2026年10月4日 第二礼拝「アブラハムの旅」

前  奏  黙祷
祈  り
讃  美  新聖歌38「わが目を開きて」
使徒信条  讃美歌566「我は天地の造り主」
主の祈り  讃美歌564「天にまします」
讃  美  新聖歌471「われ聞けりかなたには」
聖書朗読  創世記12章1〜9節、15章1〜6節
説  教  「アブラハムの旅」
分かち合い
祈  り
暗唱聖句  創世記12章2節
献  金  新聖歌431「主と」
頌  栄  新聖歌63「父、御子、御霊の」
祝  祷
後  奏

本日の聖書箇所

創世記12章1〜9節、15章1〜6節

説教題

「アブラハムの旅」

今週の聖句

わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。

創世記12章2節

説教「アブラハムの旅」

創世記12章19節、15章1〜6節

今日は、アブラムの旅について学びます。

「旅」と聞くと、私たちは普通、まず行き先を考えます。
どこへ行くのか。何日くらい行くのか。何を持って行くのか。どこに泊まるのか。
今はスマートフォンがありますから、初めて行く場所であっても、出発する前にかなり詳しいことまで調べることができます。
地図を開けば、どの道を通るのか分かります。
何分かかるのかも分かります。
途中に何があるのかも分かります。
それでも、初めての場所に行く時には少し不安になります。

ところが、アブラムの旅は違いました。
神様はアブラムに言われました。

12章1節      主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。

「わたしが示す地へ」です。
最初から詳しい地図が渡されたのではありません。
「ここへ行きなさい」と住所を教えられたのでもありません。
まず、「行きなさい」と言われた。
そして、行けば、「わたしが示す」と言われたのです。

これは、かなり大きなことだったと思います。
住み慣れた土地を離れる。親族を離れる。父の家を離れる。
当時の社会では、家族や一族、土地とのつながりは、今以上に生活そのものを支えるものでした。そこを離れて、まだ見たことのない土地へ向かう。

しかもアブラムは若者ではありません。75歳でした。
私たちだったら、きっといろいろ尋ねたくなるでしょう。「どこへ行くのですか。」「そこで何をするのですか。」「生活は大丈夫なのでしょうか。」「いつまで行くのですか。」「その先に何が待っているのですか。」

けれども神様は、アブラムに全部を説明されたわけではありませんでした。
ただ、約束を与えられました。

12章2節      そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。

そして聖書は、その後、とても簡潔にこう記しています。

12章3節      アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った。

ここに今日、私たちが考えたい「信仰」があります。
信仰というと、私たちは「神様を信じています」と心の中で思うことを考えるかもしれません。
もちろん、それも大切です。
けれども聖書の信仰は、そこで終わりません。神様を信頼するから、その御言葉に従って動き出す。

アブラムは、「私は神様を信じています」と言いながら、ハランにとどまり続けたのではありませんでした。
神様が「行きなさい」と言われたので、出て行ったのです。

テキストでは、信仰について、「私たちを導いてくださる真実な神に対して、揺るがない信頼をもって従っていくこと」と説明されています。
まさにアブラムの姿です。

ただし、ここで一つ大切なことがあります。
「揺るがない信頼」と言っても、アブラムは一度も迷わなかった、一度も不安にならなかった、ということではありません。
今日読んだもう一つの箇所、創世記15章を見ると、それがよく分かります。
神様はアブラムに約束を与えておられました。
あなたから大いなる国民を起こす。あなたの子孫にこの地を与える。
ところが、時間が経っても子どもが与えられません。

そこでアブラムは神様に尋ねます。

15章2節      アブラムは言った。「神、主よ。あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。」

これは不信仰でしょうか。皆さんはどう思われますか。
私は、不信仰ではないと思います。
アブラムは、疑問を神様にぶつけています。「あなたは約束してくださいました。でも、今の現実を見ると、その約束が実現するようには見えません。」
これは、私たちにもよく分かるのではないでしょうか。

神様を信じていても、分からないことがあります。
祈っていても、答えが見えないことがあります。
「主よ、本当にこれでよいのですか。」「この先、どうなるのですか。」「私はどちらを選べばよいのですか。」そう尋ねたくなることがあります。

信仰とは、そういう問いを一切持たなくなることではありません。
不安がなくなることでもありません。
むしろ、分からないからこそ、その問いを神様のところへ持っていくことなのではないでしょうか。

神様はアブラムを外へ連れ出されました。そして言われます。

15章5節      そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら、数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」

目の前の現実だけを見るなら、アブラムには子どもはいません。
しかし神様は、目の前の現実よりも、ご自分の約束を見るようにと言われました。
そこで6節です。

15章6節      アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。

これは、アブラムが立派なことをたくさんしたので、「よくできました」と神様から認めてもらった、ということではありません。
アブラムは主を信じました。
約束のすべてが実現しているのを見たから信じたのではありません。まだ実現していない時に、約束してくださった神様を信じたのです。
そして神様は、その信仰を義と認められました。
ですから、12章と15章はつながっています。
12章では、「行きなさい。」そして、「アブラムは出て行った。」
15章では、「あなたの子孫はこのようになる。」そして、「アブラムは主を信じた。」
神が語られる。そしてアブラムが信頼して応答する。
これがアブラムの信仰の歩みです。

