2016年9月4日 主日礼拝「第一の復活、第二の死」

本日の聖書箇所

ヨハネの黙示録20章1〜6節

説教題

「第一の復活、第二の死」

今週の聖句

この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。

ヨハネの黙示録20章6節
 
訳してみましょう
1825 Sometimes we are so busy adding up troubles that we don’t have time to count our blessings.
(私たちは時々、問題を積み重ねることに忙しいので、私たちは、私たちの恵みを数える時間を持てない。)
1826 In the Christian life, an ounce of illustration is worth a ton of talk.
(クリスチャンの人生では、1オンス〈ほんの少し〉のイラストレーション〈図・絵などによる説明=クリスチャンの証し〉は1トン〈とても多く〉の話しに値する。)
 

説教メモ

1.第一の復活

私たちの、特に日本人の平均寿命は延びました。世界でもトップの方ではないでしょうか。たとえ長く生きたとしても、早く亡くなったとしても、永遠の物差しの中でご覧になる神さまにとっては五十歩百歩、ほんのわずかな差でしょう。
私たちの人生で一番大切なことは、Ⅰコリント15章で学んだ「福音」です。そしてその福音を信じることです。今、信じることです。信じられる時に信じることが大切です。
今日学びます最初のことは、「千年王国」です。

また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。
彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古いヘビを捕らえ、これを千年の間縛って、
底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしまらくの間、解き放されなければならない。
また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。また私は、イエス・キリストのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。
この第一の復活にあずかる者は幸いな者。聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。
(黙示録20:1〜6)

聖書の預言している「千年王国」には、全ての人が入れるわけではありません。入れる人が決まっています。
千年というのは寿命が延びることではありません。また単なる人生の延長ではありません。この地上の権力者、支配者、偽宗教の預言とその信者たちは一人残らず、神の審判の燃える火の池に投げ込まれてしまいます。

そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。
(黙示録20:10)

すべての悪の元である反キリストが私たちをかき乱します。そのサタンが捕らえられ、千年の間封じ込められます。
サタンの力はもの凄いものです。私たちが押さえ込むことなどできないものです。しかし黙示録20:1〜を見ますと、もの凄い力のある御使いが描かれています。
それと同時に、イエス様が再臨されます。そしてすでに先にこの世を去っているクリスチャンたちが復活し、空中でイエス様とお会いします。さらにその後に、地上で生き残っているクリスチャンたちが「携挙」され、イエス様とお会いします。イエス様と一緒に全時代の全クリスチャンたちがサタンの閉じ込められている千年の間、地上を支配することになります。これが千年王国です。この期間は、悲しみも苦しみも、病気も、死もありません。争いやにせ宗教の惑わしもありません。すべてのキリスト者が年齢、性別、学歴、国籍を超えて、本当の兄弟姉妹として生活します。
この千年王国が終わると、束の間のサタンの自由が許されます。サタンは最後の抵抗を試みますが、ついには完全に滅ぼされ、二度と解放されることのない永遠の鎖につながれてしまいます。
その後に、キリスト者以外の人たちが死者が神さまによって復活させられ、一人ひとり神の前に立たされ、「最後の審判」を受けなければなりません。
クリスチャンはよみがえるのですが、クリスチャンでない人たちもよみがえらされるのです。クリスチャンも、クリスチャンでない人たちもよみがえらされるのです。クリスチャンたちはよみがえらされ、イエス様とともに千年王国が終わっても永遠に神さまとともに過ごすことができます。ところが、信じる機会があったのにイエス様を救い主だと信じていなかった人たちは、よみがえらされ、最後の審判において永遠のさばきを受けます。永遠に滅びてしまうのです。火の池、燃えるゲヘナに落とされてしまいます。
 

2.千年王国

千年王国とは、聖書学者によって考え方が異なります。ある学者はそれは「無い」と言います。
ある学者は、千年王国の前にイエス様の再臨があると言い、ある学者は千年王国の後にイエス様の再臨があると言っています。これだという答えがなく、私も断定できません。
しかし私は、千年王国が無いという学者には反論したいのです。それは、千年王国が来ることが、聖書にはっきりと書かれているからです。

しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
(Ⅱペテロ3:8)

