2026年6月7日 主日礼拝「ラッパの合図」
前 奏 黙祷
招 詞 詩篇100篇
讃 美 讃美歌4「よろずのくにびと」
使徒信条 讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
交読文 詩篇139篇(新聖歌 交読文44)
讃 美 讃美歌534「ほむべきかな」
新聖歌188「救い主は待っておられる」
聖書朗読 民数記10章1〜10節
説 教 「主に集められ、主に遣わされる」
讃 美 讃美歌385「うたがい迷いの」
聖餐式 讃美歌206「主のきよきつくえより」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 ローマ人への手紙 8章14節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
民数記10章1〜10節
説教題
「主に集められ、主に遣わされる」
今週の聖句
神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。
ローマ人への手紙 8章14節
説教「主に集められ、主に遣わされる」
民数記10章1〜10節
導きを知らなければ、恵みを受け損ねる
先週の説教の冒頭で、私は以前、車で京都へ行った際に、カーナビの指示に従うことによって、迷うことなく京都へ着き、そして無事に長野へ帰って来ることができたという話をしました。
実は昨日まで、私はまた京都へ行って来ました。今回も兄から車を借り、前回と同じように、ちゃんとカーナビの指示に従って行って来ました。指示に従ったつもりでしたが、京都に着く最後の最後で、カーナビが案内してくれた分岐をうっかり間違えてしまい、少し遠回りをしてしまいました。
改めて思わされます。行ったことのない場所へ向かう時、自分の勘や経験だけでは限界があります。だからこそ、「今はこちらへ進みなさい」「次は右です」「ここで降りてください」と導いてくれるものが必要です。その導きに素直に従うなら、目的地へたどり着くことができます。
ところで皆さんは、新しい電化製品を買われた時、まず取扱説明書を読まれるでしょうか。私はどちらかと言えば、取り敢えず使い始めるタイプです。そして何か分からないことが出てきた時に、ようやくマニュアルの「よくある質問」を見る。そんな感じです。すると不思議なことに、大抵の問題はそこに書かれているのです。迷ったり分からなかったりすることは、大体皆さん同じなのだな、と思います。
今回、兄の車を借りた時、その車には「レーダー探知機」というものが付いていました。高速道路などで速度違反の取締りポイントや、危険箇所などを知らせてくれる装置です。調べてみると、これは決して違法なものではなく、むしろ「ついうっかり」を防ぎ、安全運転を助けるものだそうです。
ところが私は、その使い方をよく知りませんでした。突然、派手な音楽が流れ出す。いろいろな警告音が鳴る。しかし何を意味しているのか分からない。レーダーの種類までアナウンスされるのですが、詳しくない私にはさっぱりでした。正直に言えば、「何だこれは」と、ただ驚くだけでした。場合によっては、かえって気が散って危険ですらあります。もし事前に説明書を読んでいたなら。あるいは兄から使い方を教わっていたなら。その恩恵をもっと受けられたことと思います。
何はともあれ、今回も守られて、無事に行って帰って来ることができました。守られて感謝です。
荒野の旅のための神のマニュアル
さて今日の箇所では、いよいよ神の民イスラエルの大集団が、雲の柱、火の柱に導かれて荒野へと旅立つ時が近づいています。
しかし荒野の旅は、決して安全な道ではありませんでした。危険があり、誘惑があり、戦いがあり、時には命の危険さえある旅です。そのような旅路を、数百万人とも言われる神の民が、秩序をもって歩んでいかなければならない。そのために主は今日、モーセを通して「銀のラッパを二本作りなさい」と命じられました。
10章1節 主はモーセにこう告げられた。
10章2節 「銀のラッパを二本作りなさい。それを打ち物作りとしなさい。あなたはそれを用いて会衆を召し出したり、宿営を出発させたりしなければならない。
