2016年11月20日 主日礼拝「エリヤ(2)」
本日の聖書箇所
列王記第一18章
説教題
「エリヤ(2)」
今週の聖句
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
エペソ人への手紙6章12節
訳してみましょう
1844 God never sleeps.
(神は決して眠らない。)
1845 The reason we exist is to be in fellowship with God.
(私たちが存在する理由は、神との交わりの中にいることである。)
説教メモ
1.デヴィット・リビングストン
彼をご存知でしょうか? 彼はアフリカの探検家でした。今日はもう少し詳しく彼のことを学んでみましょう。
1812年、およそ200年前にイギリスのスコットランドの小さな村に生まれました。両親は敬虔なプロテスタントの信者でした。家は貧しかったようです。彼は朝から晩まで紡績工場で働き、夜に夜間学校に行き2時間勉強をしました。彼は歴史の本や探検の本が好きでそれらを読み続けました。12歳のころ、恐らく彼は聖書を読んだのでしょうか、自分は罪人であることを自覚しましたが信仰を持つまでには至りませんでした。20歳のころ、ある書物を読み、主の十字架を今すぐ、このまま受け入れれば良いのだと悟り、主を信じ生まれ変わりました。神さまの愛に応えたいという思いに駆られていきました。ちょうどその頃、中国伝道に携わっていたリツラク(聖書を初めて日本語に訳した人です)が書いた本を読み、その熱烈なアピールに心が動かされ、中国の医療伝道者になろうと思い立ち、学業に戻り、医学を学びました。そして語学と医学、神学を学び、さらに後にはロンドン大学でも学びを続けました。26歳のころ、ロンドン伝道教会の宣教師試験を受けました。その中の一つに実地訓練がありました。ある日、牧師に変わって説教をする訓練がありました。ところが、講壇に立つと何を話したら良いのか分からなくなってしまいました。彼はその場から逃げ出すようにして壇を降りました。いよいよ中国へという頃、中国ではアヘン戦争があり、彼の宣教師としての働きの道は閉ざされてしまいました。そんな時、アフリカの宣教師であったモパットと出会いました。リビングストンは心動かされ、「私のような者にでもアフリカで何かできるでしょうか」と尋ねると「もちろんです。ただ、誰も入ったことのない奥地で伝道することです。」とアドバイスされました。直ちに彼はアフリカに行くことになりました。1840年12月8日にロンドンを出発し、アフリカへと向かいました。病気との闘いなど困難な道を通りました。当時は奴隷売買が盛んな時代でした。奴隷商人から奴隷を救い出すという活動もしました。そして約30年間、アフリカ伝道をしました。1873年5月、ある湖のほとりの小さな村に辿り着き、そこで病気と極度の疲労により、全アフリカの救いと祝福を祈りつつ、そのままの姿勢で天に召されました。忠実な彼のしもべたちが彼の遺体をイギリス本国に送りました。彼はアフリカにおいて、一粒の麦となりました。これがきっかけとなり、どんどんと宣教師が派遣され、110の伝道協力会が出来、19,000箇所に伝道地が開拓され、彼の祈りと意志とが受け継がれて行きました。私は幼い頃、リビングストンはアフリカの探検家だということは知っていました。ですが実は、彼は宣教師として遣わされたのです。
2.カルメル山での対決
今日はエリヤについての2回目となります。
神さまはエリヤを召し出してくださいました。そしてアハブ(北イスラエルの王)と対決しました。妃はイゼベルという人です。アハブは半分クリスチャン、残り半分はそうではありませんでした。彼は主を知ってはいましたが心から従うことはなく、また妃の影響でバアルを崇拝しました。イゼベルは悪い女でした。偶像バアルやアシェラ像に仕える預言者たちを養っていました。
そのような中、神さまはエリヤを通して「ここ2〜3年は雨が降らないだろう」と告げており、それをアハブは聞いていました。雨が降らないということは食料がないということです。エリヤはケリテ川でからすに養われ、次に寡婦のところに行きました。その寡婦は貧しく、その時、自分と息子の命を絶とうとしていたところでした。
すると、彼に次のような主のことばがあった。
「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」
彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」
彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」
彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」
エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。
イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」
彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。
エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。
(Ⅰ列王17:8〜16)
ところが、寡婦の男の子が死んでしまいました。しかしエリヤはその男の子を生き返らせるという奇跡を行いました。
18章に入り、三年目に主の命令がエリヤにくだりました。
それから、かなりたって、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。」
(Ⅰ列王18:1)
アハブに仕えているオバデヤという男がいました。オバデヤは王宮を司っており、預言者のような立場でした。彼は主を恐れながら、偶像を崇拝しているアハブとイゼベルに仕えているものでした。そしてそのための仕事もさせられていました。
北イスラエルの首都であるサマリヤに、イゼベルは夫のアハブを導き、バアルの神殿を建てさせました。それに反対する主の預言者たちを殺そうとしました。そういう状況にあって、エリヤはアハブに会いに行くことになりました。会いに行くとは「命がけ」でした。その道中、主は密かに主を信じ、100人の主の預言者をかくまったオバデヤを備えられました。
アハブはエリヤを見るなり、「イスラエルを惑わす者だ」と言いました。しかしエリヤは、「バアル礼拝を取り入れたあなたこそイスラエルを惑わす者だ」と応酬し、自分がイスラエルを救う者であるという使命感から、カルメル山でのバアルの預言者との全面対決をアハブに要請しました。
「さあ、今、人をやって、カルメル山の私のところに、全イスラエルと、イゼベルの食卓につく四百五十人のバアルの預言者と、四百人のアシェラの預言者とを集めなさい。」
(Ⅰ列王18:19)
真の主に仕える預言者エリヤはただ一人、カルメル山で、偶像に仕える預言者850人と対決しました。
彼らは、私たちのために、二頭の雄牛を用意せよ。彼らは自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂き、たきぎの上に載せよ。彼らは火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにして、たきぎの上に載せ、火をつけないでおく。
あなたがたは自分たちの神の吊を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい。」と言った。
(Ⅰ列王18:23〜24)
先にバアルの預言者たちが始めました。ところがバアルの神はなかなかそれに答えず、バアルの預言者たち踊り始めます。
真昼になると、エリヤは彼らをあざけって言った。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」
彼らはますます大きな声で呼ばわり、彼らのならわしに従って、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけた。
(Ⅰ列王18:27〜28)
エリヤはバアルの預言者をからかうようなことを言いました。そしてバアルの預言者たちは真剣でした。
このようにして、昼も過ぎ、ささげ物をささげる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった。
(Ⅰ列王18:29)
結局、バアルの預言者たちは何もできませんでした。次はエリヤたちの番です。
エリヤが民全体に、「私のそばに近寄りなさい。」と言ったので、民はみな彼に近寄った。それから、彼はこわれていた主の祭壇を建て直した。
(Ⅰ列王18:30)
エリヤは、もともとあった祭壇を立て直しました。昔からあったのに、まったく顧みられることのなかった主の祭壇を立て直しました。
エリヤは、主がかつて、「あなたの吊はイスラエルとなる。」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取った。
その石で彼は主の吊によって一つの祭壇を築き、その祭壇の回りに、二セアの種を入れるほどのみぞを掘った。
ついで彼は、たきぎを並べ、一頭の雄牛を切り裂き、それをたきぎの上に載せ、
「四つのかめに水を満たし、この全焼のいけにえと、このたきぎの上に注げ。」と命じた。ついで「それを二度せよ。」と言ったので、彼らは二度そうした。そのうえに、彼は、「三度せよ。」と言ったので、彼らは三度そうした。
水は祭壇の回りに流れ出した。彼はみぞにも水を満たした。
ささげ物をささげるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。
私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」
すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。
民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言った。
(Ⅰ列王18:31〜39)
エリヤがささげた祈りによって主は降りてこられ、いけにえを焼き尽くしました。そして民に命令しました。
