2026年4月5日 主日(イースター)礼拝「新しいいのちに歩むため」
前 奏 黙祷
洗礼式 讃美歌199「わがきみイエスよ」
招 詞 ルカの福音書24章5b〜7節
讃 美 讃美歌147「よろこびたたえよ」
使徒信条 讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り 讃美歌564「天にまします」
祈 祷
交読文 ヨハネの福音書14章(新聖歌 交読文54)
讃 美 讃美歌148「すくいのぬしは」
聖書朗読 ローマ人への手紙6章3〜11節
説 教 「新しいいのちに歩むため」
讃 美 讃美歌151「よろずの民」
聖餐式 讃美歌207「主イエスよ、こころ」
献 金 讃美歌547「いまささぐる」
感謝祈祷
報 告
今週の聖句 ローマ人への手紙6章4b節
頌 栄 讃美歌541「父、み子、みたまの」
祝 祷
後 奏
本日の聖書箇所
ローマ人への手紙6章3〜11節
説教題
「新しいいのちに歩むため」
今週の聖句
それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。
ローマ人への手紙6章4b節
説教「新しいいのちに歩むため」
ローマ人への手紙6章3〜11節
先週の金曜日の朝、私はとても美しい光景を目の当たりにしました。朝、一緒に働いている方が「ちょっと見て、すごく綺麗よ」と言って窓の外を指さしました。その言葉に促されて14階の窓から見える外の景色に目を向けると、少し夜明け前の紫かかったピンク色の綺麗な空が広がっていました。この色は以前も申し上げましたが「ドーンパープル(Dawn Purple夜明けの紫)」と言われています。これは「人間が最初に見る色」、また「お腹の中の胎児が生まれてくる時に“感じる”色」だそうです。そして「新たな世界の始まりと希望」を表しているのだそうです。そうこうしているうちに、やがてまぶしい太陽が昇って来て、たちまち明るい朝になりました。詩篇では「主は我らの太陽」(詩8411)と言われています。またイザヤは「あなたの太陽はもう沈むことがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである」(イザ6020)と預言しています。そのような美しい朝に感動し、朝食会場のスピーカーに勝手に私のスマホを繋げて、YouTubeで「讃美歌BGM」と検索してそれを流してしまいました。それも結構なボリュームで・・・。
讃美歌を聞きながら気持ちよく仕事をしていたのですが、しかしその日は金曜日。受難日でした。流れてくる讃美歌も、先週私たちが讃美した「丘に立てる荒削りの」や、先ほど讃美した「すくいのぬしは」の耳慣れたメロディーが聞こえて来て、「あぁ、そうだよな。イエス様は今ごろ『どうしてこんなことに。どうしてイエス様がこんな目に遭わなければならないのか』と問いたくなるほどの苦しみ、肉体も霊も心も魂も痛めつけられ、苦しまれていた頃だろうか。それは私の罪のため。私を救うため。皆さんの罪のため。皆さんを救うためだったんだよ」。
そんなことを思いながら、私はその日はホール係でしたので、お客様の間で仕事をしていました。朝食会場にはずっと讃美歌が流れていました。しかし誰一人として反応する様子はありませんでした。イエス様が十字架の上で死なれた時も、同じようなものだったのかなぁと思いました。イエス様は人が顔を背けるほどに痛めつけられ、その姿をもって十字架につけられ、丘の上に立てられ、さらしものにされました。そして死なれました。多くの群衆が目にしたのです。しかし、十字架のそばに立っていた百人隊長のような「この方は本当に神の子であった」と反応する人はいませんでした。頭を振り、罵る人がいて、イエス様は最後まで罵られ、嘲られ、肉体も霊も心も魂も痛めつけられたのでした。それは誰のため? 何のため?