これは単なる楽器ではありません。言わば、荒野を歩む神の民のための“導きの合図”のためのものでした。そしてこの後、そのための「よくある質問」と「答え」が記されます。
ラッパの音によって、民は集まりました。ラッパの音によって、民は出発しました。ラッパの音によって、戦いへ向かいました。しかし興味深いのは、ラッパには吹き方の違いがあったということです。
長く吹き鳴らす時と、短く吹き鳴らす時。
そして、その違いによって、神の民が取るべき行動がまったく変わったのです。今日、私たちが特に心に留めたいことは、この二つのラッパの意味です。
一つは、「主の前に集めるラッパ」。
もう一つは、「主が遣わすラッパ」です。
そして実は、これは今を生きる私たちの信仰生活そのものを表しているのです。
主の前に集められるラッパ
まず、「長く吹き鳴らされるラッパ」です。
民数記10章3~4節を見ると、ラッパが長く吹き鳴らされた時、民は主の前に集められました。二本なら全会衆が、一本なら族長たちが、会見の天幕の入口に集まることになっていました。その他の民は、各自の天幕のところにいて、会見の天幕の方を見ていたようです。
つまり長く吹き鳴らされるラッパは、「主の前に集まりなさい」という神からの招きだったのです。
ここで用いられている「長く吹き鳴らす」という言葉は、ヘブル語で「תָּקַע・ターカー」という言葉です。この言葉には、「固定する」「テントを張る」、また「追い立てる」という意味があります。「追い立てる」という意味はとても興味深いところです。
荒野を旅するイスラエルにとって、テントを張り、そこにとどまるということは、とても大切なことでした。雲の柱がとどまる所に宿営し、主が進めと言われるまではとどまる。つまり長く吹き鳴らされるラッパは、「立ち止まりなさい」「主の前にとどまりなさい」という招きでもあったのです。
私たちは、「進むこと」は比較的得意です。しかし、「止まること」は意外と難しいのではないでしょうか。忙しさの中で、次から次へとやるべきことが押し寄せる。問題が起これば、それを何とかしようと動き続ける。あるいは、一生懸命に主のために奉仕をしていても、いつの間にか主ご自身よりも「働き」「やりがい」の方が中心になってしまうこともあります。
けれども主は言われます。
「まず、わたしの前に来なさい。」
「まず、立ち止まりなさい。」
「今していることを一旦止めなさい。」
「わたしの前に静まりなさい。」
羊飼いが羊を「追い立てて」囲いの中へ集めるように、主はご自分の民を御前に呼び集められるのです。
囲いの中には守りがあります。休息があります。養いがあります。
しかし羊は、目の前の草に夢中になって、いつの間にか群れから離れてしまうことがあります。それは私たちも同じです。気づけば、何かに夢中になっている。仕事かもしれません。家庭のことかもしれません。心配事かもしれません。あるいは、主のためと思ってしている奉仕でさえ、主ご自身を見失わせることがあります。だから主は、ラッパを長く吹き鳴らされるのです。「戻って来なさい。」「まず、わたしの前に集まりなさい。」それほど、私たちは立ち止まることが難しいのです。長く吹き鳴らされ、呼び続けられ、追い立てられなければ、主の前に静まることができないほど、私たちの心は慌ただしくなりやすいのです。
先週の説教の中で触れましたが、神の民イスラエルにとって、荒野の旅は決して楽なものではありませんでした。危険がありました。誘惑がありました。戦いがありました。時には死の危険さえありました。主はそれをすべてご存知でした。だからこそ、民をまず御前に集められたのです。なぜだったでしょうか。
主の恵みを思い起こすためです。
神の救いを忘れないためです。
礼拝を通して、整えられるためです。
主の前に静まり、みことばを聞き、自分の罪(間違った方向)を悔い改め、感謝をささげ、もう一度主に信頼するためです。弱った心を回復させるためです。荒野を進み続ける力を受けるためです。
荒野を勝利して進むために必要だったのは、「神の恵みを覚えること」でした。神がこれまでどれほど守ってくださったのか。どれほど救ってくださったのか。どれほど愛してくださったのか。それを忘れてしまう時、人は恐れます。不平を言います。疑います。心が荒れていきます。罪を犯します。