ここで、私たち自身のことを考えてみたいと思います。
私たちは、何もかも分かってからでなければ動けないでしょうか。
神さまに、「全部説明してください。」「五年後どうなるのか教えてください。」「絶対に失敗しないと保証してください。」「そうしたら従います。」と言ってはいないでしょうか。

けれども、信仰の歩みでは、すべてが見えてから出発できるとは限りません。
むしろ神様は、時に次の一歩だけを示されます。

そこで大切なのは、「どこへ行くのか」ということ以上に、「だれが導いてくださるのか」ということです。

アブラムは未来を知っていたから歩き出したのではありません。
未来を握っておられる神様を信じたから歩き出したのです。

高校生の皆さんだったら、これから進路について考えることがあるでしょう。
進学するのか。どの学校に行くのか。どんな仕事をしたいのか。まだ全然分からないという人もいるでしょう。
周りの友達がどんどん決めていくと、不安になることもあるかもしれません。
でも、今日のアブラムの話から考えるなら、神様は必ずしも最初から人生の地図全部を見せてくださるわけではありません。
だから、「将来のことが全部分からないから不安だ」ということと、「神様が私を導いてくださらない」ということは同じではありません。
分からなくてもよい。ただ、「主よ、今の私に何をするように求めておられますか」と尋ねることはできます。
そして、示された一歩を踏み出すことができます。

また、今、仕事を探している方にとっては、もっと切実な問題でしょう。
次の仕事がいつ決まるのか。どんな仕事になるのか。自分が願っている仕事に就けるのか。生活はどうなるのか。
求人票を見たり、応募したり、結果を待ったりする中で、どうしても先のことが気になります。
「本当に道は開かれるのだろうか。」そう思う時もあるでしょう。
もちろん、アブラムの物語は、「神様を信じれば希望した仕事が必ず与えられる」という約束ではありません。
そうではなくて、仕事がまだ決まっていない時にも、神さまはあなたの人生を見失っておられない。導いておられるということです。
まだ行き先が見えていなくても、導く方はおられる。
そのことを信じて、今日できることをする。
祈る。探す。応募する。人に相談する。そして開かれた道をよく考える。
それもまた、信仰によって歩む一歩なのだと思います。

そして親世代の私たちにも、選択があります。
自分自身の仕事のこと。家族のこと。子どものこと。親のこと。健康のこと。お金のこと。教会での奉仕のこと。
「こちらを選んだらどうなるだろう。」「本当にこれでよいのだろうか。」
いくつもの事情を考えて、決めなければならないことがあります。

そんな時、私たちは神様に、「正解だけ教えてください」と祈りたくなります。
もちろん導きを求めて祈ってよいのです。
しかし、もっと根本にある問いは、「私は、正解を知りたいのか。それとも、神様に従いたいのか。」ということかもしれません。
自分が安心できる答えが欲しいのか。それとも、たとえ先が全部見えなくても、主が示される道を歩きたいのか。

アブラムは完璧な人ではありませんでした。
これから創世記を読んでいけば、失敗もします。恐れます。自分で何とかしようとしてしまうこともあります。
それでも神様はアブラムを見捨てず、繰り返し語り、約束を確認し、導き続けてくださいました。

ですから、今日の御言葉は、「アブラムのように立派な信仰者になりましょう。」というだけの話ではないと思います。
むしろ、不完全なアブラムを召し、約束し、導き続けてくださった神様は、真実なお方である。
だから私たちは、その神様を信頼して歩むことができるのです。
行き先が全部見えなくてもよい。答えがまだ出ていなくてもよい。
ただ、「主よ、あなたが導いてくださるなら、私は従います。」と一歩を踏み出す。
それが信仰なのだと思います。

皆さんと自由に分かち合いたいと思います。
答えをきれいにまとめなくても構いません。
今、自分の前にどんな「まだ分からないこと」があるでしょうか。
進路でしょうか。仕事でしょうか。家庭のことでしょうか。何か決めなければならないことでしょうか。
そして、そのことについて、「全部分かってからでなければ進めない」と思っていることはないでしょうか。
もう一つ。今、神様が自分に求めておられる「次の一歩」は何だと思いますか。

大きな決断でなくてもよいと思います。祈ることかもしれません。
誰かに相談することかもしれません。応募してみることかもしれません。勉強することかもしれません。
一度立ち止まることかもしれません。誰かに謝ることかもしれません。
あるいは、まだ何も分からないので、「主よ、あなたを信頼します。」と祈ることかもしれません。

アブラムにとって大切だったのは、目的地を全部知っていることではありませんでした。
自分を召してくださった方が、真実なお方であると知ることでした。
私たちも、その主を信頼して歩んでいきたいと思います。

では今日は、このあたりから自由にお話ししてみましょう。
「今、自分にとって信仰をもって一歩踏み出すとは、どんなことだろう。」
皆さんは、どう思われますか。

長野聖書教会の話題やお知らせをお届けします。

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