「千年は一日のよう」このような表現があります。ですからそのことから飛躍させると、創世記の天地創造は「千年×6日間=6000年」という節もあります。聖書にはたくさんの数字が出てきます。これは「象徴的な数」であって、真に受けなくても良いと思います。今週の「訳してみましょう」でも訳しましたが、1オンス=「ほんのわずか」、そう訳すのと同じ考え方です。ですから千年というのは、かなり長い期間であると考える学者がいますが、私もそれと同じ考えです。しかしいずれにしても、それまで我が物顔でこの世で暴れていたサタンが、御使いの一人に難なく捕らえられ、鎖でつながれ、神さまの定められた期間、底知れぬ深いところに閉じ込められてしまった。もはやこの地上にいるクリスチャンは一人として惑わされたり罪を犯すこともなく、神さまに不従順になったり信仰を失うことも無くなる。それらの原因のすべてがサタンの仕業だったからです。サタンがいなくなったら、私たちは罪を犯さなくて住むのです。
なぜサタンは世界の始まりから抑えられていなかったのか。もしそうだったら、戦争もなかったのではないか。そう仰る方もおられるかと思います。サタンは「自分も神さまのようになりたい」という高慢な思いを持った天使が墜ちたものだと、イザヤ書には記述されています。サタンもかつては天使でした。その天使が高慢な思いを持ち、天から墜とされてしまいました。そしてこの世でのボス的存在となりました。
この世にサタンの存在を許されたのは、決して私たちに対する意地悪や、私たちをおとしめるためではありませんでした。むしろ私たちクリスチャンの信仰をより訓練して強め、高めるためなのです。サタンはそういう意味で、ある役割を果たしているのだと思います。しかし人類の半分以上は、初めからサタンの手中に墜ち、真の神さまを信じず、偶像礼拝や偽預言者たちの言うとおりになり、神さまの救いからこぼれていった。またクリスチャンと言われた半分の人たちまでは、サタンはこの世の権力者の巧みな罠にかかり、せっかくこの世から助け出されて天国行きの列車に乗っていたのに、この世の様々な事柄に心残りを抱いて途中下車をした。後ろを振り返ってデッキから振り落とされてしまった。クリスチャンの歩みの中でそのような人が結構いました。またこれからもいるかもしれません。
残りの人類の三分の一は、この世の権力者やにせ宗教家たちによる迫害やいやがらせに遭遇し、ある者は首をはねられ、ある者は傷つけられて五体満足な者はまれである。しかしクリスチャンのこの受けた傷は肉体的なものであって、彼らの信仰はますます燃えて熱心となり、神への信頼はびくともしなくなる。これが本当のクリスチャンの姿です。しかしイエス様に従ってきたクリスチャンが、イエス様の再臨とともによみがえらされる。イエス様とともに千年王国を支配するのだと。散らされていたクリスチャンだちは、生前に受けた傷跡もなく、完全な五体満足な者であると同時に、男女別、年齢別もない天使のような姿になるのであります。
4節の終わりを見てください。「彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。」とあります。最後までイエス様への信仰を全うしたクリスチャンたちは、ただ天国に入れられるだけでなく、王としてイエス様とともに千年王国を支配し治めることになります。
 

3.第二の死

5節には「そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。」と書いてあります。先ほど申し上げましたとおり、聖書によりますと、クリスチャンであるかないかは関係なく、すべての人が必ず一度死にます。そして死んだ後、必ずよみがえらされます。しかしその内容には3通りあります。第一は、キリストへの信仰を最後まで守り抜いて死んだ人たちが最初に復活し、イエス様とともに千年の間この世を治めるということ。第二は、クリスチャン以外の死んだ者の復活です。これらの人たちは千年王国の後に生き返らされ、一人ひとり神さまの前に立たされ、この世での不信仰と罪を裁かれます。これが白い御座のさばきです。その時になって、どんなに言い訳や自己弁護をしても決して天国には入れません。彼らは「裁かれるために」生き返らされるのです。すなわち第二の死である永遠の滅亡に入れられるために生き返るのです。第三は、イエス様の再臨の時、まだ地上で忠実にクリスチャンとして生きている人々です。彼らは一度も死を見ずに天に引き上げられ、空中でイエス様にお会いして千年王国の支配となります。そしてたとえ一度死んでも、千年王国の到来と同時に生き返る殉教者たち、クリスチャンたち、この地上で信仰生活を忠実に守り続けている人たちは第一の復活にあずかる、幸いな、聖なる者たちです。なぜならこれらの人々には第二の死、永遠の滅びは何の力も持っていないからです。
私がクリスチャンになったばかりのころ、このようなことを言われました。それは、「二度生まれた者は、一度死ぬだけで済む。しかし、一度しか生まれていない者は、二度死ぬのだ」。ここで言っていることです。私たちイエス様を信じている者はよみがえらされる。これが第一の復活です。聖書を見ると、第一の復活はあるのに第二の復活とはどこにも書かれていません。第一の死はすべての人が経験します。第二の死というのは、イエス様を信じていなかった人たちが経験するものです。それは神さまによって永遠に分けられてしまうことなのです。信じなかった者が第二の死を経験し、その人たちには何の希望もありません。終わりです。私たち信じた者は第一の復活にあずかる者。イエス様とともに千年王国を治めます。その後でサタンは少しの間解放されるのですが、やがて壊滅的な滅びを受けます。
そのことを今日は是非理解していただきたいと思います。
千年王国は皆さんのためにあるのです。イエス様を信じた者のためにあるのです。千年王国はやがて来ます。ですから、先ほど申しました三つの節がありますけれど、千年王国はやがて来るそのあいだ、イエス様とともに支配する、そのような幸いな立場が私たちには与えられています。

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