2016年7月17日 主日礼拝「斥候たちの報告」

本日の聖書箇所

民数記13〜14章

説教題

「斥候たちの報告」

今週の聖句

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを信じなければならないのです。

ヘブル人への手紙11章6節
 
訳してみましょう
1811 God desires willing hearts ready to be used.
(神は、使われる用意ができている自発的な心を望んでいる。)
1812 God’s work in us isn’t over when we receive salvation —- it has just begun.
(私たちが救いを受け取る時に、私たちにおける神の仕事は終わっていない。それは始まったばかりである。)
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説教メモ
本朝の主題は、目に見えるものには恐れずに、神さまに信頼する者には神さまが顧みてくださる、ということです。
今週の聖句にもありますように、神さまは、神さまを信頼する者には必ず報いてくださるお方であるということを、しっかりと受け止めていきたいと思います。
自分よりも強い相手を見たとき、私たちは恐れてしまい、何もする前から諦めてしまうことがあるのではないでしょうか。
今日の聖書箇所では、神さまに導かれて求めたカナンの地を目の前にしたイスラエルの民について記されています。偵察隊が遣わされました。帰って来た者たちの報告はネガティブなものでした。それを聞いた民たちは非常な不安に陥り、そしてつぶやきました。モーセをはじめとした指導者にくってかかりました。そんなイスラエルの民の姿を見た神さまが、どのようなことをなさろうとしたのか。そのことを見てまいりたいと思います。
神さまを信じると言うことは、ただ単に神さまの存在を信じるということではなく、神さまが善であり、愛であられることを信じることです。呼び求めれば応えてくださる神さまがそこにおられる。そういう神さまを認めることです。神さまを信仰を持って仰ぎ見る者を、神さまは喜んでくださいます。
今日の聖書箇所は3つに分割できます。
1つずつ見てまいりましょう。
 

1.カナン偵察(13:1〜24)

これからヨルダン川を渡ってカナンの地に入る。これは神さまの約束「アブラハム契約」で言われていることですが、今まさにカナンの地を目の前にしているところです。十戒が与えられた山の麓から、まっすぐ行けばわずか二週間でたどり着くことができる、そんな場所にイスラエルの民はいました。しかし、イスラエルの民はそこから40年という長い間、荒野をさまようことになることを、私たちは聖書を通して知っています。
この「40年」という期間ですが、なえ40年間なのか、それはきちんと聖書に理由が書かれています。

あなたがたが、かの地を探った日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間あなたがたは自分の咎を負わなければならない。こうしてわたしへの反抗が何かを思い知ろう。
(民数記14:34)

偵察隊が40日かけてカナンの地を巡りました。その一日を一年と数えて、40年という期間が定められました。それはなぜでしょうか。なぜ二週間で辿り着くことが出来たはずの約束の地「カナン」に、40年もかかって入ることになったのか。その出来事について見てみましょう。

「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。」
(民数記13:2)

このような神さまからの命令が出ました。
神さまは各部族を代表する12名をカナンの地の偵察へと遣わしました。
カナンの地には様々な部族が住んでいました。それらの人々の動きを探り、どのような町があるのか、人は多いのか少ないのか、土地は肥えているのか痩せているのかなど、カナンの地を全面的に探りに行かせました。遣わされた者たちはカナン全土を巡り探りました。それはおそらく、いくつかのグループに分かれて探ったのだと思われます。なぜなら彼らは「斥候(スパイ)」だったからです。
この偵察隊の中に、カレブとホセアがいました。

そのときモーセはヌンの子ホセアをヨシュアと名づけた。
(民数記13:16)

ここでモーセは、ヌンの子「ホセア(救い)」を「ヨシュア(主は救い)」と名前を変更しました。ヨシュアという名前をギリシャ語読みしますと「イエス」となります。
 

2.12人の報告

ここではカレブとヨシュアの二人が際立ってきますが、それは後ほど分かります。

四十日がたって、彼らはその地の偵察から帰って来た。
(民数記13:25)

