2015年11月15日 主日礼拝「十人の娘のたとえ」
本日の聖書箇所
マタイの福音書25章1〜13節
説教題
「十人の娘のたとえ」
今週の聖句
「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時をしらないからです。」
マタイの福音書25章13節
訳してみましょう
1745 Eternity is in the moment — seize it !
(永遠は一瞬である。それをつかめ!)
1746 Don’t let the world squeeze you into its mold.
(世界にあなたをその型に押し込ませてはならない。)
説教メモ
イエス様はマタイの福音書24章45節のところで「忠実な思慮深いしもべ」、あるいは「管理者」について語られました。
その姿は、終末を生きる私たちの理想的な姿です。
その中での「思慮深さ」について、本朝の箇所「10人の娘のたとえ」より学んでまいります。
マタイの福音書24章45-54節のところでは、男のしもべを引き合いに出して語られました。
25章からは10人の娘を引き合いに出して語られています。
5人の娘の賢さ、5人の娘の愚かさの対比が見られます。
それぞれの「思慮深さ・賢さ」、「思慮のなさ・愚かさ」はどこにあったのか。
それを本朝は見てまいりましょう。
●ユダヤでの婚約・結婚式
ユダヤでは男女の結婚に3つの段階がありました。
- 女性と男性の双方の親たちが結婚の約束を取り交わす
- 法的な結婚式・夫婦になるという契約(花婿の親から花嫁の親に結納が贈られるという形式)
- それらに1年の期間を経て、夫婦になる
本朝の聖書箇所は、結婚パーティーの場面です。
普通は花婿側は花嫁側を招いて祝宴が開かれます。
ただ、聖書の中には例外もあるようです。
ヤコブの結婚式、サムソンの結婚式は、花嫁の家で祝宴が開かれたようです。
この場面も、花嫁の家に花婿が来るというシチュエーションで書かれています。
登場する10人の娘たちは、花嫁側につく娘たちでした。
来るはずの花婿は到着が非常に遅れ、夜中になってしまいました。
お分かりのとおり、花婿とは再臨のキリスト、花婿を迎えようとしていた10人の娘たちは私たちクリスチャンひとりひとりのことです。
「そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。」(マタイ24:2)
これは、必ずしも私たち教会員の半分が天国から閉め出されているということではありません。
天国に入る、または閉め出される可能性が五分五分であるということです。
ひとりひとりが再臨に対して緊張し、自己吟味するように、とのたとえです。
さて、5人の娘たちの思慮深さはどこにあったのでしょうか。
「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」(マタイ25:13)
これは、
「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(マタイ24:36)
「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」(マタイ24:42)
この2箇所を合わせたものです。
ですから、「思慮深さ・賢さ」とは文字通り「目をさましていた」ことだと考えることができるのでしょうか。
聖書には10人が10人とも、全員が居眠りしていたと書かれています。
賢い娘たちも愚かな娘たちと同じく、居眠りをしていたのです。
花婿の到着を待っていたのですが、遅れ、いつ到着するのか分からない中、真夜中となってしまったので仕方のないことです。
寝てしまったこと自体はそれほど非難されるものではありません。
「花婿の到着が、皆が思っていたよりも遅かった」
ここが強調されています。
そして、突然の到着の知らせを聞いて、急いで出迎えの支度をしなければならなかった時の驚きを強調するために描かれています。
「だから、目をさましていなさい。」(マタイ24:42)
とおっしゃっていたイエス様は、次のところでこのように言い換えられておられます。
「だから、あなたがたも用心(用意)していなさい。」(マタイ24:46)
さらに、
「用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。」(マタイ25:10)
「思慮深い娘たち」とは、「用意が出来ていた娘たち」と言い換えられています。
思慮深さ、賢さとは、たとえ一時は居眠りしていても、「迎えに出よ」との掛け声にすぐに迎えに出られる用意をしておくことです。
この世のことに心奪われるなどして、心の状態が「居眠り」状態であっても、
「ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。」(マタイ25:6)
ならば、すぐに迎えに出られるように用意をしておくことです。
私たちにはすでに「再臨の前兆」について聞かされており、これまでも学んできました。
「お迎えせよ」との声は、私たちにも聞くことができるのです。
その時のために、用意をしておくことが思慮深さ、賢さなのです。
先週も学びましたが
「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」(マタイ24:31)
この時、私たちが「まだ準備できていないので、一緒に行けません。」と言うようではいけません。
