2026年10月18日 主日第二礼拝「エサウとヤコブ」

聖書箇所

創世記25章20〜34節、27章

エサウとヤコブ

はじめに ― 神の祝福を求めるとは

今日は、エサウとヤコブという双子の兄弟について学びます。
皆さんは、「神様の祝福」と聞くと、どんなことを思い浮かべるでしょうか。
健康であること。仕事が順調に進むこと。家族が仲良く暮らせること。希望している学校に進学できること。願っていた仕事に就けること。困難が解決すること。どれも、私たちが神様に願う大切なことです。
私たちはよく、「神様の祝福を求めましょう」と言います。「神様の約束を信じましょう」とも言います。
けれども、少し考えてみたいのです。
私たちは、神様の祝福とは何なのか、本当に知っているでしょうか。神様が何を約束してくださっているのか、本当に分かっているでしょうか。
もしかすると、神様の祝福を求めているつもりで、実際には、自分の願いが実現することばかりを求めているかもしれません。
そして、願いがなかなか実現しないと、不安になり、焦ってしまう。神様に祈っているはずなのに、いつの間にか自分の力で何とかしようとしてしまう。
今日登場するエサウとヤコブの姿には、そのような私たち自身の姿が映し出されているように思います。

1.エサウ ― 目の前のものに心を奪われた人

まず、創世記25章を見てみましょう。
イサクとリベカの間に、二人の男の子が生まれました。双子の兄弟、エサウとヤコブです。
兄のエサウは野に出て狩りをする人となり、弟のヤコブは天幕で暮らす穏やかな人となりました。
ある日、エサウが狩りから帰ってきました。ひどく疲れ、お腹も空いていました。
すると、弟のヤコブが美味しそうな煮物を作っていました。エサウは、その煮物を食べさせてほしいと頼みます。
ところがヤコブは、驚くようなことを言いました。
「それなら、まず、あなたの長子の権利を私に売ってください。」
長子の権利とは、長男として家の財産を受け継ぎ、家族を代表していく特別な権利です。
しかも、この家族には、それ以上に大切なことがありました。
神様は祖父アブラハムに約束を与えられ、その約束は父イサクへと受け継がれていました。ですから、この家の長子としての立場には、神様の約束を受け継ぐ家族の一員であるという、特別な重みがあったのです。
ところがエサウは、お腹が空いている今の自分に、そんな権利が何の役に立つのか、と考えました。
そして、たった一杯の煮物のために、長子の権利を売ってしまったのです。

34節は、この出来事をこう締めくくっています。
「こうしてエサウは長子の権利を侮った。」
ここが重要です。
エサウは、単にお腹が空いて判断を間違えたのではありません。神様から与えられている大切なものの価値を、軽く考えてしまったのです。
もちろん、私たちにも食べ物は必要です。健康も仕事も、生活に必要なお金も大切です。しかし、それらが何よりも大切になってしまうとしたら、どうでしょうか。
今の楽しさのために、神様との交わりを後回しにする。目の前の利益のために、正しいことを曲げてしまう。自分の望みを優先するあまり、神様の御言葉に耳を傾けなくなる。
私たちにも、エサウのようなところがあるのではないでしょうか。

エサウの問題は、本当に価値のあるものを見失っていたことでした。

2.ヤコブ ― 祝福を自分の力で手に入れようとした人

では、弟のヤコブはどうだったでしょうか。
ヤコブは、エサウとは違って、長子の権利を強く求めました。
神様の祝福を受け継ぐことには価値がある。その祝福を自分のものにしたい。そのような思いがあったのでしょう。
私は、ヤコブが神様の祝福を求めたこと自体は、決して悪いことではなかったと思います。
問題は、その求め方でした。

ここで25章23節を思い出してください。
二人がまだ生まれる前に、神様はリベカに、兄が弟に仕えることになると告げておられました。
当時は長男が優先されるのが普通でした。しかし神様は、人間の習慣によらず、ご自身のご計画によってヤコブを選んでおられたのです。
これは神様の約束でした。
ヤコブがこの約束をどこまで知っていたか、聖書は詳しく説明していません。しかし、少なくとも私たち読者には、ヤコブが祝福を手に入れようと動き始める前から、神様のご計画があったことが知らされています。
それなのに、ヤコブは兄の弱みにつけ込んで長子の権利を買い取りました。

そして27章では、さらに大きな問題が起こります。
父イサクが年を取り、目がよく見えなくなっていました。イサクは兄のエサウを祝福しようとします。
ところが、それを聞いた母リベカが、ヤコブにエサウのふりをさせ、父親を欺いて祝福を受けさせようと考えました。
ヤコブは、父親に見破られたらどうしようと心配します。しかし、欺くことそのものを拒んだわけではありません。