イエス様に対する人々の無関心に寂しさや悲しさを感じました。イエス・キリストはすべての人、それも罪人を最後まで愛され、そのすべての人の罪を背負い、すべての人の罪を赦すため、まことのいのち、永遠のいのちを与えるために十字架につけられ死なれたのです。あの暗くて、汚くて、むごくて、悲惨な朝が、実は本当に美しい「ドーンパープル(Dawn Purple)、新たな世界の始まりと希望」だった。そしてそれがはっきりと分かるのは、イエス・キリストの死から3日後の朝です。イエス・キリストが死で終わらずに、死に打ち勝ち、よみがえられた3日後の朝のことです。
今朝、私たちはイエス・キリストの復活を記念するイースターの朝を迎えています。お腹の中の胎児が生まれてくる時に“感じる”色を感じ、新たな世界の始まりと希望を感じる素晴らしい朝を迎えました。そして今朝はまた、お2人の兄弟姉妹の洗礼式が執り行われるという、格別に素晴らしい朝となりました。洗礼を受けられたお2人ばかりではないでしょう。洗礼に立ち会われた私たち皆も、水の中から上げられ、新しいいのちによって新しく生まれ出て、胎児が生まれてくる時に感じる色、新たな世界の始まりと希望を感じられたのではないでしょうか。思い出されたのではないでしょうか。本当に感謝です。恵みの主をほめたたえましょう。
洗礼・バプテスマの意味
ところで、「バプテスマ(洗礼)」の意味をご存知でしょうか。漢字では「洗う」という文字が使われています。しかし洗礼というのは、洗って罪をきれいにしてもらうなどというものではありません。バプテスマ(洗礼)は「水葬」です。水による葬りです。火葬や土葬が良く知られていますが、バプテスマは水葬、水による葬り、水に沈めて葬る葬送儀礼です。間違いやすいのは、水に沈めて殺す、水に沈められて死ぬのではないのです。それでは殺人です。そうではなく、すでに亡くなった方が火葬され、丁寧に葬られるように、すでに死んだ者が水の中に丁寧に葬られるのです。そしてそれは公(おおやけ)に別れを告げる儀式です。
洗礼は、目に見えない霊的な事柄を、目に見えるしるしによって明らかにしたものです。古い自分、罪によって汚れ、傷ついてしまっていた自分、他の誰かを傷つけてしまった自分は罪とともにすでに死んだのだ。そして罪と古い自分に正式に、また公(おおやけ)に別れを告げ、そこから神に対して生きるものとされたことを目に見えるしるしによって明らかにする儀式。それがバプテスマです。
罪と古い自分に死ぬ。それはどのようにして可能なのでしょうか。
6章3節 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たち」。原文を直訳すると「キリスト・イエスへとバプテスマされた私たち」です。それは、私たちはキリスト・イエスの中へと深く沈められたということ。つまりキリストと一体とされたということです。
キリストの中に深く沈められ、キリストと完全に一体とされた私たちの身に何が起こったのか。キリストの死がそのまま私たちの死となりました。十字架上で苦しまれ死なれたのはキリストおひとりでした。キリストが私たちすべての者のために代わって苦しみ、肉体も心も霊も魂までも傷つけられ、そのようにしてご自身のいのちまで罪人のために差し出され、そして死んでくださったのです。私たちがまだ罪人であったとき、その罪の悲惨さを本当に理解していなかった私たちに代わって、罪と真っ向から戦われ、血と血の汗を流し苦しまれるほどに罪と戦われ、死なれたのです。私たちはイエス様が味わわれた全く同じ苦しみ、死を経験したでしょうか。私たちはキリストの死にただ与る者たちです。ただ恵みによって救われる者たちです。
また、ローマ書のプロトタイプであるガラテヤ書ではこのように言われています。「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」(ガラ327)。