偵察隊は40日かかってカナンの地を巡りました。そして偵察に行った12人が帰って来ました。そして全会衆に取ってきた果物を見せて報告しました。

そして、ただちにパランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆のところに行き、ふたりと全会衆に報告をして、彼らにその地のくだものを見せた。
彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。」
(民数記13:26〜27)

彼らはとても良い報告をしました。ところが…

「しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。
ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」
(民数記13:28〜29)

10人はカナンの地は素晴らしい地だった。「しかし」と続きます。

しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。
ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。
(民数記13:28〜29)

カレブと一緒に行った他の者たちは怯えてしまい、「それは絶対に無理だ」と主張しました。そこでカレブが立ち上がりました。

そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」
(民数記13:30)

カレブには信仰がありました。主がともにいてくださるのだから必ずできると言いました。ところがカレブとヨシュアの他の10人の「しかし」は続きました。

しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」
彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。
そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」
(民数記13:31〜33)

12人が遣わされたのですが、カレブとヨシュア以外の10人は否定的でした。カナンという地は素晴らしいには違いない。「しかし」そこの住人は屈強であり、私たちは必ず負けてしまうだろう、だから止めようとの主張でした。それが彼ら10人の信仰でした。
私たちはどうでしょうか。日々の歩みの中で、自分では乗り越えられそうにない難問にぶつかったとき、その問題に取りかかる前に、「それは絶対に無理だ」と諦めてしまうことはないでしょうか。クリスチャンになってからもそのようなことがあるのではないでしょうか。
私たちはそのことを祈り、信じ続けなければなりません。どんなことがあろうとも、神さまのみこころであるならば必ず成就するのだという信仰を、神さまは求めておられるのではないでしょうか。そこに信仰が必要です。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを信じなければならないのです。
(ヘブル11:6)

信仰のみが荒野を旅する際の「装備」であります。イスラエルの民が荒野で様々な体験をしてきましたが、その中で彼らにとって信仰が何にも勝る重要な「装備」でした。
私たちの「信仰の旅路」にも、このことが当てはまります。信仰の旅路に起こる様々な難題。しかし神さまのみこころであるならば、私たちは祈って備えるなら、必ずそれは成就するのだという信仰を装備しなければなりません。
私が献身したのは40歳の時でした。東京の神学校に行ったのですが、火曜日から土曜日のお昼頃まで他の学生とともに普通に授業をし、土曜日の夜に長野に帰ってきて、日曜日には教会の奉仕を、そして月曜日はぎりぎりまでアルバイトをしてまた夜行列車で東京に戻りました。そんな生活が3年続きました。多くの人は「そんな生活は無理だ」と言ったものです。しかしこのことは、ただ私が行きたいから行ったのではなく、神さまから出たご計画だという確信がありましたから、絶対に大丈夫だと思っていました。この世的にはとても難しさはありましたが、神さまが導いてくださっているというその信仰によって、そして教会の皆さんの祈りに支えられ、その3年間の学びは守られました。
そのように、私たちには無理だと思えることでも、神さまが導いてくださっていることならば、必ず成し遂げられます。その信仰に立っていただきたいと思います。
信仰は私たちの歩みにおいて、重要な装備であることをぜひおぼえてください。
 

3.神の約束への信頼

さて、民数記は14章に入ります。
14章1〜4節は、イスラエルの民がカレブに反対し、モーセや指導者につぶやいています。
困難を前にして、それも10人が言った「偽りの証言」によって、「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」と互いに言いました。エジプトという言葉が3回も出てきます。それほど民はエジプトに帰るしか仕方がないとの願望が強かったことが分かります。もう一度エジプトの奴隷の家に戻ろう。そこが自分たちにとって安息の場所であると錯覚をしていました。
このことにおいて、私たちに何を示しているのでしょうか。
私たちはイエス様の十字架によって罪が赦され、罪の奴隷から解放され、神さまに向く者と変えられました。それなのに、困難を目の前にしてイエス様の贖いを完全に否定してしまう、また罪の奴隷に戻りたいと願ってしまうことを示しているのではないでしょうか。