結局ヤコブは、兄の衣服を着て、毛深いエサウに見せかけ、父親のところへ行きました。
そして、自分はエサウだと嘘をつき、父親から祝福の言葉を受けたのです。
ここに、ヤコブの大きな問題がありました。

神様の祝福を求めているのに、祝福を与えてくださる神様に信頼していなかったのではないか。
神様はすでにご計画を持っておられました。
もしヤコブが、神様の約束を十分に知り、その約束を信頼することができたなら、人を欺いてまで祝福を手に入れようとする必要はなかったはずです。
祝福は神様の恵みによって与えられるものです。自分の力で奪い取るものではありません。
ところがヤコブは、神様が与えてくださるものを、自分の知恵と策略で手に入れようとしました。

ここで私たち自身のことを考えてみたいと思います。
私たちも神様の祝福を求めます。それは良いことです。
しかし、その祝福を、何としてでも自分の思い通りに手に入れようとしてしまうことはないでしょうか。
祈っても、なかなか答えが与えられない。待っていても、状況が変わらない。すると不安になり、焦り始めます。そして、自分の願いを実現するためなら、少しくらい無理をしてもよい。多少強引でも仕方がない。そう考えてしまうことがあります。
もちろん、神様を信頼するとは、何もしないで待っていることではありません。私たちは祈りながら、考え、準備し、行動する必要があります。
けれども、その方法が神様のみこころにかなっているかどうかは、別の問題です。
神様のみこころを実現するためだからといって、神様のみこころに反する方法を選んでよいわけではないのです。

ヤコブは確かに祝福を受けました。しかし、その結果どうなったでしょうか。
兄エサウは激しく怒り、ヤコブを殺そうと考えるようになりました。
ヤコブは家を離れ、逃げなければならなくなったのです。
欲しかった祝福を手に入れたはずなのに、大切な家族との生活を失ってしまいました。
何とも悲しい結果です。

3.それでも、神様の約束は失われなかった

しかし、この物語は、ヤコブの失敗で終わりません。ここからが、私たちにとって大切なところです。

ヤコブは、決して立派な人ではありませんでした。神様を完全に信頼していたわけでもありません。自分の力で何とかしようとし、人を欺き、大きな失敗をしました。
ところが神様は、そのヤコブを見捨てられなかったのです。

家を離れて逃げていくヤコブに、神様は現れてくださいました。創世記28章です。
そこで神様は、アブラハムとイサクに与えられた約束を、ヤコブにも確認されました。そして、ご自分がともにいて、行くところで守り、決して見捨てないと約束してくださったのです。
考えてみてください。ヤコブが立派だったから、神様は祝福されたのでしょうか。
そうではありません。
ヤコブが正しい方法で祝福を手に入れたから、神様は約束を守られたのでしょうか。
そうでもありません。
神様が祝福してくださったのは、神様ご自身が真実なお方だったからです。

神様は、人間の不完全さや失敗によって、ご自身の約束を投げ捨ててしまわれるようなお方ではありません。
もちろん、だから人を欺いてもよいということではありません。ヤコブは自分のしたことの苦い結果を経験しました。
それでも、神様の恵みはヤコブの失敗よりも大きかったのです。
そして、この約束は、ヤコブの子孫へと受け継がれ、やがてイエス・キリストへとつながっていきます。

ここで、私たちにとって大切な問いがあります。
私たちにも神様の約束が与えられています。
では、それはいったい、どのような約束なのでしょうか。

4.私たちに約束されている祝福とは

新約聖書のエペソ人への手紙1章3節を見てみたいと思います。
そこには、神様がキリストにあって、天上にあるすべての霊的な祝福を私たちに与えてくださったと記されています。
では、その祝福とは何でしょうか。
続く御言葉を読むと、キリストによって罪が赦されること。神様の子どもとされること。聖霊が与えられること。そして、永遠の御国を受け継ぐ希望が与えられることなどが語られています。
これこそ、神様がキリストにあって私たちに与えてくださる祝福です。

もちろん、私たちは健康を願います。仕事が与えられることを願います。家庭の平安を願います。困難が解決することを願います。
それらを神様に祈り求めることは、決して間違いではありません。
しかし、ここで区別しなければならないことがあります。
私たちが願っていることと、神様が必ず与えると約束してくださっていることは、同じではないのです。

神様は、私たちが望む学校に必ず入れるとは約束しておられません。
希望する仕事に、必ず就けるとも約束しておられません。
病気にならないとも、人生に苦しみが起こらないとも約束しておられません。
しかし、イエス・キリストを信じる者の罪を赦し、ご自身の子どもとして受け入れ、永遠のいのちを与えてくださると約束しておられます。
苦しみの中でも、ともにいてくださいます。
そして、私たちをキリストから引き離すことのできるものは何一つないと、聖書は教えています。
この祝福は、私たちが自分の力で勝ち取ったものでしょうか。
違います。
イエス・キリストが十字架で私たちの罪を負い、復活してくださった。その恵みによって与えられたものです。
私たちは、この恵みを信仰によって受け取るのです。
皆さん、私たちはこの祝福がどれほど大きなものか、本当に分かっているでしょうか。
エサウのように、この祝福を侮っていないでしょうか。
神様の祝福を求めながら、すでにキリストにあって与えられている大きな祝福を忘れてしまってはいないでしょうか。
目の前の願いがかなわないとき、そのことばかりが心を占めて、神様が与えてくださっている恵みが見えなくなってしまうことはないでしょうか。