イエス・キリストを信じ、イエス・キリストをその身に着る。イエス・キリストを信じる者を、神がその御手をもってイエス・キリストで身を覆ってくださる。想像してみてください。罪によって傷つき、血だらけで倒れてうずくまり、愛とか何かに飢え渇き、魂が飢え渇き、魂をうるおす水を求め、助け、救いを求める私に、神がその御手をもってイエス・キリストという衣(マント)で優しく、愛とあわれみと慈しみによって優しく覆ってくださる。そして神は、イエス・キリストによってすべての罪を覆われ、赦されるのです。「もう、あなたには罪を認めない」と宣言され、義とみなされる。古い昔の罪深いあなたはもう死んでいるのですよと、丁寧に、優しく葬ってくださり、古い自分に別れを告げさせてくださる。そして「あなたは正しい、あなたは良いのだ」と仰ってくださる。さらに神はその御手をもって、そこから立ち上がらせてくださる。飢え渇いた魂を本当に潤すことの出来るいのちの水である聖霊を注ぎ、霊的に復活させてくださるのです。私たちはこの恵みによって注がれる深い神の愛、あわれみ、慈しみによって、ようやく罪と古い自分に死ぬことができるのです。別れを告げることができるのです。まさに神にしか出来ないみわざです。人知を超える出来事、目に見えない霊的な事柄です。目に見えない霊的な事柄を、目に見えるしるしによって明らかにしたもの。それが洗礼です。
新しいいのちが与えられ、新しい歩みをするために
6章4節 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリスト・イエスが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
私たちはバプテスマされ、キリストと一体とされたことにより、キリストの死にあずかり、キリストとともに葬られた、つまり完全に死んだ者とされました。なぜ完全に死ななければならなかったのでしょう。それは先ほども少し触れましたが、私たちが復活するためです。「復活」というギリシャ語は「立ち上がる、起きあがる」とも訳せる語です。私たちが罪と古い自分に完全に死ぬことによって、神によって完全に新しいいのちが与えられ、完全に新しい歩みをすることができるようになるためです。罪の子、暗闇の子であった私たちが完全に死んで、神の子、光の子としてまったく新しく創造され、生まれ、生きる者とされて、新たな世界の始まりと希望を感じ、全く新しく歩み出すのです。
創世記2章7節をご覧ください。
「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった」(創27)。
何度も申し上げておりますが、聖書が「生きる」とか「死ぬ」とか言うのは、生き物としての命のことばかりではありません。神のいのちに生かされているかどうかが問題なのです。神の御心どおりに生かされていなければ、見た目は立派でも実は死んだ人生です。人間の初めは、神のいのちの息が吹き込まれ、神のいのちによって真に生きる者でした。しかし罪を犯し、神に背を向けて、神から離れて自分勝手な方向に進んで行き、神を忘れ、そのいのちを失い、罪の子、暗やみの子、死ぬべき者となってしまった。しかしイエス・キリストによって明らかにされた神の愛に気づき、悔い改め、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストに依り頼む者には、いのちの息が吹き込まれ、新しいいのちが注がれます。信じられなくても、それが全能の神の約束です。「息」と訳される語は、「霊」とか「風」とも訳される語です。神が吹き込まれる息、霊、風。それはつまり「聖霊」です。
イエス・キリストは、葬られてから3日後に復活されました。イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた方の御霊、聖霊によってよみがえられたのです。
私たちもイエス・キリストを信じ、キリストとともに葬られるなら、キリストとともに復活するのです。その時、神は私たちに新しいいのちを注がれるのです。神によって新しく生まれるのです。キリストを死者の中からよみがえらせた方の御霊、聖霊が注がれ、新しい息、霊が吹き込まれ、新しい呼吸が始まり、まったく新しい人生、そして成長が始まるのです。
生きているならば成長するものです。私たちは新しく歩み出したその道で、ゆっくりと時間とともに成長させられ、そして良い実を結んでいくのです。けれどもその道の途中で、私たちはキリストとつぎ合わされていてようやく成長してきたのに、その恵みを忘れてまるでひとりで成長したかのような、一人でうまくやってきたかのような、やっていけるのではないかという勘違いを起こして失敗してしまう者です。しかし慰めがあります。私たちはキリストの死と同じようになっていて、罪に対しては死んでいるのですから、必ずキリストの復活とも同じようになるのです。完全な復活は終わりの日です。それまでに何度も失敗し倒れそうになるけれども、何度でもそこから立ち上がり、生き直す、やり直すことができる力に与っているのです。