そこで、モーセとアロンは、イスラエル人の会衆の全集会の集まっている前でひれ伏した。
(民数記14:5)

ここでモーセとアロンは、反逆する民に対して何も言いませんでした。ただ神の前にひれ伏しました。民をここまで導いてくださった神さまのみわざを否定する民の言動と振る舞いに対して、神さまの裁きがくだることを恐れ、そしてただひたすらに神さまに祈り願いました。
そこでヨシュアとカレブは、自分たちの衣を引き裂いて民たちに訴えかけました。「主が約束された素晴らしい良い地カナンに入れるように、不信仰を悔い改めて主のみこころにかなう者になろうと、イスラエルの民に呼びかけました。これは主が与えられた最後の機会でもありました。ところが民は、カレブとヨシュアを石で打ち殺そうとしました。そのとき、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現われました。
14章11〜25節において、神さまが民を疫病で滅ぼしてしまおうとモーセに語られました。しかしモーセはここでもとりなしています。神さまはその思いをとどまられました。
ここでひとつ教えられることは、モーセは民のためにとりなしました。イスラエルの民は決して立派な人たちではありませんでした。そんな民のためにとりなしています。このモーセの姿に、私たちは教えられるのではないでしょうか。
私たちが試練の中にある時に、誰かがとりなしをしてくださっていることを、いつもおぼえていてください。自分だけが苦しんでいるのではない。必ず私たちのためにとりなしてくださっている祈り手がいることを是非おぼえてください。皆さんが祈祷会に出席されればお分かりになると思います。ですから、たとえ試練の中にあっても、決して一人で戦っているのではありません。誰かが私のために祈ってくれている。そのことを知っているのと知らないでいるのではだいぶ違います。
さて、モーセはここで神さまのあわれみを求めました。神さまは民に疫病を送って滅ぼしてしまわれるとモーセに仰いました。そしてモーセのとりなしの祈りによって、民は神さまの赦しにあずかることができました。
14章26節からの後半に入ります。
主はこの民の罪を赦すと、モーセとアロンに仰いました。しかし、

二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。
(民数記14:29)

神さまは14章の後半で、20歳以上の民はこの荒野で死ななければならないと、なんと4度も仰っています。それは14章29、32、33、35節です。
「20」とはどういうことでしょうか。民数記1章をご覧ください。

人々がエジプトの国を出て二年目の第二月の一日に、主はシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられた。
「イスラエル人の全会衆を、氏族ごとに父祖の家ごとに調べ、すべての男子の名をひとりひとり数えて人口調査をせよ。
あなたとアロンはイスラエルにおいて、二十歳以上の者で、すべて軍務につくことのできる者たちを、その軍団ごとに数えなければならない。
(民数記1:1〜3)

さらに46節をご覧ください。

すなわち、登録された者の総数は、六十万三千五百五十人であった。
(民数記1:46)

このように数えられた20歳以上の民が死ぬということは、彼らの罪の結果でありました。
さらに、若い世代の者たちは、親たちの背信の咎を負って40年のあいだ荒野をさまようことになりました。

こうして、その地をひどく悪く言いふらした者たちは、主の前に、疫病で死んだ。
しかし、かの地を探りに行った者のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフネの子カレブは生き残った。
(民数記14:37〜38)

神が約束された乳と蜜の流れる地を悪く言いふらした斥候たち10人は、疫病に打たれて死にました。しかし、ヨシュアとカレブは生き残りました。
「信仰は人を生かす」と言います。
エジプトの国を出て2年目に行われた人口調査で数えられた603,550人は、ヨシュアとカレブを除いて全て死ぬことになりました。約束の地に入れませんでした。ヨシュアとカレブは約束の地に入ることができました。
あれほどの指導者、モーセも約束の地に入ることができませんでした。それはなぜでしょうか。皆さんへの宿題とします。ぜひ調べてみてください。