しかし神の恵みを深く覚える者は、恐れに飲み込まれません。
感謝する者は、困難の中でも前を向くことができます。
だから主は、「集まりなさい」と言われるのです。礼拝へ招かれるのです。
そしてこれは、私たちにとっても同じではないでしょうか。
礼拝は、義務ではありません。ただの習慣でもありません。主が私たちを御前に呼び集めてくださる恵みの時間です。疲れ切った心を休ませる時です。立ち止まり、静まり、主の恵みを思い起こす時です。自分の間違った方向を悔い改め、「主よ、私はあなたなしでは進めません」と告白する時です。
イエス様も弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と言われました。また、「高い所から力を着せられるまで、とどまっていなさい」とも言われました。
まず、とどまる。
まず、受ける。
まず、満たされる。
そしてその後に、遣わされるのです。
主が遣わされるラッパ
神の民はまず、長く吹き鳴らされるラッパによって、主の前に集められたのです。しかし、神の民はただ集められるだけではありませんでした。主の前に集められ、整えられ、満たされた後には、再び進まなければなりません。その時に吹き鳴らされたのが、「短く、大きく吹き鳴らされるラッパ」でした。
10章9節 また、あなたがたの地で、自分たちを襲う侵略者との戦いに出るときには、ラッパを短く大きく吹き鳴らす。あなたがたが、自分たちの神、主の前に覚えられ、敵から救われるためである。
この「短く吹き鳴らす」と訳されるヘブル語「תְּרוּעָה・テルーアー」または「רוּעַ・ルーア」には、「警報を鳴らす」「大声で叫ぶ」という意味のほかに、「歓喜する」「勝利の声を上げる」という意味があります。これも興味深いですね。戦いに出る時なのに、そこには「勝利」や「歓喜」の意味が含まれているのです。なぜでしょうか。
それは、神の民が、自分たちの力で戦うのではなかったからです。主が共におられる。主が先立ってくださる。主が覚えていてくださる。だから、まだ戦いの最中であっても、勝利を見上げて進むことができたのです。
短く、力強く鳴り響く銀のラッパの音は、まるで主が民の背中を押しておられるようです。
「恐れるな。」
「立ち上がりなさい。」
「行きなさい。」
「わたしが共にいるから。」
そのような主の励ましの声が、ラッパの音に込められていたのではないでしょうか。
しかし考えてみると、神の民の全員が、勇敢だったわけではありません。恐れた人もいたでしょう。弱気になった人もいたでしょう。うずくまりたくなる人もいたはずです。荒野の戦いは命がけです。先が見えないのです。自分の力では到底無理だと思うこともあったでしょう。それでも主は約束されました。
「あなたがたは、主の前に覚えられている。」
恐れの中でも、主が覚えていてくださる
ここで言う「覚えられる」という言葉は、単に「忘れられていない」という意味ではありません。主がいつも心に留め、助け、守り、必要な時に必ず働いてくださるという約束の言葉です。ラッパを吹き鳴らす時に、主がいち早く駆けつけてくださるという擬人法的な表現です。
つまり神は、
「あなたを見ている。」
「あなたを忘れていない。」
「あなたが恐れていることも知っている。」
「だから恐れず進みなさい。」
そう言っておられるのです。
そして、これは私たちにとっても同じではないでしょうか。私たちの人生にも、「出て行かなければならない時」があります。新しい場所へ踏み出す時。難しい責任を担う時。家庭や職場で重荷を負う時。信仰ゆえに勇気を必要とする時。証しをしなければならない時。
本当は怖い。本当は逃げたい。「自分には無理だ」と思う。
しかしその時、主は私たちを、ただ突き放して送り出される方ではありません。まず礼拝へ招き、まず御前に静まらせ、まず恵みを思い起こさせ、そして遣わされるのです。
ここが大切です。主は、礼拝なしに戦わせるお方ではありません。満たしなしに遣わされるお方でもありません。まず集める。まず養う。まず力を与える。その上で、「さあ、行きなさい」と送り出されるのです。
