2016年5月29日 主日礼拝「大切な戒め」

本日の聖書箇所

マタイの福音書22章36〜40節

説教題

「大切な戒め」

説教者

Danny Mulkey

今週の聖句

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」

マタイの福音書22:37、39
 
訳してみましょう。
1801 With God behind you and His arms beneath you, you can face whatever lies ahead.
(あなたの背後におられる神とあなたを支える神の腕で、あなたは待ち受けているものに何にでも立ち向かうことができます。)
1802 Wherever God sends us, He comes alongside us.
(神が我々をどこに行かせようとも、神さまは我々と並んで来ます。)
 

証し

Kaitlin Freemanさん

Kaitlin Freemanさん


私の育った家庭は宗教のある家庭でした。家族は一応イエス・キリストを「知っている」という状態でした。でも私のイエス・キリスト像というものは、とても小さなものでした。イエス・キリストを個人的に知るというよりも、真面目な人になることを強調していました。私は子どもの頃にイエス様を信じる告白をしました。そして、キリストに対する飢え渇きも感じていました。でも、後々になってもっともっと深いものがここにあることを知りませんでした。
私は劣等感を感じて育ちました。人々から切り離されている気持ちがしていました。いつも拒絶され、自分を正しい者とする屁理屈なものでした。そして本当に孤独でした。家族もイエス様は必要だと口では言っていましたが、実際は家族の中はばらばらでした。私はもっと深い罪に陥りました。嘘、自分を世間から隔離したり、人を侮辱したり、性的にも乱れてしまいました。常に他人を傷つけ、同時に自分も傷つきました。
私の心の痛みを和らげるための唯一の慰めは読書でした。最終的に残ったのは私の家族だけでした。その家族も壊れた状態でした。父は私たちを非常に強く支配的にコントロールしました。言葉も侮辱と乱暴に満ちたものでした。このために私は他の男性からも虐待を受けるようになりました。心の中では本当に多くの心配、ストレスを感じていました。そして落ち込みました。自殺も試みました。でも、イエス様は、そんな私のために計画を持っていました。そしてイエス様の話しをしてくれる、ある友人と親しくなり始めました。イエス様は遠いところにいる方ではなく、いまここにいらっしゃると教えてくれました。彼女はいつもイエス様と会話をしている、導かれている、イエス様に愛されている、と話してくれました。それを聞いて私のイエス様と共に歩く旅が始まりました。
イエス様は私のすぐそばにおられる方である、私や私以外の人のためにすばらしい計画を持っていることを知りました。その計画の一つに、私が他の国に行ってイエス様を分かち合いたい、福音を伝えたいというものがありました。私は父にそのことを話したとき、父は私を切り捨てました。そして家族も分裂しました。両親は離婚し、今でも壊れた状態は続いています。しかし、私は失ったものよりも、祖霊以降神から得た恵みの方が多く、降り注がれました。何より、感謝していることは、私の家族もいずれ救われる、そして世界も救われるという希望があります。

また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。(マタイ19:29〜30)

皆さんにも、その約束は与えられています。
 

メッセージ

「大切な戒め」マタイの福音書22章36〜40節

Danny Mulkey師

Danny Mulkey師


神さまは私に、皆さんと分かち合いたいひとつのみことばをくださいました。
みことばは4箇所見たいと思います。聖書はとても難しく感じるかもしれません。しかしイエス様の示した模範というものはとてもシンプルです。誤解しないでください。本当は深いのです。しかしそれはシンプルです。その中で、聖書の中でも基本的なことについてお話しします。

また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。(ヤコブ1:22)

