2016年11月27日 主日礼拝「死に体」
本日の聖書箇所
ローマ人への手紙6章3〜14節
説教題
「死に体」
今週の聖句
まことにまことにあなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければそれは一つのままです。しかし、もし、死ねば豊かな実を結びます。
ヨハネの福音書12章24節
訳してみましょう
1846 May you all take time to thank the Lord for His goodness to you!!
(あなたがたすべてにしてくださった神さまへの感謝に時間を取ろう!)
1847 Don’t be afraid of tomorrow, God is already there! (Bruce Helland)
(明日を恐れてはならない。神はすでにそこにいる!)
説教メモ
1.主に従うとは
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
(ルカ9:23)
「自分を捨てれば奇跡が起こる」と、韓国のオンヌリ教会牧師、ハ・ヨンジュ先生は仰いました。
「一日を振り返ってみて、弟子にふさわしい歩みでしたか?」との問いに続いて、次のみことばが記されています。
そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。
(ルカ14:33)
さらに続けて、「イエス様に従う道を指して、弟子の道を歩むと言います。その道を歩もうとする人が覚えておくべきみことばがあります。マタイ16:24です。『れから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』
イエス様が語られたみことばは、弟子の道を歩むための奥義がある。
1.自分を捨てる事であります。自我が生きている状態では主に従えない。私たちが主に従おうとするたびに個人の考え、価値観、習慣、文化が躓きの石になります。これらを捨ててイエス様に従うことが、弟子の道です。
2.自分の十字架を負うことです。主がゆだねられた使命、主が遣わされた人、さらには自分に与えられた苦難さえも黙々と担うこと。これもまた弟子の道を歩むことです。このために主は私たちの内に聖霊を住まわせてくださいました。自らを十字架に付け、命の御霊が私たちの内に臨まれるその時こそ、弟子の道を安全に歩むことができるのです。その時から聖書のみことばが理解でき喜びとなり、満ちあふれる奇跡の人生が始まるのです。
自分を捨て、十字架に従う。これは個人的としてもそうですが、教会全体としても言えることだと思います。自分を捨てた人たちの集まりが教会です。
死に至るまで忠実でありなさい。そうすればわたしはあなたがたにいのちの冠を与えよう。
(黙示録2:10)
主に従うとは、まずそこに自己否定があります。自我が働いているうちはダメです。主に従うとは自己否定から始まります。
2.十字架とは
イエス様は十字架に架かられました。しすて私たちの罪の解決のため、ご自身をささげてくださいました。
罪から来る報酬は死です。
(ローマ6:23)
私たちの罪の身代わりとして、イエス様はご自身をささげてくださいました。
アクセサリーでは十字架は主要なモチーフです。日本の地においてそれは信仰の表明ではありません。十字架は良いイメージではなかったはずです。「荒削り」であり、全然格好良くありませんでした。しかも、十字架に架けられると言うことは「死刑」ということです。死刑の道具でした。当時のローマ統治下において、十字架刑は最も重く、残酷な方法でした。
イエス様はご自分の十字架を背負われ、「悲しみの道(ヴィア・ドロローサ)」をよろめきながら刑場である「どくろの丘(ゴルゴタ)」まで歩きました。途中力尽き、クレネ人シモンが代わりに十字架を背負いました。どくろの丘に到着すると、自分が背負ってきた十字架に磔にされ死刑が執行されました。とてもむごいことです。十字架は死ぬ場所でした。
3.長芋のたとえ
以下のみことばに、3つの大切な動詞が登場します。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
(ローマ6:6)
「知っている」…十字架の事実を知っているということ。イエス様は私たちの罪の為に十字架に架けられた。そして、私も、私の古い自分は十字架につけられてしまっているのだ。その事実を知ると言うことです。私の罪はイエス様とともに十字架で葬り去ってしまったのだ。それがイエス様の十字架で、私の十字架なのです。日々十字架を負う。その十字架とはそういう意味です。自己否定をしてわたしに従うようにとイエス様は仰っています。だからまず第一に十字架のその事実を知るということ。これはここにおられる皆さんは分かっておられ問題ないと思っています。問題は次の動詞です。
このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
(ローマ6:11)
「思いなさい」…自分に言い聞かせることです。これをしないので私たちは成功しないのです。失敗するのです。私たち人間は思い続けなければなりません。
また、あなたがたの手足を上義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
(ローマ6:13)
「ささげなさい」…自分自身を神さまにおささげすることです。
知る、思う、ささげる。これは順序だって考えていかなければならないことです。
まず十字架の事実を知ります。これは分かっておられると思います。しかしまだ自分はそういう者だということをいつも自分に言い聞かせていかなければなりません。それは私たちに弱さがあることだから仕方の無いことです。どのように思っていくか。私は十字架で死んでしまったのだということ。その事実を分かっていながらも、自分が罪に死んでいないときに罪がムクムクと起き上がってくるのです。クリスチャンの皆さんは十字架で死んでしまったわけだから罪を犯さないはずです。ところが現実はそうではありません。クリスチャンも罪を犯してしまうではありませんか。罪に死にきれていないのです。
「死ぬ」ということ。死んだ者はどのような姿なのか。それを徹底的に知って頂きたい。それで4月10日のメッセージに続いて、今朝も私の畑で収穫された長芋を持ってきました。
普通、種芋とするのは太い部分を切り分けて用いるのですが、しっぽの方の細い部分は普通捨てられてしまいます。私はその捨てられてしまう部分を植えてみました。そして三年間、育てました。
上の干からびたような芋は、二年目の芋が種芋に変化した姿です。下の立派な芋は、種芋から新しく出来た芋です。
種芋となった干からびた芋は、もはや何の効力もなく、また賞賛に値する姿も微塵も残っていません。
私たちの古い人は、キリストとともに十字架に架けられて死んだ。その姿がこの種芋です。
罪はいつもむくむくと中から出てきます。そんな時は、私は、私の古い人はイエス様とともに十字架に架けられて死んだのだ。私はすでに罪から解放されて神さまに向かって生きているのだと、毎日毎日、自分に言い聞かせてください。そうでないと罪を犯してしまうのです。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
(ガラテヤ2:20)
私たちが生きる基準は「聖書」です。周りのクリスチャンたちがどう生きているかではなく、聖書なのです。人は完全ではなく、何かしら欠点があるものです。私はアモス書から何度も説教をしています。私たちの「重りなわ」は聖書を指しているべきです。
クリスチャンになってからも罪を犯すということ、それはその人が死にきれていないということです。自分が罪に対して死んだ者であること。そのことを思い続けなければなりません。自分に言い聞かせ続けなければなりません。自我の完全な否定。ガラテヤ2章20節から始めなければなりません。
役者というものは、その役になりきるものです。自分を殺し、役になりきったときに人々に賞賛されるのではないでしょうか。
自分の「死に体」を、いつも私たちの頭に覚えていましょう。