御使いが来たら、私たちはすぐに御使いとともに主のもとへ行けるように準備をしておかなければならないのです。(2015年11月1日主日礼拝「人の子の再臨」参照)
それが「思慮深い賢さ」です。
「愚かな(思慮の浅い)娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い(思慮深い)娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。」(マタイ25:3-4)
愚かな娘たちは、ランプだけを持っていて、油は持っていなかったわけではありません。
きちんとランプは灯っていました。
しかし、自分たちが十分だと思う分の油しか用意していなかったのです。
花婿の到着が想像以上に遅れ、油が減っていくのが目に見えて分かりました。
しかし思慮深い、賢い娘たちは、「さらに余分に」予備の油を持っていました。
この点が違いました。
「ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。」(マタイ25:6)
思慮深い、賢い娘たちは余分に持っていた予備の油を詰めるだけで良かったのです。
ところが灯ったランプしか持っておらず、予備の油を用意していなかった思慮浅い、愚かな娘たちは、消え行きそうな灯火を見て心細くなりました。
「『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』」(マタイ25:8)
このように願い出たのです。
◎5人の娘の思慮深さ、賢さはどこにあったのでしょうか。
5人の娘の思慮深さ、賢さは2つの点に表れています。
- 花嫁の友として、花婿を迎えるには明かりを灯しておかなければいけないと考えていた。
- 花婿の到着まで、きちんと灯りを灯しておくためには、油が十分にあることが必要不可欠であるということをわきまえていた。
花婿がいつ来るか分からなかったので、別の器に油を用意しておくほどに、花婿の到着の時に対して慎重な準備をしていました。
さて、ここでの「灯り」「油」は何をたとえているかお分かりでしょうか。
灯りとは、明るく光るので「そこに光がある」とどの人が見て分かるものです。
私たちクリスチャンをイエス様は
「あなたがたは、世界の光です。」(マタイ5:14)
このようにおっしゃっています。
世の人々が私たちを見た時、「あの人はクリスチャンだ」と分かるでしょうか?
私たちがクリスチャンであると世の人々が認識できること、これが「灯り」です。
ところで「油」とは何でしょうか。
油とは、もっと内的なものです。
灯りを灯すための燃料となる「油」。
これは聖書が油と象徴している「聖霊」です。
ランプの油壺に入っているのは「聖霊」、また、予備で用意しておいているのも「聖霊」です。
賢いクリスチャンとは、主の再臨を待つ時「目に見える信仰生活」を「目に見えない聖霊により」歩むこと。
これが大切だと考えられる人です。
ただ教会に行くというような表面的な信仰生活ではなく、しっかりと聖霊による満たしの中で歩んでいく。
これが賢さの「一点目」です。
賢さの「二点目」は、いくら主の再臨が遅れても、いつも備えておくことをわきまえていることです。
「その日、その時を知らない」けれども、しっかりと準備しておくことを怠らない人です。
私たちは、「聖霊の油」に私たちの信仰生活の「芯」を浸しているでしょうか。
聖霊の油にしっかりと芯を浸らせている人のみが、まことに生命力のある信仰生活を生きることができるのです。
聖書には「岩の上に自分の家を建てた賢い人」(マタイ7:24)のたとえがあります。
その家は、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、それでも倒れませんでした。
岩の上に建てられていたからです。
また、パウロは
「御霊を消してはなりません。」(Ⅰテサロニケ5:19)
と書き記しています。
灯りを聖霊そのものに見立てて、灯りを消してはいけないと警告しています。
御霊の火を消してしまうとどうなってしまうのでしょうか。
「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。」(Ⅱテモテ3:5)
一見、信心深いように見えても、御霊の実を捨てる者となるのです。
聖霊の油が切れてしまった人は、活力がありません。
それではいけないのです。
とても厳しい教えです。
聖霊の油が切れてしまうと、表面的にはクリスチャンでありながら、実際はこの世の動きに左右されてしまう。
何かがあるとすぐに倒れてしまう。
そのようになってはいけません。
「それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。」(詩篇133:2)
なんと素晴らしい姿でしょう!
全身を聖霊の油に満たされたアロンの姿が描かれています。
私たちもそのようでありたいものです。
◎愚かな娘の愚かさはどこにあったのでしょうか。
みなさんは昔話の「うさぎとかめ」をご存じだと思います。
なぜ、カメは眠ってしまったウサギを起こさなかったのでしょうか。
カメは意地悪だったのでしょうか・・・。
10人の娘の話しでも同じような状況が描かれています。
油が足りなくなった5人の愚かな娘は「油を分けてください」と、油を余分に持っていた他の5人の賢い娘に願い出ましたが、賢い娘たちは分けませんでした。
「ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』」(マタイ25:8-9)
なんて意地悪なのでしょう!