そこでエリヤは彼らに命じた。「バアルの預言者たちを捕えよ。ひとりものがすな。」彼らがバアルの預言者たちを捕えると、エリヤは彼らをキション川に連れて下り、そこで彼らを殺した。
(Ⅰ列王18:40)
これがカルメル山での対決でした。
エリヤは非常に不利な状態の中で戦いました。そして主はエリヤが祈ったとおりにおこたえになり、勝利を得ました。
アハブはどうしたらよいか分かりませんでした。その時、エリヤはアハブに忠言します。
1kig18:41 それから、エリヤはアハブに言った。「上って行って飲み食いしなさい。激しい大雨の音がするから。」
(Ⅰ列王18:41)
その時は、まったく雨が降る気配などまるでありませんでした。
そこで、アハブは飲み食いするために上って行った。エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。
それから、彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海のほうを見てくれ。」若い者は上って、見て来て、「何もありません。」と言った。すると、エリヤが言った。「七たびくり返しなさい。」
七度目に彼は、「あれ。人の手のひらほどの小さな雲が海から上っています。」と言った。それでエリヤは言った。「上って行って、アハブに言いなさい。『大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。』」
しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。アハブは車に乗ってイズレエルへ行った。
主の手がエリヤの上に下ったので、彼は腰をからげてイズレエルの入口までアハブの前を走って行った。
(Ⅰ列王18:42〜46)
このように、カルメル山においてエリヤは対決に勝利しました。そして主の御名を褒め称えました。
3.エリヤ、アハブ、イゼベル、オバデヤ
この4人はここでのおもだった登場人物です。
- エリヤ…主に仕える預言者、けれどもアハブを、イゼベルを恐れていた
- アハブ…主を恐れ、同時にイゼベルを恐れ、主に仕え、バアルに仕えていた
- イゼベル…主の預言者たちを容赦なく殺した。自分が信じるバアルを持ち込み、夫を悪に誘い込んだ悪妻
- オバデヤ…王宮を司っており、預言者のような立場。主を恐れながら、偶像を崇拝しているアハブとイゼベルに仕えているもの、そのために仕事をさせられていた
アハブは悪い王ではありましたが、オバデヤとともに民のために水を求めて巡り歩きました。そういう王でもありました。
私たちの日本には面白い習慣がありますね。七夕とか、てるてる坊主とか。みなさん本当に信じてやっているわけではないでしょう。伝統的に、習慣的に行っています。私たちは聖書を知らない多くの人たちに囲まれて生活しています。そんな中で、人から本当の神さまについて説明を求められる時があるかもしれません。私たちにはそれに答えなければならない責任があります。この世の宗教と、私たちが信じている聖書の神さまとは、何が違うのでしょうか。この世の宗教は「人が作った神さま」であり、聖書の神さまは「人を作った神さま」です。バアルのように願いを聞くことができない神々、エリヤの祈りに即座に答えられた、願いを聞いてくださる真の神さま。
世の人々は、手紙の終わりに「お祈り致します」などと書きますが、それは習慣的なものでしょう。本当に祈ってなどいないでしょう。また、「もう祈るしかない」などと絶望の状況を言い表すこともあります。
しかし、私たちの祈りは気休めではありません。なぜなら、本当の神さまに対する信仰に基づくものだからです。神さまは私たちが祈る事を喜んでくださるばかりではなく、その祈りを聞いてくださる神さまです。神さまのタイミングで、神さまの最善の方法で私たちの祈りに答えてくださいます。もし私たちの祈りが聞かれるということが奇跡だと言うならば、聖書の神さまによってのみ奇跡は起こりえるのです。
さて、皆さんはこの4人の登場人物の中で、誰に一番近いとお思いでしょうか。エリヤか、アハブか、イゼベルか、オバデヤか。
私はオバデヤではないかと思っています。1%に満たないクリスチャンである私たちは、この世の習わしに従わざるを得ない状況もある中で、真の神さまに従い生きています。
その中で、私たちがこの世で本当に対決していかなければならないもの、そして解決していかなければならないことは何でしょう。
それは「罪」であり、「サタン」ではないでしょうか。私たちは弱く、愚かな者ではあるけれども、主イエス様は罪に勝利され、罪がもたらす死を十字架で打ち破ってくださいました。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
(エペソ6:12)
私たちが本当に戦わなければならないもの、それを今一度、確認し覚えておきたいものです。
その人を憎むのではなく、その背後に働く悪霊、サタンを憎むのです。その人もまた、私たちと同じ神のかたちに似せられて造られた者です。もしかしたら悔い改める機会があるかもしれません。その願いを込めて、私たちに反対する人、その背後に働くサタンは憎んでも、その人は憎んではならない。そのことを私たちは、オバデヤの歩みを見て示されているのではないでしょうか。