2015年10月11日 主日礼拝「復活の福音(4)」

本日の聖書箇所

コリント人への手紙第一15章50〜58節

説教題

「復活の福音(4)」

今週の聖句

「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」

(Ⅰコリント15章57節)
 
訳してみましょう
1735 Sowing the seed of God’s Word is never out of season.
(神のみことばの種を蒔くことは、決して季節はずれということはない。)
1736 Praise is the overflow of a joyful heart.
(賛美とは、心の喜びが溢れ出ることです。)
photo説教メモ
 
復活の福音と題して、今回で第4回目となりました。
パウロは今まで福音とは何か、
復活とは何か、
イエス・キリストが十字架で死に、三日目によみがえったこととはどういうことか。
キリストがよみがえりの初穂となられたというのはどういうことなのかを述べてきました。
そして、死人の復活があること。
死んで終わりではないこと。
死んだ人がやがてよみがえらされるのだというメッセージを、Ⅰコリント人への手紙の中で語ってきました。
そして今日、最後に「勝利のみことば」について書かれている箇所を学んで行きます。
 
復活奥義

「兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」(Ⅰコリント15:50)

パウロはここで、復活について重大な真理を告げています。
「血肉のからだ」とは何でしょうか。
血肉の体は、生まれながらの体、切れば血が出る体、叩かれれば痛みを感じる体、
そして、やがて朽ちてしまう体のことです。
そのような体では神の国を相続できないとパウロは言います。
なぜなら、神の国は永遠で、完全だからです。
私たちの傷だらけの体では、その永遠で完全な神の国を相続できないのです。
この世の人たちは色々な理想、理論を考えます。
「進化」もそのひとつです。
人間が進化したら神に達するという思いがあるのではないでしょうか。
その典型的な例が「統一教会」です。
なぜ「統一」なのでしょうか。
言語、国家、民俗を統一することを理想とする世界観を、統一教会の創始者である文鮮明は次のように言っています。
「神の摂理の究極的な目的が地上天国を建設することにある。」
地上に完成させられる、神さまが描いておられた天国「エデンの園」のような完全な園を、彼らは「地上天国」と呼びます。
地上に彼らの言う理想的な天国ができあがると主張します。
しかし、パウロはこのような人間中心で聖書に反している考えを、「生まれながらの人間は神の国を相続できません。」と完全に否定しています。
それでは、私たちはどこを見たら救いの確信を得られるのでしょうか?
パウロは、「復活によって実現される」と言っています。
復活によって神の国が到来する。
それが「救いの奥義」なのです。

「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(Ⅰコリント15:51-52)

「眠ってしまう」とは、「死ぬ」ということです。
私たちはみな死んで終わりなのではなく、終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに死者は朽ちないものに復活させられ、みな変えられるのです。
これがパウロの言う「奥義」です。

「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、」(1テサロニケ4:16)

私たちクリスチャンは、主の再臨の約束を待っています。
それが私たちの希望でもあります。
再臨の時、私たちは朽ちないからだによみがえらされます。

  • すでに亡くなっている者は霊のからだによみがえる
  • その時まだ生きている者は死を味わうことなく栄光のからだにかえられる。

私たちの復活には、この二つのかたちがあります。
前者の代表的な例は「モーセ」でしょう。

「主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。」(申命記34:6)

 
ところが、聖書の中には死を見ないで天国に行った人がいます。
それは「エノク」と「エリヤ」です。

「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(創世記5:24)
「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました」(ヘブル11:5)

エノクは死を見ることなく、天国に移されました。

「主がエリヤをたつまきに乗せて天に上げられるとき…」(Ⅱ列王記2:1)
「エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。」(Ⅱ列王記2:1)

エリヤも死を見ることなく、天に昇って行きました。
私たちもイエス様が再臨されるとき、まだこの地上で生活していたなら、この二人のように死を見ることなく天国に移されるでしょう。

「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。」(Ⅰテサロニケ4:17)

これは「携挙」とよばれる現象です。
「携挙」という言葉を覚えてください。
イエス様が再臨される時、私たちクリスチャンがまだ地上で生活していたなら、死ぬことなく天国に引き上げられます。これを「携挙」と言います。

「あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝台で男がふたり寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。弟子たちは答えて言った。「主よ。どこでですか。」主は言われた。「死体のある所、そこに、はげたかも集まります。」」(ルカ17:34-36)