ここでヤコブは、私たちはただ聞いただけで実行しないならば、欺いていると言っています。
たとえば皆さんが新車を購入したとします。あなたは車を買うにあたり、車について色々調べたり比べたりしました。お金もたまってようやく購入しました。家に届いた車はとても美しかったです。隣人にも自慢しました。燃費について、スピードがどれだけ出るかなどを自慢しました。隣人に乗ってみるように勧めました。隣人は乗り心地を褒めてくれました。しかし、もし皆さんが鍵を回してエンジンをかけ、ギアを入れなければその車は動きません。車は走るために作られています。座るためだけではありません。移動のためのツールです。
今はテクノロジーがあふれています。何でもバーチャルが可能です。PCではバーチャルで色々なゲームができます。ジャンボジェット機を運転することもできます。旅行にも出かけられます。画面を見ているだけですから。ビデオゲームをするなら大きな軍隊を滅ぼすこともできます。しかし私たちはいつもバーチャルの中で考え、行動しているので、気をつけないと霊的な生活もバーチャルで終わってしまう可能性があります。それはリアルではありません。ヤコブ1章22節はそのことを教えています。
私も同じような間違いを犯しています。私は聖書を読みます。神さまはそれを通してみこころを示されます。みことばの暗唱もしています。人に話すこともできます。でも、それを実際に実行しないならば、それはバーチャルで終わってしまっているのです。現実ではありません。よくある話しですが、ある人が私の所に来て、あの人は本当に信仰深いクリスチャンだと言います。なぜそう言えるのかと問うと、「みことばを知っているから」と答えます。「彼はマタイの福音書を丸暗記しているんですよ!」などと言いますが、しかし知識が私たちクリスチャンを強くするわけではなく、知って従うことにより、それを実行することによって強くなります。私たちはそれを納得しているはずです。でもよく考えてみると、私はバーチャルの世界にいる、バーチャルな生活をしていることを思い起こし反省してしまいます。
皆さんの手元にある聖書は理論ではありません。それは神さまのこころそのものが印刷され、文字になって表れているのです。そして、そのことばを私たちの生活に適用することによって、私たちは変えられます。たとえば、

そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』(マタイ22:37)

この背景は、ある宗教家がイエス様を罠にかけようとしかけています。宗教家は最も優れている戒めは何かと問いました。イエス様は答えました。それがマタイ22章37節の答えです。二つ目の答えは

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。(マタイ22:39)

聖書の厚みはどれくらいありますか? とても厚いですよね。でもイエス様は、聖書にはたくさんのことが書かれているけれど、全部をまとめてこれだけ守れば良いのだと、この二つをおっしゃいました。「自分の全てをもって神さまを愛しなさい」そして、「あなたの隣人を自分と同じように愛するように」とおっしゃいました。1つめ、2つめ同じように大切とおっしゃいました。そして、「すべての預言者、戒めが、この二つにかかっている」とおっしゃいました。ですから祈るとき、聖書を読むとき、私たちはそこで神さまに従うべき事をたずねます。私たちはマタイを見て、私たちが従うべき課題はあるでしょうか? このみことばを読んで、暗唱して、人々に紹介するだけで良いのでしょうか。それが従うということですか? ここでは「自分のすべてをもって神を愛しなさい」とありますから、私たちは「どうやってそれをするのですか?」と問うように、すぐに次のステップに進むべきです。自分を欺いてはいけない、覚えるだけでなく実行しなければなりません。もし私が神さまを全てをもって愛するなら、当然神さまとともに全ての時間を共にすべきだということになるでしょう。そして神さまは、私の全てを、体も心も魂も愛されている方です。そして私のすべてが神さまの御国に関わって欲しいと思われています。
私たち夫婦は結婚40周年を迎えました。妻は立派です。こんな私と40年も一緒にいてくれたのですから! 皆さんは私と40年住めますか? 妻は本当に勇気と忍耐のある女性です。
私が一番好きなことは、妻と時間を共に過ごすことです。何をするわけでもなく、ただ一緒にいることです。朝起きると、彼女は私の手を取り、リビングでともに聖書を読みデボーションをします。その時までまだ何も会話をしていません。お互い愛し合っていますから、ただ一緒にいるだけで幸せなのです。私たちは田舎にドライブに行きます。2時間も何も話さなくても、一緒にいることだけで満足です。
このみことばを適用、実行するなら、神さまがこれほど私たちを愛しているなら、私たちは神さまともっともっと時間を共に過ごしたい、もっともっと神さまと親しくなりたいと思うことが自然なことだと思います。
日本まで来るのに、永遠と思えるほどの時間がかかりました。そこでイエス様との時間を過ごすことができました。昨日の午後、イエス様との時間を過ごしている中、私はとても励まされました。心を尽くして神さまを愛する第一歩目としては、イエス様と時間を過ごすことがとても良いステップではないでしょうか。
まず、神さまと自分との縦のつながりをしっかりと結びつけられ、すると今度は横のつながりとして隣人を愛していくことができます。イエス様はこれが一番大切だとおっしゃいました。だからそれが一番大切であることを忘れてはいけません。これはイエス様からの提案ではありません。それは私が実行すべきことです。それならば、隣人を愛する方法を普段から考えなければいけません。もうひとつのみことばを見ましょう。

すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。(ルカ10:27)
イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」(10:28)
しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。(10:30)
たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。(10:31)
同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。(10:32)
ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、(10:33)
近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。(10:34)
次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』(10:35)
この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」(10:36)
彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」(10:37)

