル語は、黙想、ささやき声という意味をも持つ語です。そして「思い」と同じ語源を持つ語です。また、皆さんの中には音楽に長けた方がおられますが、楽器の演奏方法の「グリッサンド」という意味もあります。グリッサンドというのは、低い音から高い音へと滑るように連続的に音を出す演奏技法です。それこそ琴や竪琴、ハープの得意技とも言えるでしょう。ちなみに音楽では、高い音から低い音へ向かう時は天の父なる神からの恵みが降るイメージ、そして低い音から高い音へ向かう時は、地の上の人間が天におられる父なる神への祈りや感謝や賛美が、煙が上っていくようにして昇っていく、そのようなイメージを意識すると良いそうです。そのようにして、私たちの黙想、ささやき声のような祈り、私たちの思い、祈りを、グリッサンド(低い音から高い音へと滑るように連続的に音を出す)のように意識して、天にまで届くように高めるのです。するとどうなるのか。

92篇4節      主よ あなたは あなたのなさったことで
私を喜ばせてくださいました。
あなたの御手のわざを
私は喜び歌います。

私たちは神への喜びで満たされます。そして気付かされるのです。

92篇5節      主よあなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御思いはあまりにも深いのです。

私たちが朝に、夜ごとにまことの礼拝を主にお献げし、礼拝において上を見上げるならば、単に喜びに満たされるだけでなく、思慮深くされ、神のなさる御業の不思議さ、大きさ、深さに恐れさえ覚えることになります。そして神を喜ぶことに満たされます。たとえ望んでいるものが与えられなくとも、「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──主のことば──天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザ558-9)との主の御声が響いてくるでしょう。「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう」(ロマ1133)と、驚きと感謝、そして満足となり、感謝となり、喜びとなるのです。神を喜ぶことになるのです。私たちにとってこれほど大きな幸せ、これほどの慰め、私たちの労をねぎらい、大きく深呼吸させ落ち着きを取り戻させるもの、絶望の淵からさえも立ち上がらせることができる、明日への大きな力となるものはないのではないでしょうか。

しかし、礼拝に対して無思慮な者、軽率な者、無分別で心無い者、まぬけ者(第3版)、野獣的な者は「これ」、つまり大きな主のみわざ、深い主の御心が分からないのです。また、たとえ目の前が真っ暗、周りが敵だらけのような絶望の中にあってもなお、神がともにおられ、神の守りと解決、最善があることに目が閉ざされ、心が閉ざされ、そして分からなくなってしまうのです。喜びを失い、力を失い、恐れて「滅びうせる獣に等しく」なってしまうと、詩篇の記者は注意を促します。そして朝に夜ごとに、まことの礼拝を主にお献げしようではないかと励まします。

92篇1節      主に感謝することは 良いことです。
いと高き方よ あなたの御名をほめ歌うことは。
92篇2節      朝に あなたの恵みを
夜ごとに あなたの真実を告げることは。
92篇3節      十弦の琴に合わせ竪琴の妙なる調べにのせて。
92篇4節      主よ あなたは あなたのなさったことで
私を喜ばせてくださいました。
あなたの御手のわざを
私は喜び歌います。

92篇12節    正しい者はなつめ椰子の木のように萌え出でレバノンの杉のように育ちます。
92篇13節    彼らは主の家に植えられ私たちの神の大庭で花を咲かせます。

今朝、主を礼拝する私たちは、神の恵みによって、神の真実によってこの世から選ばれ、神の御手によって美しく整えられた神の家の庭園、いつも神の心と目が注がれ、神の御手によって常に手入れしていただける。根元に肥料を与え、いつも生ける水が注がれ枯れることはない。時には豊かな良い実を結ばせるために刈り込みをしてくださる。そのような場所へと移し植えられた幸いな者たちです。植えられた所で神の栄光をあらわすようにと、神が私たちそれぞれを最適な場所へと移し植えてくださいました。神が植えてくださったそれぞれの場所で、朝に、夜ごとに、事の始めに、事の終わりに神を喜ぶ、まことの礼拝をお献げする私たちは、年を重ねてもなおなつめ椰子の木のように萌え出で、レバノンの杉のように育ちます。レバノン杉というのは、神の国イスラエルでは最高の建築材です。神を喜ぶ私たちが教会を、そして神の国を建て上げるのです。また、なつめ椰子の木は、年数が経ってもなお多くの実を実らせ、葉はなおも青々と生い茂る木です。まさに、まことの礼拝、神を喜ぶ人は、年を重ねるほどに祝福は増し加わり、喜びに満たされ、良い力に溢れ、良い実を豊かに実らせ、神の栄光をあらわすことができるのです。そしてそれは神の恵みである。神の真実である。恐れと感謝、喜びは、年を重ねるほどに尽きることなく増し加わって行くでしょう。若さ、力は鷲のように新しくなる。朝に、夜ごとに主を待ち望み、主に期待し、主を喜び、そして祈り、まことの礼拝を主に献げる者は、新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。その一歩一歩が、嘆きではなく天にまで昇る主への賛美になるのです。そしてその主への賛美、主を喜ぶことが私たちの力となるのです。

長く信仰生活を送り、年を重ねたこの詩篇の記者は、自分の過去の経験などを客観的に振り返り、その善悪や問題点を深く考え、将来の行動を改善しようとする態度や考えによって、「主に感謝することは良いことです。いと高き方、神よ、あなたの御名をほめ歌うことは良いことです。朝にあなたの恵みを、そして夜ごとにあなたの真実を宣言することは良いことです」と、そう歌いました。私たちに証し、そして私たちに教えてくださいました。

92篇15節    こうして告げます。「主は正しい方。わが岩。主には偽りがありません。」

2025年は終わり、2026年がすでに始まりました。また新しい朝が始まったのです。私たちは「お年取り」をしました。大晦日に一年の無事を感謝するとともに、数え年で1つ年を取ることを祝い、新しい年への期待と祈りをもって「お年取り」をしました。また1つそれぞれに年を重ねました。

私たちは年を重ねるごとに見えてくるものがある。信仰によって年を重ねて行けば行くほどに、経験を重ねて行けば行くほど、見えてくるものがある。それは神の恵み、神の真実の素晴らしさ。そして神の恵み、神の真実に対する感謝がますます高められて行く。さらにますます神を喜ぶ。神を喜び、朝に夜ごとにまことの礼拝を神にお献げし、ますます力を得て、ますます神の栄光をあらわして行く。そのような毎日を、1年を、人生を今年も歩んでまいりましょう。私たちを喜ばれる神がおられる。私たちを喜ばれる神がともにいてくださる。いつも私たちに目を注ぎ、手入れをされ、豊かな実を結ぶようにご配慮くださっている。そのことに私たちの目がいつも開かれ、心から神を喜び、イエス・キリストを通して注がれる神の恵み、イエス・キリストを通して果たされる神の真実を高らかに褒め称えつつ、この1年も歩んでまいりたいと願います。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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