あなたがたの子どもたちは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、あなたがたが死体となってこの荒野で倒れてしまうまで、あなたがたの背信の罪を負わなければならない。
あなたがたが、かの地を探った日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間あなたがたは自分の咎を負わなければならない。こうしてわたしへの反抗が何かを思い知ろう。
(民数記14:33〜34)

ここでも、なぜ40年間荒野をさまよったのか、それは斥候たちがカナンの地を探った日数が40日であったこと。けれども10人の報告に民たちは恐れ、神さまの約束を疑い、背信の罪を犯してしまいました。それなので、「その一日を一年と数えて、四十年の間」荒野をさまようことになったのです。
続いて、ひとつ大変な出来事が起こりました。

モーセがこれらのことばを、すべてのイスラエル人に告げたとき、民はひどく悲しんだ。
翌朝早く、彼らは山地の峰のほうに上って行こうとして言った。「私たちは罪を犯したのだから、とにかく主が言われた所へ上って行ってみよう。」
するとモーセは言った。「あなたがたはなぜ、主の命令にそむこうとしているのか。それは成功しない。
上って行ってはならない。主はあなたがたのうちにおられないのだ。あなたがたが敵に打ち負かされないように。
そこにはアマレク人とカナン人とがあなたがたの前にいるから、あなたがたは剣で打ち倒されよう。あなたがたが主にそむいて従わなかったのだから、主はあなたがたとともにはおられない。」
それでも、彼らはかまわずに山地の峰のほうに登って行った。
(民数記14:39〜44)

モーセは止めました。しかし彼らは登っていってしまいました。その結果はどうでしょう。

しかし、主の契約の箱とモーセとは、宿営の中から動かなかった。
(民数記14:44)

つまり、神さまは彼らとともに行かなかったのです。その結果、

山地に住んでいたアマレク人とカナン人は、下って来て、彼らを打ち、ホルマまで彼らを追い散らした。
(民数記14:45)

人数は分かりませんが、モーセが「約束の地へ行こう」と呼びかけたにもかかわらず、登って行ってしまった人たちはアマレク人とカナン人に打たれてしまいました。
私たちは何か計画をして、「あぁ、失敗した」と後悔することがあります。しかし、後悔と悔い改めは違います。
心からの悔い改め。
イエス様の十字架を前にして裏切ったイスカリオテ・ユダ。彼は悪いことをしたと後になって気づきました。しかし、彼には悔い改めがありませんでした。
ペテロはどうだったでしょうか。ペテロはイエス様を3度否定しました。その失敗を後になって心から悔い改めました。イエス様は「あなたはわたしを愛するか」とお尋ねになりました。 しかも三回ペテロに迫られました。おそらくペテロは涙をいっぱい浮かべて言いました。

「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」
(ヨハネ21:17)

このように主にすがりました。二人の違う結果は聖書に記されているとおりです。ただ反省しただけにとどまったイスカリオテ・ユダと、心からの悔い改めをしたペテロとの違いがここにあります。
私たちも、何か物事がうまくいかなくて「あぁ、失敗した」と思う時には、それだけで終わることをせず、神さまに対し心からの悔い改めをしましょう。その失敗の原因はなんであったのか。神さまの約束を心から信頼せず、また、神さまのご計画をとことんまで求めるべきだったのに、先走ってしまったことが原因かもしれません。
そのことに気づいたなら、後悔ではなく「悔い改め」へと導いていただきましょう。そして、祈りましょう。
そうすれば、神さまは再び立ち上がるチャンスを与えてくださいます。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを信じなければならないのです。
(ヘブル11:6)

人を恐れず、ただ神さまを信じ、神さまの導きに従っていく。そして必ず、神さまはすべてのことを働かせて益としてくださいます。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
(ローマ8:28)

私たちの目に、悪くしか映っていない出来事であっても、結果的に見ると、その結果はもしかしたら何年も後になるかもしれませんが、神さまの導きであったことが分かります。神さまに感謝することになります。
そのような神さまがおられることを心から信じ、そして信頼してください。私たちの祈りに必ず応えてくださる神さまがおられます。

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