ですから、神の民の歩みとは、長く吹き鳴らされるラッパによって集められ、短く吹き鳴らされるラッパによって遣わされる歩みなのです。礼拝によって整えられ、信仰によって立ち上がり、主に押し出されるように世へ遣わされていく。私たちも、そのような神の民として歩んでいるのではないでしょうか。
短く吹き鳴らされるラッパの音は、言わば、主が背中を「ポンッ」と押してくださるような音です。
「もう大丈夫。」
「わたしが共にいる。」
「だから、行きなさい。」
そのように主に遣わされる人生は、恐れがあっても、主に覚えられている人生なのです。
私たちはラッパの吹き手でもある
さて、この銀のラッパには、もう一つ大切なことがあります。それは、「だれがラッパを吹くのか」ということです。
民数記を見ると、銀のラッパを吹くことが許されていたのは、アロンの子孫である祭司たちだけでした。なぜでしょうか。
それは、神のみこころを受け取り、それを正しく民に伝える責任ある務めだったからです。勝手に吹いてはならない。自分の思いで吹いてはならない。神のタイミングで、神のみこころに従って吹かなければならない。だからこそ祭司たちに委ねられていたのです。
しかしここで、私たちは大切なことを思い起こします。新約の時代を生きる私たちに対して、聖書はこう語っています。
「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。」(Ⅰペテ29)
神は今、私たちを「祭司」として立ててくださっているのです。つまり私たちは、ラッパの“聞き手”であるだけではありません。ラッパの“吹き手”でもあるのです。もちろん、実際に銀のラッパを吹くという意味ではありません。私たちの言葉を通して。祈りを通して。生き方を通して。人々に神を思い起こさせ、神の御前へ導く者として召されているのです。
警報を鳴らす者として
そして、ここで特に心に留めたいことがあります。
短く吹き鳴らされるラッパには、「警報」という意味がありました。危険が迫っていることを知らせるためです。危険が来る前に、人々に備えさせるためです。
実は聖書は、私たちのことを「見張り人」と呼んでいます。終わりの時に立てられた者として、人々に神のことばを伝える使命があると言うのです。
見張り人とは何でしょうか。城壁の上に立ち、危険が近づいていないかを見続ける人です。もし敵が近づいているのに、眠ってしまったらどうでしょうか。もし危険を見ながら、黙っていたらどうでしょうか。町全体が滅んでしまいます。だから主はエゼキエル書で言われるのです。「あなたを見張り人として立てた」と。そして、もし警告を語らなかったなら、「その責任を問う」と言われるのです。
これは重い言葉です。
私たちは、イエス・キリストをまだ知らない人々がいることを知っています。救いが必要であることを知っています。神から離れたまま生きる危険を知っています。知っていながら知らせない。それで良いのでしょか。
良くないのだとするなら、愛をもって伝えなければなりません。もちろん、それは人を裁くためではありません。脅すためでもありません。恐怖を与えるためでもありません。
警報だけではなく、喜びの声を
ここで大切なのは、短く吹き鳴らされるラッパには、「警報」だけでなく、「歓喜」「喜びの声」「勝利」という意味もあったことです。これが福音です。
私たちが鳴らすラッパは、ただの警告ではありません。救いの知らせです。
希望の知らせです。勝利の知らせです。
ヨハネは言います。「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(Ⅰヨハ55)
またパウロは言います。「私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」(ロマ837)
私たちはこの勝利を知っているのです。だから、たとえ困難があっても、苦しみがあっても、なお希望を語ることができます。たとえ涙の中でも、「主は生きておられる。」「主は共にいてくださる。」「主には救いがある。」と語ることができるのです。
そしてこれは、言葉だけではありません。私たちの態度です。生き方です。試練の中でも失われない平安です。苦しみの中にもある希望です。赦しです。愛です。その歩みそのものが、世に向かって鳴り響くラッパになるのです。