すばらしい話しです!
律法学者の質問に対して、イエス様はズバリ答えられました。同時に、私たちの心にも深く語られています。みことば、祈り、賛美をもって神の御前に出るならば、神さまは私たちに語ってくださいます。私たちの心に語ってくださるんですよ。これは私の作り話ではありません。聖書がそう言っているのです。

羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。(ヨハネ10:3)
彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。(10:4)
しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。(10:5)

イエス様は「あなたはわたしの羊です。その声を聞き分けて従う」とあります。私たちは毎日イエス様とともに時間を過ごすべきです。私の場合は、特に朝です。私の祈りは、「神さまどうぞ今日、私の隣人を愛することできますように」というものです。たとえば、バスに乗っているとします。礼儀としては普通、いきなり隣りの人に話しかけることはないでしょう。でも、ある人が思いきって知らない隣の人に話しかけてみたところ、凄い事が起きたと聞いたことがあります。「神さま、私を好きなようにお使いください」と祈るなら、神さまはその瞬間から色々な凄いことをなさいます。自分を守るばかりでなく、神さまにお任せするなら、神さまは凄い事をされます。
これはある婦人のお話です。その婦人が飛行機に乗ったとき、もう一人の知らない婦人が乗り合わせました。そしてなんと、たまたま乗り合わせた二人のハンドバッグがそっくり同じだったのです。実は、クリスチャンの婦人は飛行機に乗る前に祈りました。「神さま、私に証をする機会をください。」すると、同じハンドバッグを持った婦人がいたのです。それをきっかけに彼女に話しかけることができました。そしてその会話の中で福音を語ることができました。そのような例えは山ほどあると思います。神さまが導いたタイミング
今週、もし神さまが神さまのタイミングで皆さんを用いてくださるとしたらどうでしょうか。皆さんがイエス様を知り、救われ、赦されているなら、神さまは当然私たちの周囲の人たちにも救いが必要であることを知っています。そしてもし、神さまに「福音を語る機会をお与えください」と祈るならば、神さまは必ずそのようにしてくださいます。神さまは私たちの人生すべてにおいて、神さまの計画の中でそういう機会を与えながら導かれています。みことばを実行するチャンスを神さまは開いてくださいます。
私は火曜日に、シリア難民の報告をすることになっています。私と妻、そしてデニスさんはおよそ2000人の方々とチームを組んで、この夏ヨーロッパを支援するためのある企画に参加しました。全員ができることではありません。でも、私には一年前、まったくそんな思いも、計画も私の中にありませんでした。しかし、そのように神さまは導かれました。神さまの導きによってそのことが可能になりました。もし私たちが神さまのみことばに服従して、神さまのみことばに服従します、という心を持つならば、必ず力と勇気と機会を与えてくださいます。それが神さまです。全宇宙の創造者ですから。日々のスケジュールを面倒見れないなどということはありません。誰かに仕えるためのチャンスを、誰かに証しするチャンスを私たちが求めるなら、神さまは必ずすべてを整えて与えてくれるでしょう。
アメリカの高校ではスクールダンスというダンスパーティーが年に数回あります。体育館にバンドを招いて、皆が馬鹿げたダンスをするのです。体育館を見ると、壁のところにたくさんの学生がよりかかって、ダンスをするわけもなく見ているだけの人がいます。ダンスしている学生もいます。私は壁ぎわでただ座って見ている人でいたくありません。実際に踊りたいのです。神さまが何かをしている、その中に私は居たいのです。自分の家庭の中でも、近所の人たちの中でも、教会でも、世界中が与えてくださるあらゆる機会の、その中心にいたいのです。神さまが与えてくださるダンスに、私は踊りに行きたいのです。皆さんはダンスをする人ですか? 壁際で座ってただ見ているだけの人ですか?
イエス様に従うことに、自分の性格は全く関係ありません。自分はシャイであるとか、逆に積極的だとか、そういったことはまるで関係ありません。あなたが神さまの息子、娘であるかどうかが肝心なのです。
一緒に祈りましょう。
イエス様、どうぞ私たちにあなたに従うチャンスを、あなたに仕えるチャンスをください。私があなたを愛するように隣人を愛するチャンスを与えてください。どうか私たち一人ひとりが本当にあなたを愛し、隣人にあなたのすばらしい救いを宣べ伝えることができるよう、導いてください。その扉を開いてくださいますようにお願い致します。イエス様のお名前を通してお祈りします。アーメン。



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