そう思われますか?
今日のお話しの中で、どうぞ気づいてください。
- 花婿は「再臨のキリスト」
- 娘たちは「私たちクリスチャンひとりひとり」
- 灯りを灯すための燃料である油は「聖霊」
私たちに注がれている聖霊とは、他の人に分けてあげられるものではないのです。
「私には十分聖霊が注がれているから、聖霊が足りなそうなあなたに分けてあげます。」
そのようなことは決して出来ません。
それは、決して意地悪ではないのです。
したくても出来ないのです。
「あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。」(使徒8:20)
つまり、「神からの賜物が金で手に入ると思っているのか」とペテロが厳しく言っています。
聖霊の油は、同じクリスチャン同士、兄弟姉妹といえども分けられるものではありません。
「神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて・・・」(ローマ12:3)
神さまは各々に、聖霊の賜物を量りに従って分け与えておられます。
私には私の分、他の人には他の人にふさわしい分の聖霊の油が与えられています。
その聖霊は、その人になくてはならない分なのです。
余りはないのです。
そして、それをしっかりと蓄えておくべきものなのです。
これらのことから、賢い娘たちが愚かな娘たちに「いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。」と言った意味がお分かりになるかと思います。
「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:14)
「『子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。』」(マルコ10:24-25)
天国への道は狭いのです。難しいのです。
たとえクリスチャン同士だからといって、いくら親しい間柄であっても、分け与えることはできません。
それゆえ、イエス様は
「そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。」(マタイ24:40-41)
このようにおっしゃったのです。
私たちの信仰はとても「個人的なもの」です。
兄弟姉妹といった横の関係ではなく、神と自分という縦の関係です。
再臨の主をお迎えする準備は、個人的なもので、ひとりひとりが信仰を確かめていかなければなりません。
「わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」(黙示録3:11)
このように、自分の持っているものを固く保っていなければいけません。
他人をあてにして居眠りしていてはいけません。
誰をも頼ることができません。
また、人に分けてあげられるなどと、うぬぼれていてもいけません。
ですから、愚かな思慮浅い娘たちの愚かな点は、
- 自分たちの油が足りなくなることを忘れていたこと
- 油が足りなくなることに気づくのが遅かったこと
- その問題に対処する、不足の油を求めることに遅すぎたこと
花婿が来ると分かっていながら、最後の瞬間まで準備ができていなかったのです。
主が再臨される。
その時まで信じることなく、準備していないようなクリスチャンは「愚かな娘」です。取り残されてしまう人です。
終わりの時、これまで学んできたとおり、前兆がたくさんあります。
「そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」(マタイ24:3)
愚かな娘たちは、執拗に賢い娘たちに油を分けてくれるようにと頼みませんでした。
愚かな娘たちは、賢い娘たちが持っていた油が賢い娘たちにどうしても必要なものであったことを分かっていたからです。
自分たちに用意が足りなかったと分かっていたからです。
なのですぐに店へと走りました。
しかしその時は真夜中でした。油は買えませんでした。
私たちは今日という日に、再臨にそなえていかなければなりません。
「主はこう仰せられる。『恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』」(イザヤ49:8)
「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)
今は「恵みの時」です。
恵みの時はずっと続くわけではありません。
それは主が再臨される時までです。
「花婿が来た!」という声を、私たちはいつ聞くかわかりません。
大いなるラッパの音は、いつ鳴り響くか私たちには分からないのです。
その時、御使いが私たちひとりひとりのところに迎えに来ます。(2015年11月1日主日礼拝「人の子の再臨」参照)
準備が十分でなく、今はまだ一緒に行けませんと言うような人は、愚かな思慮浅い娘たちのようです。
そうではなく、何気ない日常の中でも、いつ迎えが来ても良いように、いつでもすぐに応えられるように目をさまし、準備をしている思慮深い賢い娘たちのようでいましょう。
「日曜クリスチャン」でいてはいけません。
日曜日だけ、またはクリスマスの時期だけクリスチャンのようであってはいけないのです。
みなさんの内には予備の油はありますか?
私たちは毎週「十戒」を声に出していますが、「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。」と言いながらも安息日にそれほど重きを置いていないようであるなら、反省すべきです。
礼拝欠席の理由を神さまに直接申し上げられますか?
神さまはなんと答えられるでしょうか。
安息日を守ることは命がけのことです。
「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:14)
「『子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。』」(マルコ10:24-25)
Eternity is in the moment — seize it !(永遠は一瞬である。それをつかめ!)
終末が近いと思わされるこの時、私はつくづくそのように感じているのです。