5.主のみこころを悟り、約束に信頼して歩む

今週の暗唱聖句は、エペソ人への手紙5章17節です。

「ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。」

今日のエサウとヤコブの姿を思い起こしてください。
エサウは、目の前の欲求に心を奪われ、神様から与えられている大切なものを軽く扱ってしまいました。
ヤコブは、神様の祝福を求めながら、その祝福を自分の力で手に入れようとしました。
では、私たちはどう歩むべきなのでしょうか。
主のみこころを悟ることです。
それは、将来何が起こるかを、すべて知ることではありません。
神様がどのようなお方なのか。何を約束してくださっているのか。そして、私たちがどのように生きることを喜んでおられるのか。御言葉を通して、それを知ることです。
神様の約束を知り、その約束を信じ、神様のみこころに従って歩むことです。
進学を考えている人もいるでしょう。仕事を探している人もいるでしょう。家庭のことや、これからの人生について、大切な選択を迫られている人もいるでしょう。
そのとき、神様に祝福を求めてよいのです。自分の願いを正直に祈ってよいのです。
しかし同時に、こう祈りたいと思います。「神様、私にはこうなってほしいという願いがあります。でも、あなたのみこころは何でしょうか。私は、あなたが喜ばれる道を歩みたいのです。どうか教えてください。」
そして、御言葉に照らして考えるのです。
その選択は正しいことだろうか。人を傷つけたり、欺いたりするものではないだろうか。自分の願いを優先するあまり、神様の教えを後回しにしてはいないだろうか。
自分の願いが実現しなかったとしても、神様は真実なお方である。その約束は失われない。
そう信じて、今、自分に与えられている一歩を踏み出していく。
それが、主のみこころを悟って歩むということではないでしょうか。

そして、最後にもう一つ大切なことを覚えたいと思います。
それは、神様の祝福を求める私たちが、祝福を与えてくださる神様ご自身を、何よりも大切にするようになることです。
神様が何をくださるかだけではなく、神様がともにいてくださることを喜ぶ。
自分の願いが実現したときだけではなく、まだ答えが与えられていないときにも、神様を信頼する。
そのような信仰へと、私たちは成長させていただきたいと思います。

ヤコブも、このあと長い年月をかけて、神様によって取り扱われていきます。
そして後に、創世記32章では、神様の祝福を求めて必死にすがりつくヤコブの姿が描かれています。
人を欺いて祝福を手に入れようとしたヤコブが、今度は神様ご自身に祝福を求めるのです。
そこに至るまで、ヤコブには多くの失敗と苦しみがありました。
しかし、神様は彼を見捨てず、導き続けてくださいました。
私たちも同じです。
神様を十分に信頼できないときがあります。焦ってしまうこともあります。間違った選択をしてしまうこともあります。
それでも、神様は私たちを御言葉によって教え、悔い改めへと導き、ご自身に信頼して歩む者へと変えてくださいます。
ですから、私たちは神様の祝福を求め続けましょう。
しかしそれ以上に、祝福を与えてくださる神様ご自身を求め、神様の約束に信頼して歩んでいきたいと思います。

分かち合いに向けて

それでは、ここから皆さんと自由に分かち合いたいと思います。
最初に、こんなことを考えてみてください。
皆さんは今、神様にどのような祝福を求めているでしょうか。
何か実現してほしい願いがあるでしょうか。解決してほしい問題があるでしょうか。
それを神様に願うことは大切です。
でも、もう一つ考えてみたいのです。
その願いが、思い描いている通りには実現しなかったとしても、神様を信頼して歩み続けることができるでしょうか。
そして、その信頼を支えるために、私たちは神様のどのような約束を覚えていたらよいでしょうか。
すぐに答えが出なくても構いません。
また、今日のエサウとヤコブの姿から、何か自分自身に重なるところがあったでしょうか。
目の前のことに心を奪われてしまうエサウの姿でしょうか。それとも、自分の力で何とかしようとするヤコブの姿でしょうか。
私たちは、神様の祝福とは何か、そして神様の約束とは何かを、これからも御言葉によって学び続けたいと思います。
そのうえで、今、自分が求めている祝福について、皆さんはどのように考えるでしょうか。
今日は、そこから自由にお話ししてみましょう。

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