しかし正直に言えば、私たちは疲れることがあります。祈れなくなることもあります。証しどころではなくなることもあります。霊的に眠ってしまうこともあります。その時どうするのでしょうか。
まず私たち自身が、再び長く吹き鳴らされるラッパによって、主の前に集められるのです。
礼拝へ。
祈りへ。
みことばへ。
恵みへ。
そして主の前で休ませていただくのです。力を受けるのです。イエス様が言われたように、「力を着せられるまで、とどまる」のです。
主は、求める者を退けられません。惜しみなく与えてくださる方です。そして私たちが十分に満たされた時に、主は再び私たちを遣わされます。
ラッパを鳴らす者として。
希望を語る者として。
福音を携える者として。
終わりの時に立つ、見張り人として。
主に集められ、主に遣わされる民
最後に、もう一度、今日の御言葉を思い起こしたいと思います。
神の民イスラエルは、銀のラッパによって導かれました。
長く吹き鳴らされるラッパによって、主の前に集められました。
短く力強く吹き鳴らされるラッパによって、主が示される場所へ遣わされました。
集められ、遣わされる。これが神の民の歩みでした。
そして、それは今を生きる私たちも同じです。私たちは、自分の思いや経験だけで歩く者ではありません。カーナビがなければ迷ってしまうように、神の導きなしには、本当の意味で正しい道を歩むことはできません。
また、説明書を知らなければ、せっかく備えられた助けを十分に受けられないように、私たちも神のみこころを聞き分けなければ、主が備えてくださっている恵みを十分に受け取れないことがあります。
だからこそ主は、私たちを礼拝へ招かれるのです。
「まず、わたしの前に来なさい。」
「立ち止まりなさい。」
「静まりなさい。」
「わたしの声を聞きなさい。」
主はそのように、長く吹き鳴らされるラッパによって、今日も私たちを御前へ招いておられるのです。そこで私たちは、疲れた心を休ませていただきます。恵みを思い起こします。悔い改めます。感謝をささげます。そして、もう一度力をいただくのです。
しかし主は、私たちを集めるだけのお方ではありません。再び遣わされるのです。家庭へ。職場へ。学校へ。地域へ。そしてまだ主を知らない人々のところへ。
短く力強く吹き鳴らされるラッパによって、
「恐れるな。」
「立ち上がりなさい。」
「わたしが共にいる。」
そう言って、主は私たちを送り出されるのです。
そして私たちは、ただの聞き手ではありません。祭司として、見張り人として、人々にラッパを鳴らす者でもあります。
危険を知らせる。
神を思い起こさせる。
礼拝へ招く。
そして何より、福音の喜びを伝える。
「主に救いがある。」
「イエス・キリストに希望がある。」
「あなたはひとりではない。」
その喜びの声を、言葉によって、祈りによって、生き方によって、世に向かって鳴り響かせていくのです。
もし今、疲れているなら。恐れているなら。迷い出ているなら。見失っているなら。まず、長く吹き鳴らされるラッパに応えましょう。主の前に集められましょう。礼拝へ戻りましょう。祈りへ戻りましょう。みことばへ戻りましょう。そして力を着せられるまで、とどまろうではありませんか。主は、求める者を決して退けられま
せん。主は、ご自分の民を忘れられません。主は、私たちを覚えていてくださるお方です。そして時が来れば、主は再び私たちを遣わされます。その道は、主が共におられる道です。主が覚えていてくださる道です。
どうか私たちも、神の御霊に導かれ、主のみこころを聞き分ける者でありたいと思います。集められる時には従い、遣わされる時にも従う。主にあって一つ心となり、霊的にも、また歩みにおいても秩序ある神の民として歩みたいのです。数百万人のイスラエルの民が、ラッパの音に従って、一糸乱れず進んだその姿は、どれほど美しかったことでしょうか。
神の民の一致には、力があります。証しがあります。神の栄光があります。
私たちもまた、いつも聖霊に満たされ、目を覚まし、同じ主の御声に従いながら、美しく一致して歩む群れでありたいと思います。そしてこの地において、主の栄光を現し、福音を宣べ伝え、喜びのラッパを鳴らし続ける者たちでありたいと思います。

