2016年1月3日 主日礼拝「見よ。その日が来る」
本日の聖書箇所
エレミヤ書31章27~40節
説教題
「見よ。その日が来る」
今週の聖句
「主の御告げ。わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」
エレミヤ書31章33節
訳してみましょう。
1759 Heaven’s delights will far outweigh earth’s difficulties.
(天の喜びは、これまでの地上での困難をはるかに勝るだろう。)
1760 If someone were to read your life like a book, would they find jesus in its pages?
(誰かが本のようにあなたの人生を読むとしたら、彼らはそのページでイエスを見つけるでしょうか?)
説教メモ
見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。――主の御告げ。――その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。(エレミヤ31:27-30)
29節に注目してください。
『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』と、二重のカギ括弧で記されています。
聖書を読んでいて、同じように二重のカギ括弧が出てきたら、それは他の箇所にも出て来るおことばであることが分かります。
ここでは、エゼキエル書です。
あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。(エゼキエル書18:2)
酸いぶどうを食べると文字通り酸っぱいのです。
その酸っぱいぶどうを父親が食べると、なぜか食べた当人ではなく、子どもの歯が浮くとあります。
それはどういうことでしょうか。
それは、酸いぶどうの影響が子どもに及んでいるということです。
父親の影響・災いを、関係のない子どもが受けているということです。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。(エレミヤ31:32)
この契約とは何でしょうか。
それは「十戒」にあります。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。(出エジプト20章4-6節)
「偶像礼拝」の罪を犯したならば、それは自分だけでは済まないのです。
その罪は子に、さらに三代、四代後にまで及ぶものとなります。
誰かが犯した罪のために、後の人にまで影響が及んでしまうということです。
これは古い契約です。
しかし、私たちは「これは私が犯した罪ではない。」とか、「これは先祖が犯した罪だから私には関係がない。」などと言って良いのでしょうか。
その罪とは全く関係が無くなるということはないのかと思います。
責任の転嫁という言葉があります。
その原型は創世記3章にあるとおり、はるか昔、アダムとエバの時にもありました。
人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」(創世記3:12-13)
このように、責任の転嫁をしています。
いくら責任を転嫁したとしても、神さまはそれぞれに次のようにおっしゃいました。
女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」
また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」(創世記3:16-19)
このように、その前に起こったことの影響を受けずには済まされません。
たとえ、自分には関係が無いと言ったとしても、それでは済まされません。
このようなことが、エレミヤ書31章27~30節までで言っている「古い契約」なのです。
しかし、神さまはここでエレミヤを通し、「そうではないのだ。わたしは新しい契約をあなたがたに与えるのだ。」とおっしゃいました。
そしてエレミヤは「新しい契約」を預言します。
見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ。――
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。
(エレミヤ31:31-34)
ところで、「見よ。その日が来る。」というおことばが、27節、31節、38節と3回出てきます。
どんな日が約束されているのでしょうか。
「その日、新しい契約が結ばれる。」
出エジプトの後に与えられた「十戒」とは異なる「新しい契約」について預言をしています。
「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:33)
この預言は、律法を成就するためにこの世に来られた、イエス・キリストによって実現しました。
イエス様は十字架の上で「完了した。」とおっしゃいました。
何が完了したのでしょうか。
それは「救いのわざが完了した」のです。
エレミヤはイエス様がこの地上に来られるおよそ600年前に出現した預言者です。
その時、新しい契約、すなわち「新約」の預言をしたのです。
「契約」=「神さまとの約束」です。
イエス様がこの世に来られて、今までのイスラエルの民に与えられていた古い契約ではなく、新しい契約・神さまとの約束が与えられました。
その新しい契約が、私たちが手にしている新約の福音メッセージです。
新しい契約の特徴とは何でしょうか。
- 罪は当事者が責任を負うもので、先祖や親からの罪の影響は子に及ばない
- 罪と咎を赦され、神との交わりが回復される
- 呪いさえも聖なるものとされる
罪とは、先祖や親の影響ではなく、私たち一人一人の当事者の問題です。
これは古い契約の時代には考えられないことでした。
そして、イエス様が十字架で私たちの身代わりの死を遂げてくださり、私たちの罪を解決してくださいました。
それによって、私たちは神さまとの交わりが回復され、そのことを許されているのです。
そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――主の御告げ。――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。(エレミヤ31:34)
私たちは、人に教えてもらわなくても、善悪を知ることができるのです。
私たちは思わず、知らず知らずのうちに罪を犯してしまう弱いものです。
私たちが罪を犯してしまったと気付いた時には、素直に神さまの前に出て、罪を告白し、赦しを祈りましょう。
そうするならば、神さまは私たちの罪を赦してくださいます。
しかし、神さまは罪を忘れられる方ではありません。
人間的に言うと、忘れるのではなく、思い出さないように努力してくださっているのです。
それは、イエス様の十字架によってなされることなのです。
私たちはそのことを、もっと感謝をもって受け止めていかなければなりません。
同じ罪を繰り返してはならない理由がここにあるのです。
私たちは、二度と同じ罪を繰り返さないよう、自分に言い聞かせ、そこから新しい歩みをしてく必要があります。
エレミヤは、ユダヤの民は自分たちが犯した罪により、これから70年間、バビロンへ捕囚として連れて行かれるのだ。イスラエル国家が無くなるのだという預言をしました。
それは、来るべき祝福のためでした。
「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない。」(エレミヤ31:34)
「彼らの罪」とは何でしょうか。それは、「偶像礼拝」です。
偶像礼拝を禁じる律法は、十戒の一番最初に書かれています。
イスラエルの民は繰り返し繰り返し、この罪を犯してきました。
その都度、神さまは預言者を立ててくださったり、特別な導きを与えてくださり、どうにかイスラエルの民は生き延びてきました。
バビロン捕囚もそうです。
偶像に染まっている民を、神さまは懲らしめのために70年間という捕囚を経験させました。
最初の古い契約は、モーセによって2枚の石板に書き刻まれました。
ところが、エレミヤを通して与えられた新しい契約は私たちの「心」に書き記されるのです。
私たち一人ひとりの心に神さまの新しい律法が書き記されるので、他の誰かに教えてもらわなくても良くなっているのです。
わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。(エレミヤ31:33-34)
次の箇所にも、人の心に書かれていることが記されています。
「あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。」(Ⅱコリント3:3)
ここでは私たち自身が手紙であると言っています。
文字や本に著さなくても、私たちの歩みは、あたかも手紙のようだとパウロは言っているのです。
それは他の人が見れば分かるのです。
クリスチャンとして、私たちの証しを本という形では著すことはないかもしれません。
しかし、私たちの歩み、生き様はすべての人たちに開かれており、全ての人によって見られます。
もし他の人が私たちの歩み、生き様というストーリーを読んだ時、その中にイエス・キリストを見いだせる人は幸いです。
使徒の働きは28章まであります。
私たちは一人ひとり、29章を著していくのです。
墨によって書く本ではなく、誰の目から見ても分かる「生き方」によって著していくのです。
私たちの心に神さまの律法が書かれています。
そのような者として歩んでまいりましょう。
罪を犯さず、神さまがおっしゃることを信じ、従っていきましょう。
それが私たちが記す手紙、著書となります。
この新しい2016年という年、皆さんはどのような手紙、本を著していくのでしょうか。
私は牧師として、それを見守っていこうと思っています。