その時、ひとりは取られ、他の一人は残ります。
地球は丸いです。地球の反対側は昼夜ま逆です。
イエス様が再臨されるときは、私たちが地球上のどこにいようとも、昼でも夜でも分かります。
再臨のイエス様の力は、全世界のすべての人に及ぶのです。
 
クリスチャンにとって、死は「天国への道」ですが、天国への道は死によって開かれるのだけではありません。
死を味わうことなく天国に行ける可能性がある。これが奥義中の奥義です。
 
復活とは、栄光のからだに変えられることによって死が征服され、完全な勝利を得ることです。

「ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」(Ⅰコリント15:52-56)

 
ところで、死と言うものは、なぜこの世に存在するのでしょうか?
それは「罪」があるからです。
「罪の支払う報酬は死です。」(ローマ6:23)と聖書にあります。
聖書だけが、死の原因をはっきりと示しています。
報酬とは働きに応じて与えられるものです。
人は、罪を犯すという働きによって報酬として死を受け取るのです。
しかし、キリストの十字架によって、死は天国への道となりました。

「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(Ⅰコリント15:57)

死に対する勝利です。

罪とは永遠の死をもたらす忌まわしいものです。
しかし、キリストの十字架により罪が贖われた者にとって、死は永遠の命への門となりました。
そして、もしこの体が死によって滅んだとしても、イエス様の再臨の時に栄光のからだに復活させられるので、死はクリスチャンには何の害も力も及ぼすことのできないものとなりました。
このことをわきまえている人は、この肉体の死をそれほど深刻に考えません。恐れません。
洞爺丸事件という青函連絡船の沈没事故がありました。
宣教師が救命具を持たない人に、自分の救命具を与えました。そして死んだのです。その宣教師は、死を恐れていませんでした。なぜなら、死は天国への道だと、それが神さまの約束であると知っていたからです。
私たちの最後もそうありたいものです。
神さまの約束があるから、やがて栄光の霊のからだに変えられるのだということを信じる者として最後を迎えられたら幸いだと思います。
私も、神さまのあわれみによりこの年まで生きられたことは感謝です。
ですから、いつこの世から取り去られるのかを考えても、恐れることはありません。それは私にとって大きな問題ではありません。
永遠のいのちが与えられるという神さまの約束を知っているからです。
行くべきところを知っているからです。
「キリストを信じれば、栄光の姿によみがえらされるのだ」という神さまの約束があるからです。
 
パウロは「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」と問います。
そして、「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」と言っています。
さらにパウロは次のように言っています。

「律法のないところには違反もありません。」(ローマ4:15)
 

律法が存在しなかったなら、罪も存在していませんでした。
制限速度が何キロと書いてなければ、そこに違反は存在しません。
制限速度という律法がないからです。
律法、規則があるので、罪、違反が分かるのです。
 
さきほど、「死のとげは罪であり、罪の力は律法」であることを聖書の中で見ました。
神さまに背いている人間は神さまの律法を守り行うことはできません。
そして律法に背く罪の行く末は、「永遠の死」です。

「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(Ⅰコリント15:57)

神さまが、キリストによって私たちに勝利を与えてくださったのは、キリストが律法の要求をすべて満たされたからです。
罪の支払う報酬である「死」を、イエス様が十字架により私たちの身代わりに受けてくださいました。
それゆえ、キリストを信じる者は、キリストがその者に代わって律法の要求を満たしたことにより、罪のない者と認められます。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)

このように聖書ははっきりと記しています。
 
洗礼とは、キリストとともに死ぬということです。
水に沈められ、以前の自分は葬り去られ、水から上がるときには、キリスト・イエスにある新しい命に生きるのだということを公に証しすることです。
注意してください。
洗礼を受けたから救われたのではありません。
救われた結果として洗礼を受けるのです。
皆さんはこの世に生まれたから市役所で登録されました。
登録されたから生まれたわけではありません。
そのように、洗礼とはイエス・キリストを救い主として受け入れ、救われた結果受けるものなのです。
 
私たちクリスチャンは、イエス様によって罪を除かれた者です。
私たちの思いとしては、そのようには考えられない現実があるかもしれません。
しかし、神さまはイエス・キリストを信じる者には、天の永遠の場所を備えてくださっています。そして私たちは、その天に帰ることができるのです。

「しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(Ⅰコリント15:57)

私たちはキリストによって勝利が与えられています。
そして一切を主イエス様にお任せし、この地上での生活を送ることができます。

「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(Ⅰコリント15:58)

コリントの教会には不道徳や不品行など多くの問題がありました。
そこにパウロは伝道し、神さまは救われる人々を起こされ、コリントの教会が形成されました。
しかし、まだまだ不十分でした。
それを補うためにパウロはコリントの手紙第一・二をしたためました。

「神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御吊を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」(Ⅰコリント1:1-3)

ここではそのようにまだまだ未熟なコリントの人々を「聖徒」「聖なるものとされた方々」と呼んでいます。
パウロの彼らに対する思いが良く現れていると思います。
色々と問題のあった教会ではありましたが、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へという賞賛をもって彼らに呼びかけ、私の愛する兄弟たちよ、と親しく呼びかけています。
何気ない表現ではありますが、宣教者として、牧会者としてのパウロの姿勢が表れていると思います。
 
 
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人間が罪から救われなければならない理由とは何でしょうか?
それは、血肉の体では神の国を相続できないからです。
罪の解決をしなければならないからです。
救われていない人は、罪の奴隷の中にいます。
ある人は「罪とは体の中に悪性のがん細胞があるのと同じだ。」と言いました。
がん細胞は取り除かなければなりません。
取り除かなければ、やがて死が訪れます。
そのように人間は、本質的な罪の解決をしなければ、本当の人生を生きることができないのです。
ですから人間にとって罪の解決はどうしても必要なことです。
 
罪を解決する方法とは何でしょうか?
それは「キリストの十字架」のみです。
人間はこれまで、あらゆる方法で罪のくびき、束縛から逃れようと努力をしてきました。
それは哲学であったり、倫理であったり、思想であったり、宗教であったりします。
しかし、いくら人間が努力したとしても、罪の解決はできません。
もっとも大きな問題は「罪を単純に考えること」にあります。
罪は単純な過ちではありません。
なぜなら、神さまが最も嫌うのは「罪」だからです。
私たちにとってそれは些細なことと思うかもしれませんが、罪はとても恐ろしく、神さまはそれを決して見逃されることはありません。
罪はたやすく赦されたり、妥協されたりするものではありません。
罪人自らが解決できる問題でもありません。
いくら立派で正しい人間であってもです。
その人は自分を救うことも、まして他人を救うことなどできません。
それゆえ、イエス様がこの地上に降りてこられました。
イエス様が十字架で死ぬ必要があったのです。
それは、「十字架だけが罪の解決」だからです。
人間の体となって降りて来られたイエス様の十字架の贖いだけが罪の解決となります。
私たちは人生の中で、この罪の解決を是非しておかなければなりません。
 
 
私たちは、死ぬ前に必ずやっておくべきことがあります。
それは、「罪が赦される」ことです。
私たちのそむきの罪が赦されるということです。

「幸いなことよ、そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。」(詩篇32:1)

人間にとって最も幸せなことは、赦されることなのです。
赦される資格のない人が赦され、恵みを受ける価値のない人がそれを受ける時、幸せを感じます。
聖書はそむきを赦され、罪をおおわれた人は幸せであると言っています。
人間は誰でも罪を犯します。
私たちの罪はすべて暴かれることはないでしょう。
私たちはあえて人に知られないようにしている罪もあり、また、自分でも気づいていない罪もあります。
 
私たちが死ぬときまでに必ずしておくべきことは、自分の罪を告白し、神さまに赦していただくことです。
 

私は罪人です。
神さまの前で罪人です。
私の罪をお赦しください。
あの十字架は、私の為の十字架でした。
それは私が学んで得た悟りではありません。
神さまの御霊によって「イエスはキリストである」ということが分かりました…。

 
今日、はじめて礼拝に来られた方、また何十回、何百回と礼拝に出席されている方も、みな罪の赦しが必要なのです。
周囲の人々ではなく、神さまの前での罪を認めること。
この罪を赦してくださるのは、神さまだけです。
罪を赦される、素直な祈りをしましょう。
私たちには気づいていない罪もあります。
十字架で私たちの罪の身代わりとなられたイエス様を信じ、私たちを神さまの子としてくださいと素直な祈りをする人は救われます。

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