6章8節 私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。
ここに「信じます」と自らの強い決意表明が見えます。私はキリストの十字架の死、そしてキリストの復活という恩恵を受け、キリストとともに死に、神のいのちによって新しく生まれた者。これからはキリストとともに生きて行くのだ。神がこの私に望んでいてくださる、神の子としての人生、神に愛され、神に養われ、神に守られ、神がすべてのことを働かせて益としてくださり、神にあって喜びの内に成長し、良い実をたくさん結んで行く、まことに活き活きとした人生を歩んでいくのだ。歩んで行ける自分とすでにされている。それを信じる。自分に対しての決意表明、また公(おおやけ)に決意表明することによって自らを立たせる、自らを起きあがらせる、自らを奮い立たせる。先ほどの洗礼式において、「ですから、洗礼を受ける者は、『もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が、この世に生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです』と新たに決意しなければなりません」と述べられたとおりです。
信仰は目に見えないけれども・・・
信仰は目に見えないものです。何によって信仰が分かるのでしょうか。ただ分かるのは、「自分が変わったこと」ではないでしょうか。
先ほど、兄弟のお証の中にこうありました。「みことばや福音を他人事のように聞いていた」と。また姉妹のお証の中にこうありました。「キリスト教やばい。一生かかわりたくないと思っていた」と。そんなお二人が、イエス・キリストの復活という、世の多くの人にとっては他人事、また「やばい、かかわりたくない」ことを記念するイースターの朝に、このようにして皆さんの前で洗礼に与り、公(おおやけ)に信仰告白をされたこと。それは何を意味しているのでしょうか。
「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです」(Ⅰペテ18-9)。
今、私たちは「今見てはいないけれども」と言われているとおり、今もよみがえられて生きておられるイエス・キリストを目で見ることができていないけれども、しかし私たちはイエス・キリストを愛していて、信じていて、喜んでいます。自分はこんなにも変えられているではないか。それは私たちが信仰の結果であるたましいの救いを得ていることのしるしです。幸いな神の子とされているしるしです。
受難週を過ごして
私たちは、先週受難週を過ごしてからの、今朝のイースターを迎えました。そこで私たちは今朝、改めてキリストの死と復活が、私たちの新しいいのちの基礎であることを認めましょう。私たちはキリストの死に与り、罪に対しては死んだ者となった。私たちはキリストの死者からの復活に与り、新しい永遠のいのちが与えられ、全く新しくされ、神に対しては生きる者とされている。キリストによって死に、キリストによって生かされている。それは決して当たり前のことではなく、大きな愛と犠牲の上に成り立っているのだということを自ら覚えて認めましょう。信仰をもって心から認める時、感謝する時、私たちは再び悲惨で恐ろしい罪の奴隷としての人生に戻ってしまうことはないでしょう。幸いな歩みを続けることができるのです。私たちはそのような幸いな人生を歩むのだと、決意するのです。アーメンと応えるのです。もし、まだアーメンと認めておられない方、あるいは認めていてもまだ公に告白されていない方(つまりバプテスマを受けておられない方)がおられるならば、どうぞ無償で注がれる神の愛を信じて、感謝してお受け取りになって、アーメンと認め告白されることを心からお勧めします。もし今倒れたり迷い出ている方がおられるならば、アーメンと認めて再び立ち上がってください。キリストの復活に与るのです。そして神の約束のみことば、福音の上にしっかりと立ち続けましょう。そして新たないのちに満たされて、活き活きとした生きた人生を歩ませていただきましょう。
「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリスト・イエスが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」。

