2026年7月22日 祈祷会「対立さえ主は用いて」
聖書箇所
使徒の働き15章30節〜16章5節
「対立さえ主は用いて」
はじめに
私たちは、それぞれに大切にしているものがあります。
自分の考え、自分の経験、自分のやり方、長年慣れ親しんできたもの。それらを大切にすること自体は、悪いことではありません
しかし、それを握りしめて手放せなくなるとき、それは「執着」になります。そして、自分と違う考えを受け入れられなくなり、意見が食い違い、時には対立が起こります。
教会の中でも、同じことがあります。
礼拝の形式、賛美の選び方、教会の伝統、伝道の方法。どれも大切なことですが、そこには人それぞれの好みや経験があります。
昔から歌われてきた讃美歌を大切にしたい人がいます。その賛美によって慰められ、励まされ、信仰を養われてきたからです。
一方、言葉やメロディーが古く、なかなか心に入ってこないと感じる若い人たちもいます。もっと自分たちに分かりやすい言葉や音楽で、神を賛美したいと願っています。
どちらにも、神を礼拝したいという願いがあります。
しかし、そこで私たちは問われます。
私たちは、何に執着するのでしょうか。
自分が心地よく礼拝できることに執着するのでしょうか。それとも、何とかして一人でも多くの人に福音が届くことに執着するのでしょうか。
今日の箇所から、福音のために何を守り、何を手放すべきなのかを、ともに教えられたいと思います。
1.私たちは恵みによって救われた
15章30節以下には、エルサレム会議の決定を記した手紙が、アンティオキアの教会に届けられたことが記されています。
当時、ある人々は、異邦人であっても救われるためには割礼を受け、モーセの律法を守らなければならないと教えていました。つまり、イエス・キリストを信じるだけでは足りない。まずユダヤ人と同じようにならなければ、神の民にはなれないと言っていたのです。
しかし、使徒たちはその教えを退けました。
人は、割礼によって救われるのではありません。律法を守ることによって救われるのでもありません。ただ、主イエス・キリストの恵みによって救われるのです。
その知らせを聞いたアンティオキアの人々は、31節にあるように、「その励ましのことばを喜び」ました。
私たちも同じです。
私たちは、自分の努力や行いによって救われたのではありません。教会の習慣に慣れたからでも、立派な信仰者になったからでもありません。
神が罪人である私たちを愛し、御子イエス・キリストを与えてくださいました。イエス様が私たちの罪を負って十字架にかかり、死んでよみがえってくださいました。
私たちは、ただその恵みによって救われたのです。
だからこそ教会は、福音以外の何かを、救いの条件のようにしてはなりません。
礼拝の形式も、賛美のスタイルも、教会の伝統も、それぞれ大切です。しかし、それに慣れなければ教会に受け入れられないという雰囲気をつくるなら、福音の入り口を狭くしてしまいます。
福音は、「私たちと同じようになってから、キリストのもとへ来なさい」と言うものではありません。
「そのままキリストのもとへ来なさい。主があなたを救い、造り変えてくださる」と告げるものです。
2.福音のためには執着しない
ところが、その喜びに満ちた出来事の直後、パウロとバルナバの間に激しい対立が起こります。
パウロは、以前に福音を伝えた町々をもう一度訪問しようと提案しました。
バルナバは、マルコも連れて行こうと考えました。しかしパウロは反対しました。マルコが前回の伝道旅行の途中で彼らから離れ、働きに同行しなかったからです。
パウロは、宣教の責任を重く考えていたのでしょう。一方、バルナバは、一度失敗したマルコに、もう一度機会を与えようとしたのでしょう。
二人とも福音を願っていました。二人とも主に仕えようとしていました。それでも、考えは一致しませんでした。
そして聖書は、「激しい衝突が起こり、互いに別行動をとることになった」と記しています。
これは決して理想的なことではありません。しかし同時に、非常に現実的です。
信仰があれば、いつでも全員の意見が一致するわけではありません。教会を愛し、福音を願っている者同士でも、方法や判断が違うことがあります。
そのとき大切なのは、自分自身に問うことです。
私は、いったい何に執着しているのか。
福音に執着しているのでしょうか。それとも、自分の考え、自分の方法、自分の正しさに執着しているのでしょうか。
3.何とかして一人でも救うために
パウロはバルナバと別れた後、シラスを選び、諸教会を力づけながら進んでいきました。
そしてルステラで、テモテと出会います。
テモテの母はユダヤ人の信者で、父はギリシア人でした。彼は、兄弟たちの間で評判の良い人物でした。
パウロは、テモテを伝道旅行に連れて行こうと考えます。そして、彼に割礼を受けさせました。
これは驚くようなことです。
エルサレム会議では、救われるために割礼は必要ないと確認されたばかりでした。それなのに、パウロはテモテに割礼を受けさせたのです。
しかし、これは矛盾ではありません。
もし「割礼を受けなければ救われない」と言われたなら、パウロは決して譲らなかったでしょう。救いの真理が曲げられるからです。
けれども今回は、救われるためではありません。福音を届ける妨げを取り除くためでした。
テモテの母がユダヤ人であることを、その地方のユダヤ人たちは知っていました。もし割礼を受けていないテモテがパウロと一緒に会堂へ入れば、ユダヤ人たちは福音を聞く前に、彼を拒絶してしまったかもしれません。
そこでパウロは、福音を届けるために、テモテに割礼を受けさせたのです。
パウロは、割礼をすることにも、しないことにも執着していませんでした。
彼が執着していたのは、キリストの福音です。
救いの真理が曲げられるなら、一歩も譲らない。しかし、一人でも多くの人に福音が届くためなら、自分の権利や好み、方法には執着しない。
後にパウロは、「私はすべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、何人かでも救うためです」と語りました。
何でもよいということではありません。
福音の本質でないものには執着しないということです。
4.対立さえ主は用いられる
パウロとバルナバの対立は、残念な出来事でした。しかし、神の働きはそこで止まりませんでした。
バルナバはマルコを連れてキプロスへ向かい、パウロはシラスを連れてシリアとキリキヤへ向かいました。
一つだった宣教チームは、二つになりました。
神が対立を喜ばれたのではありません。しかし、その対立さえも、ご自身の働きのために用いられたのです。
さらに後になると、パウロはマルコについて、「私の務めのために役に立つ」と語るようになります。
一度失敗したマルコは、バルナバに励まされ、もう一度立ち上がりました。そして、やがてパウロからも信頼される働き人になりました。
人間の失敗が、最後の結論ではありません。
対立が起きたからといって、主の御業が終わるわけでもありません。
私たちも、自分の考えに執着してしまうことがあります。意見が食い違い、傷つけ合ってしまうこともあります。
しかし主は、そのような不完全な私たちを見放されません。私たちの弱さを越えて働き、失敗さえ用いて、ご自身の救いの計画を進めてくださいます。
おわりに
今日の箇所の最後には、こう記されています。
「こうして諸教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった。」
教会が成長したのは、パウロやバルナバが完全だったからではありません。
彼らにも意見の違いがあり、激しい対立がありました。
それでも、福音の真理が守られ、福音を届けるために人々が遣わされ、そのすべてを主が用いてくださいました。
考えてみれば、私たちにも、誰かが福音を届けてくれました。
誰かが祈り、声をかけ、教会へ誘い、分かることばで聖書を伝えてくれました。教会も、いろいろな計画を立て、試行錯誤しながら、何とかして福音を届けようとしてきました。
そのような働きを主が用いて、福音が私たちのところまで届いたのです。
ですから今度は、私たちが届ける番です。
教会は、今いる私たちだけが心地よく過ごす場所ではありません。みことばによって養われ、まだ福音を知らない人のところへ遣わされていく、宣教の拠点です。
そのために、自分の好みや慣習、方法を手放さなければならないこともあるでしょう。
そのとき、もう一度問いましょう。
私は、何に執着しているのか。自分の正しさでしょうか。自分の心地よさでしょうか。それとも、私を救ってくださったキリストの福音でしょうか。
福音には執着しましょう。
しかし、福音以外のものには執着しない者でありたいのです。
私たちは完全ではありません。時には対立し、失敗もします。それでも主は、私たちを用いてくださいます。私たちの弱ささえ用い、福音を前進させてくださいます。
ですから主の御業に期待し、福音に執着し、自分には執着せず、何とかして一人でも多くの人に、この救いの知らせを届けてまいりましょう。

